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    ローマ人への手紙7章1〜6節


    7:1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。「「私は律法を知っている人々に言っているのです。

    7:2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。

    7:3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。

    7:4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。

    7:5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。

    7:6 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

    2000.03.12. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    律法からの自由

    7章1〜6節

       ローマ人への手紙7章は律法についての教えである。ここでパウロはモーセの律法(旧約聖書の律法)のことを指して話している。しかし、これは単純にモーセの律法とクリスチャンの律法との関係は何なのかという話でもない。新約聖書の中で、パウロはモーセの律法について何を教えているのか、そして、クリスチャンと神の律法との関係は何なのかについて学ぶとき、実はかなり難しいところもある。その関係は複雑なものであるために、ローマ人への手紙でもガラテヤ人への手紙でも、パウロはこの課題に深く入る必要があった。

       当然ながら、注解者らの間では意見が違ったりしている。そのような点に気を付けながら、この箇所の教えについて考えたいと思う。パウロの教えの文脈では、律法があたかも悪いものであるかのように、或いは、少なくともそこから解放されることが喜ばしいことであるかのように、読む人には否定的に見られがちである。それがパウロの教えの一面であるのは確かである。しかし、パウロの言わんとする意味を正しく理解する必要がある。パウロは無律法主義者ではない。パウロの教えの意味するところは、「私たちは新約のクリスチャンとなるべきであって、義を教える律法などはもう必要ない」ということでは決してないのである。

     

    律法に関する三つの要点

       今私たちは、地域教会の特徴としてモーセの律法に書いてある倫理の教えを広く考え、広く適用したいと願っているところである。勿論、3500年前に書かれた律法を単純に現代の社会に適用しようというわけではない。しかし、そこに書いてある倫理の教えは今も昔も変わらないものである。神の義しさは永遠に変わらないからである。そこから正しい倫理を学び取って、現代の社会にあってどう生きるべきかなどについて考えることはクリスチャンにとって非常に大切なことである。

       そこで、パウロが律法について教えている諸々の箇所に目を留めるとき、特に三つのことをよく踏まえて律法について書いてある箇所を見なければならない。パウロの律法に関する教えが否定的に聞こえる理由を理解するには、パウロの教えに表れる律法に関する三つの視点の区別を認識する必要がある。パウロの律法観には他にも重要な課題があるが、この三点は、彼の律法に関する否定的発言と見受けられる事柄に洞察を与えている。

       第一に、ある意味ですべての人間は律法の下にあると言える。神の律法は「アダムにある」異邦人の上にある。これはローマ人への手紙5章にも出て来たし、2章と3章でも、人間は異邦人もユダヤ人もみな罪人だということをパウロは律法を通して説明している。ある意味で、すべての人間は律法の下にある。そして、律法の下にある状態は、アダムの下にあるのであって、クリスチャンではない状態のことである。考えてみればそれは当然のことなのだ。つまり、すべての人間は神によって創造されたならば、神のみが絶対者である。神は宇宙の絶対者であり、王であり、主権者である。すべての人間は王なる神に対して責任あるものである。神の命令を守る責任は、すべての人間に与えられており、人間には神を求める責任がある。天の父なる神の愛を認めて、その愛を喜び、神の命令に従って歩む責任がある。

       しかし、罪人は神に逆らうものだということをパウロは1章のところから説明している。アダムの堕落以来、全世界はアダムの下にあり、肉の思いをもって神に逆らいながら生きている。「律法の下にある」とは、その罪人の状態を指すものだということを既に説明した。それは忘れてはならない一つのポイントである。すべての人間は、創造主である王なる神の下にあるので、律法の下にある者である。人間はアダムにあって堕落して罪人となり、神から離れている。そのことを、即ち「律法の下にある者はみな罪人である」ということを、パウロは7章7節から13節のところで更に説明している。律法の本当の意味がわかるときに、人は罪を深く感じるものだということを説明している。

       第二の見方は、ユダヤ主義者たちは、モーセの律法を「行ないによる義認」という方法で変質させるというその歪曲のゆえに、自らを「律法の下に」置いたというものである。パウロ自身、クリスチャンになる前はキリストを信じないユダヤ人であった。変な言い方と思うだろうが、パウロは本当の信仰をまだ持っていないユダヤ人で、律法主義者であった。そのパウロが、律法主義者についても取り扱っている。ギリシャ語には単純に“律法主義者”という単語はない。だから、パウロは、“律法主義者”を取り扱うときに「律法」という言葉を用いて律法主義者たちを取り扱っている。本当は、日本語でも「律法主義者」という言葉はないのではないかと思う。

       パウロは、「律法主義者」という専門用語を造って、それに定義を与えてからその言葉で律法主義者を取り扱うようなことはしていない。パウロは、律法について話している中で、自分もそうであったところの律法主義者の問題を取り扱うのである。ピリピ人への手紙3章でパウロは、主イエス・キリストを信じる前の自分は律法を行なうことによって義を求めていたと言っている。それで、パウロが手紙の中で律法について話すとき、本当の信仰を持っていないユダヤ人について話す部分がある。そこでは、パウロは律法主義者の問題を取り扱っている。神の律法は、人の心をキリストに向けさせるために与えられたが、律法主義者らはそれを甚だしく曲げるのである。この律法主義者の問題と、先に話した「すべての人は律法の下にある」ということ、この二つのポイントは部分的にオーバーラップしている。

       どういうことかというと、私たちは自然に律法主義者のように考えてしまうものだ、ということである。私の高校時代では、大学受験のときにトップ集団に入ろうとして皆で競争したものだった。トップの何パーセントに入るかの競争であった。それで、私は、神の御国に入ることについても同じように考えていた。自分はそれほど悪くはないのだから、トップの25パーセントには入れるはずだと思った。どんな事があろうと、自分は少なくともトップ25パーセントには必ず入ると思った。「自分の程度であれば、天国に入れるに違いない」と思ったりしていた。良い行ないと罪の両方を量りにかけて、良い行ないの方が罪よりも重いのだから、きっと通るだろうと、自分について考えたものだ。実は、それが律法主義的な考えなのである。簡単に言えば、それがパリサイ人と同じ思いなのだ。

       パリサイ人の方が私たちよりももっと真剣に義と認められることを求めていたと言っても過言ではない。「自分の行ないによって自分は神の御前に受け入れられるに違いない」と、自然に無意識のうちにも私たちは思ってしまうものなのだ。罪を非常に軽く考えているのである。自分の善行をことのほか重く考える傾向が私たちの心の中にある。他人が自分に対して行なった罪は決して忘れないが、自分が他人に対して犯した罪はすぐに忘れてしまいがちではないか。神に対してもそうである。神に対して罪を犯したという深い思いは私たちの中にはない。それ故、7節のところでパウロは、「律法が来たときに、私は罪を知った」と言っているのだ。

       律法主義者は、パリサイ人のようにモーセの律法を表面的にしか見ようとしない。即ち、「盗むなかれ、姦淫することなかれ、殺すなかれ、偽証してはならないとあるが、自分は盗んでもいないし、姦淫もしていない。殺しもしたことないし、嘘もついていない。だから、私は大丈夫だ」とパリサイ人は考えていた。「安息日を守りなさい」と言えば、「そんなこと私はちゃんと守っているから、大丈夫」と自分について考える。しかし、主イエス・キリストが来てイスラエルの民にモーセの律法の本当の意味を教えるときに、主イエスは「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」と教えている。

       心で憎むなら、それはもう殺人の罪を犯したのだとキリストは教えたのである。正しくない怒りは「殺すな」という命令を破るものである。キリストは、モーセの律法の表面的な軽いところだけではなく、律法の深いところについて教えているのである。その教えは新しい教えではない。その教えはもともとモーセの律法の意味の中に既に含まれていたものなのである。キリストが来てはじめてそういう意味になったわけではない。パウロはここで、モーセの律法の十番目の「むさぼるな」という戒めを引用している。なぜそれを引用したのか。その理由は、この十番目の命令は、モーセの律法の心を最も表わす命令であるからだ。

       例えば、イスラムの倫理の教えでは「心はどうでもよい」と教えている。「心の動機がどうなのか、どういう思いを持っているのか、どういう目的なのかなどは関係ないことだ」と言う。「大切なのは行ないである」とはっきり教えている。心の中まで正しくするように要求することはできないとイスラム教は考えている。本当にそうならば、確かに「大丈夫だ」ということになる。それは昔のパリサイ人や律法学者たちと同じ考え方なのだ。心の状態を見もしないならば、誰でも簡単に表面的に神の律法を守ることによって神の法廷で「正しい者」として認められるであろう。

       キリストの教えはそのようなものではない。一番大切な命令は、「心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい」である。二番目に大切な命令は、「隣人を自分と同じように愛しなさいである。心が問題なのである。心を尽くしてそうするのである。私たちの心の状態を正しくするように要求する律法の前に立つとき、私たちは自分が罪人であることを認めざるを得ない。パリサイ人たちはそのところを忘れて歩んでいる。そのことを考えずに生きている。それで、パリサイ人たちは表面的に行なうことによって「自分は大丈夫」と思い込んでいるのである。それは普通の人間の考え方と同じようなものである。それで、その二つの見方は混ぜ合わされたり、また時によって区別されることもある。

       律法についての三番目の見方がある。ここでパウロは、「古い契約と新しい契約の違い」を説明しなければならなかったのである。モーセの律法を文字通り今の時代に適用して、それをモーセの時代と同じようにして守るものではない。そのことをパウロは説明しなければならない。なぜなら、実際に教会の中には「モーセの律法を守らなければ救われない」と教える人が出て来たからである。そこで、モーセの律法とクリスチャンの関係は何なのかということを説明する必要があった。古い契約と新しい契約の違いを説明しなければならないのである。その説明は、第一のポイント及び第二のポイントとはかなり違うものである。ポイントとしては違うけれども、最初の二つのポイントと係わっており、重複している部分もある。

       どういう点が重複しているのかというと、ガラテヤ人への手紙4章1節を見てほしい。「ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わない」とパウロは言っている。堕落の時からキリストの来臨の時までの古い契約の時代は子どもの時代であったとパウロは言っている。救いの約束の時はまだ来ていなかったので、神の民は、奴隷として扱われるのとあまり変わらない「子どもとしての扱い」を受けたのである。昔のイスラエルは子どもの状態なので、「奴隷の状態にある」という言い方もできるわけである。歴史における神の御計画全体の中においてイスラエルは未熟な状態にあったので、モーセの律法は子どもに対する律法であった。これが律法に関する三つ目の見方である。それが第一と第二のポイントとの違う点である。律法は、子どもに対する神の命令と教えであった。

       しかし、そこから似ている側面も出て来る。つまり、子どもであるイスラエルには、肉の契約の律法主義者のような足らない部分があったのだ。全体としてかなり未熟であった。そういう意味では、モーセの律法は未熟な者のための戒めであった。モーセの律法は、古い契約の時代における神の命令の最高の啓示として、イスラエルの子らを、ある観点から見れば祝福と特権の立場に、別な観点から見れば奴隷のような立場(子どもの立場)に置いたのである。律法はイスラエルに、どこに住み、何を着て、何を食べるかを定めた。律法には、あらゆる種類の日常的な事柄に関する詳細な教えが含まれている。彼らは自分で事柄を決めたり、問題を知恵をもって考え抜くにはまだ未熟すぎる、神の子どもであったのだ。御霊の祝福がゼロだったわけではないが、旧約聖書の時代はまだ全的な御霊の祝福は与えられていない時代であった。

       律法について語る時、新約聖書には以上の三つの見方があることをまず覚える必要がある。これら三つの律法に関する見方は互いに重複している。三つの見方とも「古い契約をどのように考えるのか」という点にしぼられている。そこから、「異邦人についてどう考えるのか。ユダヤ人についてどう考えるべきか。そして、本当の信仰を持っている者と本当の信仰を持っていない者の区別をどう考えるのか」という話になるわけである。この三つの状態の見方というものがすべてパウロの手紙の中に出て来ている。古い契約は新しい契約とは違うものである。それは未熟な時代のための教えである。また、その中には律法主義者とクリスチャンの違いもある。更に、異邦人が律法の下にある状態、即ちクリスチャンではない人が生まれながらにして律法の下にある状態と、クリスチャンになってもはや律法の下にではなく、御霊の祝福が与えられた恵みの下にある状態がある。

       この三つの状態ともみな古い契約の中に含まれていると言うこともできる。エデンの園から追放された後に、アダムに与えられた契約が新たにされて、いけにえ制度などが与えられ、ノアの時代にも、アブラハムの時代にも、モーセの時代にも、ダビデの時代にも、バビロン捕囚から戻ってきた時代にも、その前の契約は新たにされたのである。だから、一つの契約が、何度も新たにされていく中で、啓示もより広くそして明確なものになっていった。約束のメシアが来られた今、特別に子どものために創られた契約であるモーセ律法は降ろされるべき重荷なのである。御霊が来られ、神の民はいまや成長した大人の息子となったのだ。

       古い契約と新しい契約の違いを考えるとき、私たちは古い契約をその三つの観点から考えなければならないのである。最初の二つは、はっきりとしたかたちで重複している。神を知らない異邦人は、神の御前では神の真理を拒んだユダヤ人と本質的に同じ立場にある。アダムにあって、人類は神に背を向け、罪に堕ちた。しかし、だからと言って、人間は神の被造物ではなくなったというわけではない。それと同様に、たとえ人間がエデンの園で惜しげなく与えられていた祝福を拒んだからと言って、彼らは――キリストの外にある人間が試みることだが――神の支配を逃れて自分たちの新しい世界を創ることができるわけではないのである。従って、彼らは神の律法の下にいる。律法は義しさを定義し、人間が従うよう、また神の裁きに直面するよう要求する。

       異邦人の中には、道徳的に良い人間であると主張することによって自らを正当化しようと試みる者もいる。ユダヤ人律法主義者は、神の律法を守ったと主張することによって自らの正当化を試みる。両者とも、神の御座の前では、神の律法によって、罪人として裁かれる立場にある。これら三つの異なった、しかも互いに関連している神の律法の諸側面を念頭に置くことは、ローマ書におけるパウロの教えを正しく理解し、また神の律法を自分自身に正しく適用する助けとなろう。

       律法に関するパウロの教えは、ただ単に否定的なものではないからである。律法は今でも適用すべきものである。しかしそれは、私たちがあたかも異邦人や律法主義者のように「律法の下」にいるかのように、また私たちがまだ規則によって制限される必要のある子どもであるかのようにではない。今や律法は、天の御父を理解することを助ける知恵のある教えの源なのである。御父を理解することによって、私たちは大人として成長した神の子どもとして、生涯の歩みの中で正しい決断を下すことができるのである。

     

    解放される

       そこでパウロは、この7章1節から、広い観点から、そして簡単なポイントを説明している。「クリスチャンと律法の関係は何なのか」ということをパウロは説明する。6章14節で、「あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にある」と言っている。これは、異邦人とユダヤ人の両方がいて、その殆どは異邦人であったローマ教会に対して書いた手紙で語っていることである。これは三つのうちの第一の見方から書いていると思う。5章から説明が始まっているが、私たちはアダムにあって律法の下にある者だったが、キリストを信じる信仰によって、今や神の律法の下にではなく恵みの下にある者となった。その「律法の下にあるのではない」とはいったいどういう意味なのかを、別の観点からもっと深く説明するのが7章からの話である。「律法について更に考えてみよう」ということなのだ。

    それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。私は律法を知っている人々に言っているのです。

       「律法を知っている人々に言っているのです」とあるのは、異邦人であっても教会に来ている人たちはみな律法を知っていたからである。旧約聖書のモーセの律法を彼らは知っている。彼らには私たちが言う旧約聖書しかなかったが、確かに聖書を持っていた。モーセの律法には何が教えられているのかを、ある程度は知っている人たちであった。そして、パウロは彼らが十分に知っているはずのモーセ律法について話そうとしている。パウロは彼らに言う。「律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ」と。

       「盗むな、殺すな、姦淫するな」等は、この世に生きている人間のための命令である。死んだ後は、やがて神の御前に立って裁きを受けるが、その最後の審判において「殺すな、盗むな、姦淫するな」等の命令は別な意味を持つものとなる。それはこの世に生きているときの生き方に対する命令ではなくなり、報いの話となるのである。最後の裁きの後には、「殺すな、盗むな」などの命令はもはやない。御国には殺す相手もいなければ、盗む者もいない。今そのことを説明はしないが、意味をしっかりとらえてほしい。その律法の命令は、人が生きている間に権限を持つものなのだ。その原則のところをパウロは1節で説明する。2節と3節では、そのポイントを一つの譬えを通して話している。

       このローマ書7章の最初の部分はアレゴリー (比喩)としてよく解釈されている。つまり、まるで妻が律法、またはクリスチャン、或いは新しい自分の比喩であり、夫はクリスチャンまたは律法、或いは古い自分の比喩であるというような解釈をするわけだが、これは「教会が妻で律法が夫」とかいうような話ではない。これは純粋に譬えである。この箇所から一貫したアレゴリーを見出そうという様々な試みはことごとく失敗する。その理由は簡単だ。パウロは、律法についてのアレゴリーを書いているのではないからである。彼は単に、キリスト者と律法についての要点を結婚に関する律法から描写しているに過ぎない。この箇所をアレゴリーとして理解しようとすることをやめれば、解釈は明白になるのである。

       律法は人が生きている間にのみ権限を持つものであることを、結婚という譬えをもって説明しているのである。「妻はこの象徴で、夫はあの象徴だ」というような話ではない。そのように寓話的或いは比喩的にこれを解釈しようとすれば、全部狂ってしまうことになる。昔、実際にそのように解釈する人たちがいて変な話になってしまった例も実際にある。この話はそのようなものではない。1節のポイントを譬えを通して話しているだけなのである。その譬えを結婚に関する律法から説明している。なぜなら、パウロ自身が後に述べているように (15章14節)、ローマの教会の異邦人でさえ聖書についてはよく教育されていたので、この定めをよく知っていたからである。

    夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。

       つまり、結婚関係は死ぬ日までの関係だ、ということである。死ねば、その結婚関係の律法から解放される。自分の夫が死んだなら、再婚することができる。ポイントは、「生きている間にのみ権限がある」ということである。結婚関係で譬えるなら、一人が死んだら、その結婚はそこで終るのである。その結婚関係が死によって終わったなら、もう一度結婚することが許される。これは、「あなたがたも知っていることである」と1節で話しているポイントの簡単な譬えなのである。律法は生きている間にのみ権限があり、死ねばその権限はもうない。モーセ律法において、結婚関係は肉体の死と共に終わる。

       古代世界の全ての宗教が結婚をこのように理解していたわけではない。しかし、モーセ律法は明確なのだ。もし女の夫が、ルツの夫のように死んだなら、彼女は他の人と自由に結婚することができる。しかし、彼女が自分の夫が生きている間に他の男と結婚しようとすれば、姦淫の女となるのである。要点は簡単である。ただ死のみが結婚の契約を終わらせるのである。この簡単ではっきりしたポイントは、次の4節において別の次元に適用されている。

    私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。

       先に話した三つのポイントに戻るが、私たちはユダヤ人ではないので二番目の「ユダヤ人の律法主義」は私たちには適用されないが、「古い契約」そして「すべての人間は律法の下にある」という点が、私たちにも係わってくる。アダムにある者として神の律法の前に立つという契約関係においては、私たちは既に死んだのである。アダムの子孫として私たちはこの世に生まれ、アダムにあって神の律法の前に立っていた。その意味で、神との契約関係はアダムにある関係であった。そのアダムにある自分が、キリストとともに十字架上で死んだので、その契約関係は終わったのである。神の御前に立つ私たちの立場は、もうアダムにある立場ではなくなった。「キリストとともに十字架上で死んだ」という意味はそういうことなのである。

       主イエス・キリストは、十字架上で死んでくださっただけでなく、三日後に復活されて天に昇られたのである。その復活したキリストと一つとなって、キリストとともによみがえって、新しい人生を送る者となったのである。キリストとともによみがえることにおいて、私たちは自分に与えられた御霊の新しい力を持った全く新しい契約の下にいる新しい人となった。こうして私たちは、神の御名のために実を結ぶことができる立場に回復されたのである。そのような実を結ぶことは神がアダムに与えられた最初の命令であった。上におられる御方と結婚したそのキリストにある新しい人類には、神の御国を建てる霊的な力が与えられる。それゆえ、私たち(教会)は、ただ単に律法の文字に従う子どもや奴隷のようにではなく、いまや大人となった神の息子として、またキリストの花嫁として、聖霊によって、御心を行なう天からの力をもって神に仕えるのである。

       さらに、御霊の賜物は、神の律法のより深い理解を与え、それゆえ、単なる律法の文字ではなく、その真の霊的意味が私たちの求めるところとなるのである。アダムにある古い自分は十字架の上で死に、キリストにある新しい自分が生まれたのである。キリストを信じることによって、古い自分を捨てて、新しい自分に生まれ変わった。換言すれば「心が変わった」のである。心が根本的に変えられたのである。神を求めず、神を無視して、神から離れて生きる生活は葬られて、神を求め、神を愛し、神の御名のために実を結ぶ生活をする者に変えられたのである。そこに心と生活の根本的な変化がある。

       それ故、律法の関係をクリスチャンの観点から考えるとき、まず「私はアダムにある者ではなくなった。律法の下にある者ではなくなった」ということをしっかり認識するようにパウロは強調をもって教えている。律法主義者ユダヤ人の関係、そして異邦人のアダムにある関係、そのどちらも結局のところ律法主義者的な関係になる。「良い行ないをすることによって」という点でその二つは重複している。そのような、「良い行ないをすることによって神に受け入れられる」とか「何かを行なうことによって神の愛が得られる」というような律法主義的な関係は、もう「死んだ」のである。「これとこれをすれば救われる」というものではなく、神の愛を信じて受け入れ、新しく生まれ、感謝と喜びをもって神のために実を結ぶように求めて生きる者に生まれ変わったのである。その違いをここでパウロは説明している。

       クリスチャンと律法の関係について、パウロは更に深いところにメスを入れている。「律法の下にではなく、恵みの下にある」ということを6章で話したので、そのことをもっと説明する必要があったからである。律法が全く関係ないものとなったわけではないということもパウロは説明していく。しかし、基本的に神との関係は律法的な関係ではないのだ。「律法的な関係」とは、律法に定められた良い行ないを行なうことによって神に受け入れられることを求めるような関係を言う。「肉の思い」とはそのようなものであり、異邦人もユダヤ人も自然とそのような律法主義的な思いを持ってしまう傾向がある。そこから解放されなければならないが、人はいかにしてその拘束から自由にされ得るのだろうか。罪人は、どのようにして律法の関係から解放されるのだろうか。その答えは「」である。

       結婚関係が「」で終わるのと同様に、私たちの律法への拘束も、「」をもって終わるのだ。それは、「」によって罪人は律法の罰を受けるからである。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、非キリスト者が律法の下にいるという意味だけでなく、ユダヤ人がモーセ契約の下にあったという意味でも「律法の下」という表現によって表わされた関係の終わりを「」はもたらすのである。何度も話したように、キリストの死は、あらゆる意味において人間を神の律法から解放したのである。キリストの死が私たちの罪を取り去ったからである。

       ここでパウロは、生きている私たちに対して話している。生きているけれども、実は主イエス・キリストが十字架上で死んでくださったときに、私たちもキリストとともに死んだのである。キリストとともに死んだので、キリストの死によって私たちは律法に対しては死んだのである。そのことを理解するときに、クリスチャンの状態は複雑なものとなる。ある意味では死んだ者なので、律法に対しての責任はもはやない。しかし「律法に対する責任はない」と言うとき、「罪を犯してもよい」ということにはならない。

       パウロは主イエス・キリストを信じることの意味を簡単に説明しているのである。キリストを信じるということは、古い自分に死に、よみがえって新しいいのちが与えられることである。キリストを信じる者にはその根本的な心の変化が与えられる。死んでよみがえって全くの別人となる。新しいいのちがどのように与えられ、律法に対する死がどのように与えられるのかを、パウロは1章からずっと詳しく説明してきている。「信仰のみによって救われる」とパウロは言う。信じて、新しく生まれる。信じて、心が変わる。それ故、救いは100パーセント神の御恵みによるのだと、パウロは説明している。

       自力と他力の考えがあることはよく知られているが、クリスチャンではない宗教は基本的に「自力」の信仰である。「自力」の信仰では、例えば、ただある場所に行きさえすれば救われるというようなことがあるが、その場所に行く行為そのものが大切なのだ。しかし、ある場所に行くという行為はさほどすばらしい行為とは言えないのは、考えてみれば誰にでもわかることである。ローマに行くとか、エルサレムに行くとか、ガンジス川に入るとか、それによって世界が救われたり罪人が救われるわけではない。それは人を救うようなすばらしい行ないではないが、宗教にとっては大切な行為なのである。巡礼の旅をするとか、いろいろな儀式を行なうことはそれらの宗教にはとても大切なことなのだ。「この儀式を行なえば救われる」と考えてしまう。それはみな、自分の行ないによって救われるという自力の信仰である。

       場合によっては火の中で踊らなければならなかったりする。献金や献納によって救われるという考えもある。供養によって救われるとか、とにかく救いは自分の何かの行ないによるものであり、自分の何かの行為があって救われるというものである。“宗教”となると、人はみなこのような考えに陥る傾向があるのだ。例えば、他人を助けることによって自分が救われるという世俗的な宗教もある。「私は沢山の人を救ったのだから、私は救われるに違いない」と思うのである。それらはすべて「自力」の話である。

       しかし聖書は、自力は成り立たない、自力による救いはないことをはっきりと教えている。そのことをパウロはずっとこのローマ人への手紙で説明している。なぜなら、神が私たちの行ないを裁くとき、表面的なところを裁くだけでなく、動機も目的も、心の奥底のすべてのことを一点残らず裁くからである。隠しおおせることは一つもない。私たちの心の中には複雑で汚れた思いがいつもあったりするが、その心の行ないは表面には表れない。表面的に見て善良で素晴らしい人間であっても、その心を神の御前にさらけ出すとき、神は単純にそれを喜ぶことはできない。神は、完全な義なる裁きを下したもうのである。誰でも自分の行ないを正直に十分な深みに至るまで認めるならば、その行ないによって救われることなど決してないことを悟る筈である。「自力」は成り立たないのである。

       ヒンドゥー教は自力の宗教であることはよく知られている。カースト制度という階級制度があって、低いカーストにある者は懸命に自分のカーストの定めを守ることによって、次に生まれてくるときにはもっと高いカーストの者として生まれると信じている。それを繰り返して行くうちに、いつかは最も高いカーストに生まれ、そこでまたしっかり定めを守れば、次には“神”として生まれる。それが牛であったり象であったりする。そこでもまた成功すると消えてしまうのだと信じている。「最高の行き着くところは消滅」というような話になる。存在とは無関係な救いになるわけである。

       紀元一世紀に、使徒トマスというキリストの弟子がインドまで行って福音を伝えた。トマスの宣教はインドでヒンドゥー教に対しても仏教に対しても非常に大きな影響を与え、変化を与えることとなった。トマスによって初めて「他力」という概念を彼らは持ったのである。「他力」という言い方はちょっとおかしいけれども、トマスが教えたのは「恵みによる救い」であった。神が、賜物として救いを与えてくださるという聖書の教えである。トマスがインドに行ってその「恵みによる救い」の福音を伝えたことによって、後に書かれたヒンドゥー教のバガダギカが“愛”という言葉を初めて使ったりした。

       また、もともと小乗仏教しかなかった仏教にも影響を与えて、「他力」を教える大乗仏教が生まれた。大乗仏教はキリストの「恵み」の思想を借りて「他力」という概念を仏教に取り入れ、「念仏さえ唱えれば救われる」というような信仰を持つに至った。それが中国に入って広がり、最終的に弘法大師らによって日本にも入って来た。その「他力」信仰の源となった「恵みによる救い」は聖書にしかない教えであって、この世の宗教とは根本的に違うものなのである。この世の宗教がたとえそれを借りて自分のものにするとしても、その本質を曲げて用いているだけである。

       アメリカの普通のリベラルの教会は“大丈夫教”を信じている。つまり、何でもかんでも「大丈夫」なのだ。「とにかく救われる。すべての人間は救われる」と信じている。「サタンも救われる」とさえ信じている人がいる。「救われない者が存在するなんてことは有り得ない。だから、親切でありなさい」という考え方がある。そこで「親切」がどのように係わってくるのか、まったく頭をかしげてしまうが、「とにかくあなたは救われます。何も心配しなくてよい。皆が救われるのだから」という方向に行くのである。昔の異教の宗教の中にはそのような考え方はない。それは曲がったキリスト教から出て来た考えである。「恵み」についての曲がった解釈によって、曲がった方向に行ってしまっているのである。

       聖書の中の神の裁きは、100パーセント正しくて、100パーセント義の裁きであり、完全な聖なる裁きである。主イエス・キリストが私たちのために十字架上で死んで、よみがえってくださった、そのキリストを信じる信仰によってのみ私たちは救われるのである。キリストを信じる者は、キリストとともに死んで、キリストとともによみがえった。それで、律法の要求の下で「これを行なえば救われる」というような自力みたいなところから救われたのである。そして、救いは100パーセント神から賜物として与えられたことを知っているので、私たちはその愛に対して応答し、感謝と愛を持って神に従って歩むのである。

       それだから、「神の栄光のために実を結ぶ者となる」とはどういうことなのかを創世記の2章に戻って考えなければならない。6章の終りでも学んだが、神が人間を創造したとき、神は人間に実を結ぶように命令を与えられた。既に説明したように、「実を結ぶ」というのは、人間の最初からの目的なのである。神はアダムとエバを、神の御名の栄光のために実を結ぶものとして創造してくださった。その元々与えられていた目的を果たすように私たちは救われたのである。目的も無しに救われたのではない。はっきりと救われた目的がある。救われた私たちは、実を結ぶことの意味をよくよく考えなければならない。

       神は人類を男と女に造られた。二人は夫婦として創造されたのである。大勢の男女を造っていつか気が合う者同士が結婚するようには造られなかった。二人だけを、夫婦として創造し、二人に明確な命令をお与えになった。子孫を産んで全世界を満たすように命じられ、「全世界の可能性を実現させなさい」というのが人類に対する神の命令であった。土の中に金銀や宝石を創造したのも、それを発展させて神の栄光を求めるためのものであった。簡単に言えばそういうものであった。神は六日間働いて万物を創造し、七日目に休まれた。それ故、私たちも六日間働いて一日休むということをしている。そこには非常に大切な意味が含まれている。つまり、神はすべてのものを完全ではあるが未熟な状態に創造し、それを人類の支配に任せたのである。人類は神の似姿であり、神の創造なさった物を神の御言葉に従って完成させていくという責任が人類に与えられている。

       それ故、世界は、小さなエデンの園から始まって最終的には大都市になる。それはいわば“田園都市”のようなものである。昔のバビロンのように、離れたところから見れば美しい庭園のように見えるが、近づいて見ると中は巨大な都市である。私たちの大都市のイメージはセメントやコンクリートとアスファルトばかりで木々もないようなイメージになるかもしれないが、そのようなものではない。至る所に金銀宝石がちりばめられ、木々や草花が生い茂り、美しい川が流れている。新しいエルサレムはそのようなイメージの大都市である。それが歴史の結論なのだ。私たちは今その途中の所にいるが、人類全体が神を愛し隣人を愛し、この世に隠された可能性を実現するように働き、最終的に神の栄光を表わすようにすべての被造物を用いて働く者なのである。その神の歴史計画が完成されたところで、永遠の天国は始まる。

       現在の地球の可能性には限界があるのは確かであるし、その限界は想像以上に大きなものであるのも事実である。しかし、私たちに与えられている働きは、神の御国を築き上げていく働きである。その「私たち」とは人類のことである。神の御国のために実を結ぶとは、神を信じ、神の栄光のために働くことである。神を信じる私たちの人生は、神の御名のために生きる人生となった。クリスチャンではない人たちも、結局のところ神の御国のために働いていることになる。そのことを求めていなくても、考えてもいないとしても、神に逆らうとしても、最終的に彼らの存在も神の栄光を表わすことになる。

       神の御国のために働く者となったことについて説明するとき、パウロは、狭く自分の心の状態がどうのこうのという話をしてはいない。教会のために働くことだけの話でもない。もっと広い意味でそのことを考えている。エデンの園に戻って、神が最初の人間であるアダムとエバにどのような使命を与えてくださったのかというところに戻ってその表現を考えなくてはならない。そして、神の御名のために実を結ぶということは、最終的に新しいエルサレムの実現をこの歴史の中において求めることである。私たちがそのためにできる働きは確かに微小なものかもしれない。けれども、多くの人々の小さいけれども忠実な働きによって大きな結果になるのは言うまでもない。

       譬えとしてはあまりよくないかもしれないが、地震の後の映像をテレビで見ると、がれきの中で片づけをしている被災者たちの姿が映る。手の着けようもないがれき山の中で、2〜3人の人々が石を動かしたり、焼け跡の中で焼け跡の片づけをしている。気が遠くなるほど大変な作業である。「いったい片づくのだろうか。どうなるんだろうか」と、見る者は心に痛みを覚えるものだ。しかし、昨年、神戸に行ってみると、もう奇麗に片づけられていた。あれだけの災害があったことが嘘のようであった。たくさんの人が、毎日々々小さな働きを熱心に続けた結果である。個々の小さな働きが重なって途方もない大きな実を結ぶのである。それと同じように、アダムとエバは罪を犯すことによって人類全体を包み込むほどの“震災”をもたらしたが、それを片づけて新しい世界を築いていく働きが私たち一人ひとりに与えられている。神の御国のために実を結ぶとは、そのようなビジョンを持って確実な一歩一歩を歩むことなのだ。

       私たちは、律法に対して死んで新しく生まれたのである。「新しく生まれた」ということを話すとき、パウロは「御国のビジョン」を出してきている。そして「このために生きているのだ」ということを私たちに自覚させようとしている。「神のために実を結ぶ」ということは、実に広くて大きなビジョンなのである。肉体から離れて雲の上に昇っていわゆる“霊的な者”になるというような話ではない。実際にこの世の中で実を結んで神の御国の建設のための具体的な働きを積極的に実践するという話なのである。私たちは、そのために救われた。恵みによって。そのことをパウロは言おうとしている。

       それ故、私たちは自分について考えるとき、自分は神のために何をしているのかを真剣に吟味しなければならない。どのように、そして、どんな実を結んでいるのか。神の御国のためにもっとよい働きができるだろうか。何ができるだろうか。どのように働くことができるのか。自分ができる働きがちっぽけすぎてがっかりしたりやめようとしたりしてはならない。たとえ小さな働きしかできないにしても、たくさんの人が一つのビジョンをもって忠実に働くならば必ず大きな実を結ぶことになる。小さな教会の忠実な働きがたくさんあれば、大きな結果をもたらすのである。もちろん、その働きにおいて、真剣に祈るという働きも非常に重要な働きである。

       そのようにパウロは私たちに、「律法に対して死んで、神に対して生きている者である」ということを認識させ、実を結ぶように励ましているのである。7章5節で「肉にあったとき」とは、クリスチャンになる前の状態を指している。

    私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

       「古い文字」とは、ただ律法に書いてあることを表面的に守っているかいないかというパリサイ人的な考え方を指している。「肉にあったとき」というのは古い自分のことである。ローマ教会の場合、ほとんどが異邦人でクリスチャンになった人たちなのだから、モーセ律法の文字に従うというような律法主義的な関係を持ったことはない。しかし、モーセの律法の下にある律法主義的なユダヤ人と異邦人の立場は、神の御前にあっては同じものである。どちらも律法の下にある関係である。それで、「律法による数々の罪の欲情」についてパウロは話す。すなわち、律法に「してはならない」と書かれてあると、人はその罪を知るようになる。いや、「その罪を犯していることに気が付かせられる」と言う方が正しいだろう。

       子どもに、「それを触っちゃだめ」と言えば、必ず子どもはそれを触りたくなるのと似ている。そのような“子どもの欲情”が私たちの中にもある。レベルは違っても、同じようなものが私たちの中にある。律法の命じることに対して罪人は自然とそのように反応するのである。そのことをパウロは7節からのところで説明している。もうそのような古い律法主義的な肉の思いによる関係ではなくて、御霊に満たされているので、こんどは御国のために仕えることができるのである。神がアダムとエバに与えた御国の働きを、罪から贖われた私たちはもう一度できるようになる。

       古い創造から離れた者となって、御霊によって新しく創造されて、御霊に満ちて復活のいのちをもって新しいエルサレムのために働くことができるのである。最終的に私たちは新しいエルサレムを求めて働く者なのである。この世の中で働き、この世の中で実を結ぶということは、最終的に新しいエルサレムの話なのである。この世の中のエルサレムではない。シカゴでも東京でもない。最終的な働きは新しいエルサレムであるが、それは具体的に歴史の中にある働きなのだ。この世にあって、歴史の中にあって、私たちは新しい御霊によって仕えているのである。

       そのように、律法の肉的な思いや律法主義的な関係ではなくて、御霊に満ちて神の御国のために実を結ぶ者となった。それがクリスチャンなのだと、パウロはここで説明している。7章に入って、そのクリスチャンと律法の関係について説明している。律法の下にあることと恵みの下にあることの違いを正しく理解する必要があるからだ。この中には宗教全体を理解するための広い意味も含まれている。宗教的に広い意味があるということを考えるときに、「恵みの下にある」ということはただ単に「恵みによって救われた」ということではなく、神は目的をもって私たちに救いを与えたということなのである。

       私たちは、御国に仕えるものとして生きる者なのである。その具体的な目的をもって、はっきりしたビジョンをもって生活を送るのである。私たちの生活は御国を求めることにつながっている。何のためにこの世に生きているのか。その意味と目的をはっきり知って歩むのである。御霊の力によって御国を具体的に求めるように励まされるものだと思う。御霊によって、実を結ぶ歩みをするようになる。我らの主が言われた通りである。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネの福音書7章38節)。

       私たちは毎週聖餐式を行なうとき、「私は神のために生きます」という思いを新たにしている。結局私たちは罪人なので、何のために生きているのか、何のために働いているのか、そのことを忘れて生活に流されてしまいやすい。その目的を、どこかで自分の肉的な思いでもって曲げてしまったりする。生活の中で、御国のために生きることが漠然としたものになったりする。御霊に満ちて御国のために実を結ぶことから離れてしまい、神を愛して隣人を愛するところからも離れてしまいやすいものである。実を結ぶ心を保ち、その心を新たにするために、神は私たちに聖餐式を与えてくださった。キリストを覚え、キリストに目を留めることによってそのビジョンを思い起こして前に進むのである。

       聖餐式を受けるときに、その古い自分の残骸による影響を捨てて新しい歩みをするために、罪を悔い改め、神に対する信仰を新たにするのである。聖餐式の目的も、私たちが御国のために良い実を結ぶためのものである。御国のために新しいスタートをするように励ますものである。新しいスタートは、本当は毎日必要なことだと思う。夜寝て、朝起きるとき、そこから新しい人生がスタートする。一週間の生活のリズムというものもある。日曜日は新しいスタートの時である。新しく心を入れ替えて、罪を捨て、古い自分を捨て、心を新しくして神を求めるというものである。聖餐式はそういう意味で、主イエス・キリストに目を留めて感謝の心をもって、神のために生きることを誓うものである。自分を神にささげるという心を新たにするものである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2000年3月12日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙6章20〜23節

    ローマ人への手紙7章7〜12節

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