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エペソ人への手紙6章5〜9節
奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて 真心から地上の主人に従いなさい。
96.03.24 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。
主従関係
紀元前1世紀の終わりまでに今のイタリア辺りでは住民のおおよそ35〜40%は奴隷となっていた。当時の社会でこれほど高い率の奴隷がいたのだから、ローマ人たちは自らの地位を保持するだけでも十分な統制手段を持っていなければならなかった。彼らの基本的な手段は二つ、規則違反に対する厳しい懲らしめと模範的行為に対する奴隷状態からの解放であった。現代的観点から見れば、古代ローマに存在していた奴隷制度は、最も最近のアメリカにおける奴隷制度と同様に、許されざる悪である。パウロはなぜ当時の奴隷制度を是認しているように見えるのか。なぜ公然と奴隷制度に反対していないのか。
パウロと奴隷問題
あるキリスト者は、パウロが奴隷問題について触れなかったのは、福音はそのような社会問題とは何の関係もないからだと考える。救われている限りこの世における身分という問題は無関係だとパウロは見なした、と信じるのである。また、別のキリスト者たちも似たような答えをする。パウロと1世紀のキリスト者たちにとって、奴隷制度はその文化的生活の中で受容されていた部分であり、ただパウロはこれ以上よくわからなかっただけだ、と言うのである。奴隷、結婚、その他の社会生活に関わる部分についてのパウロの見解は当時の文化を反映しており、教会にとって信頼すべき権威はない、と。
こういった類の答えは、二つの重要な事実を見過ごしている。一つ、パウロは旧約聖書を持っており、それをよく知っていたということ。神の律法は、パウロが奴隷問題について考えるための基準となる奴隷制度を教えていた。神の律法を最も深く学んだ使徒が、新しい契約における奴隷たちの状態と神の律法との関わりについて、無知であったり無関心であったりすることは考えられないことだ。
第二に、パウロは事実まさしくこの箇所で、奴隷制度の改革の手段を提示しているのである。即刻その変化が欲しいと要求する革命的思想家が重要な点を見逃してしまうのは、彼らの前提がパウロのメッセージの意味の深さを見えなくしてしまうからなのだ。まず最初に、旧約聖書の律法とキリストの教えから、パウロには、心の中が奴隷状態である人を自由にすることはできないということがわかっていた。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハ8:34)。そこでパウロは、キリストの教えをローマ人への手紙の中で繰り返しているのだ。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」(6:16)。
こういうわけで、世界を変革するためのパウロの方法論は、革命型の思想家によって提案される方法論とは根本的に異なった類のものである。聖書的な考え方では、自由とはまず何よりも倫理的問題であるため、パウロは倫理を強調するのである。これはパウロが政治的問題については無関心だという意味にはならない。むしろ、政治的自由は宗教的自由の結果得られるものであり、またそれに依存するものであることをパウロは知っているのだ。そういうわけで、大切なのは政治的自由ではなく、キリストにある自由、すなわち罪からの自由なのである。義しく生きる自由が豊かにあるところには、やがて他のあらゆる種類の自由がついて来る。社会変革とは、内から外へ――心がまず変えられ、結果として社会が変えられる――、また下から上へ――まず個人が救われ罪から解放され、その後政治制度が変えられる――、であるべきものだ。
奴隷とサラリーマン
奴隷についてのパウロの教えは、現代の働く人に広く適用されている。もちろんこの二つのグループが瓜二つというわけではない。我々には自分でビジネスを始めたり、仕事を変えたり、という昔の奴隷にはなかった機会が与えられている。しかし、我々にはサービスと人に従うことのすべてを避ける道はない。自営業を営む人ですら、その顧客の奴隷であり、成功を望むなら顧客の要望に従わなければならない。雇用者について言えば、仕事を変えることは自由であるが、その自由は現実というより仮説に近いことがしばしばである。他者に従うという状態からだれ一人逃げることができないかぎりは、現代社会の働く人と昔の奴隷との間には共通点があることになる。
さらに、昔の奴隷の間にあった罪の問題は、現代の労働者の罪の問題とあまり変わらない。現代の労働者が自分の勤める会社から盗むのと同様に、奴隷たちはその主人の持ち物をくすねた。現代の労働者が上司に対して憤慨し反発するように、奴隷もその主人に文句を言い、抵抗した。要するに罪人は傲慢で愚かなのである。彼らは服従を嫌うことによって、自らを自律的自由に対する曲った欲望の奴隷としてしまうのである。
自由
昔の奴隷と現代の働く者にとっての自由は、自分が人の奴隷ではなく、神の奴隷であることを悟るところから始まる。我々は、神の摂理により、この世の中で今いる場所に置かれている。主に対して生きるように、心から主に仕えるとき、我々は外側の状況がいかなるものであれ、自由なのである。パウロはこのようなものの見方を5節で述べ、6〜8節でそれを説明する。奴隷たちは、1)
恐れおののいて;2) 真心から;3) キリストに従うように、仕えるよう命じられている。真の服従の三つの性質のうち最初のものは誤解され易いものだが、パウロがコリント人のところにいたとき自分のことを「弱く、恐れおののいて」(1コリ2:3)
働いていたと語っているのを忘れてはならない。また、恐れとおののきは我々の救いの達成に不可欠なものである (ピリ2:12)。こういうわけで、恐れとおののきという言葉は、卑屈な憶病さではなく、畏敬を表わしているのである。
「真心から」というのは、6節で「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行な[う]」という説明がなされている。二心は偽善的な心である。キリスト者である労働者は、何事もキリストに対してするように生活し、感謝をもって神の御心を行なうことにより神にのみ献身すべきである。
「キリストに従うように」という表現は7〜8節においてさらに詳しく説明されている。「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれの報いを主から受けることをあなたがたは知っています」。神に真心から仕えるということは、キリストのために仕えていること、自らの働きに応じてキリストから報いを得ることを覚えるという意味である。この表現は、奴隷たちを最大の抑圧、すなわち彼らの生涯の働きは無意味で退屈な骨折りに過ぎないという概念から解放した。神に義しく仕える奴隷は、その仕事が水汲みであろうと、薪集めであろうと、家の掃除、ゴミ捨て、あるいは人々が見下すような他のいかなる卑しい仕事であろうと、裁きの日にその働きのゆえに報いられるとパウロは言う。現代世界において、フェミニストたちは母親になるという働きを奴隷状態やつまらぬ骨折りとして見下している。しかしこれはキリストがこの世でも裁きの日にも敬い祝福し給う働きなのだ。我々がキリストのためにする働きは、人がそれをどう見ようと、永遠の意味を持っている。奴隷や働き人がこの真理を理解し、それに従って生きるとき、その人は自由人なのである。
主人
パウロの主人たちに対する教えは、彼らにも天に主人がおられることを思い起こさせるものだ。実際、パウロは奴隷たちに、もしキリストに仕えるなら彼らは事実自由であり、主人たちに、彼らは事実キリストの奴隷である、と言う。奴隷たちに優るとも劣らず、主人たちは自分の行ないの善し悪しが報いを受ける最後の裁きの日を覚えて、真心から神に仕えるべきなのである。奴隷にとって自由を意味する最後の裁きと同じ日が、主人に自分がより高い権威に対して責任を持つ神のしもべであるということを思い起こさせるのだ。
主人がこのような態度をとるとき、奴隷制度の中に徐々に変化が生じることは必然的な結果であることは明らかなはずだ。時が経つにつれて、キリスト者の主人である者は、奴隷たちの間で兄弟となった者を解放することを求めるようになるのは疑いの余地がない。たとえ彼らがそうしない場合でも、主従関係は、奴隷問題自体をその悪から解放する福音によって根本的に変えられるのである。
指導者にとっても、従う者にとっても、自由はキリストのうちにある。キリストの奴隷、すなわちキリストの命令の奴隷となるということが本当の自由なのである。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」
(ヨハ8:31-32)。
著 ラルフ・A・スミス師
訳 工藤響子
著者へのコメント:kudos@berith.com
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