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    ローマ人への手紙5章12〜21節


    5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、「「それというのも全人類が罪を犯したからです。

    5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。

    5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

    5:15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

    5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。

    5:17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

    5:18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

    5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

    5:20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

    5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

    99.10.31. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    福音の歴史

    5章12〜21節

    そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に――

     

       今日からローマ人への手紙5章12節からの箇所に入るが、ここでパウロはアダムとキリストの話をしている。アダムとキリストの話をするときに、パウロは歴史全体の見方を教会に教えている。これは非常に重要なポイントである。義認についての説明は福音的歴史観で終わっている(5章12〜21節)。なぜかというと、福音のメッセージは、キリストの再臨という光に照らしてイスラエルの歴史を再解釈し、異邦人に新しい歴史を賜物として与えるものであったからだ。

       歴史は人間に問題意識をもたらす。宗教や哲学はそれらの問題を解決しようとするが、しばしば彼らは単に歴史の存在を否定することによって考えてしまう。彼らにとって世界には始まりも終りもない。歴史の諸問題が人生に影響を与えるという考えがない。しかし、キリストの良き知らせ(福音)には、神が歴史を贖ってくださるというメッセージも含まれており、それによって人間の創造された最初の目的は成就されるのである。そのことを考えるために昔のイギリスの歴史から少し話しようと思う。

       1455年から1485年にかけて、“バラ戦争”という戦いがイギリスにあった。後にヘンリー7世となるリッチモンドがリチャード3世と戦って勝利した戦いである。その戦いでリチャード3世は殺され、リッチモンドはヘンリー7世となり、その後にヘンリー8世が国王となり、短い年月の中でエドワード6世とかマリアのことがあってから、エリザベスが女王となった。エリザベスの時代になると1590年代にシェークスピアが「リチャード3世」という劇を書いた。つまり、バラ戦争の約100年後にシェークスピアは「リチャード3世」を書いたのだ。シェークスピアによるリチャード3世の性格描写はかなりはっきりしたものであった。

       劇の中のリチャード3世は腰が曲がっていて、一本の腕が不能で、マキャヴェリ的な非常に悪い人間で、悪を企み、偽りを語り、平気で人を殺す、実にとんでもないサタン的な人物として描かれている。シェークスピアの劇を観れば、リチャード3世を豚とかカエルとか色々な動物にたとえる箇所が沢山出て来る。明らかに悪魔そのもの、あるいは悪霊に取り憑かれた人間のようにリチャード3世を紹介している。偽りと殺人がリチャード3世の特徴になっているが、ヨハネの福音書にあるように、サタンは偽り者で人殺しである。シェークスピアの描写の背景にはそのキリストの教えがあるのは明らかである。劇の中でヘンリー7世が現われる場面では、メサイアが来たようなかんじでシェークスピアは描いている。

       リチャード3世に至るまでの30年間もの間、ランカスター朝とヨーク朝がずっと王権を争って戦っていた。そのバラ戦争の最後に、ヘンリー7世となるリッチモンドが現われてリチャード3世を倒し、ランカスター朝の娘と結婚してバラ戦争を終結させた。その百年戦争に続く長い戦争の最後に、ヘンリー7世という“救世主”がイギリスに与えられたのだ。いかにもヘンリー7世はメサイアだという感じがシェークスピアの劇を観ればよくわかる。

       感謝なことに、1840年代にアメリカの歴史の教科書として使われていた書物を私は国立駅近くの古本屋で200円で手に入れることができた。最初の数ページが敗れて失われていたために破格な値段で手に入れることができた。その本を読んでみると、シェークスピアの劇で描かれてあるとおりに歴史が書かれているのに驚かされた。リチャード3世の人物像も事細かに記されている。まるでシェークスピアの劇が全く実際の歴史であるかのような書き方なのである。同時に、その本の中では昔の歴史の本も引用されている。つまり、シェークスピアはテューダー朝時代の歴史学者の記述通りにリチャード3世を紹介していると言うことができる。

       インターネットにリチャード3世のページがあるが、そのページには全く違う解釈が展開されている。リチャード3世が健康でダンスも上手くて非常に頭脳明晰で評判良く、正しさを追求するような人物として紹介されている。そして、シェークスピアが書いたのは歴史ではなく、テューダー家のためのプロパガンダ劇なのだと非難している。「シェークスピアの劇はテューダー家がやった戦争を弁護する観点から歴史を変えて書かれたものであって、ただ権威を我が物にするために戦争したヘンリー7世をメサイアのように見せかけ、リチャード3世を悪魔のように見せかけている。歴史学者たちがそのように史実を書き換え、シェークスピアはそれを劇にした。シェークスピアが本当の歴史を知っていたかどうかは分からないが、もし本当の歴史を知っていたとすれば、シェークスピアはエリザベス女王の時代に受け入れられるような解釈に歴史を書き換えて劇にしたのかもしれない。或いは、エリザベス女王の時代に歴史学者らが書き換えた歴史をシェークスピアは信じてそれに従って劇を書いてしまったのかもしれない」と書いている。私もまだ勉強中の段階なので、いったいリチャード3世は悪魔的な人間だったのかクリスチャンのような人物だったのか、どちらが本当だったのかは、今の段階では私にも確言はできない。

       しかし、ストーリーをどのように書くか、その歴史をどう解釈するかによって、王や国家に対する見方が大きく変わってしまうのは確かである。仮に、もしシェークスピアが1600年頃に、リチャード3世は素晴らしい人物であったと紹介したらどうだっただろうか。その時代に書かれた歴史を覆すような書き方でその劇を書いたとしたら、どういうことになっただろうか。「実は、リチャード3世は立派な人物であったのだ。ヘンリー7世は、ただ単に権威を得るために戦争し、ランカスターの娘と結婚して王座を奪ったのだ。本当なら、テューダー家はイギリスの王座に座るような歴史的な権利はない。ただ武力でその権利を奪っただけなのだ」というような書き方をしたとすれば、それこそ社会を大混乱に陥れる事件を引き起こすことになったであろう。

       その劇によってイギリス人が、「100年もの間、正しい王が王座に着いてはいなかったのだ」ということを認めなければならなくなったとすれば、どれほど大きな問題になったか、皆さんに想像できるだろうか。神の代表として国家を治めて支配する筈の王座に、100年間も座るべきでない者がその座についていたとなれば、国と神の関係も、国と教会の関係も、すべてがおかしくなったであろう。シェークスピアが、リチャード3世を弁護するような書き方でその劇を書いたとすれば、それは非常に深い意味を持つ社会批判になる。そして、社会全体に革命的な影響を与えることになったであろう。

       現代に例えれば、著名な歴史学者が天皇制に関する歴史を書く場合、それが連続していないこと、そして最初は外国から来たものだから太陽の子ではないことを証明して書くならば、それは宗教に対しても政治に対しても大変な問題を提起することになり、大きな影響を社会全体に与えることになるのと同じことである。今日では国民全体が天皇制についてそれほど深い信仰を持たなくなっているが、1930年代であったならどうだろうか。天皇制が最も力を持っていた時代に、そのような天皇制の偽りを暴露するような歴史の本を書いたとしたら、そして非常に正確且つ詳細に深い説明を伴って書いたとすれば、間違いなく大変な政治問題になったであろう。シェークスピアの時代にリチャード3世を弁護するような本を書くとすれば、それと同じ問題になるのだ。

     

    歴史と福音

       今、「いったいこの外人は何を話そうとしているのか。その事が聖書とどういう関係があるのか」と、皆さん不思議に思っているかもしれない。実は、私は今、パウロが語っていることについて話しているのである。その事に気がついてくれた人もいると思うが、当時のユダヤ人には旧約聖書に関する決まった説明があったのだ。彼らには、アダムの時から一世紀の時までの自分たちの通説による考え方があった。そこへ主イエス・キリストが来て、パリサイ人に反対して譬え話をしたりして人々を教えた。キリストは、「イスラエルの歴史はあなたがたが考えているような歴史とはぜんぜん違うものである」ということを多くの譬え話を用いて説明した。その教えはパリサイ人や律法学者たちの歴史を完全に覆すものであった。

       それだから、私は長々とシェークスピアの劇のことから話をしたのである。もしエリザベス女王の時代にリチャード3世を弁護するような劇を詳細に書いたなら、シェークスピアは命が幾つあっても足らなかったであろう。殺されないとしても、少なくともその劇は破壊され、演じることを禁じられたであろう。絶対に許されないことなのだ。もしシェークスピアが続けて同じような観点から物を書くならば、間違いなく死刑になったであろう。日本の1930年代に、天皇制を真っ向から反対してその偽りを完全に暴露するような人間がいたなら、そしてそれを続けて書こうとする者がいたなら、生き残れる筈はない。日本にいれば絶対に殺されたであろう。

       主イエス・キリストがユダヤ人の指導者であるパリサイ人に対してなしたことは、そのようなことであった。彼らには正当な権利がないこと、神の御言葉を曲げて教えていること、偽り者であって偽善者であること、などを公けに完全に暴露した。旧約聖書の本当の教えはパリサイ人たちの教えとはまるで違うものなのだということを明らかにした。彼らは律法を知らず、神を知らず、その教えのすべてが間違っていることを人々に教えたのである。パリサイ人たちは、公然と自分たちの偽りが暴露されるのを見逃すはずはない。キリストをなんとかしなければならなかった。彼らは、かなり早い時期から主イエス・キリストを殺そうと計画していた。しかし、その機会がなかなか訪れず、何回も殺そうとしたが、ことごとく失敗に終わった。

       ヨハネの福音書の7章、8章、10章でも、彼らがキリストを殺そうとしたことが記されている。ルカの福音書の4章ではナザレの人々がキリストを殺そうとした。マルコの福音書3章ではキリストが安息日に奇跡を行なったのを見てパリサイ人はキリストを殺す陰謀を立てたと記されている。最初から、キリストを殺さなければだめだということに彼らは気付いていた。その教えは彼らにとっては絶対に許せないものであったからである。

       パウロもパリサイ人の一員であったが、キリストの特別な招きによって主イエス・キリストを信じてクリスチャンになったときに、パウロは主イエス・キリストが語ったとおりのことを忠実に伝える者となった。それで、福音を伝えるとき、パウロは主イエス・キリストが誰なのか、キリストの死にはどういう意味があったのかなどを深く教えた。それを教えるとき、パウロはイスラエルの当時のユダヤ人の歴史観を根底から覆す教え方で教えるのである。その教えは革命的なものであった。ローマ人への手紙の中で私たちは既にそのことをはっきりと見ている。

       ローマ人への手紙を読む現代人は、パウロがどれほど頻繁に歴史に訴えているかに気付かず、また、そのことがどれほど重要であるかに気付かないかもしれない。しかし、事実、パウロが宣べ伝えた福音は歴史に基づくものであり、歴史全体の意味に真の解釈をなすものである。それによって、パウロはユダヤ人の旧約聖書理解と彼らによる世界の解釈に真っ向から挑み、同時に異邦人による歴史と世界に関するストーリーを根底から否定するものになっていた。

       例えば、ローマ人への手紙1章でパウロは人間の偶像礼拝の堕落のストーリーを語っている。確かにパウロが暗示している聖書箇所はイスラエルが何度も偶像礼拝に陥った歴史的背景を示唆するものであるが、彼はそこで特定の歴史的出来事を指しているわけではない。特定の民やさまざまな出来事よりも、パウロは、偽りの礼拝からひどい偶像礼拝や不道徳へと堕落していったという典型的な展開について語っているのである。異邦人の国々はすべてバベルの塔の時以来、この進行する衰退を経験している。だから、ローマ人への手紙1章でパウロが記している偶像礼拝の描写に照らして創世記を読むことは、異邦人に彼ら自身の歴史についての理解を与えるものであった。

       パウロは、義と認められることを説明するときに、アブラハムの話をする。福音の中心である義認の教理は、アブラハムの歴史の正しい解釈から離れて理解されることは有り得ないからである。パウロは、ほぼ一つの章を費やしてアブラハムの人生を解釈し、創世記に記されている出来事の神学的意義を詳しく説明している。ユダヤ人たちはアブラハムの話をよく知っているつもりでいる。アブラハムのことを誇りにさえ思っていた。しかし、パウロはアブラハムの説明をするときに、全然彼らが今まで考えていたアブラハムの物語と違う話をしていたのだ。「アブラハムが義と認められたのは、割礼を受ける前であった」とパウロは教える。聞いたユダヤ人たちは驚いたであろう。

       しかし、よく考えてみると「そう言えばそうだ」ということになる。そのポイントは今まで強調されず、示されてもいなかった。そのポイントは彼らの脳裏にはなかった。その歴史を指して、その意味はこういう意味なのだということを明かにするとき、彼らの歴史観は大きなダメージを受けずにはおれなかった。そして、割礼が後に与えられたのにはこういう意味があったのだとパウロは説明する。ユダヤ人と異邦人の関係はこのようなものなのだということをアブラハムの話を通して説明するときに、当時のユダヤ人の歴史観のすべてが逆さまになってしまうのである。完全に覆されてしまう。

       それだけに留まらずにパウロは、こんどはダビデの話をするのである。ダビデの話も彼らがよく知っているものであった。「ダビデは、信仰によって義と認められた」ということを、パウロは4章のところで詩篇32篇を引用して教えた。ダビデもアブラハムも、彼らの歴史観と全く違うように解釈して考えなければならないことを明らかにしたのである。歴史の解釈を変えると、世界観全体が変わってしまうのだ。すべてが変わってしまう。

       そこで、パウロは5章1〜11節の箇所で義と認められた者の喜びと感謝と礼拝の心について話したあと、こんどは、義と認められる話のまとめとして、アダムとキリストの話をするのである。このアブラハムとダビデについてのパウロの教えは、旧約聖書の教え、なかんずくユダヤ人と異邦人の両方の救いについての教えを新しい光をもって照らしたのである。

       アブラハムとダビデの話をしてから、パウロは聖書の一番最初のこと、即ちアダムとキリストの話をするのである。アダムについて、今までユダヤ人が考えていたのとは違う説明をパウロはする。アダムに関する考え方も違うものであった。続いてパウロは、主イエス・キリストがこの世に生まれたことの意味をアダムとの関係において説明する。それによって、歴史全体の見方が根本的に変えられることになるのである。福音の歴史的性格は、選びの説明において驚くほどの強調がなされている(9章)。パウロが神の永遠の御計画とその歴史の上にある全き主権について取り扱うとき、彼は哲学的な根本原理や因果関係についての抽象的な論文ではなく、聖書に記された歴史的出来事の解釈を通して説明するのである。

       神が歴史上に主権を持っておられるがゆえに、神の民イスラエルの歴史の出来事には神学的意義が伴っているのである。そういうわけで、福音を正しく理解するには、歴史における神の御業を理解することが要求される。アブラハムとダビデについての解釈が違っていることを既にパウロは証明した。9章で「神の選び」について説明するときにパウロは、サラ、ヤコブ、エサウ、そしてイサクの話をしている。モーセとパロのことも出て来る。11章ではエリアとユダヤ人の話が出てくる。そのすべての教えにおいて、パウロはイスラエルの歴史を指して、パリサイ人たちとは全く違った観点から、違う説明をもってイスラエルの歴史を解釈している。それで、根本的に彼らの考え方を変えるのである。

       つまり、神についてどう考えるかは、歴史全体についてのすべての考え方を変えるものなのだ。しかし、神だけについて語り、歴史についての説明を変えなければ、何も深く語ることはできない。それでは神についての考え方も、歴史についての考え方も曖昧なもので終わってしまう。そうすると、パリサイ人の異端的な影響を教会はまともに受けてしまうことになる。ユダヤ人は、自分たちこそ旧約聖書の専門家だという自負があった。それで、異邦人たちがクリスチャンになると、クリスチャンに改宗したユダヤ人律法学者たちは、異邦人のクリスチャンたちも旧約律法を守って割礼を受けなければならないと主張したのである。それに対してパウロは根本的に違う解釈を与え、アダムについて、アブラハムとダビデについて、イサク、ヤコブ等についても、彼らの解釈はすべてが間違ったものだということを、当時の教会に教えたのである。

       その教えを聞くとき、クリスチャンになったユダヤ人は「そうか。それなら全部が変わることになる」ということが分かるし、異邦人のクリスチャンたちもアブラハムやダビデの歴史を見るときに、アダムとキリストの関係について間違ったユダヤ教の影響を受けないですむことにもなる。ここまで福音を深く説明しなければ、福音の説明にはならないのだ。ローマ人への手紙の福音の説明は、アダムから始まってずっと歴史の終りまでの教えが含まれている。それは非常に広く、そして深い。ローマ人への手紙では、歴史的にも、神学的にも、哲学的にも、非常に広い観点から福音の教えが語られている。歴史全体についての考え方を、主イエス・キリストを通して説明している。キリストがこの世に生まれ、義を行ない、十字架上で死んで、復活して天に昇られて父なる神の右に座して支配しておられる。その事実を通して歴史全体を見なければ、福音そのものを正しく理解することはできないのである。

       だから、パウロはここでアダムのところに戻って説明する。そして、アダムとキリストの関係を5章で説明するときに、その最も深いそして根本的なことについて話している。全人類を罪に定めたアダムの行ないについての適切な説明なくして如何に義認のためのキリストの御業が説明できようか。アダムとエバのストーリーは、人類の始まりと、なぜ人間は生まれながらにして罪人であるのかということを異邦人に説明している。また、アダムのストーリーから、全ての人間は文字通り兄弟であることがわかる。私たちは皆、一人の父アダムから出たものであるからだ。全ての人がアダムにそのルーツを持っているのだ。これを読むとき、ユダヤ人たちは自分たちの聖書についての考え方も歴史についての考え方もすべて変わらなければならないのを感じることになる。

       今日の私たちは聖書を読み慣れているので、その驚くべき歴史解釈に気付かずに、あるがまま当然のことのように読んでしまう。しかし、当時の人々にとっては、シェークスピアがリチャード3世を弁護してヘンリー7世をマキャヴェリのように解釈する劇を書き、それを読まされたような驚きでローマ人への手紙を読むようなものであった。それは、あたかも1930年代の日本で「歴史的にも宗教的にも天皇制はまったくの偽りだ」という本を読んで驚嘆するような驚きと興奮をもって読むようなものだ。

       人々は腹が立ってパウロを殺さなければならなくなる。実際にパウロは、訪れるすべての町でユダヤ人の反対に遭って何回も殺されそうになった。そして、最終的に殺されたのである。なぜパウロを殺さなければならないのかというと、日本の1930年代のことを思い起こせば理解できよう。すべてをひっくり返してしまう革命的な教えを与えるような人物をどうするだろうか。社会は、そのような人物を生かしてはおかない。この教えがどれほど大きな意味を持つかということも、それによって分かると思う。

       確かに私たちには、この聖書を読み慣れているために読んでもその深さや歴史的背景に気付かないという問題がある。それは自然なことだとも言える。ただ、私たちの読み方と当時の人々の読み方には大きな違いがあるのだということだけはよく認識しておく必要があると思う。それこそ、アダムにまで遡って完全に違う説明をするなら、それは実に重大なことであったのだ。

       エデンの園のアダムは、個人としてでなく、全人類の代表として行動した。彼の罪は全世界の罪であり、彼に対する罪の宣告は世界に対する宣告であった。それ故、異邦人とユダヤ人はアダムにあって神の御前に共通の土壌にあり、義と認められるための基本的に同じ必要を持っているのである。アブラハムのストーリーは、ユダヤ人も異邦人も信仰によってのみ義と認められることができるということを明らかにしたけれども、義認の根拠を説明してはいない。義と認められることのためには、人類の最初の代表であるアダムのストーリーを、人類の最後の代表であるキリストのそれとつなげなければならない。

       このつながりがなされ、パウロによってイスラエル史の再解釈の残りの部分が書き加えられるとき、一世紀のユダヤ人の世界観全体は大きな挑戦を受けることになる。当時の指導者たちは全員偽りとして暴れ、彼らの社会秩序の腐敗がすべて公けに暴露されてしまった。言うまでもなく、これは高い地位にいる人たちを味方に付けるためにはよい方法ではない。パウロは行く先々でユダヤ人によって殺されそうになったのも不思議ではない。パウロの教えも行動も、彼らに挑んで彼らの偽善を暴いたキリスト御自身にあまりによく似ていたからである。福音は、あらゆる非キリスト教的歴史観とその解釈に挑む、歴史における神の御業のメッセージなのである。

     

    現代の教会と福音の歴史

       もう一つ、私たちの問題がある。私たちは、このパウロが教えている革命的な教えを水で薄めている。葡萄酒に水を足して薄めて飲むようなことをしてしまう。つまり、パウロがここで話していることは私たちの歴史観でもあるはずなのに、私たちはそれを“進化論”という水で薄めて解釈してしまうのだ。そのために歴史観と世界観において、深いところに到達できないでいる。皮肉なことに、現代の国々がほとんど福音の影響のおかげで深い歴史意識を持つようになったのに、教会は自分たちの歴史理解においてあまり明確とは言えず、この世の見方に挑むことはあまり出来ていない。

       ほとんどの福音派は、アダムの話は譬え話であると考えている。「それは神話だ」と言う人々さえいる。実際の歴史の話ではなく、アダムの話を通して大切なポイントを教えようとしているのだと言うわけである。“神話”や“譬え話”の場合、ポイント自体は真理だが、説明の仕方として実際には無かった話を通してその真理を説明しているというものなのだという。神はそのように創世記の1章から11章までを与えたと多く人たちは考えている。なぜ11章までなのかというと、アブラハムの話までも神話的なものにしてしまえば何もかも成り立たないということが分かっているからである。リベラルの中には、アブラハムの話でさえ神話だと考える人がいる。福音派は11章で譬え話は終わると考えている。

       なぜなのかというと、そうすることによって彼らは辱めを受けずに済むからである。人々と話せば、「バベルの塔が史実だったのか? それによって言葉が混乱して分散したというのか? とんでもない話だ。人は進化してきたのだ。言葉も進化によって生まれたのだ。ノアの洪水だって? 全世界がそれで滅んでしまい、ノアの家族だけが小さな箱舟に乗り、動物たちも種に応じて雄と雌がその箱舟に入って奇跡的に神に守られたと言うのか? そんな話を本当に信じているのか? そんな神の奇跡的なさばきがあったというのか? ばかばかしくって話にもならない」という話になるわけである。「歴史は6,000年前から始まったというのか? そんなこと信じているのかい? あなたは地球が平らだとでも信じているのだろう」と言われてしまう。事実、日本のテレビ番組で文字通りそう言っていたのだ。私たちの歴史の見方はこの世の人々の歴史の見方とは根本的に違うものなのだ。そして、その戦いの意味は非常に深いものである。その戦いは、激しいものである。

       残念なことに、今の時代の聖書を信じるクリスチャンたちの恐らく80〜90%くらいの人は、創世記1章から11章までの箇所を史実としては見ていないのである。そして、聖書の書き記されたままの年代学を信じていない。これを文字通り信じると主張すれば“恥”となる部分だからである。長老教会の中でもそうであるし、普通の福音派の教会の中でもそうである。改革派で私たちと同じ信仰の立場に立つ人たちの中でさえ、そのポイントは曖昧になっている。実に残念なことである。聖書に従って歴史をアダムのところから解釈するという考え方をしっかりと持たないので、教会の証しも弱いものとなっている。そして、教育のやり方も弱くなり、教育の実践も非常に弱いものとなる。世界観として成り立たないからである。

       世界観を考えるとき、一番大切なことの一つは、歴史の説明であり、歴史のストーリーのことなのだ。歴史がどのように流れているのか。歴史はどうなっているのか。その説明の在り方が非常に重大なことなのだ。1600年代に、正しくはエリザベス女王は女王としての権威を持っていなかったというなら、そして英国国教会の最も高い地位にいる指導者たちの権威もすべて偽りだということを認めなければならないとしたら、いったいどうしたらいいのか。実に大きな、そして大変な話になるであろう。歴史の解釈にはそれほどに大きな意味があるのだ。

       今日の福音派の問題は、実は、神と歴史との関係は何なのかを明確に考えていないところにあるのではないか。神は、進化論の過程を部分的に用いたり、宇宙を何億年も前に創造して、その間に長い年月の隔たりがあって、最後にアダムを作ったというような話をしてはおられないのだ。ある人たちは、「神はアダムとエバを創造したが、アダム以前にはずっと猿の進化というものがあったのだ。そして猿は、アダムとエバの身体を持つようになるまでの進化を実際にしてきたのだ。神は、そのアダムとエバのような身体を持つほどに進化したときの猿に、御霊の力によって人間の身体を与え、いのちの息を霊長類に吹き込まれたのだ」と信じている。ちょっと背骨が曲がったような毛深いアダムとエバは、奇跡の結果として私たちの先祖となったというような考え方をする。実際にそのような人々が福音派の中にいるのである。

       つまり、「神は進化の過程を用いて、最後に人間の心と魂を動物に与えた」というようなことを信じているのだ。そのような見方では、神による直接創造ではなかったということになるのだ。「そこから始まった」と言えば、この世にあって年代学的に恥をかかずに済むのである。例えば、「星々は何億光年前から光を地球に向けて照らしている。そうであれば、宇宙はそれくらい古いものでなければおかしい」というような考え方になったりする。クリスチャンたちは、その全てに答えることができなければ恥ずかしいと感じたりする。答えることができたとしても、それは皆には受け入れられないでバカにされるから、また恥ずかしがったりする。それで、聖書の明らかな記述の意味を曲げてしまうのである。

       面白いことに、というよりも残念なことだが、1960年代の時から聖書に従って創造とノアの洪水を解釈して進化論を徹底的に批判するクリスチャンのグループがアメリカで設立されたが、彼らは聖書の年代学をあまり信じてはいない。「少なくとも一万年以上前ということはない」という立場をとっている。神学校で私の先生であったジョン・C・ホィッコム博士はそのグループのリーダーの一人であるが、彼は、「創世記の5章と11章の年代学の書き方は明確ではないので、実際にアダムはいつ創造されたのかは分からない」と言っている。なぜホィッコム博士がそう言っているのかというと、19世紀のプリンストン神学校で一番著名なリーダーの一人であったウィリアム・ヘンリー・グリーン(William Henry Green)という人が書いた論文に従ってベンジャミン・B・ウォーフィールドが同じような論文を書いたが、その内容に基づいて解釈したからである。

       19世紀のグリーンとウォーフィールドは非常に卓越した素晴らしい神学者であったが、二人は進化論のプレッシャーを重く感じて、真に聖書的な歴史を構築するにはあまりにも年代学の現代的見解と妥協してしまった。その妥協は、聖書を信じるすべての教会とクリスチャンに妥協するような影響を与えてしまったのである。ベンジャミン・B・ウォーフィールドは聖書の無誤性を説明し弁護する神学者として19世紀から20世紀初頭までの最も優れた学者であった。ウォーフィールドの神学は学問的にあまりにも深くて素晴らしいものであったので、今日でもリベラルの学者さえもウォーフィールドをよく引用している。聖書の無誤性については、その主題を勉強しようとする者なら誰でもウォーフィールドが書いたものを勉強しなければならないし、認めなければならないほどのものである。彼の書物は今でも出版されているし、私もよく彼の書物を読んだりしている。

       非常に素晴らしい神学者であった彼が、その一点において妥協してしまったために、福音派(広い意味で)全部に妥協の輪が拡がり、非常に悪い影響を与えている。そういうこともあって、二十世紀のクリスチャンは非常に弱いと言わなければならない。歴史の見方において、歴史を間違って解釈する側の攻撃に負けてしまい、歴史のストーリーの考え方が変わってしまったのである。そうなると、契約的に歴史全体を見ることができなくなってしまうのだ。契約的な見方ができなくなってしまった。そして、神の主権についての見方も非常に弱くなってしまった。葡萄酒は10%、水が90%というような歴史観になっている。

       聖書の年代学を水で薄めて進化論に余地を残すとき、私たちは単にキリスト教歴史観を弱めているのみならず、まさに福音そのものを歪めることになる。ちょうどアブラハムについて書かれてあることを正しく見ることなくして福音の真の理解が有り得ないのと同じように、アダムの文字通りの堕落、ノアの時代の文字通り地球規模の洪水、神の裁きとして起こったバベルの塔などを史実として信じることなしに真の福音理解は有り得ないのである。創世記の初めにある歴史は、福音の世界のキリスト教的理解にとっては不可欠な土台なのである。それは最も基本的な部分なのである。

       パウロがアダムとキリストの話をするときに、アダムが実際に歴史の中に生きていた人物でなければ、この話は全く成り立たないものとなる。特別に神の似姿に創造されて、私たちの契約の代表者であるアダム。非常に特別なものとして神の御前に、エデンの園の中で、アダムは私たちの代表として立っている。そういうことでなければ、ローマ人への手紙の5章の話は何一つ成り立たないことになる。それは無意味なものとなる。勿論、キリストの話の中にもノアの洪水の話は出て来るし、はっきり主イエス・キリスト御自身がそれを歴史的な事実として信じておられることがよく分かる。私たちは、その土台にはっきりと立って、はっきりと今の歴史観に対して反対しなければならないのだ。そして、聖書に従ってすべての歴史を考えなければならない。

       クリスチャンが福音をその完全な歴史的意義において信じて宣べ伝えないかぎり、教会は世界を変革するどころか、生き残ることすらほとんど不可能であろう。しかし、その源は、アダムについての話なのだ。それは譬え話なんかでは有り得ない。神は最初の人アダムを創造した。そのアダムが罪を犯したときに、私たちも皆アダムと一緒に罪ある者となったということは、いったいどういうことなのか。

    ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった...。

       これはどういう話なのか。その事を考えるわけだが、なぜ私たちは死ななければならないのか。それは、アダムのことから離れては説明できないことである。進化論であれば、例え毛深いアダムの話であるにしても、アダムが生まれる以前の何億年もの間にも、死の歴史というものがあるのだ。それも、私たちの先祖たちということになる。変な言葉を話す私たちの毛深い先祖たちが、ずっと死の歴史を積み上げてきたことになる。そこには、「アダムによって死がはいり...」というような話はないのだ。「神の主権」についての考え方も非常に薄っぺらいものになる。「アダムが罪を犯したことによって死がはいる」という話にはならない。もっと前にも死はあったし、アダム以前の私たちの“先祖たち”もずっと死んでいるという話になる。

       そこで、聖書から逸れて、これを神話的なものに解釈することになる。つまり、アダムによって死がはいるということは「死が罰という意味を持つようになった」という話になってしまうわけだ。「死は、生物学的な現象として以前からあったけれども、アダム以前には、生物学的な意味しかなかった。アダムが罪を犯したことによって、死は、生物学的な意味だけではなくなり、神学的な意味をも持つようになった」というような説明になる。そのような説明は、実に曖昧な二つの世界観を混ぜ合わせたような説明になる。

       また、そのような説明は、人の考え方、心、生活、態度などのすべてを根底から変えてしまうような土台には成り得ない。むしろ、左右の足を不安定な二つの足台に乗せて、それぞれの台が別の方向に動こうとするのを必死に抑えて両方のバランスをとろうとしているようなクリスチャンになるわけである。固い一つの岩の土台の上に立つことはできない。それが今の時代の福音派なのである。進化論の方にも一本の足で立ち、聖書にも一本の足を置いている。両方とも動いているので、なかなかバランスをとるのに苦慮している。自分の人生の70%が水の中に墜ちて溺れているような生き方になってしまっている。

       アダムの話は、神がエデンの園の中でアダムを創造し、アダムを契約の代表者として御自分の御前に立たせ、私たちの契約の頭としたということなのだ。それ故、アダムが犯してしまった罪は、アダムが代表しているすべての者に転嫁されるのである。あたかも私たちが罪を犯したのと同じこととして取り扱われるのである。これが契約の代表制度の意味である。代表の行為は、代表されている者たちすべてが同時に一緒に行なったと見做される。それで、アダムが神の御前で行なったことは、私たちも一緒に行なったこととして見做される。代表制度とはそういうものである。

       驚いてはいけない。これは私たちの毎日の生活の中にも一般的にみられることなのだ。例えば、もし奥村さんが、義君が生まれる前にフランスの国籍を取得したなら、奥さんも一緒にフランスの国籍を取ったとすれば、契約の代表者がそれをしたので、生まれてくる義君はフランス人として生まれてくることになるのだ。居住地や生まれた時期などにもよるが、通常は代表者が国籍を変えてしまうと、代表されている子どもたちも一緒について行くのが普通である。お父さんがしたことは、家族みんながしたと見做される。国家のリーダーたちが宣戦布告すれば、自分がそれに署名しているか否かと関係なく、敵の爆弾は私たちの頭上に落ちてくるのだ。問答無用である。

       代表者がしたことの責任は、代表されている者も一緒に負うものである。それは私たちの日々の生活の中にもある。しかし、この世には契約的な教えというものがないので、あまり代表者とか代表制度と言われても、よく考えてみないと理解できないかもしれない。なぜアダムが罪を犯したら、私たちも皆死ななければならないのか。それは、「なぜ国王が宣戦布告したら、私たちも死ななければならないのか」と問うのと基本的には同じことなのだ。父が「ここに住む」と言えば、家族みんなはそこに住まなければならない。会社のリーダーが何かを決めると、全社員は良い影響を受けたり悪い影響を受けたりする。リーダーがいれば、それは契約的なことになるのだ。

       会社の場合は“契約的”な組織ではないので、いつでも辞めることができるが、「アダムの裔をやめる」ということは出来ない。それは「人類をやめる」ことになるからである。しかし、「キリストを信じる者は、アダムをやめている」と言うことができる。アダムではなく、キリストを信じて、キリストを契約の代表として持つ者となったからである。それでも、アダムから受け継いだ肉体を持っており、この肉体は死ななければならない。アダムが犯した罪の影響から100%逃れることは不可能なのである。私たちは契約の代表者の罪にあって罪ある者となり、その代表者とともにその罪の罰を受けるのである。それが死である。

       パウロがそのことを契約において説明しているとき、ユダヤ人たちは、アダムについてもここまで明確に考えてはいなかったのである。しかし、そのようにアダムのことを説明されると、キリストの十字架の意味が、歴史全体の説明においてはっきり理解できるのである。人類の新しい契約の代表者がいなければ、救いはないということが明らかとなる。人類はそのままアダムの中に残ってしまうのだ。そのまま罪に支配される者で終わるのだ。正しさを完全に保つ契約の代表者がなければ、駄目なのだ。同時に、その罪を取り除くことができる契約の代表者がいなければ駄目なのである。十字架の死、神の御前でのキリストの完全な正しさがなければ、救いというものはない。そして、その一人が行なったことは、代表されたすべての者に転嫁されるのである。それが、契約の制度である。その契約の制度がなければ、救いはない。

       そういう意味でパウロは、主イエス・キリストとアダムのことをこのように説明することによって、私たちに深い歴史観を教えている。この歴史観は、クリスチャンになって間もない人にとっては革命的な影響を与える筈である。そして、こんど私たちが自分の子どもたちをこの進化論にまみれた社会にあって教えるときに、聖書の世界観を持って生きるようにと、アダムのところからはっきり教える必要がある。そして、聖書の年代学に従って教え育てなければならない。子どもたちは確固たるクリスチャンの歴史観を持って考えることができるように育てなければならない。

       しかし、この世界観をはっきりと持てば持つほどに、そしてこれを巧みに弁護できるようになればなるほど、憎まれ、反対されることになる。先程言ったテレビの番組だが、僅か10分のプログラムの中でクリスチャンではないニュース解説者たちは、憎しみを持ってクリスチャンのことについて話していた。彼らの反応の激しさは大切な事実を語っていると思う。つまり、「○○さんは宇宙人だ」と噂されても、喜びはしなくても、そんなに激しく怒って反対するような反応にはならない。笑って、無視すればいいことなのだ。もしクリスチャンの話していることが進化論者の語っているようなレベルの馬鹿げた話であれば、冗談と思って一笑に付せばいい。しかし、進化論に対するクリスチャンの批判は鋭くて深くて、進化論者たちは慌てている。

       「神を信じる。神が万物を創造した。神が全歴史を支配している。神に従わなければならない」というような歴史観を教えるならば、彼らにはとても耐えられない。それで、それを耳にすると、慌て、怒り、パリサイ人たちのようにこれを潰そうとするのである。今の時代にあって、「アダムは六千年前に生きていたことを信じる」と言うならば、ちょうどパウロとキリストが当時の世界観を覆すような教えをしているようなものである。説明が良ければ良いほど、許されないものとなる。子どもたちがそれを信じるように教えるなんて、彼らにとっては絶対に許されないことなのだ。

       結局これは神の主権、契約的な歴史観の話なのだ。神がすべてを支配しておられ、契約を通して歴史を支配しておられる。そのことを信じ、毎日の生活において神の契約を守り、たとえ試練を通してであっても神が祝福してくださるという確信を持って神の命令を守って生きるならば、それは今の世界に対して革命でもしているかのようなこととしてしか思われないはずである。実際に、クリスチャンはそのように思われている。しかし、事実、私たちの働きはそのような働きでなければならないのだ。パウロと同じ観点からアダムとキリストのことを見て、もっと広い深い意味で福音を信じて、それに基づいて考え、クリスチャンではない人々に伝えなければならない。そうすれば、教会はもっと力を持って成長することができるであろう。

       同時に、パリサイ人たちがキリストやパウロに反対したように、強く強く反対されることにもなるであろう。当然そうなるのだ。私たちはそのことをしっかりと認識して歩まなければならない者である。このローマ人への手紙5章のアダムとキリストに関する教えは、私たちにクリスチャンの世界観の根本的なことを教えている。そして、私たちに挑戦を投げかけるものでもある。これを本当に信じて歩むのか。これを本当に信じて子どもたちを教え、その信仰を持つように育てるのか。私たちも、このように、妥協せずに福音を伝えるのか。そこまで今の社会に逆らって歩むのか。そのようなチャレンジを私たちに与えるものである。

       「ローマ人への手紙の5章をこのように考えるときに、契約的な世界観というものを教えられる」と言ったけれども、その契約的な世界観の根本的なところは私たちと神との契約関係にある。私たちは、日曜日の礼拝のときにここに集い、聖餐式を受ける。それは、その契約を新たにするためである。アダムの子孫として私たちは罪の心を相続として持っている。事実、主イエス・キリストのものとなっても、私たちの心の中には罪が残っている。罪を悔い改めて、真剣に罪に対して戦って神との契約を毎週新たにする必要があるということを、私たちは深く感じている。それで、私たちは礼拝に集まり、神御自身を求めるのである。

       実際に全歴史を支配しておられ、私たちを取り扱ってくださり、私たちを祝福してくださる神を信じて、私たちは一緒に聖餐式を受けるものである。その時に、はっきりと真剣に罪の悔い改めを行なうことは準備として大切なことである。それ以上に、その罪を赦してくださった主イエス・キリストに対する感謝の心をもって聖餐式を受けることが実に大切なことなのだということを覚えて、黙祷をもって聖餐式の心の備えをしたいと思う。

     

    ――1999年10月31日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙5章9〜11節

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