HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

    ローマ人への手紙2章5節


    2:5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわ ち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

    98.09.27. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲 載してあります。


    神の御怒り

    2章5節

    5ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

       自分の義に愚かにも信頼し、自分には悔い改める必要などないと思い込んでいる所謂道徳的な人は大変な危険の中にいる、とパウロは警告する。そのような人は、自分ではその“良い行ない”と見做すものによって功績を積んでいると信じているだろうが、その実は、裁きの日に下される御怒りを自分の身に積み上げているのである。パウロの警告の恐るべき前提は聖書の地獄についての教理であり、聖書の中で最も人気のない教理であると同時に、最も重要な教理でもある。事実この教理はあまりにも重要なものであるために、聖書の地獄についての教理を否定する者は「異端」のレッテルを貼られることを自らの身に招くことになる。だからこそ、近年、ジョン・R・ストット (John R. Stott)、フィリップ・E・ヒューグス (Philip Edgcumbe Hughes)、クラーク・ピノック (Clark Pinnock)をはじめとする数多くの有名な福音派の指導的立場にある人々が、この地獄についての伝統的かつ正統的教理に反対する声をあげるようになったことは、実に驚くべき出来事なのである。等しく驚かされることに、最近の著者たちが提起している議論が、はるか昔に教会において既に論破された使い古しの反論とほとんど内容的に変わらないものだという事実である。

       1989年5月に、アメリカのトリニティー神学校で385人の神学者と教会のリーダーたちが集まって「福音主義とは何か」ということについて話し合い、福音主義を定義する会議が開かれた。福音主義という言葉が一般的に使われるようになってから既に40年ほど経つが、これといった定義はなかった。そこで、「これが福音主義の立場である」ということを宣言するための会議が開かれたのである。その会議の中で驚くべきことがあった。それは、地獄について話し合った時に、J. I. パッカーを初め他のリーダーたちが、聖書の中の地獄についての教理に真っ向から反対したのである。

       それで、地獄についての教理を織り込むべきかどうかを投票によって決めようとしたところ、議長は「地獄について立場を取らないグループが50%以上あったので、地獄については記さないことにする」と宣言したのである。その会議についての本が出版された時、J. I. パッカーは地獄についての特別な記事を書いて「これこそ福音派の立場でなければならない」ということをはっきり明言した。福音派会議の宣言として「地獄についての告白は含まない」ということになったのである。そのような動きも最近の福音派の中にあるので、ローマ人への手紙の2章の箇所を学ぶにあたって、「神の御怒り」について話す時、地獄についての聖書の考え方を一緒に見ておく必要があると思うのである。

     

    地獄に反対する議論

       地獄の教理に反論する人たちは二つのグループに属している。第一のグループは、「最終的にはすべての人間が救われる」と主張する普遍救済説(universalism) を支持する人たちである。昔、三世紀の初期の教会にオリゲネスという神学者がいて、聖書の地獄についての教理を否定した。否定したと言っても、その内容は特別なものであった。ギリシャ哲学の影響を受けたオリゲネスは、人間の自由意志を強調し、「定義することにおいて人間はどんなことでも選択し得る自由がある」という立場をとった。天国に行っても人間は自由意志を持つので神に逆らうことは可能であるし、地獄に行った者も改心して神を信じる道を選ぶ自由を持っている、と主張した。それで、天国から地獄に墜ちたり、地獄から天国に昇ったりする。歴史は何回も堕落と救済の繰り返しによって展開されてきたが、最終的には神の愛によってサタンも含めてすべての者が救われるのだと教えた。しかしその最後に至るまでは、墜ちたり昇ったりを何回も繰り返していくのだというような教えであった。

       それは全く特別な例であって教会歴史の中にはその立場に立つ者は誰もいない。彼の不変救済節は拒否された。しかし、オリゲネスは初代教会の中で最も有名な神学者の一人であり、現在でも神学など何も知らない人でもオリゲネスの名を聞いたことがあるという人物である。19世紀に一部の近代主義神学者が普遍救済説を教えるが、彼らの立場が福音派の信奉者の心を惹きつけることはなかった。第二のグループは、永遠の死と裁きを指している聖書箇所を“霊魂の消滅”として解釈する人々である。代表的なのはセブンスデー・アドベンチストやエホバの証人の立場である。そのように、普遍救済主義者たちはすべての被造物の最終的救いを唱え、霊魂消滅説の信奉者たちは最後の裁きの時に悪者の全き消滅を唱えるのである。

       十九世紀には、「リベラル」と呼ばれる考え方がイギリスとドイツに起こった。リベラルとは、自分はクリスチャンだと告白しながらも、聖書を「誤りのない神の御言葉」としては信じない立場である。聖書は優れた宗教的書物であると信じ、神の存在も認めるけれども、キリストはただの人間なのだと考える。主イエス・キリストの宗教的な働きについても、ただ人間が神について考えるように導き励ましてくれたというようなレベルで終わってしまう。彼らの考えるクリスチャン像は、仏教や他の宗教の信者と根本的に違いはない。彼らにとって大切なのは、何らかの意味で神を信じて善人になるということにしかならない。それが大事なことであって、そういう意味で「皆が救われるであろう」と考えるわけである。

       そのリベラルな考え方は、十九世紀に、御言葉から離れて啓蒙運動的な認識論に立って聖書を非難する人々の間から出て広まっていったものであった。啓蒙主義的な認識論とは、つまり、人間の理性こそ知識において最終的な基準であるというものである。「真理であるかどうか、信じるべきかどうか、決めるのは最終的にその人間が理性的にどう考えるかにかかっているのだ」という認識論に立っているのだ。そのように知識について考える者は、聖書の中の好むものは受け入れるが、自分が好まない不都合なものはすべて無視したり切り捨てたりしてしまうのである。

       人間は罪人であるから、都合の悪いことはいくらでもある。都合の悪い箇所を取り除くというならば、どんどん聖書を切り捨てることになる。そのような神学が、特に十九世紀の時に強くなっていった。その影響で、神の教会は御言葉から離れてしまったことは教会の歴史的な事実である。その時代に、シュライアマハーというドイツの神学者が出てきて大きな影響力を持つようになり、アメリカの神学に対しても多大な影響を与えた。彼は「すべての者は最終的に救われる」ことを教えた。

       二十世紀になってからは、特にアメリカで顕著なことだが、こんどは福音派の中で、昔の教団におけるリベラルな人間が指導的な地位を占めるようになった。彼らは牧会にはあまり興味を示さなかったが、教会政治や力には特別な興味があった。それで官僚的な所にはどんどんリベラルが浸透していった。教会政治においても、彼らが土地の取得にたずさわり、建物も彼らが取って自分のものにしていった。学校等の教育機関もリベラルの所有となった。聖書を信じる者は結局追い出されるようになってしまったので、普通のアメリカの教会では、例えば長老教会とかメソジスト教会やバプテスト教会などは、二十世紀の初期に、リベラルなグループと聖書を信じるグループとに分かれてしまったりした。しかし、リベラルのグループはだんだんと力を失っていき、人数においても経済力においても減少していった。聖書を信じるグループは徐々に力を回復していった。

       簡単に言えばそれがアメリカの歴史ということになるが、50年代後半から60年代の初期になってこんどは福音派のグループが妥協し始めるようになった。今の福音派はかなり妥協しているところがあって、イギリスの福音派の世界的な指導者であるジョン・ストットは地獄を否定する。フィリップ・E・ヒューグスやジョン・ウェナムなどのイギリスの著名な神学者リーダーたちも地獄を否定するようになった。カナダでは、クラーク・ピノックという人が地獄を否定している。驚くことに、この人たちが地獄を否定する時に、エホバの証人と同じような地獄についての考え方を持っているのである。

       どういう考え方かというと、「救われていない者が死ぬ時には全く消滅してしまうのであって、その存在自体が消されてしまう」という考えなのである。すべての人間が救われるというのではなく、救われない者の存在そのものが消されてしまうのだと考えるので、地獄は存在しなくなるというように解釈するわけである。皆さんはこれらの名前をそれほど知らないかもしれないが、フィリップ・E・ヒューグスとジョン・ストットはあまりにも有名な神学者であって、アメリカやイギリスのクリスチャン書店に入れば彼らの名前はあちこちで目に飛び込んでくる。それほどに有名な人物たちなのだ。1989年に信仰の立場としてはっきり出てきた考えだが、そこから影響を受けている人たちがかなり多くいることも徐々に明らかになってきた。

     

    聖書の証言

       その二つの立場に立たないグループであっても地獄の教理については語らず、地獄についてはっきりした立場を取らないという傾向も教会の中では非常に強い。地獄についてはっきり考え、地獄とは何かということについてはっきりした立場を取るということは確かに楽しい話ではない。これはむしろ苦しい話である。地獄の教理は聖書の中で最も不快な教えの一つであると思うことにおいては、クリスチャンであろうとなかろうと、混乱したキリスト者であろうと、また異端者であろうと、その点では皆同じである。

       誰も地獄について考えたくはない。それは私たちを恐怖で圧倒させる。けれども、これは聖書の中の最重要な教理であって、好きとか嫌いで人間が勝手におろそかにできる教理ではない。問題は私たちがそれを信じたいかどうかではなく、永遠の罰という教理が真理か否かという点なのだ。ローマ人への手紙2章でパウロが神の永遠の裁きである神の御怒りについて話す時、これは聖書の教理としてどういう意味なのかを私たちは真剣に考えるべきであると思う。

       地獄の教えに反対する人たちは、特に二つの点をもって反対している。その一つは、幾つかの聖書の箇所を引用する。例えば、主イエス・キリストは地獄についてマタイの福音書25章で説明しているが、「羊を右に、やぎを左に置く」(33節)とキリストは言っている。シュライアマハーは、「これは明らかに比喩的な言い方であり、このような箇所は実際に永遠のことについて語ってはいないのだ」と解釈する。そして、もう一つは、ローマ人への手紙5章18節である。「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」とある。彼らはこの箇所をその前後関係において見ないで、文脈を無視して、この節だけをもって「すべての人が救われると書いてあるではないか」と主張するわけである。

       また、コリント人への第一の手紙15章の22節から26節までの箇所で、「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます」と書いてある。そこで彼らは、「すべての敵が滅ぼされる」ということは、最終的にすべての者は救われるという意味でなければならない、というふうにこの箇所を解釈するわけである。それで、この箇所とローマ人への手紙5章では「すべての人間が救われる」と教えていると解釈する。

       しかし、マタイの福音書25章やローマ人への手紙5章やコリント人への第一の手紙のこの箇所は、どれもその前後関係を文脈に従って読めば何も誤解することは有り得ないものなのだ。「すべての人間は救われる」と主張する人たちは、実のところあまり長くこのような聖書の箇所を引用したり話したりはしないのが特徴である。少しだけ引用してすぐに次の話に飛んでしまう。聖書の中の永遠の地獄についての教えは非常に明らかであって多くの箇所に出てくる。それを疑う者たちは、聖書の文脈とは異なった論理で話さなければならない。それは哲学的かつ神学的な論理でなければならないが、聖書の箇所の引用をあまりしない、或は詳しくは説明せずに自分の論理を展開するようなことになる。部分的に引用して「こう書かれているのだから、こう考えなければならない」と言う。

       例えば、「神の愛はすべてに対して勝利を得ると言うのが本当ならば、地獄に行くべき人間は神の愛に負けてすべてが救われるというのでなければならないのではないか」と言うのである。「この人たちが永遠に地獄の中で苦しむというのであれば、神の愛には失敗もあるということになるではないか」と言って、そのこじつけ論理を展開するわけである。「地獄に行く者がいるというなら、神の愛は否定され、神の愛に対して勝利した者たちが永遠に地獄にはいるということになるではないか」と言う。

       また、「もし地獄が存在するのであれば、天国にいる人たちの喜びも駄目になる。自分の友人の中にも地獄に行く者がいるだろうし、親戚の中にも地獄に行く者がいるだろう。場合によって自分の父や母が、はたまた自分の子どもが、地獄にいるという話になる。そうであれば、天国にいる者たちはどうして喜びをもって生きることができるのか。自分の愛する者が地獄で永遠に苦しんでいるのだ。それを平気で眺めて、自分だけが喜ぶということが愛なのか。そんな冷酷なことがどうしてできるのか。親類が病気になってひどく苦しんでいる時に、悲しまないのか。それが永遠の地獄の話であれば、病院から出られないだけの話ではないのだ。意識がはっきりしていて、その苦しみは永遠に除かれることはない。自分の親戚や家族、友人たちがその状態を永遠に経験しなければならないのに、いったいどうして天国にいる者は喜ぶことができるのか。神は愛である。だから、やはり、地獄は存在しないのだ」と言うわけである。

       福音派の場合は、「だから、そのような者たちは消滅してしまって、存在しなくなる」と解釈したりする。もっとリベラルになると「その人たちも皆、救われなければならない」という話になるわけである。シュライアマハーはこういう事も言う。「苦しみを考える時、深く考えてみればそれが永遠に続くとは考えられない。一つには、肉体的な苦しみは長く続くと慣れてしまうものだ。永遠に苦しむということは肉体的にはとても考えられない。苦しみに慣れてしまって、だんだんと苦しみが苦しみではなくなってしまう。だから、肉体を持って永遠の地獄に入るというのであれば、永遠の苦しみは有り得ないことだ。それならば、精神的な苦しみはどうなのかというと、それも苦しんでいくうちに、結局それは懺悔や悔い改めのようなものに変わっていく筈である。つまり、『神を信じなかったのは愚かだった。私は本当に馬鹿だった』という懺悔の思いが苦しみになっているのであるから、それが長く続いた場合、この人たちはだんだんと良い方に変わっていくことになる。自分の罪について深く苦しんでいるのだから。結局、彼らの心は変わりつつあるという状態の連続なのだから、それが永遠に続く筈はない。だから、永遠に地獄にいるわけではない」とも言っている。

       基本的に、「神の愛はどうしたのか。愛はどこにあるのか。地獄にいる人たちが苦しんでいるのに、我々はどうして喜ぶことができようか」という論理を強力に展開するのである。それを聞く者がその影響を受けずにおれないほどに強く語るのである。そして、「どうしてクリスチャンは地獄など信じることができるのか」と叫ぶ。実は、クリスチャンではない人たちに話す時、聖書に対して反対する人々は例外なしに地獄に対して一番強く反対するものである。例えばバートランド・ラッセルは思いを尽くしてキリストを非難する代表的な人物であるが、彼は「キリストは永遠の地獄の裁きについて教えるが、イスカリオテ・ユダは地獄については語らない。だから、ユダの方がキリストよりも優れている」と言う。他にもそのような事を書く無神論者はいくらでもいる。地獄は、普通の無神論者たちの反応の中で最も強く反対されるポイントの一つとなっているのだ。

       そこで、このリベラルな考え方を借りた福音派の人たちの主張に対するクリスチャンとしての答えはどういうものなのかを今から一緒に考えたいと思う。聖書の証言は明らかである。聖書の中で地獄について書いてある箇所をこの短い時間の中で全部を見ることは不可能なので、幾つかの代表的な箇所を選んで考えたい。

       最も注目すべきことに、聖書のすべての預言者たち及び使徒たちの誰よりも、地獄について最も明白にしかも強調して教えているのは他でもない主イエス・キリスト御自身なのである。キリスト御自身が、聖書の中に出てくる誰よりも地獄という課題を強調し、繰り返し教えておられるのである。これはある意味で驚くべきことだ。主イエス・キリストは愛を教えていることで有名であり、倫理について教える御方として有名である。人間を愛してくださったことで有名である。クリスチャンではない人々も主イエス・キリストについて色々聞いており、キリストは人間に愛と正しさについて教えていると理解している。親鸞はマタイの福音書5章の山上の説教について昔の中国で書かれた注解書を読んだりして、聖書の中の善についての教えを借りて教えていた。山上の説教のキリストしか知らない人たちはいくらでもいる。

       実際に福音書を読む時に、主イエス・キリストは誰よりも深く愛を教えているのは事実であるが、誰よりも深く地獄についても強調して教えていることもまた事実である。主イエス・キリストが教えていることが明確なものであるのか、あるいは単なる比喩として考えるものなのかどうかは、注意して聖書を読めばわかることである。その教えには少しも曖昧さがないのは明らかである。キリストは、真剣に私たちに大切な警告を与えておられる。読めばすぐにわかることである。

       ところで、聖書のすべては神の御言葉である。従ってすべては等しくキリストの御言葉である。多くのクリスチャンは、受肉されたキリストが実際に語った言葉にだけ特別な権威があると考えたり、少なくともその部分だけに特別な興味を持っているという事実は疑いの余地はない。そうあるべきではないけれども、それが現状である。そこで私たちは、「地獄について最も強調して多くを教えているのは他でもないその受肉のキリスト御自身であられる」ということを強調する必要がある。例えばマルコの福音書9章42〜48節を見ていただきたい。

    42また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。43もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。45もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。47もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。48そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。

       脚注を見れば解るが44節と46節が皆さんの聖書では欠如している。実は44節と46節は48節と全く同じことが書かれている。そして、「ゲヘナ(地獄)に投げ込まれるよりよいことだ」という警告に続いて「尽きることがないうじ」の話と「消えない火」がある。ここで、主イエス・キリストは大変なことを教えていることは誰にでもすぐにわかると思う。これは恐れを引き起こす教えであり、救われているか否かということが人生において唯一最も重要な問題だということを確かに前提にした教えである。もし手が躓きとなるなら、その手を切り捨てた方が永遠の地獄に入るよりはあなたにとってよいことである。足が躓きとなるなら、その足を切り捨てた方がよい。目が躓きなら、その目をえぐり出しなさい。その方が永遠の地獄に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことである。

       そのようにキリストは教えているが、目で躓いていない者は私たちの中に一人もいない。手で躓いていない者も一人もいない。足で躓いていない人もこの世の中にはいない。私たちは皆、口で罪を犯し、目で罪を犯し、手でも足でも罪を犯す者である。例外は一人もいない。なのに、どうして皆さんは両目を持ってそこにいるのか。足も、手も、切り落とされた経験はないであろう。それ故、キリストがここで文字通りの意味で手を切り捨て、足を切り捨て、目をえぐり出すように要求していないのは明らかである。もし私たちがこれを文字通り守るのであれば、今はもう両目も両手も両足とも失っている筈である。そして、目も手も足もない人こそ本当のクリスチャンだということになってしまうであろう。そうであれば、クリスチャンは毎週教会まで行くのは大変なことになるけれども、本当のクリスチャンと偽物とがはっきりと区別されることになったかもしれない。

       しかし、キリストは文字通りの意味で教えているのではない。ここで主イエス・キリストが私たちに教えていることは、「それほどまでに真剣に自分の罪と戦わなければ、あなたは本物ではない」ということなのだ。なぜ、そこまで言うのか。例え手を失ってもその方がよい、足を失ってもその方がよい、目を失うとしてもその方がよい。それほどまでに真剣に罪と戦う必要があるからである。どうしてこれほど厳しく言うのかというと、永遠の地獄を考えてみれば、この世の中で何を失っても、それと比べることはできないからである。

       永遠の地獄に入るか、救われるか。そのように考えるならば、もはやこの世で何を失っても構わないのである。自分の身体のいろいろな部分も含めて、もちろん自分のいのちさえも含めてそうなのである。主イエス・キリストはここでその事をはっきり警告して教えておられる。もしも、すべての人が救われるということであれば、いったい目をえぐり出したり手を切ったり足を切り捨てたりする必要があるだろうか。「何をやっても最終的には救われる。サタンでさえ救われる」とオリゲネスは言っている。だから、「特別に心配しなくてもよい。自分のしたいことを思う存分自由にすればよい」と彼らは言う。

       しかし、主イエス・キリストは神の御子であり、決して偽りを語ることはない。とすれば、ここでキリスト御自身が私たちに深刻な警告を強調をもって与えているけれども、これは本当の話なのだろうか。本当の話であるなら、私たちは大変真剣なこととしてこれを深刻に受け取らなければならない。もしすべての人間と悪魔さえも救われるべきものならば、罪を避けるために人がそれほどまでに極端な措置をとる理由は日の下に何一つないのである。罪はそれほど深刻なものでは有り得ない、ということになるからである。

       彼らが主張するように、ただ消滅してしまうというなら、それはどういうことになるのか。死んだ者は、キリストを信じていなければ、ただその時には消えて存在しなくなる。「それならば問題ないではないか」と思う人もいるかもしれない。「いや、それも大変な事ではないか」と思う人もいるだろう。「いいえ、決して大変なことではないのだ。それが救いなのだ」と教える宗教もある。一般的に仏教では「ヌバナ(消えるという意味)はない。存在しなくなるということは考えていない」とは言っているものの、「個人の認識は消えてしまう」というのが仏教の普通の解釈である。そして、それが救いだと考えているのである。

       この世の中で苦しんでいて、何をしても失敗ばかりで、すべての人間に対して憎悪の思いでいっぱいになり、常に怒っているような人がいる。生きることに嫌気さして自殺したりする。自殺する時、人はどんなつもりで自殺するのか。地獄に行くつもりで自殺するだろうか。そんな人間は一人もいない。テレビドラマで簡単に「地獄でまた会おう」というセリフを口にするが、本当に聖書が教えている地獄を認識して自殺するような者は一人もいないのである。自殺する人は、死ねば今よりも苦しみが軽くなると思って自殺するものなのだ。もちろん憎んでいる人々に対する腹いせとか報復や反発の思いもあったりするし、色々複雑な心理もあろう。しかし、神の怒りに燃える永遠に尽きることのない火の池に墜ちるつもりで自殺するような人は絶対にいない。「自分はただ単に消えていなくなる」と考えるのが普通なのである。消えること自体を救いだと考えるノンクリスチャンの哲学者も少なくない。だから、自殺を奨励し、美化さえする。「自殺も苦しみから逃れる為のとても良い選択なのだ」と教える人も実際にいる。「自殺すれば消えてしまうのだから、苦しみも一緒に消える」と彼らは教える。自殺を“最高の美”として考える人も少なくない。

       主イエス・キリストの教えはそれとはまるで違うものである。子どもに罪を犯させ、躓きを与えるような者は、大変苦しい死に方をした方が良い。罪を犯すよりも身体が駄目にされた方が良い。罪を犯すことがどれほど深刻で重い大変なことなのかをキリストはここで教えてくれている。私たちを愛してくださる神が、ここまではっきりした警告を私たちに与えているのである。もし私たちの主であるイエス・キリストが警告したように、火が消えることなく、うじが尽きることのない場所、換言すれば「永遠の苦しみの場所」に人間が投げ込まれるのであれば、罪は最も深刻なものであり、罪の結果は想像を絶する恐ろしいものなのだ。次に、ルカの福音書9章23〜26節を見てみよう。

    23イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。24自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。25人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。26もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。

       クリスチャンには、ここで主イエス・キリストが私たちに要求していることがどんなに大きなことなのかがわかる筈だと思う。「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」とキリストは要求しておられる。前にも言ったが、十字架は最も残酷な死刑のための道具である。昔のローマ帝国は最高の苦しみを与えることを目的に人を死刑にする方法として十字架を使った。文字通りの極刑である。十字架の刑は、長時間その人を苦しめて最大の恥辱を与えることができる刑である。十字架は、はりつけてから何日間も放置するのが常であった。主イエス・キリストが短時間で息絶えたと知った時、ローマの百人隊長と兵士たちは非常に驚いたのも無理はない。それは有り得ないことなのだ。

       主イエス・キリストは十字架によって殺されたのではない。ローマによって殺されたのではない。キリストは御自分のいのちを捨て、天の御父に御自分の魂といのちを捧げて息絶えたのである。自分のいのちを捨て給うたのだ。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」と書いてある通りである(ヨハネの福音書10章18節)。

       だから、刑を執行したローマ軍はその有り得ない出来事を見て愕然としたのである。本当なら何日間も十字架についた状態で苦しむ筈なのに、僅か数時間でキリストは死んだからである。十字架にかかると、腹は空き、喉は渇く。身体中に激痛が走り、それが何日間も続く、耐え難い苦しみである。苦しみ抜いて死ぬ。十字架は人に苦痛を与えるためには実に良くできた刑であることをある医者が詳細に分析している。ユダヤ人は十字架の苦しみをよく知っていた。ローマの市民権を持つパウロは十字架につけられることはない。だから、パウロの場合は斬首刑であった。ペテロはローマの市民権を持っていなかったので十字架につけられて死んだ。ローマの市民権を持っていない普通のユダヤ人たちは奴隷と同じ扱いを受け、最大の苦痛を伴う極刑として十字架が適用されたのである。それは、ユダヤ人たちが死を恐れてローマ帝国に逆らうことのないようにする為の見せしめでもあった。逆らう者はここまで苦しい死に方をしなければならないのかということを思い知らせるためである。

       ローマ帝国は一度に何百人、何千人を十字架につけたりした。当時のユダヤ人にはその苦しみがよくわかっていた。そして、非常に恐れていた。その人たちに向かって主イエス・キリストは、「十字架を負ってわたしについて来なければ、あなたは救われない。いのちを捨ててわたしについて来なければ、救われない」と教えるのである。自分のいのちを救おうとする者は、それを永遠に失う。自分のいのちをキリストのために捨てる者は、救われて永遠のいのちが与えられる。キリストはそのように教えている。また、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを失ったら、何の得になろうか。人はいったいどんな代価を払って、そのいのちを買い戻すことができようか」と教えている。主イエス・キリストを信じて永遠のいのちを受ける以上に大切なことはこの世にはない。永遠の地獄なのか、永遠の天国なのか、どちらなのか。その問いよりも大切な問いは絶対にないということをキリストはここで教えているわけである。自分の魂を失うなら、たとえ全世界を得たとしても、それは無意味なのだ。

       マタイの福音書10章28節を見よ。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。むしろ、からだも魂もともに地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とキリストは教えている。以前にも話したが、日本に来た1981年、ある在日宣教師と話していた時に、その宣教師は「この箇所はサタンについて話している。サタンがあなたのからだと魂を永遠の地獄で滅ぼすのだ」と言っていた。決してそんな話ではない。サタンこそ永遠の地獄で滅ぼされる者なのだ。サタンが人を滅ぼすという話ではない。サタンは地獄に行く者とともに地獄の苦しみに投げ込まれて、そこで一人で苦しむのである。サタンは地獄で誰をも苦しめることはできない。ここで、明らかに主イエス・キリストは「神を恐れなさい」と教えているのである。

       ある意味で、恐怖は人生の中では逃げられない事実である。怖いと思うべきことを怖いと思わなければ、愚か者ということになる。高速道路の真ん中でテニスをやる馬鹿はいない。それをする者は明らかに愚か者である。稀にではあるが、恐ろしい野獣の中で仕事する人が、慣れてしまって怖さを失い、その野獣に近づきすぎて食い殺される事件があったりする。怖いと思わなければ危険だということがある。しかし、ヘブル書にもあるが、人間の問題は「何を恐れるべきなのか」ということにおいて間違ってしまうところにある。自分の身体のいのちを保つのを第一に考えてしまう。相手が剣を手にして、「この像の前に跪いて拝め」と言われる時に、何を恐れるべきなのか。

       ダニエル書3章にもあるが、ネブカデネザル王の燃え盛る炉の火を恐れるのか、それとも神の御怒りの火を恐れるのか、どっちを恐れるのかを考えなければならない。どっちを恐れるかを選択しなければならない。シャデラクとメシャク、そしてアベデ・ネゴの考えは、「このからだしか殺すことのできない者を怖いと考えることはできない」というものであった。神のみを恐れたのである。本当の恐れは神のみに対する恐れである。神を恐れることはすべての知恵の初めであり、すべての知識の初めである。キリストはここで、誰よりも恐れなければならないのは神御自身であることを教えている。それは自分よりも大きくて強い苛めっ子を恐れることとは違う。

       1958年頃、私は小学校に通っていた。学校では一番目か二番目に背が低かったので、よく苛められた。男の子の世界では身体の大きさですべてが決まってしまう。それは日本でも同じだと思う。毎日のように喧嘩になり、チビは負ける。身体が小さくても、中には怒るとあまりにも激しくなるので皆が恐れてしまう子もたまにいるが、私はそんなタイプでもなかったので、かなり苛められた方であった。いつも苛められていると、その大きい奴を見るだけで怖くなってしまう。毎日やられるわけでもないが、いつ苛められるのか、なぜやるのか等がまったく予測できないので、怖くなる。

       相手はやりたい時にやる。楽しんでやっている。その予測できないがゆえの恐ろしさが常につきまとった。学校の中には忘れもしないビル・フィックスという有名な男がいた。その男は小学生といっても既にティーンエージャになっていて少し知能遅れであった。身体は人一倍大きく、皆に恐れられていた。彼は典型的な苛めっ子だった。廊下を歩いても、彼がそこにいるだけで、怖くて身体が震えてしまう。何が起こるかは全く予測つかない。なぜやられるのかも理解できない。実はそのビル・フィックスよりも頭が良くて私よりも2歳くらい年上の男の子もいたが、その子はビル・フィックスよりも恐ろしい奴だった。苛めを何よりも楽しんでいたからだ。

       そのような相手を怖がるのと、神を恐れることとは質的に話が違うことは容易に理解できよう。神が怒る理由ははっきりしている。何のために怒っておられるかがはっきりわかる。その怒りから逃がれる道をも、神御自身がはっきりと示してくださっている。悔い改めて赦しを求めるならば神は赦してくださることもよくわかる。主イエス・キリストが私たちの受けるべき罰を私たちの身代わりとなって受けてくださったために、神は完全なる正しさを保ちながらも私たちの罪を赦すことがお出来になるということもよく理解できる。

       皆さんも小さい頃は自分の父親を怖いと思ったことがあるはずだ。父親はいつ、そしてなぜ怒るかはおおよそ分かっていた筈だと思う。とにかく苛めるのを楽しんでいるだけだから怖いと思ったわけではなかった筈だ。天の父は完全にその義を保ち給う。その為に罪を犯す者に対して怒りを下される。しかし、いつでもどこでも何の為かもわからないでやたら怒るわけではない。完全な正しさを保ち、御自分の義を守るために、神は怒り、罪を罰し給うのである。

       その神をどうして恐れなければならないのか。それは、私たちが罪人だからである。私たちが神の御怒りを招くようなことをしているからである。神の義なる御怒りを何よりも恐れるのであれば、この世の諸々の苦しみやこの世の怖いものに対する恐れは二次的あるいは三次的なものになる筈である。何よりも第一に神を恐れるからである。逆説のように聞こえるかもしれないが、それこそ真の勇気の出発点なのである。正しい恐れは、聖書的な勇気の土台である。何を恐れるべきかがわからなければ、本当の意味での勇気も出てこない。

       マタイの福音書11章20〜24節のところでキリストは御自分の奇跡を見たりした町々に対して警告を鳴らして責めておられる。

    わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう。

       「裁きの日には、おまえたちはソドムとゴモラよりも厳しい裁きを受けるのだ」とキリストは言っている。ここに見逃してはならない大切なポイントがある。即ち、すべてのクリスチャンではない人たちに対する裁きが等しいわけではない。罪が大きければ、罰も重く、罪が少なければ、罰も軽い、ということがわかる。キリストの教えを受け、キリストの奇跡をも見たその町がキリストに逆らう時、その悪はソドムとゴモラよりも重いものだとキリストは言っている。ある者は他の者よりも大いなる罰を受けると教えておられる。その裁きの日の神の量りは私たちの考え方とはずいぶん違うこともよくわかると思う。

       「人はその行ないに応じて裁きを受けることになる」とローマ人への手紙2章6節にも書いてある。ヒットラーが受ける裁きは、普通の人々が受ける裁きよりも厳しいものである。もしかしたら、ヒットラーに対する裁きよりも、正しく御言葉を教える筈だったのにその御言葉を曲げて教える牧師の方がもっと厳しい裁きを受けることになるかもしれない。「行ないに応じて裁きを受ける」ということをキリストはここで教えているが、裁きがただ罪を犯した者を消してしまうのであれば、救われない者たちは皆全く等しい裁きを受けるだけのことになる。これもまた聖書の中では全く考えられないことである。

       キリストはまた、世の終りの裁きの時にはある人々は「泣いて歯ぎしりする」「外の暗闇」に追い出されるとも教えられた(マタイの福音書25章30節)。キリストが指している「外の暗闇」とは「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火」のことであったが、それはまたキリストを信じなかった者たちの永遠の住まいともなるのである(マタイの福音書25章41節)。マタイの福音書25章31〜33節及び41節と46節を見てほしい。

    人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。(31〜33節)

    それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」(41節)

    こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。(46節)

       「永遠のいのち」の「永遠」という言葉は「永遠の裁き」について使われているのと同じ言葉である。「裁き」も「いのち」も、ともに「永遠」である。サタンとその使いのために備えられた地獄にサタンに従う人々も一緒にはいる。キリストはここではっきりその事を教えている。確かにその救われた者を「羊」と呼び、救われていない者を「やぎ」と呼んでいる。そこは比喩を使って教えているが、他のところは比喩的な言い方をせずに明確に語っている。「永遠のいのち」も比喩だと解釈する者があるだろうか。そんな話をする者は一人もいない。気に食わなければ「比喩だ」と言い、気に入った部分だと「文字通りだ」と言う、そんな勝手な解釈が成り立つ筈はない。他にも「地獄」についてキリストが教えている箇所は沢山ある。キリストは地獄についてよく教えておられた。そのどれも非常に具体的かつ深い教えである。ここでそれらの箇所全部を見ることはできないが、非常にはっきりした教えであることは読めばわかるものばかりである。

       私たちは、神の愛について、天国について、他の事柄について考える時、常に「主イエス・キリストは何を教えたのか」というところから出発しなければならない。主イエス・キリストが教えた事を全体としてよく覚えて考えるならば、例えば神の愛の話はどういう話なのかを考える時にも、それは非常に明白な教えだということがわかるのである。神は愛なる神であると同時に、神は三位一体なる神である。御父は御子と御霊を愛しておられる。御霊を憎む者を御父はどう思うだろうか。兄弟姉妹を愛さないなら、その人は本物のクリスチャンではない。主イエス・キリストにある兄弟を愛さない者は偽り者である。「永遠の地獄という概念は神の愛についての聖書の教えと矛盾する」と考える普遍救済主義者の主張は、神の愛についても、また人間が神の似姿であるという聖書の教えについても、全く理解していない。聖書は神が愛であると教えると同時に神が「ねたむ神」であられることも強調している(出エジプト記20章5節)。イスラエルに対して特別な愛を持っておられるがゆえに、神はイスラエルが応答して特別な愛を示すように命じられるのである(出エジプト記34章14節、申命記4章24節、5章9節、6章1節、32章16節など)。

       この世の罪人たちはどのようなものかというと、ヨハネは彼らをカインのようなものだと言っている。カインはどうして兄弟アベルを憎むのか。それは神を憎んでいたからではないか。神を殺したいから、アベルを殺す。神の民を憎み、神の民を殺し、神の民を滅ぼそうとする者たちに対して、ねたむ愛をもって御自分の民を愛しておられる神はその愛のゆえに地獄にいる者たちを憎んでおられるのは明らかであろう。神の御名を卑しめる者すべてに対する「ねたみ」と「憤り」は、神御自身の御性質に不可欠なものなのである。

       このことを正しく理解するには、神が三位一体なる御方であることをしっかりと覚える必要がある。神の究極的な愛はまず三位一体の相互間の愛である。三位一体の御位格は互いに愛の交わりを持ち、各御位格は互いに愛しあうがゆえの聖なる熱心を以て他の御位格の栄誉のためにそれをねたむほどに守るのである。人間が自分の栄誉を守ることを神に委ねることはしばしば謙遜となり得るが、三位一体なる神が御自身の栄誉をお捨てになるのは良いことではあり得ない。なぜなら、それは御父が御子を捨て、御子が御父を捨てるというような意味になるからである。神がねたみ給わないということの方が愛を全く裏切ることなのである。

       しかし、「その人々の中には私たちの親戚や友人たちがいるではないか。その者たちを愛さないのか」と言う時、それはもっともな話である。私たちは、知りあいや友人たちに対して、なぜ彼らを愛しているのかということをよく考えなければならない。クリスチャンではない人々の中には私たちよりも性格もよくて親切で忍耐強く、思いやりがあって、知恵があって、表面的には非常に正しく生きている人たちがいる。彼らがどうしてそのような人間なのか、どうしてそのように“よい人間”として生活を送ることができているのか。

       その答えは「神の御恵み」に他ならない。神の御恵みがすべての人間の心の中で働いて、その人間が自分の心にある罪をすべて表してしまうことがないように働いておられるからである。悪が抑制されているのは、神の御恵みによるのだと聖書は教えている。自分の心の中にあるすべての悪い思いがそのまま行ないになって出てきてしまうならば、私たちは小学校の時からしょっちゅう刑務所の御世話になっていただろう。それこそ悪魔のような者になってしまうしかない。すべての罪人がそうであって、例外はない。なぜその悪い思いのすべてが実現されないのか。それは神の御恵みである。その御恵みは「一般恩寵」という言葉で知られているが、神の一般恩寵はすべての人間に対して与えられている。

       主イエス・キリストを信じない人間が神の裁きの御座の前に立つ時、彼の一番本質的な自己がそのまま露呈されることになる。その時には神の御恵みはもうそこにはない。善良で親切だった“ジョーンズさん”もやがて義なる神の裁きの御座の前に立つのだ。そこではキリストを信じない“ジョーンズさん”の罪のすべてが明らかになって表わされるのである。そこには、私たちが知っていた“ジョーンズさん”とはまるで違う“ジョーンズさん”が立っているのである。その裁きの日、心の奥の罪のすべてが表わされてしまったその“ジョーンズさん”を見て、「私が知っていたのとは全く違う人物だ」ということが明らかにされる。

       この世の中にある時でさえ、私たちはある程度そのような経験をすることがある。クリスチャンの告白をし、教会で一緒に礼拝し、神のために生きているかのように見える人が、神から離れてしまったならば、後にその人に会うと実際にぜんぜん違う人物だということがはっきりわかるのである。「私はこの人を知らない」と思わされて驚く。「私が知っていたのはこの人ではない」と深く感じさせられるのである。それでもまだ極端な話にはなってはいないのだ。もしも明日、あなたの心の中にある悪がそのまま全部表わされるとすればどうだろうか。残らず全部である。あなたの罪が100%表わされたら、どうだろうか。奥さんや御主人や友人たちはあなたのことをどう思うだろうか。それこそ目を覆うばかりであろう。もちろん私はクリスチャンのことを話しているのである。そこまで私たちは罪深い者なのである。

       神を信じない人間の罪の本質は何よりも神を憎むところにある(ローマ人への手紙8章7節)。それが彼らの心であり本質である。神に逆らい、神から逃げる。神を無視し、神を憎んで生きている。イエス・キリストの十字架ほど神に対する人間の本当の心を明らかにし、また完全に表わすものはない。十字架上で人間は神を思いのままにした。もしも可能であったなら、イエスを永遠に十字架にかけておいたことだろう。罪人は、その心の奥底では神を憎み、神に逆らう。神はいらないが、祝福は欲しい。幸せが欲しい。しかし、神御自身は御免なのだ。それがクリスチャンではない人たちの本質である。その憎しみが今それほど表面化してこないのは、まだ神に直面していないからである。

       皆さんも憎む相手がいればその人を避けようとするだろう。会社の中で、互いに嫌いな相手同士は廊下を歩く時でさえ違う廊下を使おうとする。同じ時に同じ場所で昼飯を食べようともしない。目を合わせようともしない。一緒にいなければならない状態なら昼飯を食べなかったりさえする。それに似て、クリスチャンではない人たちはとにかく神を避けて生きている。それで、自分が憎んでいる相手に出会わないで済むというわけである。しかし、地獄にはいると憎む相手に常に直面している。

       その憎しみは減少することなく、ますます増大し、狂い、自分をも憎み、他のすべての者をも憎む。その憎しみはどんどん深くなって、騒ぎ、歯ぎしりし、目は憎しみで血走り、神に対する憎悪は増えるばかりとなる。人間の本性は、死んだからといってその逆のものに変わるわけではないので(ヘブル人への手紙9章27節を参照)、神に対するその罪は死んでもなお続くのである。地獄にいる罪人は神を憎むのを止めはしない。むしろ神に対する憎しみと神を滅ぼそうとする欲望を自分のうちにはっきりと認識するようになる。つまり、罪人は、地獄において本当の自分になる。地獄では、この世で与えられていた一般恩寵の抑制はすべて取り除かれ、その心は神に対して激怒する。その憎しみは地獄の中にあって永遠に続くのである。

       これはまた、なぜ友達や愛する者たちが裁かれて地獄に行ったと知りつつもクリスチャンは神にあって平安を見出し、喜んで神をほめたたえることができるのかという問いに対する答えでもある。一度この世を通り過ぎて死ねば、愛する者たちはもはや私たちが知っていたような人物ではなくなってしまうのである。今はその心に隠されている神への憎しみが神の御恵みによって抑制されている。だが、裁きの時、そして地獄ではその罪の本質が一気に吹き出し、実際かつての友人や家族は私たちには認識できないほどの姿になるのだ。そういう意味では、私たちは今クリスチャンではない人たちのことをその真の姿においてはほとんど知らないのである。

       しかし、誤解しないでほしい。決して今彼らを憎むべきだと言っているのではない。知っているものとして尊敬したり、知っているものとして彼らを愛すべきである。今表わされている姿において愛すべきである。「本当はこの人の心の中はこんなに汚いのだからね」というような話は毛頭すべきではない。そんな話ではないのだ。私たちは、今のその人をそのまま認めなければならない。事実、神もそれを認めて裁きを行ない給うからである。罪人であっても、人格のあるものとして、それはそれで認めなければならない。しかし、地獄では、その人の中にある悪は全部明らかにされる。その時、神の御恵みはその人の中で働くことはもはやないので、その人を見て、「ああ、この人は私が愛していた人だ。私の愛するお父さんだ。私の尊敬する友だちだ」というような気持ちはもはやなくなる。その時、その違いは明らかにされるからである。

       この問題について私たちはまだ触れただけであって、本格的に取り扱ったわけではない。しかし、結論として、聖書の証言と健全な神学的思考は同じ真理を私たちに教えている。即ち、人間の罪は本質的に極めて深刻なものであること、人間の神の似姿としての威厳は非常に大きく、その責任はあまりにも重いものであること、人間の罪の本質は神御自身を甚だしく憎むものであること、これらの事実は他の諸々の事実とともに、聖書が教えている罰、即ち聖い神の永遠の御怒りを要求するのである。

       神の似姿である人間に対する裁きは、動物のようにただ消滅して終りという裁きにはならない。神の似姿であるということは実に偉大なことなのだ。そこまで素晴らしいものであるからこそ、そのすべての思い、すべての言葉、すべての行ないに対する完全な裁きを受けなければならないのである。人間が獣のように取り扱われることはないし、そうすることもできない。神の似姿に創造されたということは「裁き」という重い責任を負うことを意味しているのである。永遠の地獄という裁きは、神の御恵みを否定し神に逆らう罪人となった私たち皆が例外無しに受けるべき裁きなのである。私たちがその受けるべき裁きを、主イエス・キリストが私たちの代わりに十字架上で受けてくださったのだ。

       聖餐式の時に私たちはそのことを覚えて、神に感謝をささげるのである。永遠の地獄を真剣に考えていなければ、「十字架とはいったい何なのか」という話にもなってしまう。いったい聖なる義なる神御自身が、人となって、十字架上で私たちの罪のための罰を受けなければならないのだろうか。神の義しさは少しも曲げることのできないものである。神は、人間の罪を赦すためには、まず正しい罰を下さなければならない。神は御自分の義しさを曲げたりはしないからである。神が永遠の裁きを行なう時、無限な御方である神の第二人格なる主イエス・キリストのみが、限られた時間の中で神の無限な御怒りの罰のさかずきを飲み干すことができるのである。それ故、キリストは私たちの救いを完全に成し遂げることのできる唯一の御方である。私たちは、その主イエス・キリストを信じる信仰を聖餐式の時に新たに告白するのである。心から、「私こそ永遠の地獄の罰を受けるべき者であった」と告白するものである。

       毎週、子供たちと一緒に聖餐式を受けているけれども、子どもたちも神から与えられたものとして神の契約のバプテスマを受けた契約の子どもたちである。子どもたちもこの聖餐式の時に、自分たちの罪について真剣に考えなければならない。子どもたち、私の方を見てよく聞いてほしい。「罪を犯して永遠の地獄に行くよりも、自分の手と足と目を失った方がずっと良い」と教えてくださった主イエス・キリストの教えをよく覚えて聞いてほしい。自分の罪を軽く考えるならば、それは永遠の地獄の話になるのだということをよくよく知りなさい。誰よりも悪く成り得るのはあなたたちである。

       私は幼い時からあなたがたのように御言葉を聞かされてはいなかった。あなたたちはここまで祝福されて、御言葉を毎日家で教えられていて、毎週教会でも教えられている。もし、そのような子どもたちが神の御言葉を捨てて、神から離れてしまえば、誰よりも厳しい罰を受けるということを忘れてはならない。真剣に聖餐式を行ない、真剣に自分の罪を悔い改めて、神の御言葉を信じ、感謝と喜びをもって聖餐式を受けなさい。主イエス・キリストの教えにあるように、これは絶対に軽いことではない。罪と地獄のことを軽く考えてはならない。鈍い心で聖餐式を受けてはならない。そのことをよく覚えて聖餐式を一緒に受けたい。

     

    ――1998年9月27日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙2章4〜5節

    ローマ人への手紙2章6〜11節

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.