ローマ人への手紙1章18節
1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
98.08.02. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
神の御怒り
1章18節
というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
先週は1章17節を見たが、そこでパウロはローマ人への手紙全体のテーマを説明している。ローマ人への手紙は、罪人がどのようにして神から義を与えられるのか、ということを説明している。それは、信仰のみによって与えられる。それによって、罪人は、本当に聖書的な意味でいのちが与えられて生きることができる。そのことを、簡潔にハバクク書2章4節からの「義人は信仰によって生きる」という引用をもって私たちに説明している。続く1章18節から3章20節までの長い箇所でパウロは、どうして罪人は神からの義認を必要としているのかを説明する。
1章18節の最初の言葉は「というのは」と訳されているが、直訳は「なぜなら」という言葉である。つまり「今から17節に書いてあることを説明しますよ」ということである。「なぜなら、神の怒りが天から啓示されている」とパウロは言う。この宣言が17節とどのように係わるのかをパウロは3章20節までの長い箇所で細かく説明する。この箇所全体から、どうして罪人は救いを必要とするのか、どうして救いは義を与えるものでなければならないのかがよくわかるものである。パウロは、神の御怒りと人間の罪について語っている。パウロが福音の必要性について論じているのは明らかであるが、17節との関連性はしばしば忘れられている。
17節と18節のつながりがどのようなものかというと、17節では「信仰による義しさ」の話をしている。自分の律法的な正しさによってとか、罪人が心を入れ換えて神を愛して正しさを行なうことによって神の御前で義と認められる、というようなことをパウロは教えていない。罪人が神の御前に義と認められるのは、ただ主イエス・キリストの十字架によって私たちの罪が取り除かれ、キリストの義が賜物として私たちに与えられることによってのみかなえられることである。この「キリストの十字架と義の転嫁」なしには、罪人である私たちが神の御前で正しい者として認められることは決してないのである。そして、罪人が必要とする正しさは、信仰による正しさである。信仰によって義が与えられるのでなければ、罪人には義を持つ望みはない。これは救いの唯一の道なのである。そのことをパウロは1章18節から3章20節までの箇所で詳しく説明している。だから、17節で信仰による正しさについて話し、18節からは、どうして信仰による正しさが必要なのかということを説明するのである。
つまり、この箇所でパウロは、罪人とは何かということを深く教えることになる。人間はアダムの堕落後、どういうものになっているのかをパウロは説明する。人間は、このようなものになっているので、自分の心や行ないによって神の御前で正しい者には成り得ない。神が正しさを賜物として与えてくださり、御霊が与えられ、つまり外から与えられる神の影響によって変えられなければ、罪人には望みはないのだ、ということをパウロはまず説明している。
あらゆる不敬虔と不正
1章18節は、その説明の最初のところであるが、ここに考えなければならない二つの大切な問題がある。第一に、「罪人とは何か」ということをパウロははっきり宣言している。後で更にこのことを深く説明しているが、この最初の言い方は罪人の心の問題を指している。「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔に対して...」とは罪人のことである。文法的に日本語とギリシャ語は全く逆さまになるので、私にとっては感じ方がやや違ってしまう。原語では順序として「神の怒り」が最初に来るが、パウロはまず「あらゆる不敬虔と不正に対して...」と言っている。
この二つの言葉でパウロは、罪人の心を簡単に二つの側面から捉えている。「不敬虔」とは神御自身に対する心の問題であり、「不正」とは神の律法に対して正しさを行なうかどうかの問題である。それで、「不敬虔」とは神との関係における罪の問題(神に対する憎悪)を指しており、「不正」とは人間関係において正しさを行わないことを指していると言える。主イエス・キリストが神の律法を二つの命令に要約したことを思い起こせば理解できると思う。先ず第一に神の律法は「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と命じている。そして第二に「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と命じている。「不敬虔」とは神を愛さないことであるり、「不正」とは隣人を愛さないことである。この観点から罪の問題を教えているといっていいと思う。
「罪人は不敬虔である」という時、それは、「神無しで生活したい、神無しの天国が欲しい」ということである。ユートピアという概念があるが、それは昔の人たちの思想にもよく出てくるものである。例えばプラトンの「共和国」という書物は、どのようにして理想的な国(町)を作るのかの提案であった。孔子も理想的な国の状態を想定して物を書いた。中世になると「ユートピア」という題の書物も出版されたし、ユートピアのビジョンの書物はいくらでもある。二十世紀の心理学者B.F.スキナーの「Walden
II」という書物もユートピアについて書かれた有名なものである。昔のプラトンであれ、二十世紀のB.F.スキナーのものであれ、十九世紀のマルクスの考え方も同じようなものであって、神無しの理想郷、神無しの天国をどうしたら作れるのかということを書いたものである。
罪人であっても、人間は神の似姿に造られたものであるので、どういう状態を求めているのかということにおいて、ある意味で正しさを表わすことができる。神の似姿として、物質的な繁栄が良いもので、貧困や病いは悪いということを知っている。平和が戦争よりもすぐれており、家庭の幸福と巷に犯罪がないことが理想だと分かっている。特に聖書の影響があればなおそうである。つまり、申命記28章に書いてある祝福は誰もが欲しいものなのだ。経済的な豊かさ、病気の無い状態、国際関係が巧くいっている状態、家庭内の関係も巧くいっている状態、子供らは父母を愛し、夫と妻は互いに愛し合っていて、祝福に満ちている状態は誰もが求めるものである。しかし、神の御怒りが諸問題の源であることを否定することによって、不敬虔な人間は諸問題に対する唯一の解決を回避しようとする。
今、福音総合研究所の比較宗教クラスのためにヒンズー教についての文献をいろいろと読んでいるが、イギリスのオックスフォード大学で勉強したニュワー・チャウーディというインド人の学者はヒンズー教についてかなり正直に書いている。「インテリ派はこの世を捨てるとか世を憎むとか言われるけど、実はヒンズー教はどうしたら神に祝福されるかばかりを考えるものだ」と彼は言う。「礼拝も自分の利益のために他ならない。礼拝においてはっきりした利益が得られないならば、その礼拝は無意味なものだ」とはっきり言う。しかし、ヒンズー教の人たちが本当に求めている祝福は申命記に書いてあるものであるのは事実である。その求め方には問題があるが、彼らは天国のような祝福が欲しいのである。
これは、愛という概念においてもはっきりみることができる。キリストの弟子のトーマスがインドを訪れる以前には、インドの思想の中には「愛」という概念はなかったのである。使徒トーマスによってインドに福音が伝えられてから後に、ヒンズー教も仏教もその概念を借用した。マハヤナ仏教(大乗仏教)はそこから出てきたものであるし、ヒンズー教にもシバとかクリシナとかが愛の神として初めて出て来たのでである。「愛」とか「利他」とかはトーマス以前の仏教やヒンズー教にはなかった概念である。キリスト教信者ではなく、れっきとしたヒンズー教の信者であるチャウーディも「これははっきりキリスト教から取り入れた概念であって、この概念は昔のヒンズー教にはなかったものだ」と明言している。
実際に、人間は神の似姿であるので、愛が欲しい、豊かさが欲しい、そして聖書に書いてある呪いの状態からの解放を求めている。聖書に書いてあるような救いの状態が欲しいのである。けれども、聖書の中にある救いの最も本質的なことは「神との正しい関係」なのである。神との関係が回復されなければならない。他のことはみなその表われに過ぎない。しかし、彼らは祝福は欲しいけれども、神は欲しくないのである。神無しにそのすべての祝福を得たいのだ。それこそ「不敬虔」である。
「不敬虔」はただ盗みとか殺人とか偽りとかいうような悪行を意味するわけではない。礼儀正しく親切で愛想が良くても、深く不敬虔であり得るのだ。たとい高い道徳観念を持ち、道徳的な正しさを求めるにしても、神無しの道徳を求め、神無しの正しさが欲しいなら、それは不敬虔なのだ。不敬虔の典型は、犯罪者や極悪人によって表わされるのではなく、反キリスト教的ユートピア主義者、即ち、神抜きの救いと人間の王国を熱望する空想家によって表わされる。罪人たちは、昔から神無しのユートピア(理想郷)を夢見たり話したりしてきた。理想的なユートピアを求めるにしても、あくまでも神無しのユートピアを求めたのである。罪人は、何よりも神を憎むものなのである。それで、不敬虔な彼らがユートピアや祝福について考える時に、あくまでも歪曲したものを求めてしまい、変なことを想像してしまうしかない。
プラトンの場合は、どうやって理想的な社会を作ったらいいのかを考える時に、家庭についての考え方も狂ってしまうし、経済の考え方も狂ってしまうし、何よりも酷く狂っている点は、「哲学者たちが支配する社会でなければだめだ」という考えである。B.F.スキナーもその真似をしているようなものだが、「哲学者ではなくて心理学者たちによって社会は支配されなければよくならない」と考えた。マルクスの理想的な社会では、家庭はあってはならないものであった。当然その経済に関する考え方も狂ったものであった。他にもその理論の細かい所を見れば見るほど、それが狂ったものであることがわかる。
罪人が、神を捨てて理想的な社会を作ろうとする時、祝福そのものを得ようとはするけれども、その祝福を得る道において細かいところに至るまで完全に間違ってしまうのである。自分を創造した神御自身を憎んで、神抜きにすべてを考えるので、全部が狂ってしまうほかない。祝福の源は神御自身であるからだ。罪人は漠然と祝福を欲しがるけれども、神無しに求めるので、本当の祝福の意味も祝福を得る道もわからなくなってしまうのである。この「不敬虔」は、罪人の罪の表われの一つの側面である。ユートピアは、人間の知識と技術による「人間による救い」であるが、とりわけ神からの逃避(神を無視すること)である。それ故、それは不敬虔の本質でもある。
「不正」とは、神の律法と戒めを人間が破っていることを表わしている。創造主なる神は人間にはっきりした基準を与えてくださった。その律法の基準の多くの命令は人間関係についてのものである。モーセの十戒も、神との関係についての命令と人間関係についての命令とを分けるならば、第一戒から第四戒までは神についての命令で、第五戒から第十戒までは人間についての命令である。しかし、モーセの律法全体に出てくる614(レビ記の礼拝についての命令は含まない)の命令を見るならば、そのほとんどは人間についてのものである。神の正しさを人間関係においてどのように表わすべきかは、神の御言葉の中に細かくはっきりと書き記されている。それをよく学び、よく考えて、それを心から守ることは、結局隣人を本当に愛する道なのである。「隣人を愛する」と言っても、私たちは罪人であるので「隣人を愛しなさい」と言われただけではどのように愛したらいいのかがわからない。父たちも母たちも、どうやって愛していいのかがわからないのだ。
聖書の中で明らかに書いてあるように、「子供を愛する親は努めて子供を懲らしめる」と箴言にあるが、そのような考え方は今日の社会の中にはない。それが正しいと考えた時代も歴史の中にはあった。しかし、今日の日本では子供にお尻ぺんぺんすることは良くないことだと殆どの人々は考えている。アメリカの社会もずっと子供のしつけに強く反対してきた。しかし、最近になって社会も心理学者たちもしつけをよみがえらせようとするようになった。あまりにも社会はおかしくなって荒んでおり、お尻ぺんぺんでもしなければ完全に駄目になってしまうということに気付き始めている。お尻ぺんぺんして懲らしめられることによって子供たちは自制を学ぶのである。自分の心を支配できない人間がそのまま大人になった時には駄目な者になるということを、社会は今痛いほどに感じ始めている。
もちろん、子供たちが悪い親にいじめられるケースがあるのも事実である。つまり、愛の鞭をもって教えるというのではなくて、憎しみをもって目茶苦茶に苛めるのが子供への懲らしめであるかのように考えて子供を虐待する親がいるのは確かである。彼らは正しさに立って心を注いで教えはしない。ただ怒って手を出すだけというような親がいる。その反面、何もしつけることなどせずに、ただただ愛を示すだけという親もいる。そのどちらも大きな問題となってきている。アメリカはその両方の極端で苦しんでいる。教育というと、どっちかの極端に走ってしまうケースが多いのである。
聖書は、子供を愛してその悪を取り扱う時に、お尻を鞭や杖で叩くことを命じている。お尻はいくらぺんぺんしても大丈夫なように作られている。鞭や杖をもって子供のお尻をぺんぺんするためには、杖や鞭を取りに行く時間があるので、親も冷静さを取り戻すための時間の猶予が与えられるということもある。親も罪人なので、必要以上に怒ってしまうことがあるからだ。そして、むやみやたらに叩くのではなくて、しっかりお尻を叩くのである。お尻は叩いても大きな問題になることはない。そして、当然、教えながらお尻ぺんぺんするのである。「なぜ叩くのか、どういう意味なのか」をちゃんと教えるべきである。出来れば、その後で一緒に祈れれば一番よいと思う。
箴言の中には、子供たちを愛する親の愛とはどのようなものなのかははっきり書いてある。「母の教え」と「父の教え」は繰り返し箴言の中に出てくる。父と母は、子供たちに「よく教え込みなさい」と命じられている(申命記6章)。教えるに、その時がある。道を歩く時も、座っている時も、寝るときも、起きる時も、よく教え込みなさいと命じられている。クリスチャンではない父や母たちは、教えをもって神の御言葉を与えることはしない。だから教える基準も持っていない。日本の高等学校で教えたことがあったが、それは私にとって日本社会について多くを学ぶ機会となったけれども、ほとんどの家では言葉を交わすこともないようである。「親子の会話はほとんどない」とか「夫婦同士の会話だってない」という家庭も少なくないのである。中には「母は一番の友達だ」という子もいた。
しかし、聖書の御言葉は、朝も、夜も、起きる時も、寝る時も、いついかなる時でも、子供たちに教えなさい、と命じている。これが愛である。神に対する愛であり、子供たちに対する愛である。そこまで具体的に神から教えられなければ、父も母も、子供たちを愛する愛がわからないのである。私たちはクリスチャンであり、聖書を読んでいる。それでも、私たちは子供たちを愛することにおいて罪を犯して、間違ってしまうことは少なくないのである。罪人は、神の律法と戒めがなければ、人間関係のことも神のことも何一つ正しく理解することもできなければ行なうこともできない。
罪人の問題は律法を破ることにあるのだ。律法は、愛を知るためになくてはならないものである。それは律法を強調する聖書的な考え方であるけれども、罪人の根本的な問題はその律法を破ることである。神の律法を守りたいと願う私たちも例外ではない。律法から愛の道を教えられる時に、それを守りたいと心から思う。それなのに、私たちは律法を破ってしまう。これが「不正」である。
パウロは最初から罪人の問題をこの二つの言い方によって二つの観点から語っている。人々は「祝福は欲しいけれども、神はいらない」という。そして、たとえ隣人を愛する愛を求め、家庭の祝福と社会の祝福を求めるにしても、「私は善と悪を自分で決めるのだ」という。創世記3章のエデンの園での問題は少しも変わってはいないことがわかる。罪人の問題は創世記3章のエデンの園の話のところで全部出て来ている。神の愛を信じない。それは神を憎むことに他ならない。そして、自分で善と悪を決めようとする。それは、「不敬虔」と「不正」を最初から表わす箇所なのである。「ほんとうに神はそう言ったのか」とサタンが言う時に、神に対する不敬虔をサタンは表わしている。「そういうことには絶対にならない。あなたがたは決して死なない」と言ってサタンがアダムとエバに律法を破るように誘う時に、サタンは不正を表わしている。
人間は神の似姿として創造され、神を愛する者に創造されたが、サタンの真似をして、不敬虔と不正の道を歩むようになった。これをパウロは罪人を描写する最初の言い方として使っている。罪人が救いを求めるとき、神によって与えられた現実の世界の構造と、創造主によって押し付けられた義によって限定されることを嫌う。善悪を自分で定義したいのだ。それで、罪人は神の律法を破り、神が定めた構造を捨てようとするのである。
ところで、ここに自然科学と社会科学の違いがある。自然科学において神の律法を破ることはかなり速やか且つ明らかに酷い結果を招くため、人間の反抗は「自分たちは神の律法を破ったわけではない」という言い方になる。これらの厳格な法の源は自然だと言う。そういって人間は神を避けるのである。他方で、社会科学においては、法そのものも法を破った時の結果もそれほど明白さと即時性を持たないために、問題を別の源のせいにするのみでなく、解決を求めるにしても、もっと“創造的”になることができる。従って、神の律法を人間が破るのは特にこの人間関係の領域ということになる。罪人はこよなく不義を愛するものである。
真理を阻む
「罪人はそのような者になった」とパウロが言う時、そのことを更に深く描写している。「不義をもって真理をはばんでいる人々」と言う時、「人々」とはすべての人間のことを指している。「不義をもって真理をはばんでいる」という時、「これは罪人の皆がしていることだ」と言っているのである。すべての人間は不正を行ない、不敬虔である。ここに、人間は神の似姿であること、そして罪人は神の似姿が曲がったものだという両方のポイントが提示されている。つまり、皮肉なことに、人間の素晴らしさがこの表現の中にあるということは考えなければならないポイントの一つである。というのは、「真理をはばんでいる」ということは、真理が最初に心に刻まれていることが前提となっているからである。
「真理」は、最初から人間の心の中にある。そのことをパウロは19節からのところでも説明している。人間は神の似姿なので、神を知っており、真理も知っている。「神の似姿」という言い方は、偉い、素晴らしい、すごいものだということを確かに意味している。それが前提となって、続くパウロの話の中にもずっとそれは出てくる。3章のところで、「罪人は神の栄光を表わさなくなってしまった」と言って、人間の罪を明らかにしている。永遠なる絶対なる三位一体の神の栄光を表わすものとして人間は造られたのである。罪人の酷さを正しく理解するために、そして罪人の悪を正しく知るために、「罪人は本来どんなに高い素晴らしい存在として創造されたのか」ということまず第一に知らなければならない。人間は本来どんなに素晴らしい者であったかを知った時に、その堕落がどんなに大変で大きな堕落かということが初めて認識できるわけである。真理を心の中に持っている。本質的に真理を知っている。それが神の似姿である人間なのだ。
遺伝という表現は実に相応しくはないけれども(真理は生物学的なものではないから)、あたかも遺伝によって真理を知っているかのようなことなのである。人間であれば、例外なしに神を知っており、真理を知っている。人間の心の中に真理は生まれながらにあるということを前提にしてパウロは19節から話をしている。真理は、人間の心の中にもあるし、外からの啓示も十分にある。人間は真理いっぱいの環境の中に生きており、真理の空気を吸って生きているのである。真理の中で呼吸している。鳥たちも真理の歌を口ずさんでいる。人は内からも外からも、真理に満ちた環境の中で成長している。けれども、罪人となった人間の真理に対する反応は、「真理を憎んでそれをはばむ」というものなのである。そのことをパウロはここで教えている。
「真理を知っている」ということは、人間の素晴らしさを表わすものである。神の似姿の素晴らしさを表わしているのである。人間の罪について語る時、往々にして人間を非常に低いものとして動物以下の言い方をもって表現しようとするが、それは間違いである。倫理的な意味ではそういえるだろう。つまり、動物は罪を犯さないので、罪を犯す人間は動物以下だということは、倫理的な観点からは言えるだろう。しかし、聖書の中で「人間は罪人だ」と宣言する時、人間を低く見ているわけではない。本質的に人間は神の似姿なのだ。その威厳に満ちた素晴らしい存在である筈の人間が曲がった生き方をする時、それはとても赦されないことなのである。動物以下であるなら、それが悪を行なっても、「仕方がない。本質を表わしているだけなんだから」という話になるが、そういうような話ではないのだ。
「性悪説なのか、性善説なのか、人間は根本的に悪なのか善なのか」ということがよく論じられたりする。しかし、聖書は、人間は根本的に悪だとも教えてないし、根本的に善だとも教えていない。「人間は神の似姿として創造されたのに、堕落した」ということなのだ。「根本的に悪だ」というと、罪はただ自然に自分の本質を表わしているだけだということになるが、そうではない。また、「根本的に悪だ」というならば、罪人の中の善はいったいどこから来たのかということも分からなくなる。「根本的に善だ」というならば、人間の心の中の悪はどこから来たのかということにもなる。
本当は、もともと「神の似姿」であったのに、それが「堕落して曲がってしまっている」のである。「曲がっている」というのは、例えばひび割れが沢山入ってしまった鏡のようなものだ。ひび割れがあるからといって鏡として全然使えないわけではない。見ることは出来る。けれども、すべてが崩れて曲がってしまう。罪人の心とはそのようなものである。神の似姿を真っすぐに正しく奇麗に表わすことをしないで、それを曲げるのである。曲がった形で神のかたちを表わす者になっている。
一例として、数学者でも哲学者でもあるバートランド・ラッセルは非常に優秀な頭脳の持ち主であるが、そのこと自体は神の栄光と知恵を表わすものである。とにかく言葉が豊かで、座って何時間でも考えもせずに書き続けることができる。そうして一回書いただけでほとんど間違いなしにそのまま編集済みの書物として出版することができる。その表現は実に巧みで美しく、明瞭なものである。哲学者とは思えないような書き方をする。大変な頭脳を持っていた。けれども、彼の書いたものの内容はことごとく曲がっている。神に逆らう内容で満ちている。神の栄光を表わしながらも、神に逆らう。それが罪人である。真理は心に書かれてある。けれどもそれに逆らってそれを阻むのである。それで「そんな真理など知らない」と吐くのである。
罪人の頭と心がどれほど複雑なものかというと、心の中にある神の真理を阻んで、それを押し隠して、そして自分を騙すことが出来るほどに複雑で深いものなのである。ここに、罪人の心理的錯乱状態が表わされる。罪人は何よりもまず「真理」から逃げなければならない。彼らの宗教的哲学的優先順位のリストの第一にそれがある。その手段とは、それを「拒む」ことである。即ち、自分自身を騙し、宗教、哲学、社会的習慣、心理的習癖を通して「真理」を否定することである。真理は実に痛みを伴うものだ。それ故、真理によって引き起こされた痛みと苦しみを軽減するためにあらゆる手だてが講じられなければならない。罪人は幼い頃からこの点において熟達するものだ。人間の心の深さは、実に「自己欺瞞と現実の中心を切り捨てることによって現実を再構築する能力」という難解な複雑さにおいて表わされている。「自分は真心から生きている」と自分に言い聞かせ、そう確信している罪人であっても、その心は複雑で罪に満ち、神の真理に逆らって生きている。その「心の複雑さ」が罪人について語る時には前提としてある。
人間は実に多くの理屈をもって真理を阻んで生きている。真理を阻む時、なにも頭の認識のレベルで「私は神の真理を知っているけれども、それを否定するぞ」と自分に言い聞かせて実行するわけではない。神のことを罪人に語る時、その人が「そんなこと私は知らない。本当かどうか私には分からない」と言うのは真っ赤な嘘なのである。自分に嘘を語り、自分を騙すことができる罪人は、当然ながら相手を騙すこともできる。罪人の心はあまりにも複雑で深いのである。神の似姿なので、罪人の心には自分も気付かない程の深さがある。もちろん相手にも気付かない深さがある。そういう意味で、罪人は曲がっていて、自分にとっても不可解なものとなっている。他人にとっても実に不可解なものである。
罪人の複雑さには二つの問題がある。一つには、「もともと神の似姿としての本来の深さを持っている」という問題がある。もう一つの問題は、罪人は矛盾だらけで、自分に対しても偽りを言うものだという問題である。それで、ますます混乱は進み、分からなくなってしまうのである。アメリカで子供たちに教える諺として「偽りを言わなければ、自分の言ったことを覚えなくてもよい」というのがある。どういうことかというと、偽りを言うならば、自分がついた嘘を覚えておかなければ、後でそれをカバーできなくなるということである。「A」という嘘を言えば、次には「B」という嘘でそれをカバーしなければならなくなる。それで二つの事を覚えなくてはならなくなる。それもいつかはばれてしまうので、「C」という偽りを言わなければ「A」と「B」を隠すことができなくなる。それで、「A」も「B」も「C」も全部を事実と違うものとして覚えていなければならない。「A」の事実をも、「B」と「C」の事実をも覚えていなければならない。どんどん頭の中は覚えなければならないことは増えるばかりで膨張していっぱいになってしまう。
しかし、矛盾したものが頭の中にあるので、いつかその偽りはばれてしまう。そこで、罪人は偽りを巧く言うためには自己防衛的に本当の事実を消そうとするようになる。自分の偽りを忘れないようにするために、本当の事実を消しておいて、偽りだけを大切に保とうとする。実際に自分を騙して、真理を深いところに押し込んで隠してしまうので、いつしかそれを取出すこともできなくなってしまう。人間の心はコンピューターよりもずっと複雑なもので、階層はいくらでもあって、最初のレベルを消しても二番目のレベルに残っている。二番目のレベルまでを消しても三番目のレベルにまだ残っている。神の御言葉の真理は最も深い階層にあって、それは消すことのできないものである。
「真理」が最初のレベルに出て来ないようにと、罪人はどんどん自分を偽り、自分を騙して、真理に反する無数の事柄を無理矢理に真理として覚えて、その偽りをインプットして信じ込んでから、こんど「私はそんなことは知らない」と言う。嘘偽りをあまりに頻繁且つ熱烈に繰り返すために、自分でもそれを信じるようになる。そうやって自分自身を騙し、自分を創造した神から逃げるわけである。だから、偽りを言わないならば、自分が何を言ったかを覚える必要はない。事実だけを思い出せばいいのである。嘘が巧い人は逆に本当の事実を消して、嘘だけを覚えようとする。それで、本当に自分の頭の中で分からなくなってしまうのである。偽りを真理と思うようになる。
それに似て、罪人は「神についての嘘」をいつもいつも自分の心に言い聞かせているので、認識のレベルにおいては本当の事実が分からなくなってしまう。罪人は、自然の歌をその言葉に気付くこともなく聞くように自らを訓練する。神の創造の御手の力とわざの芸術的な美しさを見て、それを楽しみ味わうことすらしながら、しかもそれを宇宙の偶然として片づけることを学ぶことに熱心である。そうして罪の両側面は、罪人一人ひとりの全人格に影響を及ぼすものとなる。
しかし、罪人は通常、「神の御怒り」という現実と同じように「自分自身の根本的な邪悪さ」に気付かない。なぜか。その答えは、罪人は彼らの心に語りかける「真理」を「阻んでいる」からである。彼らは自分の心の底にある真の状態が表われないように、その心を頑なにする。しかし、心のもっと深い階層においては取り消すことのできないものがある。「真理」は確かに「彼らのうちに」(19節)ある。また、パウロはその後に続く箇所で、神ご自身が数えきれぬほどの方法でそれを罪人に対して明らかにしていることを示す。そういうわけで、罪人は何者なのか、天の御父の存在と本性、その他の真理は、避けられぬほどに明白なものなのである。
だから、「真理をはばむ」というのは、ある意味で罪人の力を表わしている。皮肉なことに、罪人の真理を阻む能力は人間がすぐれたものであることを示すものでもあるのだ。神の真理はその人の心にはっきりと書いてある。けれども、人間は神のようなものであるので、自分の言葉の力(思考力)をもって神の真理に逆らい、その真理を自分の心から消し去るような力を持っている。認識して、闘って、それを取り消すことができるほどの力は実に大変なものだ。どんなに頭が悪くて何も出来ないような罪人にでも、それができるのである。神が啓示したものをもはや明らかに啓示しないように、その心の中で世界をそこまで徹底的に修正することができる、そのような被造物が他にいるだろうか。人間は神を拒むことができる。真理を阻むことができる。彼はそれほど神のようで、神が創造したものを作り直し、それを全く別なものに歪曲することができるほどに神に近いものなのだ。
つまり、人間は単なる“虫けら”ではない。彼は虫けらよりも遥かに悪く、遥かに危険なもの――腐り果てた王なのである。人間は、天に自分が聞きたいことを語らせる独裁者なのだ。頭の良い人は巧みにそれをやる。だから、優れた頭脳の持ち主の問題はもっともっと深くなってしまうのである。偽りを言う時に、もっと深刻な問題になる。この点でもバートランド・ラッセルは良い例である。幼少の頃から偽りばかりを巧みに言う。大きくなってからはその哲学も偽りに満ちた哲学になってしまった。しかし、それを巧く、説得力をもって人に教えることができるようになる。その神から与えられた祝福である優秀な頭脳をもって自分を呪い、他の人々をも呪い、自分でそれを裁きの器に変えてしまったのである。そこに、罪人の(神の似姿としての)素晴らしさとどうしようもなさの両面が出てくる。真理を阻む。真理を憎む。真理に逆らう。それはすべての罪人の心の状態である。
私たちも例外ではない。クリスチャンになった私たちには、神を愛する心もあるけれども、神に逆らう心もまだ残っている。真理を求める心もあるが、真理から逃げる心もある。両方が自分の心の中にあって葛藤している。だから、私たちの心の中には罪との闘いがある、と言われるのだ。そして、日曜日の礼拝で私たちは聖餐式を行なうが、その時に認識のレベルで御言葉が働いている筈である。皆は御言葉を求めて教会に来ているからだ。しかし、教会で教えられたことが全部そのまま暗記されているわけではない。
私も、説教したことについて誰かに「スミス牧師は5年前に説教の中でこういうことを言ってましたね」と言われても、自分でも覚えていないことがある。一年間で52週間の説教すれば、全部で約50時間くらい話している。17年間続けているので、全部で850時間くらい説教しているわけだが、その全部を細かく覚えているわけではない。けれども、認識のレベルでは御言葉は私の中でも皆さんの中でも働いているのは確かである。それも認識のレベルだけのことではないのだ。神の御霊は特別に礼拝において働いておられると聖書は教えている。ただ単に御言葉を一生懸命聞いて学問的にそれを覚えるというのではない。神の御霊は、私たちが認識もしていない心の深いところで働いてくださって、私たちを中から変えてくださるのである。外から変えてくださるだけではない。中から変えられるのだ。御霊はそういう意味で、私たちには分からない気が付いてもいないレベルで、礼拝において、また聖餐式において働いておられるのだ。それによって私たちは神の御言葉によって変えられていくのである。
認識のレベルにおいての理解は後になる場合もある。聞いて、理解して、「そうだ」と思ってそれを守る、という順番しかないわけではない。気付かないうちに心のどこかが変えられて、それが徐々に認識されて理解されていくという面もある。人間の心は実に複雑で、自分さえその複雑さが分からないし、心の中の偽りの部分と神に逆らっている部分に気が付かないことも多い。「罪人の問題は実に深い」と言わなければならない。不敬虔と不正において、不義をもって御言葉を阻むので、その真理は認識のレベルにまで出てこない。また、それが認識のレベルに出てこないようにと一生懸命心にある真理をかき消そうとするのである。神から逃げている。それが罪人の状態である。その状態をパウロはこの言い方によって表わしている。
自分の心と被造世界にこだまする神の声をかき消すことは、サタン的ビジョンの成就には不可欠なことである。サタンは、神の愛を否定して神の命令に従わないようにと、しきり促した。アダムはサタンの計略に同意した途端、不敬虔で不正な者となった。彼は、神の言葉と裁きはせいぜい二次的であると考えた自分の世界において、自分で善悪を決めることを心に決めた。彼は、「神が何と言おうと、死ぬことはないだろう」と考えた。しかし、アダムは、一時は神の言葉を駆逐し破壊することができる全能と思われた自分の言葉(つまり彼が心の中で神に逆らって語った事柄)が、最終的には何の力もないことを見出したのである。
真理は阻むことができたが、他のものに取って代われることは有り得なかったのである。これが罪人の重荷である。彼は、キリストにある真理の痛みから逃れるために、常に自分自身に対して偽らなければならない。この偽りは、彼が救いと見做すすべての出発点であり土台なのである。これが彼の思惟の土台なのだ。しかし、事実は、これこそ彼の罪であり、彼の持つあらゆる問題の根源なのである。彼は、自己欺瞞によって神から逃れることはできない。偽りに効力はない。その効力は残らない。更に悪いことに、それは「神の御怒り」を招くものである。神は偽り者を忌み嫌われる。王の王なるお方は宇宙の無政府主義者たちを忌み嫌われる。罪人がどれほど己を騙そうとも、神とその御怒りから逃れることはできない。神の世界に“出口無し”である。
問 題
「神の怒りが天から啓示されている」とあるけれども、原語ではこれが18節の最初の言葉である。「神の怒りが天から啓示されている」、これが福音の出発点である。パウロは、人間の罪に対する「神の御怒り」について雷のような強烈な宣言をする。これが人間の根本的な問題なのだと宣言している。この問題こそ福音のみが取り扱い得るものである。そして、罪人は、特にこの事実から逃げようとする。クリスチャンではないほとんどの宗教は、神の怒りを否定し、その事実から逃げる宗教だといえる。パウロは、福音を説明する最初のところで、福音がまず解決しなければならない問題は何なのかを明らかに提示している。それは「神の御怒り」である。
私たちにとって最初に解決しなければならない最も重大な問題は何かというと、神の怒りなのである。罪深い人間は、己の問題を地震、干ばつ、洪水、火山などのような物理的な世界の問題であれ、霊的領域の問題であれ、すべてを“自然”による結果として考えることを好むが、私たちの一番根本的な問題は生物学や物理学的な問題ではない。確かに私たちにはいろいろな病の問題があり、身体の弱さもあるだろう。老年になれば、身体の多くの器官は若い頃のようには機能しなくなるだろう。50歳にもなると、心臓や肝臓などは20代の人の70%くらいしか機能しないと言われている。人によって違いはあるだろうが、生まれながらの問題もある。生まれながらにして目が悪いとか歯が弱いとか、心臓が弱い人もいる。そのような生物学的な問題があるのも事実である。しかし、それらは私たちにとって一番目に解決しなければならない問題ではない。そのような生物学的な問題のすべては復活において完全に解決される。
他に人間関係の問題も当然ある。「仕事は良いものだが、人間関係はどうもならない」という題名の本があるけれども、「人間さえいなければ仕事は素晴らしいものだ」というような意味である。会社においても、家庭においても、学校においても、友人との間においても、結局は人間関係の問題は次から次へといくらでも出てくるものだ。自分の姿を鏡に映す時でさえ人間関係の問題は出てくるほどである。福音は、そのような問題をも解決してくれる。しかし、それも一番目に解決しなければならない問題ではない。
更に環境の問題もある。人為的な公害の問題もあるが、それよりも、地球環境そのものが人間を憎んでいるのだ。突然に地震は来るし、急に頭上に火を降らせたり、急に水で私たちを殺そうとしたり、時には水を与えないことによって人間を殺そうとしたりする。とにかく、地球が私たちを憎んでいることは、アダムの堕落以来そうである。しかし、それも私たちにとって最も大切な問題ではない。
福音が解決するのは、それらすべての問題の究極的な源である「神の怒り」である。罪に対する神の御怒りから「死」は来ている。そして他のすべての問題も最終的に行き着くところは「死」である。しかし、仏教はこのことを否定する。なぜ死ななければならないのかというと、「最初から人間は死ぬべきものとして存在している。そのように宇宙は出来ているのだ」と彼らは教える。死んで、また生まれて、また死んでは生まれる、永遠に繰り返される輪廻を説いている。最初に戻ったらまた全部を繰り返すのだという。ヒンズー教の中にもその考え方があるし、昔のギリシャ哲学の中にもあるし、十九世紀の西洋人が進化論を作った時に「これで神から逃げる道を見つけた」と言って人々は踊って喜んだ。それは、宇宙の始まりにおいて神から逃げることさえできれば、死の問題は単なる自然のことに過ぎなくなるからである。死は神の裁きではなくなる。それで、倫理的な意味は宇宙から何も教えられなくなる。死の問題から逃げることができれば、神の裁きから逃げることができる。神の裁きから逃れるためには、まず第一に神の創造から逃げる必要があった。創造主を否定できれば、この世の中に起こり来ることはすべて“自然”ということになる。究極的な犯罪者は自然そのものであり、すべては自然のせいだという考えになる。
これはマルキ・ド・サド(サディズム)のような哲学にもなる。「人を殺したい」という思いが湧き起こっても、それは「自然」ということになる。「別に神のせいでもないし、神なんか存在しない。人を殺したいという思いを抱く者が悪いのではない。その思いは自然の一部分に過ぎない」ということになる。自分の心の中にある気持ちもすべて「自然に湧き出たもの」に他ならないので、殺したければ殺したらいい。苛めたければ苛めたらいい。「別に、善も悪もない。自然があるのみ」ということになる。
病や老いなどの身体的な問題であれ、精神的な問題であれ、「みな自然の一部なのだ」と主張するとき、「それらはすべて自然科学によって完全に説明できて解決できる問題だ」と言っているのである。「生物学、物理学、化学、天文学などは、徐々に全体を説明する道具及び救いを提供する手段を獲得しつつある」と主張するのである。ニーチェは、宇宙の始まりの問題を、「万物は永遠に続くものであって、元に戻ったらもう一度最初から始まるもの」と考えた。それで、「初めはなく、歴史は永遠に繰り返される」と考えた。そうでも考えなければ、初めと終りがあることを否応無しに認めなくてはならなくなるからである。「初め」とは神の創造であり、「終り」とは神の裁きである。その中間にある問題は倫理、神との関係、罪の問題、死の問題ということになる。それは止むを得ない、逃げられない事実となるので、人間はそれを認めたくない。そこから逃げるためには創造主を否定することから始めなければならないわけである。
それだから、昔の宗教はことごとく「創造主を否定する宗教」になる。創造主を否定して逃げる仏教とヒンズー教は人類の半分以上を支配している。世俗的なヒューマニズムをも含めると確実に半分以上になる。インドはヒンズー教で中国は仏教或は共産主義教で、それだけでも人類の半分近くにもなる。人々は創造主を否定することによって、罪の問題、死の問題、裁きの問題から逃げている。「神の怒り」を哲学的に否定することによって、自分の罪を感じなくすることを求める。そして、ついに神無しの天国を作ろうとするようになる。
神無しの天国を作ろうとする時、神無しに、人間がぶつかっている問題を解決しようとするのである。天候の問題をただ科学的に解決しようとする。人間の多くの問題をも、神無しに、生物学的に解決しようとする。人間関係の問題はすべて薬で解決しようとする。「この人には問題がある」と言ってその人に薬を呑ませたり打ったりして落ち着かせて人間関係の問題を解決しようとする。だいたいがそうなのだ。家庭の中では、半分寝て半分起きてて何が何だか朦朧としてあまりわからない状態にしてあげれば、喧嘩も少なくなる、というわけである。その薬を多く呑めば、人間関係の摩擦は少なくなる。問題あると思われる人は薬漬けにされてしまう。事実、現代はそのように問題を取り扱うけれども、その類の薬を沢山呑まされている人ばかりが入院している病院に入れられれば、また別な意味での人間関係の問題は起こってくるであろう。
とにかく人間は、「神無しの解決」をすべてにおいて求めるものである。問題は「神の怒り」だということを先ず認めなければ、救いの道は全く違ったものになる。それは「信仰によって正しさを求める道」ではなくなる。問題の根本が「神の怒り」にあるならば、当然、神は私たちの不義に対して怒っておられるのだ。それで私たちは、神の御前で正しい者にならなければ、人間のすべての問題は絶望的なものとなり、解決されないことになる。それが最も根本的なことである。その神の御怒りの問題の解決はただキリストの十字架のみにある。神の御怒りから救われる道はただ信仰の道のみである。そのことをパウロは説明している。
先ず、第一に、「神の怒りが問題なのだ」ということを認識しなければならないのである。それ故パウロは「神の怒り」から説明を始めるのである。社会問題は現代人にとっては別な問題である。つまり、それらは通常、生物学や化学のようなハードサイエンスによっては説明はされない。しかし、ここでも“科学”は救いの知識の源泉であるかのように考えられているのだ。即ち「社会科学」が主役となるのである。貧困、不平等、その他の社会不安や不満から生じたと考えられる諸問題は、経済学者や政治家によって解決され得ると言われている。私たちは常にこれらの人々に失望させられてきたし、彼らの科学はかなり評判が悪い。それでも現代社会は概して困難な時代になると、政治家たちに祈りをささげるのである。政治が何とかしてくれるのを求めるのである。
聖書は、人類の諸問題に生物学的、化学的、社会的な側面があることを否定はしない。確かに、あらゆる現代科学は限定された意味で人類の役に立っている。しかし、聖書によれば、人間の諸問題の根源は“自然”にあるのでもなければ“社会”にあるのでもない。私たちの持つあらゆる問題の根源は、神ご自身、特に「神の御怒り」にあるのである。世界は人間に対して火を吐いたり、溺れさせたり、山を揺るがして人間を滅ぼしたりするために創造されたのではなかった。これらの“自然”現象のすべては、実は不自然なものなのだ。それは、被造世界における神の御怒りの証拠であり、即ち「デンマークは腐りかけている」(『ハムレット』第一幕第四幕)しるしなのだ。個人の病気や奇形、また国の苦しみも同様に不自然なものである。パウロはここで、個人としての人間と人類全体とは、その試練において“自然”以上の何ものかに直面しているのだ、と語る。実のところ彼らは、神の御怒りと格闘しているのである。
このような問題の定義づけは、先にも話したように、キリスト教以外の宗教や哲学者たちが何としても避けたがっているものである。明らかに、もし「神の御怒りが問題の根本」であるなら、神から離れての解決は有り得ない。これは、罪人にとって、他のすべての問題よりも大きな問題なのである。
罪人である人間を駆り立てている基本的な力は、問題からの逃避ではなく、神からの逃避にあるからだ。人間の第一の恐怖である「創造主なる神」から解放されたがっているのだ。神に対する人間の責任から逃れたい。神の最後の審判の恐怖から逃れたい。そのために、神がこの世の創造主であることを否定する。罪人はなんとかして神ご自身から逃れたいのである。このことが人間の苦境を更に悪化させているという事実に直面する時に、他のすべての問題は人間にとって二次的だということが明らかとなる。パウロは、あらゆる困難の本当の源に私たちを直面させることによって、本当の救いの教理への道を備えてくれている。「神の御怒り」こそすべての問題の中心であり、その御怒りを取り除いてはじめて人間は真の安息を見出すからである。
「福音」は、神ご自身が人間のために救いを備えてくださり、御恵みと愛とをもって私たちの問題を解決することを宣言する。しかし、それには罪人が信仰によって神に立ち帰ることが要求される。それは、罪人が何よりも恐れている泉から水を飲むように要求することでもある。信仰のみによって救いの門は開かれるのである。
私たちの生活の中のすべての問題は、そういう意味で神の御怒りから来ると考えてよい。しかし、主イエス・キリストを信じることによって私たちは神の怒りから救われたのである。キリストを信じる私たちにとって、神の怒りには憎しみや永遠の裁きの意味はない。父親の声が、だんだん大きくなって、雷のような声になっていることを私たちは経験する。しかし、それを父親の愛として感じる筈である。神が私たちに対して怒っても、それは愛の怒りに他ならない。愛する子を父は叱って懲らしめて、義の道に立ち返らせてくださる。しかし、神を信じない罪人にとって神の怒りは、その人を食い尽くして裁く永遠の怒りである。
福音は、その御怒りから救われる道を主イエス・キリストにあって教えている。「救いの唯一の道」を提供しているのである。私たちの身代わりとなってくださった主イエス・キリストを信じることによって、私たちは神の御怒りから救われる。信じる私たちにとって、神は私たちの天の父であり、永遠の愛をもって私たちを愛して導いて成長させてくださる御方であられる。
聖餐式の時に、私たちは、神の御怒りから救われたことを心からお祝いして感謝するものである。私たちはみな神の怒りを受けるべき者であった。今でも、私たちは罪人であって、神の怒りを受けるべき者だということを告白している。そのことを実際の言葉で毎週言ってはいないが、主イエス・キリストを示すパンと、キリストの血を示す杯を別々に分けて、別々に受けるのは、「死」を表わすことである。身体から血を取除けば死んでいる状態になる。そのことによって、主イエス・キリストの十字架のことを覚えるのである。キリストが私たちの身代わりとなって神の永遠の怒りの坏を完全に呑み干してくださったことによって、私たちは救われたのである。そのキリストの十字架の死を覚えて、聖餐式を受けるのである。
一方的な恵みによって神の御怒りから救い出されたことを喜び、感謝をささげるのである。本来、自分がその裁きを受けるべきであることを、パンを食べ、杯を飲む時に、告白するのである。私こそ死ぬべきであった。しかし、キリストが代わりに死んでくださったことによって、私は救われた。そのことを、パンを食べることと坏を飲むことによって告白しているのである。神の永遠の無限の御怒りから救われたことは、他のすべての祝福の本質であることを私たちは知っている。御怒りから救われたということは、神の永遠の愛が与えられたという意味である。そのことも聖餐式にあって表わされている。パンと坏は、キリスト御自身を表わしている。神は、私たちに、御自分の御子を与えてくださった。私たちは熱い信仰をもって御子を受け入れる。神の御怒りからの救い、そして神の愛をも救いとして覚えて、この聖餐式の時にそれを告白し、喜んで、実際に受け入れるのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。
――1998年8月2日―
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com