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    エペソ人への手紙3章1〜5節


    こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。

    95.09.03. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    異邦人に対するパウロの福音

     

    3章は引き続き福音にについての神学的な説明部分であるが、パウロはまず祈りの導入に入る。しかし、その直後にそれを中断し、14節から再び祈りを続ける。頌栄の神学であるエペソ書1章においてもそうであったが、ここでも祈りと神学が織り合わされ、神への礼拝という一枚の織物を成している。パウロは、この書の神学的部分をこう締め括る。「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン」(3:21)。神学は確かに聖書中にあり、神の本性とご計画という深遠な事柄が教える。だが、聖書の神学は、決して単なる学問には終わらない。神学を著した偉大な聖書記者たちは、その最も深遠なる事柄を常に神に対する畏敬、驚嘆、そして賛美のうちに扱うのである。

    このことは、教会史においても真実である。偉大な神学者たちは、学問や見識の人であると同時に礼拝の人であった。アウグスティヌスの深遠な思想やその学問の幅広さをだれも否定できないが、我々のうちに非常に深い印象が残るのはそのためではない。アウグスティヌスはパウロと同様、深く心に刻まれた神についての知識のゆえに偉大なのだ。カルヴァンの著作群も神への畏敬がその中に息づいている。キリストを信じる読者なら、カルヴァンによって神を礼拝するよう動かされ、神を憎む読者であるなら、カルヴァンのうちに危険な狂信を見るのである。しかし、信者であっても不信者であっても、その卓越した博識を認めるほかはない。キリスト教指導者の偉大さとは神への聖なる畏れを意味するが、それは学問や知恵を犠牲にはしない。それどころか、キリスト者はこう主張する。真の学問とは神の愛に根ざすものである。カルヴァン、アウグスティヌス、そしてパウロもそう論じている。

    パウロに与えられた務め

    パウロはまず最初に「神の恵みによる私の務め」について語る。それは、異邦人に関して彼に委ねられたものである。神はパウロに特別な責任、つまり務めを与えられた。パウロは異邦人のための使徒であった。このことは、彼がユダヤ人を無視したということではない。事実、パウロは新しい町に行く度にまず会堂を訪れ、そこでユダヤ人たちに福音を宣べ伝えたのである――「はじめにユダヤ人に」(ロマ1:16)。ユダヤ人のための使徒ペテロは異邦人たちに最初に宣教した者の一人である(使徒10章)。ユダヤ人と異邦人とに福音を宣べ伝える際の分業は決して絶対的なものではないが、パウロには特別な働きというものが確かにあって、他のどの使徒にもまして異邦人の間で福音を広めるという責任があったのだ。

    パウロは神からの啓示によってその任務が与えられた。彼自身が特にガラテヤ書で強調している点である。「使徒となったパウロ――私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。――・・・兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです」(ガラ1:1, 11-12)。

    パウロは受肉されたキリストが地上におられる間に直接学んだのではなかったし、昇天される前の40日間弟子たちに教えられた復活のキリストにお会いしたわけでもなかった。悔い改めるよりは寧ろ自殺を選んだユダの代わりを弟子たちが選んだ時も、パウロはまだキリスト者ではなかった。マッテヤについてほとんど何も知られていないが、彼が12番目となり(使徒1:23-26)、パウロは12人のうちの13番目となった。イスラエルの12部族が実際は13部族であったのと同じである。復活のキリストが個人的にパウロに現われ、彼を任命し、福音を教えられた。パウロは自分の使徒職の権限が独特の方法で与えられたことに関して繰り返し述べる必要があった。彼が本物の使徒であるのは不可能だとする者が少なくなかったためである。

    メシアの奥義

    パウロは福音として教えた事柄を、ここでは「メシアの奥義」(エペ3:4)として述べている。福音はイエスの来臨の時まである意味で隠されていたため「奥義」と呼ばれる。我々の主がメシア預言を成就されたことで、メシアを矛盾した語群で示すように見えた聖書の謎が解かれたのだ。メシアは、あるところでは王、またすべての国々の主である(詩2, 72, イザ9:5以下; ほか)。また聖書のほかの箇所では、預言者(申18:15)、また別なところでは、祭司(詩110)、そして罪のために犠牲とされ苦しまれる方(イザ53)である。メシアは偉大であり、不思議な奇跡を行なわれるが(イザ24:4-10)、同時に人目を引かず、蔑まれる(イザ53:2-3)。また、メシアは鉄の杖で国々を裁くが(詩2:9)、ご自身は神に捨てられ、こう叫ばれる。「私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります」(詩22:6-7)。ここに挙げたものや他にも多くの預言のすべてをいかにして一人の人物が成就できるのだろうか。

    旧約聖書における複雑なメシア啓示を理解しようと、ユダヤ教のラビたちの中にはメシアは二人だと信じるに至った者もいる――アロンの家から出る油注がれた者とダビデの家から出る油注がれた者。キリスト後のラビの言い伝えでは、二人のメシアを「好戦的で、ついには殺されてしまう苦しめるメシア」ベン・ヨセフ(族長)と、「ダビデの後を継ぎ、永遠に治められる」ベン・ダビデとした。ユダヤ教のメシアについての考えとキリスト教のそれとを組み合わせるというこの試みを他にして、ユダヤ教神学には苦しむメシアという概念の入る余地は実際全くないようだ。

    メシア預言の新約聖書における成就においてのみ、我々はこれらの預言の意味とその驚くべき一貫性とを十分に理解するに至る。イエスこそ、旧約聖書がメシアについて預言したことの全てであられた。預言は成就されてはじめて、キリスト以前に生きた信者が想像し得たよりも遥かに偉大な意味をもって生きてくる。メシアの奥義は、イエスのご人格、マリアの子、神の御子において表わされているのだ。

    ヨハネは「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(ヨハ1:17)と言うが、それはパウロも語っていることを別な言葉で言い換えているのだ。即ち、「今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした」(エペ3:5)。福音の真理は象徴や描写において示されていたが、それも人となられたキリストのうちに表わされた預言の成就に至るまでは曖昧であった。キリストが来られて福音の真理の全てが宣言された今、影と呼ばれた律法は、それ以上何も知らなかった者たちに対するよりもはるかに明白である。我々がモーセの書や預言書の中でキリストに関する啓示だとわかるのは、新約聖書における成就を知っているゆえなのだ。こういうわけで、旧約聖書の預言は我々にとってはるかに分かり易い。

    ところが、我々はこれがどんなに偉大な特権であるかを忘れてしまう。真理を知っていることを当たり前と考え、あたかもこの真理を何時の時代にも全ての社会の全ての人が常に知っているものだと考えているかのように行動してしまう。我々はそれを、人間の環境において当然想定される空気を吸うことと同じように考えているようだ。しかし、勿論それは真実ではない。過去でも現在でも決してそんなことはない。神が我々にご自身の真理を与え給うたことこそ、この世における生涯の中で最大の祝福の一つなのだ。たとえ貧しくなり、様々な困難に悩まされなければならなくても、真理を知っているということは他のあらゆる富にも勝るのである。

    キリストにあって神が我々に与え給うた大いなる愛のゆえに神に感謝を捧げ――神は、我々の罪を負って死ぬためにご自分の御子をこの世に送られるほど我々を愛し給うた――、その慈しみのゆえに神をほめたたえるという礼拝の喜ばしい側面は、罪の悔い改めという辛さと共に、我々の日常生活の特徴となっているはずである。メシアの真理が与えられているということは、我々の理解を越えた永遠の祝福が与えられているということなのである。だが、我々の神に対する感謝はいったい何処にあるのだろうか。 


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙2章17〜22節

    エペソ人への手紙3章6〜13節

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