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エペソ人への手紙4章14〜15節
それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
95.11.26 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。
もはや子どもではなく
子供はだまされやすいものだ。親や友人は彼らを遊びでだますことがある。公立学校は9〜12年間組織的に、子供たちに偽りを語る。子供たちの多くは、結局自らの道を見いだすことのできない混乱した大人になってしまう。政治家、詐欺宗教家、やぶ医者
(特に心理学のまやかしを専門とする者たち)、種々のセールスマン、インテリの詭弁家らが彼らを寄ってたかって死ぬまでだまし続ける。大多数の人間はだまされやすいという詐欺師らの期待はいつも裏切られることがない。
間違って欲しくないのは、これが当然とか普通ということでは全くない、ということだ。これは目論まれた偽りのもたらした結果である。人間が神の御国に入ることを妨げるのがその目的だ。この陰謀はこの世のものではない。我々の主イエスは、サタンが偽りの父であると言われた。偽り者は皆サタンのしもべなのである。彼らが互いに食い違った目的をもって働いていることは大した問題ではない。その根本的な目的はあくまでも肯定的なものではなく否定的なものであるからだ。彼らは自らの王国を建て上げることよりも神の御国を破壊することを目的としているのだ。
教えの風
西洋哲学史をよくみれば、この箇所におけるパウロの表現の良き註解となるだろう。古代ギリシャの時から今日に至るまで、西洋は次から次へとまことしやかな哲学のぺてんにつき従ってきた。哲学者らはおのおの、自らの先学の理論の誤りを暴きながらやって来る。合理主義者プラトンは、その最も優秀な教え子である経験論者アリストテレスに論破されるが、両者とも古代ギリシャのソフィスト、懐疑論者、エピクロス主義者らによって軽蔑された。驚くべきは、同じ哲学的たわごとが歴史の中に何度も現れ、その度に若干新しい出立ちで新しい世代のだましやすいインテリゲンチャたちをたぶらかすことに成功する、ということだ。
ばかばかしい独断的主張に対する20世紀における栄誉は、論理実証主義者に与えられることとなる。彼らはもともとウィーンの知識階級の集団で、始めウィーン学派と名乗っていたが、その運動が国際化するにつれ、改名した。「論理実証主義」の名の他に、彼らの哲学は「論理経験主義」「科学的経験主義」とも呼ばれる。この立場を定義する初期の小論の中で、ウィーン学派の代表モリツ・シュリック
(Moritz Schlick) は次のように書いた。「一定理は、その真偽の違いを実証できてはじめて明言可能な意味を有する。その真偽にかかわらず宇宙が同じであるような定理は、宇宙について何も語ってはいないのである。それは空虚で、何一つ伝えてはいない。私はそれに何の意味を見いだすこともできない」。ある一つの主張が真となるためには、実験による立証が可能でなければならない。ある者たちはこれを、立証不可能なものは真の主張とはなり得ない、という意味に解釈した。しかし、彼らはまもなく、この原則が物理学の諸法則を含め、科学の一般法則のすべてを根底から覆してしまうことに気が付いた。他の者たちは、実証主義の立場とは、一つの主張が意味をなすにはそれが検証可能なものでなければならないということに過ぎないと主張した。しかしこれもまたいくつもの問題を生じてしまった。検証可能ということすら、科学を行うには厳しすぎる原則であることが判明したのである。
W. T. ジョーンズ (W. T. Jones) 曰く、「スタート時点では、すべてが単純で分かりやすいもののように見えた。自分たちが無分別にも作りかけの穴の開いた船で海原に出てきてしまったことに彼らが気付いたのは、あくまでも時間が経つにつれてのことであった。彼らのエネルギーの大半は緊急修理と、さらにまたその修理に修理を重ねることに費やされた」。しかし、すべての事柄のうち修理が最も困難なのはすべてがその上に建てられているまさにその原則の部分である。唯一意味のある主張とは検証可能である主張であると断言した後、彼らは次第に自分たちがパラシュートなしにスカイダイビングをしていたことに気が付いていったのである。彼らの根本原則にはどんな経験的検証があるのだろうか。完全に科学的な論理によって形而上学を破壊したと誇った実証主義者たちは、その愉快な飛降をぶざまにもドサッという音とともに終えたのである。いかなる実験によっても経験的に実証することはできない、論理的一貫性のない基本原則の上に建てられた哲学が自らを「論理実証主義」と呼んだ。不名誉な結末を迎えるのには10年もかかったが、罪人は余りに激しく神を憎むものであるため、この運動は今日でもなお影響力を持っている。
吹き回される
教えの風に関し最も悪いことは、キリスト者でもそれによって吹き回されてしまうということである――神が我々に十分な教えを与え給わないからではなく、我々が子供であって、あまりに自己中心、怠慢、不従順であるためだ。教会史を通して、教会はまことしやかな哲学に次から次へと影響されてきた。そして社会に認められようと望むことによって自らの証しを妥協してきた。その度に、教会は己の愚かさと弱さとに拍車をかけてきたのである。
中世初期、プラトン哲学の影響が教会を空想的な理想主義へと向かわせた。中世の後半には、トマス・アキナスがキリスト教神学をアリストテレスの哲学と混合することによって歪めてしまった。次いで起こる教会と科学との戦いはキリスト教対近代科学思想として描写されてきたが、実際はアリストテレス対キリスト教世界観なのである。今日に至るまで、ローマ・カトリック神学はアリストテレスの泥沼にはまって動けなくなっている。
近代の始めに、カルヴァンとルターは教会に対し、聖書に立ち返るよう呼び掛けた。このことは、ローマ・カトリック教会からの離脱のみならず、カルヴァンが次のように綴った哲学者たちからも遠ざかるべきことを意味した。「あらゆる種類の哲学者たちが、その愚鈍・愚昧をどれほどふんだんに明るみに出したことであろうか」[I,
5, 11]。カルヴァンとルター自身は、自らの神学から完全に哲学者たちの影響を取り除いたわけではなかったとは言え、確かにキリスト教神学が徹底的に改革され得る諸原則を据えたのである。だが、改革の相続者たちは徐々にギリシャとローマに戻る傾向があった。カルヴァンとルターの最高の認識論の原則である「聖書のみ」(sola
Scriptura) よりもむしろ、彼らの欠点に従ったのである。
清教徒たちを先祖に持ち、彼らを通して宗教改革の最も熟した思想を受け継いだ19世紀のアメリカは、この世の原則と妥協する教会という問題を浮き彫りにする。アメリカの最も敬虔で優秀な改革派神学者たちを生み出したプリンストン神学校は、そのカルヴァン主義の土台をスコットランドの常識哲学に置いた。そのためダーウィンの『種の起源』が1859年に世に出ると、プリンストンはいち早く創造の説明をダーウィンの理論に適合させる道を見いだした。そこには世界史年表の書き変えも含まれていた。世界史の基準としての聖書をまるごと捨て去ってしまったのだ。進化論はフロイド心理学やマルクス経済をもたらした、またはそれらを歓迎したと言える。どちらの理論も聖書に反する人間観に依存しており、漸進的発展という進化論的見解に適合した。
プリンストンの神学はこれらの世俗的代案を支持するところまでは行かなかったが、聖書の真理を現代の思弁と調和させようというその試みは、聖書と近代理論との間にある明らかな戦いに対する福音派の標準的アプローチとなっていった。その近代理論は常に変わっていくものであったが、その事実は福音派が決まり悪さを味わったことを意味している。つまり、福音派がやっと聖書と最近の思弁との妥協点を見いだした頃には、世俗の思想家たちはすでに新しい別の哲学に移行してしまっていたのだ。福音派は進んで彼らの後を走り、常に10年ほど時代遅れなのである。
マルクスとの妥協はロナルド・サイダーによる“キリスト教経済学”のうちに、フロイドとの妥協はいわゆる“キリスト教心理学”において最も明らかだ。進化論との妥協は福音派の中で余りに広く典型的であるため、著名な福音派のリーダー、マーク・ノル
(Mark Noll) は進化論に反対するクリスチャンを「極論者」と呼んだ。現代の世界観全体は進化論を土台にしている。進化論は神の創造に対する反キリスト教的代案であり、あらゆる反キリスト教思想において重要な位置を占めている。進化論と妥協することは、我々のキリスト者として考える能力を根底から崩してしまうものだ。皮肉なことに、ノルはクリスチャンの知識人が少ないということについて嘆いている記事の中でこのコメントをしたのである。
もはや子どもではなく
キリストにあって大人となるということは、キリストに対する献身およびその御言葉に対する従順を土台とする知的成長を遂げているということだ。それは、試練を通して試され、しかも忠実であるとされる従順である。大人であるということを言い換えれば、知恵があるということだ。サタン的偽りとの妥協は、我々がはっきりと深く考えることができる能力を徐々に弱めてしまう。ほとんどの福音的教会が危険な代案をもって真の教理を卑しめている時代には、キリストの御言葉に堅く立つことが絶対に必要だ。我々の信仰にとって本当の試練は、我々がいかに子供たちを育てるかということのうちに見られるであろう。我々は、順応せよという圧力に負けてしまうのか、それとも子供たちを不信者の考え方の潮流に逆らい勇気をもって立つように訓練するのか。教会として、また家庭としての我々の目標は、サタン的偽りによってだまされることのない成長した知恵を求めることなのだ。
著 ラルフ・A・スミス師
訳 工藤響子
著者へのコメント:kudos@berith.com
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