結 論
キリスト教が真理であるならば、ラッセルが論理に訴えることは理に適う。キリスト教は、合理的な神が世界を合理的な体系として創造されたこと、神が人間を神とこの世界の両方を理解する能力を持つものとして創造されたことを教えるからだ。キリスト者は、人間が理解を余すところなく持つことはあり得ないと信じる。人間は決して自分自身、世界、神を完全に理解することはできない。しかし、人間が真の理解を持つことはできる。それは、人間に真理を啓示するものとして神がこの世界を創造されたからであり、また、人間に被造世界からだけでは学ぶことのできないことを教え、それによって人間が被造世界を正しく解釈できるように導く特別啓示―――特に聖書―――を与えてくださったからである。つまり、この世界が聖書の定義するようなものであるなら、知識は可能なのである。ラッセルは聖書的なものの見方を拒絶する。しかし同時に、彼は自分の非合理的世界観にこのキリスト教世界観の結んだ実を接ぎ木しようと試みるのだ。
同じように、キリスト教が真理であるならば、ラッセルが倫理基準に訴えることは理に適っている。キリスト教は、時代や国境を越えた絶対不変の道徳基準が存在することを教える。神は義なる神である。その御旨に反することは何であっても、いかなる時代であっても、天と地のいかなる所においても、罪深い悪なのである。ラッセルはこの倫理観を拒絶するが、その代わりとして、キリストや他の誰かを批判するための基準となるようなものは何一つ提供できないのである。
換言すれば、ラッセルは自らが反駁しようとしているまさにその世界観にしか見出せない原則をもって議論をしているのである。それらの原則なしに、ラッセル自身の世界観の前提に忠実に従うならば、彼は全くのナンセンスしか語れない。世界を究極的に決定論的な体系として見たり、あるいは究極的に無秩序なものとして見る者は、論理に訴えることはできない。同様に、倫理の領域において、各人が王であると信じる者は、同輩の独裁者を非難することはできない。
この根本的な矛盾は、バートランド・ラッセルが無神論者の典型であることを顕わしている。彼は知的根拠に立ってキリスト教を拒絶していると主張するが、彼自身の哲学は彼がキリスト教に求める条件を満たすことができず、彼の形而上学はもし真に受けるならばあらゆる知識を不可能にしてしまい、また、彼の倫理哲学は彼がキリストに言い渡した裁きのためのいかなる基準をも提供していない。以上の諸事実から考えて、彼の哲学的議論はそのための根拠というよりは、単に自分を正当化するためのこじつけを並べたに過ぎないと思わざるを得ないのである。
もちろん彼のライフスタイルは必ずしも代表的なものではない。すべての無神論者が不道徳なわけではないし、困難な問題に直面する時に嘘という手段に訴えるわけでもない。また、すべての無神論者が日常生活においてそれほどあからさまに非合理的なわけではない。しかし、ポール・ジョンソンによる『インテレクチュアルズ』を見ると、ざっと例を挙げただけでも、ルソー、マルクス、サルトルがバートランド・ラッセルに見られる型にはまっている。その型とは、嘘つきで、不道徳で、哲学的にも生活においても自己矛盾している、というものである。
無神論の英雄たちの中で個人として尊敬に値する者は稀だという事実は別として、この歪んだ生き方が示す重要なことは、無神論者たちは自らがしばしば自己描写しているような“思考する機械”ではないという点だ。厳密な意
味での彼らの哲学的論理よりも、人間的要素の方がはるかに彼らの生き方と哲学において大きな役割を果たしているのである。これは、普通の人の考えには沿っているが、西洋の無神論者たちの典型的自己イメージと、彼らが世に向けて発信している自己ピーアールとは矛盾する。
ラッセル自身は、常闇の穴蔵に落ちた。彼はもはや無神論者ではない。地獄や神の裁きに対する恐怖心がラッセルを駆り立て、最初からよく知っていたはずの神やその真理から逃げるよう促したが、彼が恐れていたものはもはや彼が否定できるような単なる宗教概念ではなくなったのである。しかしながら、ラッセルの神の否認という知的な偽善行為と、キリストを罪ある者に定めようと試みる愚行とは、うわべだけの知恵の愚かさから立ち帰り、永遠のいのちを神の御恵みの賜物として我々に差し出し給う神を信じる時間がまだ残されている我々のための、警告であり続けるのである。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
文中の訳者注は [ ] で示した。ラッセルの引用部分については、『宗教は必要か〈増補改訂版〉』(大竹勝訳、荒地出版社) を基本的に転用させていただいたが、1968年に訳されたということもあって難解な言い回しはわかりやすくし、全体の要点を伝えるために意訳されていた部分は直訳にもどすなど、多少の手を加えた。
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