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    エペソ人への手紙1章4〜5節


    すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

    95.03.26. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    神の主権と我々の救い

    予定論は、キリスト教信仰の中で最も議論を呼ぶ教理の一つだ。だが、そうあるべきではない。これは知的に問題でないばかりか、事実この教理が脅かすと思われている「自由意志」に関する聖書的教理の土台なのだ。パウロは予定論を試練の中のキリスト者へ慰めと励ましとして教える(ローマ8:28-39)。自らの救いを全く恵みによるものと認める時、この教えは謙遜で感謝に満ちた礼拝を助ける(エペソ1:3-14)。神の絶対的主権の教理は、創造主・主という聖書的神概念と恵みによる救いという教理にとって絶対不可欠なのである。

     

    キリスト教世界観における神の主権

    神の絶対的主権という教理が、なぜ徳を高めると同時に知的に必要なのかを理解するために、まずこれをキリスト者と非キリスト者の世界観の比較によって考えたい。はっきりと理解すべき最初の点はこれである。すなわち、神が絶対的主権者であることを否定するなら、問題を小さくするどころか、さらに多くのさらに大きな問題を作ることになる。あらゆる世界観は「宇宙は合理的か否か」と「人間には本当の自由があるか否か」という問いに直面する。これらは宇宙の究極的本性を定義することなしに答えることはできない。

    かなり話を単純にするが、非キリスト者の間には、宇宙を説明する三つの基本的アプローチがある。第一に、宇宙は合理的体系であって人間には自由も尊厳もない、と主張する非キリスト者がいる。これは、ハーバード大の心理学者B. F. スキナーにより、特にその著 Beyond Freedom and Dignity の中で極めて明白に表現されている。スキナーはこう主張する。「科学の分析が進むにつれ、個人の全面的決定論からの解放という可能性は、殊に行動の説明において取り除かれていく」。全宇宙は決定論的体系である。そこでは、人間は偉大な機械の小さな部品に過ぎない。人間には自由も尊厳もなく、また人間やその歴史には道徳的意義は存在しない。

    これは人生の意義の全面否定であるため、ある人々はこれに反対して逆の極端に走る。すべてが機械的に決定されている宇宙を信じるよりも、現代の物理学、殊に量子力学に訴え、そこから偶然が究極である宇宙という支持を得んとする。この見解で自由が人間に回復されても、それは無規則という自由である。人間の選択は常に単なる気まぐれに過ぎず、そこには人間や歴史について究極的説明は皆無だ。結局、人間は無意味となり、決定論的世界観と何ら変わりはない。機械である宇宙の小部品の代わりに“セントウイツスの舞踏(痙攣する病気)”のような宇宙の一部という人間が提案されたに過ぎない。歯車か痙攣か、という選択である。

    西洋では、決定論と偶然の双方を“調和する”二つの究極的原則として保持することによって、この両極端を組み合わせる方が一般的だ。決定論が都合が悪ければ偶然に助けを求めて走り、偶然が不条理ならば決定論に救いを見い出す。これは、この世界観に根本的矛盾が存在することを意味する。このような見識を持つ人物がいることは不思議に思われるだろうが、日本人ノーベル賞受賞者の生物学者利根川氏はこの見解をNHKの番組ではっきりと表現した。彼は、人間は科学理論によって完全に説明可能な機械であるが、この機械には「たくさんのランダム・エレメント(偶然の要素)」が入っている、と主張したのだ! 完全な決定論と完全な非決定論が完全な確信を以て主張される。知的分裂症とでも言うべきこの立場は、西洋において多くの人々に好まれている信仰である。

    この知的ジレンマから脱却できる唯一の道は、聖書の神を信じるほかにはない。神は合理的な御計画に従い世界を創造され、支配される。宇宙には、人格的かつ倫理的な究極的意義が存在する。人間は神によって予定されているが、それは神の似姿すなわち道徳的責任ある被造物として行動するという予定である。それゆえ人間の選択は、究極的でなくとも本物であり、道徳的意味のあるものなのだ。人間の自由は、神の定めによって脅かされてはいない。むしろそれによって保障され、維持されている。人間の自由は二次的なものだが、それでも本物である。我々がこの神秘を究極的に把握できないという事実は、キリスト者としての世界観全体に一貫するものだ。なぜなら、人間が何かを究極的に理解し得ることを我々は否定するからである。神の予定は、我々の自由と意味の土台なのである。

     

    予定論と礼拝

    パウロは、以上のようなキリスト教世界観を前提としているが、それに説明を施してはいない。彼は神が世界の基の置かれる前から我々を御自分の民となるべく選ばれたことを神に感謝する。これは恵みの神秘である。恵みによる救いとは、救いは信仰によって受ける神の賜物であるという意味だけでなく、神が慈しみをもって、世界の基の置かれる前から、ある特定の個々人を救うと決定されたという意味でもある。神は、アダムがその自由意志によって園で罪を犯すことを計画され、人類が神に対し反逆することを計画された。だが、神は救いをも計画されたのである。神は、特定の人間を救うという契約をキリストと結ばれた。その数は、失われる者よりもはるかに勝ると私は信じる。神は彼らをキリストにお与えになり、イエスはこの世に来られ、彼らを贖われたのである(ヨハネ17章参照)。

    我々は聖霊と共に新しい契約の祝福のすべてを与えられた。それは、神が世界を創造される以前から、我々を救い、御自身の愛する子とされることを計画されたゆえである。我々は、偶然や人の気まぐれによってではなく、神の選びによって救いの祝福を戴いている。我々は、自らの救いが神の永遠の選びから来ていることを知って、神をその永遠の愛のゆえにほめたたえ、神の選びの目的が我々のうちに成就されるよう祈る。そして、主権的愛をもって我々を愛し給う絶対なる神に向かい、ひざまずくのである。

     

    神の予定の目的

    神は「御前で聖く、傷のない者」とすべく我々を選ばれた。「傷のない」とは義認を、「聖い」とは聖化を指す。パウロはさらに5節で、神が我々を御自分の子にしようと予め定められた、と言う。神は、主キリストのようになるために我々を選び給うた。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」(ローマ8:29)。恵みによる救いとは、神の救いの計画と実現の両方を意味する。神は我々をキリストと同じ姿にして給うのである。

    それゆえ、神が我々を世界の基の置かれる前からキリストにあって選び、そして今も我々のうちに働き、キリストにあって御自身の定められた永遠の目的を実現されるがゆえに我々は神に感謝する。また、礼拝をささげ、救いのアルファでありオメガである方としてほめたたえる。そしてそのように神を礼拝する時、神の愛と恵みにより、我々は選びの目的にかなう者となるべく奮闘せられるのである。道徳的努力は、自由と同様、予定の教理によって崩されることはない。

    神が創世以前から我々を愛されたこと、イエスが我々一人一人を罪から救うために死なれるという目的をもって来臨されたこと、神が御霊を遣わし我々を罪に定め、信じるよう御許に引き寄せられたこと、御霊が我々を聖めるために内に住み給うこと――聖書がこれらを語る時、我々を怠惰にさせるだろうか。これらは我々を神の恵みに付け込ませるだろうか。本当に信じるなら、そんなはずはない。その反対に我々の心は、カルヴァンがよく述べていたように「神の愛に酔いしれる」はずだ。神の永遠の愛に対し、我々は神を愛し、その御心を求めることによって応える。聖さへの闘いは、神が我々を愛し、我々がキリストのような者となるために救い給うたと告げられる時の、ごく自然な応答なのだ。

    見せかけでなく、神に対する喜びに満ちた従順という謙遜さが聖さの本質であることも心に留めるべき大切な点だ。予定論という教理を知ると、たとえ話の中のパリサイ人の祈りはできない。「神よ。私は他の人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」(ルカ18:11b-12)。我々は神からの賜物である聖さを誇ったり、自分と他の人との違いは善、知恵、力にあるなどと想像することはできない。パウロの言う通り、我々には神の恵みを除いて何一つ誇るべきことはない。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」(ガラテヤ6:14)。我々はただあの罪人のように祈るのみである。「神よ。私をあわれんでください」。そして、パウロのように、ただ神がふさわしくない我々の上に注ぐと定め給うた愛のゆえに感謝をささげるのみである。我々がへりくだって感謝をささげる時、我々は聖くなり始めるのだ。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙1章3節 (B)

    エペソ人への手紙1章5節

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