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    ローマ人への手紙2章6節〜11節


    2:6 神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。

    2:7 忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、

    2:8 党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

    2:9 患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、

    2:10 栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

    2:11 神にはえこひいきなどはないからです。

    98.10.4. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    永遠のいのちを求める

    2章6〜11節

    6神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。7忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、8党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。9患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、10栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。11神にはえこひいきなどはないからだ。

       この6〜11節を読む時に、皆さんはもう既にその構造に気が付いたのではないかと思う。6節の「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになる」と11節の「神にはえこひいきなどはないからだ」は平衡している。そして、7節の「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え」というところは10節の「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にある」とは平衡している。そして、8節の「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下される」と9節の「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下る」は一緒になっている。この段落はキアスマス(平衡法)の構造になっていることはすぐにわかると思う。この箇所でパウロは続けて神の最後の裁きについて話す。6節と11節は、神の裁きが人間の行ないによる裁きであるゆえに、それは正しく、えこひいきがないことを主張している。7節と10節は、永遠のいのちと栄光を求める者たちを指している。キアスマスの真ん中にある8節と9節は、真理に従わない悪を行なう者について語る。

       2章に入ってからパウロは裁きについて話している。道徳的に生きる人間は、「自分は正しいのだから他の人々を裁くことができる」と思っている。しかし、彼には他の人を裁く権利はない、とパウロは説明する。特にパリサイ人やパリサイ人的な異邦人のような人間を想定している。自分の罪を認めず、悔い改めもしないのに、他の人を裁くような人間を取り扱う時に、パウロは「神の裁きに目を留めて考えなさい」と警告するのである。神の裁きに目を留める時にはじめて人間は本当の意味で事柄を正しく見ることができるようになる、ということを教えている。そうであれば、裁く時、まず自分こそ悔い改めなければならないということを何よりも深く感じる筈である。自分の罪の問題は他のどんな事よりも大きな問題だということを認識するようになる。2章の初めに指摘されている人々はなかなかそのことを悟らない。そして、人を裁きながら自分で同じことを行なっている、とパウロは言う。

       今から見る6〜11節の箇所では、ある意味でその人たちに良い行ないについてのまったく異なる考え方を与えようとしていると考えてよいと思う。実は6節からの箇所には難しいこともある。パウロが何を言わんとしているのかについて重要な議論がなされている。注解書を見ると、C.E.T.クランティオはこの箇所についてのいろいろな解釈を紹介する時に十の解釈に分けているが、その十の解釈を四つに減らすこともできるし、大きく二つの解釈にまとめることもできると思うので、ここでは二つの立場に絞って考えたい。

       基本的に二つの解釈に大別した場合、その一つは、「もし良い行ないによって救われることが可能であるならば、その良い行ないとはここまでのものでなければならない。このレベルに達しなければ滅びる」という“仮説的な解釈”であり、それに従ってずっと16節までを解釈するものである。「良い行ないによって義と認められることを求めるならば、ここまで素晴らしい者でなければ絶対に救われない」という解釈である。そのようにこの箇所を解釈すると、「実際にそのような方法で義と認められることが有り得るのかどうか」という議論をしなければならなくなる。

       3章で人間の罪についてパウロが説明するところでは「良い行ないによって義と認められる人間は一人だにいない」ということが明らかにされているので、「十分に義と認められるだけの良い行ないを自分で持つことは不可能である」という結論に至るわけである。イエーン・ホッジ等の有名なカルヴァニストの注解書もそのような解釈の立場をとっている。つまり、ここでパウロは「もし良い行ないによって不滅のものを求めることができるのであれば、その人は救われるだろう」という仮説を立てて理論展開しているのだと解釈する。しかし、後に3章でパウロがすべての人間が罪人であることを宣言する際に、実際にはそのような人生を送る者は誰一人いないということが明らかとなる。それで、ここで開かれているように見える「永遠のいのちを努力によって獲得する」という仮定上の可能性は閉ざされるという結論に至るのである。

       もう一つの解釈は、そのような仮説的な解釈でなく、6節から16節でパウロは真のクリスチャンとクリスチャンではない人々について話しているのだと考える。つまり、「クリスチャンは良い行ないを実際にする者であり、クリスチャンでない人は本当の意味で良い行ないはしていないのだ」という比較を以て最後の裁きについて説明しているという解釈である。この解釈によれば、自分は道徳的に生きていると思っている人間に対して「本当の良い行ないというものは、あなたがたが考えているようなものとは全く違うものだ」という訴えをすることになる。本当の意味での良い行ないをしていなければ決して救われないということになる。

       道徳的に生きること自体を攻撃しているわけではない。「悔い改めのない良い行ないは、実は良い行ないではない」という訴えなのだ。つまり、ここでパウロは「良い行ないとはこのようなものである。こうでなければ決して道徳的に良い行ないではない」と教えているのだと解釈する。真のキリスト者と非キリスト者との違いについて語っているという解釈である。道徳的な人間は悔い改めがないために偽善者であることは既に暴かれた。それで、パウロの議論において次の段階は、そのような人にいのちの道を示しつつも、来たるべき裁きを警告することである。道徳的な人を取り扱う上で「これらの人々は本当の意味では全く道徳的とは言えないものであって、キリストにあるいのちの道こそ道徳的生き方の唯一まことの道だということをパウロは明らかにしている」とする点でこの立場は重要である。このように、パウロは信仰の外面的な表われを強調する。彼は、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、道徳的人間の生き方と対照をなす「信仰の生き方」を示しているのだ、と解釈するのである。

       どちらの解釈が良いのだろうか。私は二つ目のアプローチの方が正しいと信じている。シカゴで牧師をしていた頃、私は明らかに最初の解釈でローマ人への手紙を教えていたことを覚えている。当時は最初のアプローチの立場を取っていた。しかし、聖書を学んでいくうちに、二番目の解釈の方が正しいと信じるようになった。なぜかというと、それは道徳的人間の偽善をより深く暴くと同時に、悔い改めて神の御恵みを求める警告と訴えをも提供しているからである。ここでパウロが仮定上の道を示しておいて、議論のずっと後になってそれを取り除くというアプローチは私としては考えられないものである。

     

    神の裁き

       仮定的アプローチの可能性を疑うに至った一つの理由は、パウロがここで最後の裁きを人間の行ないに対する裁きとして明確に語っている点である。新約聖書の中で最後の裁きの箇所について見る時に、ほとんどの箇所は「行ないによる裁き」ばかりなのだ。最後の裁きは行ないによる裁きだということが一貫して聖書の中で強調されている。これは聖書が概して最後の裁きについて語る語り方なのである。福音派は「キリストにある信仰こそ他の何にもまさって重要だ」と正しく信じている。救われる者は誰でも、「ただ信仰のみ」によって救われる。しかし、聖書の教えに忠実であれば、聖書が私たちの行ないに焦点を当てる最後の裁きについても教えているという事実に直面せざるを得ない。この二つの真理はもう一つの真理において調和するものだ。即ち、信仰は必ずや生活の中で自らを現わすという聖書の教えである。

       「最後の裁きは行ないによる裁きである」と考える時に、私たちの行ないが本当の行ないなのかどうかが試されるわけである。それ故、パウロはここで、悔い改めのない所謂善人たちに訴えている。「あなたたちは悔い改めていない。表面的に良いことをしているようでも、悔い改めていなければ、結局本当の意味で良い行ないをしてはいない」ということを、1〜5節においても訴えているのである。「罪に対する悔い改めのない生活は神の御怒りを招く以外の何ものでもない」と、訴えているのである。何をするにしても、それは本当の意味での良い行ないではない。それ故、他の人を裁く権利もない。あなたも同じような罪人に過ぎないからだ、と教えているのだ。そこまでは誰も解釈的に議論の余地はない。

       しかし、6節から11節までの箇所になると、パウロは反対に、「神の裁きは正しい裁きであって、本当の意味での良い行ないを持っていなければ必ず裁かれる」と言っている。そして、その後の12〜16節の所では律法の話になり、「律法を本当の意味で行なう者でなければだめなのだ」と言っている。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、律法を聞くかどうかが問題なのでなく、律法を行なうかどうかが問題なのだと言うのである。この二つの段落を以てパウロは、「本当に救われる者は本当に良い行ないを持っている者でなければならない」ことを説明しているのである。その悔い改めのない偽善的な“良い行ない”は決して真の良い行ないではない。そのポイントをパウロは強調して教えている。人が本当に信じていることは、最終的にその人の実際の日常生活全体を根本的に決めるものである。そこで、行ないによる最後の裁きとは、個々人の真の信仰と、生活におけるその信仰の現われとに対する最終的裁きを意味するのである。

       6節に「一人ひとりに、その人の行ないに従って報いを与える」とあり、11節では「神にはえこひいきなどはない」とある。つまり、最後の裁きは、絶対で完全で正しい裁きなのだ。「えこひいきはない」という聖句は、ただ「クリスチャン」という名を持つだけでは救われないことを思い起こさせてくれる。自らの信仰を証明する行ないを持つ者だけが救われるのである。裁きは偏ることなく、行ないに対して下される。その人の行ないに従って報いる公正な裁きである。パウロはこのことを強調するときに、表面的に良い行ないをする者はパリサイ人であっても異邦人であっても、所謂良い行ないをする人間は誰であれ、裁きがどのようなものなのかを考えてさせることが前提となっている。

       そういう意味で7節から10節までに書いてあることは驚くべきことであり、深い意味を持つ。「忍耐をもって善を行なう」ということから始まって「栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与える」と言っている。これを読んで意味を取り間違えてしまう人もいる。つまり、「栄光と、誉れと、不滅のものとを求める」ということをパリサイ人の観点から解釈すれば、パリサイ人は十分に栄光を求めているし、十分に誉れをも求めている。しかし、「不滅のもの」を求めているかどうかになると、話は違ってくる。正しい意味で「善を行なう」ということは、不滅の栄光、不滅の誉れを求めることでなければならないのである。主イエス・キリストもパリサイ人に対して、「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができるのか」と言っておられる(ヨハネの福音書5章44節)。いったい、どういう栄光を求めているのか。どういう誉れを求めているのか。それが問題なのだ。ここに、「善を行なう者は栄光を求めており、誉れを求めており、不滅のものを求めている」とある。そのような者に、永遠のいのちは与えられる。

     

    悪を行なう者の道

       この箇所を理解するための“鍵”の一つは、悪を行なう者がどのように表現されているかにある。彼らは道徳的な人間にも適用され得る言い方で描写されているのだ。パウロはここで“失われている者”を偶像礼拝者とか性的に不道徳な者としては描写しておらず、最も道徳的で高潔な不信者の男女に適用し得るような広い言い方を用いている点に注目すべきである。悪をおこなう者を描写するのに使われている最初の言葉は古い翻訳では「党派心を持つ」という言葉である。8節に「党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下される」とある。この節の「党派心」という言葉の日本語訳には問題があると思う。「党派心」と訳せないわけではないが、誤解を招きやすい訳である。このギリシャ語は「自己中心」とか「自分勝手」という意味の言葉である。ここでは「自己中心」と訳す方が正しいと思う。英語訳でも古いKing James訳ならば「党派心」となっているが、New American Standard訳とかNew King James訳などの新しい訳では「自己中心(selfish ambition)」と訳されている。

       ここには「栄光」と「誉れ」と「不滅のもの」とを求める者と自己中心的な者との対比がある。本当のクリスチャンと単なるパリサイ人にすぎない者との違いがここに提示されている。不信者で所謂道徳的と思われて“良い生活”をしている者は基本的に自己中心的で自分勝手で頑なな者である。彼らの野心も良い行ないも、その道徳性も、すべて自分の胃袋から出ていて、自分のためのものである。そこが対比のポイントであり、問題を明確にする“鍵”である。例えば、哲学者のイマニュエル・カントは、「人間の自律的道徳のみが真の道徳である」と主張したが、それはこの対比を明白に表現したものと言える。それはパウロの主張と真っ向から対立する。パウロが神の使徒であるならば、カントの道徳は不道徳の極致となる。そして、カントの良い行ないは彼の主に対する反逆と見做されるのである。

       次の表現はこの見解を確証するものである。クリスチャンではない人々は「真理に従わない」者である。ここに知的罪と日常生活との一致がみられる。自分で自分を道徳的と思う人間はキリストにある真理、被造物と御言葉に啓示されている神の真理を拒んでいる。彼らは神なしに道徳的人生を送ることができると信じている。カントは盗みを働かなかったし、性的に不道徳というわけでもなく、病的な嘘つきでもなかった。しかし、彼は根深い情熱を傾けて聖書の真理に徹底的に逆らった。「心を聖書の教えに従わせるという概念は人間の尊厳に対する一種の冒涜だ」という印象を彼は人々に与えた。その意味において、カントは「不義に従った」のである。

       クリスチャンではない人たちは「真理に従わない」ことを罪とは思っていない。誰でも「1+1=2」という真理には従う。しかし、たとえそれに従わない人がいるとしても、クリスチャンでない人々は気にもしないのである。「道徳」が問題になる時でも、ただ表面的なことにしかならない。真理を基準として考えることはしない。しかし、神の真理に従うのか従わないのかは、本当の意味での倫理においては実に大きな大きなことなのである。そういう意味で、知的な罪という罪もある。分かっていただけるだろうか。知識における罪もあるわけである。「クリスチャンの倫理が素晴らしいものだということを私は認める。聖書の教えも素晴らしいものだと思う。でも、イエス・キリストが神だということはとても信じられない」と彼らは言う。それは実に自己中心で真理に逆らう姿に他ならない。「聖書が教える正しさや倫理は非常に素晴らしいものであって、深く学ぶだけの価値があるとは思う。しかし、それが真理だとは思わない」とも言う。また、「もろもろの宗教の中で、これは一番すぐれたものかも知れないことは私も認める。けれども、それが真理だとは思わない」と言うのである。

       アブラハム・リンカーンについてそれほど深く知っているわけではないが、今まで読んだ書物などから、彼はそのような考えの持ち主であったように思われる。「聖書は、社会の土台としては素晴らしいものであり、社会のために非常に役に立つものである。社会は、何かの宗教がなければだめになる。特にアメリカの場合はこの宗教しかないので、この書物を社会の土台にしなければならない。しかし、自分が個人的に聖書を真理として信じるわけではない」というような考えを持っていたようである。聖書は役に立つ最高の宗教的書物であるから、彼はそれを国家の土台にした。多くの偉人にもそのような考え方はあったし、今のアメリカでも保守派の中にはその考えの人は沢山いる。「私たちは西洋人であり、キリスト教はなくてはならないものである。だから、聖書がよく読まれて尊ばれることは良い事である。一般の人々が真剣にそれを信じるとしても、それは良い事である。とにかく、これは社会と国家の土台としてはなくてはならないものなのだから」と考える人は実に多い。それもまた「真理に従わない者」の中に含まれる考えなのだ。

       トーマス・ジェファーソンは表面的には悪いことはしないけれども、前にも言ったように、聖書を読む時に彼は自分の嫌いな箇所や都合の悪い箇所を全部切って捨てた。そして、自分仕立ての聖書を作った。これは明らかに「真理に逆らう者」である。アラン・ブルームは、自分の祖父と祖母について語る時、「聖書を信じた時代のアメリカ人は互いに真の交わりを持っていた。貧しい者も裕福な者も、教育ある者も教育のない者も、皆同じ土台に立って真剣な交わりを持つことが出来ていた。現代の人間にはそれができない。社会には、その社会を一致させる書物というものがなければだめなのだ。しかし、今や聖書の時代は過ぎ去った。聖書が基準としてあったあの良き時代はもう終わったのだ」と嘆く。アラン・ブルームは人間としては立派な人物だと私は思う。所謂道徳的な人間である。社会を見て、「こんな音楽をやっている者はばか者だ」と言う人はいくらでもいる。「こんなに程度低い生き方をしている若者はどうにもならない」と言う人は沢山いる。それは見ればすぐにそう感じるものである。しかし、自分は本質的にそれと違う生活をしているのかというと、そうではない。実に自己中心的で、神の真理を嫌い、神の真理に従わないで生きているのだ。まさにそれが悪を行なうことの本当の意味なのである。

       それ故、パウロはここで「誉れを求める」ことを善の行ないの本当の中心として話をするのである。自己中心的で真理に従わない。それが“悪の正体”なのだ。神の心理に従わず、神の国とその義とを求めないというかぎりにおいて悪を行なうカントのような道徳的人間の上に神は永遠の怒りと憤りとを注ぎ給うのである。すべての道徳家と違わず「自分は正しい」と思い込むカントの道徳は単に神に対する反逆でしかないことがあばかれて、彼は患難と苦悩の未来に直面するのである。カントは自称善人であったが、実際は悔い改めのない者、真理への反逆者に過ぎなかったのだ。このことはこの議論の始まりであるローマ人への手紙の1章18節に私たちを引き戻すものである。「というのは、真理をはばんでいる人々・・・に対して神の怒りが天から啓示されているからです。

     

    キリスト者の道

       パウロがただ単にクリスチャンを善人として見ているというだけでは論理的に納得できる説明とはならない。パウロは道徳的な人間にその人間的な道徳――悔い改めのない道徳――が全く不適切であることを示そうとしている。同時に、パウロはクリスチャンを定義する上で、道徳の問題を無視することもしない。なぜなら、もし人が行ないによって裁かれるべきであるなら、クリスチャンの行ないはその信仰を表わすものでなければならないからである。こういうわけで、パウロはクリスチャンを、忍耐をもって善を行なう者として、またその良い行ないが非常に特別な種類のものである者として見るのである。

       キアスマス(平衡法)の書き方の目的の一つは、複雑な対比を可能にすることだということは詩篇の学びの時にも既に話したので覚えていると思う。ここでも、「自己中心で、真理に従わず、悪を行なう」と言う時に、平衡法で「真理に従う」が「」に含まれ、「自己中心的ではない」も「」に含まれる。「善を行なう」と「悪を行なう」は対比される。そして、「栄光と誉れを求めていない」ということが「」に含まれている。だから、栄光と誉れを求めない生活は悪い生活である。クリスチャンは「栄光と誉れと不滅のものを求めている」とパウロは言う。クリスチャンではない人たちも栄光や誉れを求めていると思うだろうが、皆自己中心的な意味で栄光と誉れを求めている。それは誰もがやっていることである。パウロが言わんとしているのは、クリスチャンが自己賛美を求めることに献身するようなことではない。「栄光と誉れを求める」とはいったい何の話なのか。パウロの言う「栄光と誉れ」とは、神の栄光と誉れでなければならないのは明白である。

       主イエス・キリストが私たちに教えてくださったことは今日を生きる私たちにとって特に大切なことである。クリスチャンは、その目的が主の祈りと一致する行ないによって自らの信仰を証明しなければならない。「天にまします我らの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行なわれるように地でも行われますように」(マタイの福音書6章6〜10節)。どんなに心配しても背が高くなることはない。抜けた髪の毛も生えてはこない。欲する物が必ず与えられるわけでもない。間違った意味で、あるいは悪い動機で心配したりするよりも、神の御国と神の義とをまず第一に求めることの方が何よりも大切なのである。神の御国とその義とを第一に求めているのかいないのか。それが善と悪の中心的な区別となるのである。

       主の祈りをする時にあなたはどう祈っているのか。「天にまします父なる神よ。今日の糧をお与えください。アーメン」と祈っている筈はない。実際にそのような心で祈ってしまうことはあるかも知れない。これは個人的に誰かを特定して言っているわけではない。罪人は結局のところ自己中心的になってしまいがちなものだということである。私たちは皆、おのおの自分自身について吟味すべきである。罪人は皆、今日の糧があるかどうか等についてひどく心配したりするものだ(マタイの福音書6章25〜33節)。それらの為には幾らエネルギーを使っても惜しまないが、御国を求める思いとなるとあやしいものなのだ。

       本当に、私たちは自分の祈りをよく吟味しなければならない。自分の祈りはどんな祈りなのか。本当に主の祈りにあるように神の御名の栄光を求めているのか、神の御国を第一に求めているのか、神の御国に対する思いが有るのか無いのか。そこが、栄光と誉れを求めて生きているかどうかを決める分岐点なのだ。毎日の生活において「御国のために」という熱心な思いを持って生活を送っているのかどうか。御国を心から求めてすべての事柄を考えているのかどうか。「一と多」を言うならば、御国はその「一」を与えるビジョンであり、「多」のすべてはそれに適応するものだというような言い方をしてもいいと思う。主の祈りにおける最初の三つの祈りは、神の栄光が表わされること、神の御心が行われること、神の御国が来ることである。あなたは毎日どれほどの時間を裂いてその事を考え、求めているのか。どこまで熱心に祈り、どこまで真剣に深くそのことを考えるているのか。「主よ。私はあなたの御国のために何をすべきなのでしょうか」と、どこまで熱心に求めているのか。「御国のために」という言い方は単なるきれい事や祈りの飾りとして口にしている美辞麗句なのだろうか。本当に、御国の思いを持って、御国を求める人間として生きているのかどうか。

       その心の奥底にあるものは、試される時に、試練によって表わされてしまうものである。試練は火のように私たちを試して、私たちの心にあるゴミを全部取り出して、燃やしてくれる。金を練るがごとくに。その時、私たちは神を恐れ、自分について深く考えさせられて成長させられるのだ。御国をまず第一にして生きているのかどうか。それが「善人」の定義である。それが「善を行なう者」の定義である。クリスチャンの良い行ないの全てにはこのことが視野に入っていなければならない。この意味で栄光、誉れ、不滅のものを求めることは、道徳的な人間のそれとは根本的に異質なものとしてクリスチャンの良い行ないを定義するものである。その根本的な違いは「悔い改め」と「御国のビジョン」にある。そのことをパウロは7節で話している。「忍耐をもって善を行なう」という言い方も非常に重要である。「忍耐」をもってでなければ、続けて善を行なうことはしないのである。私たちは本当の意味で栄光と誉れを真剣に求めているのだろうか。「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行なうすべての者の上にある」と10節にある。栄光と誉れと平和は、それを真に心から求める者、即ち本当の意味で善を行なう者に与えられるのである。

       もちろんこれは最後の裁きの話である。この「栄光と誉れと平和」とは、明らかに最後の裁きの話なのだ。パウロは、自分の生活においては一度も平和などなかった。町々に行って福音を伝える時に、殺されそうになって町から追い出されたり、次の町へ行けばまた同じことの繰り返しであった。パウロの人生は、次から次へと逃亡するような人生であったと言えるほど大変なものであった。何度も殺されそうになり、最終的に死刑にされた。パウロは真に誉れと栄光を求めていた。明らかにそれはこの世の誉れや栄光ではない。この世では私たちは屑に過ぎない。「私たちはこの世のちり、あらゆるもののかす」だとパウロはコリント人への第一の手紙4章で言っている。しかし、パウロは、神の栄光、神の御国、神の義を最初から最後まで第一に求めていた。

       すべてのクリスチャンが実際にパウロのように生きることが出来るわけではない。しかし、心において同じでなければ、私たちは偽物なのだ。すべての状態が巧く行く時、何事も簡単に出来てしまう時に「御父よ、あなたの御国が来ますように」と、きれいごとを言って祈ることができる。ところが、困難にぶつかる時、深刻な問題に直面する時、直ちに自己中心的になって、自分のことばかり考えて何かをしようとしてしまう。問題にぶつかるとどうしても自己を中心とした反応をしてしまう。罪人にはそのような傾向がある。だから、この箇所のパウロの言葉をよくよく心に留めるべきである。

       1節からの全部をしっかりと注意深く読んでいる人は、「すべて他人を裁く人よ。あなたには弁解の余地はない」という言葉を聞き逃す筈はない。そして、「悔い改めのない者は本当の意味で善を行なってはいない」というパウロの言葉を聞く時に、自分が自己中心的で真理に従っていないことを悔い改めないではいられない筈だ。パウロがここで言っている「真理」とは、1章のすべての教えが前提となるが、それは創造主である神についての真理である。神から離れての真理はどこにもないのである。この神の真理に従わない者は、本当の意味での良い行ないを行なってはいない。神の真理に従わない者たちは、神に逆らい、その行なっている善はただ自分のために行なっているだけであって、その行ないはキリストの叱責を受けたパリサイ人たちのと同じものである。思い違いをしてはならない。パウロは単にパリサイ人たちに対して訴えているだけだとは思えない。パウロは、そのパリサイ人的な生き方をしているすべての異邦人をも訴えているのである。

       それ故、「悪を行なう」という言葉の定義は、ただ表面的に悪いことをやるというものではない。いわゆるパリサイ人的な偽善者に対して単純に「あなたは悪を行なっている」と言っても、ピンと来るはずはない。日本でも同じだと思う。クリスチャンではない両親に向かっていきなり「あなたは悪を行なっています」と言ったら、向こうは豆鉄砲を食らった鳩のように驚くであろう。「何が言いたいのか。馬鹿な考えにでも取り憑かれたのではないか。私がどんな悪を行なっているというのか。私は少なくともお前よりは良い事をしているつもりだ」と言われるのがおちである。父と母は小さい時から私たちの欠点を熟知しているので、きっとそういう反応をするに違いない。

       聖書的な意味で「悪を行なう」と言う時、ある程度の説明がなければ相手には通じないものである。ローマ人への手紙1章からずっと、真理とは、人類を創造し、万物を創造された創造主である神についての真理なのだということがまず説明されている。神の似姿に創造された人間は当然その神の真理に従う責任がある。その真理に従わない者は誰であれ、悪を行なっているのである。このパウロの教えの意味を説明してあげることができれば、「まあ、あなたが考える意味では私は悪を行なっていることになるかも知れないが、私としてはそんな事は受け入れられない」という話になるかも知れない。

       パウロがその道徳的に良いとされる人々に話す時に、まず「」の定義を明確に説明している。本当の善は、本当の神を信じて、その神の善を求め、その神の御国を求めることである。神のために善を行なうのである。自分を創造してくださった義なる神のために生きる。それこそ神を信じることの意味なのだ。神を信じるというときに、神が第一で、すべて人間の事は二次的でなければならない。「神の御国のため」というならば、どうしたらよいのか。それを真剣に求め、本当の意味で心から求めるのである。それがクリスチャンの有様なのだ。それが真のクリスチャンの生き方である。それが、クリスチャンとクリスチャンでない者とが区別されるところである。真理に従い、御国を求める。そこに良い行ないと悪い行ないとの区別がある。誰が救われて、誰が救われないのか。誰がクリスチャンで、誰がクリスチャンではないのか。本当の信仰と信仰を持たない者との区別はそこにある。これは、行ないによる区別である。

       行ないにはあくまでも動機も含まれるものだ。行ないを裁く時、明らかにその心も問われる。神の裁きの日には表面的な裁きは決してないことを知るべきである。このキアスマスの構造はさらなる違いを示唆しているということを理解していただけると思う。クリスチャンでない者の行ないが特徴として真理への反逆に動機づけられているものなら、クリスチャンのそれは真理に従うものでなければならない。そのなすこと全てにおいてへりくだって神に服従することがクリスチャンの特徴である。クリスチャンではない人たちが表面的に同じ行ないをしたとしても、その行ないは内面において区別されるのである。それに加え、クリスチャンが「忍耐をもって善を行ない続ける」と言われている事実は、良い行ないの人生が信仰を持つ者たちによってのみ達成され得る闘いであることを示している。

       今、福音総合研究所のクラスでシェークスピアのいろいろな作品を一緒に学んでいる。実は、ヘラルド・ブルームという文学者の本の中にフロイドとシェークスピアの話が出てくる。フロイドには二人の憎むべきライバルがいると彼は言う。その一人はモーセで、もう一人はシェークスピアであると言う。なぜフロイドはこの二人を憎んで恐れるのかというと、モーセとシェークスピアは自分よりも人間の心理描写において優れているからである。人間の心に対する理解が深く、洞察が鋭い。フロイドの中に認められる良い所があるとすれば、そのほとんどはモーセから盗んだりシェークスピアから盗んだりしたものなのだ。フロイドがどんなに多くのものをクリスチャンから盗用しているのかを確証する有名な書物もあるくらいである。

       フロイドは、聖書の多くの概念を借りてきてその名前を変えることによって別のものにする。服を替えるだけで中身は同じものである。それで、深い内容を持つことができる。これはまるで泥棒が金持ちの生活を送ることができるのと同じようなことなのだ。十九世紀の最も有名な泥棒は自分の名前をどんどん変え、住所もどんどん変えることによって貴族のような生活をしていた。そして、誰もが彼を本当の貴族だと思っていた。イギリスの貴族の格好をして、お城のような所に住み、人々をパーティに招いたりする。パーティに来る賓客たちの多くは自分が盗みをした相手であった。

       フロイドの心理学とはそのようなものである。人々は彼を見て素晴らしいと思ったりするが、実は彼は盗んだもので着飾っているに過ぎないのである。良いものから盗んだので、ある程度良いものに見せることができるし、なんとか成り立っている。クリスチャンではない哲学もよく調べてみればみなそのようなものが多い。神から盗んだものが多ければ多いほど、それは成り立ち、ある程度まで影響を与えることのできるものとなる。しかし、その本質は真理に従わないものであることに変わりはない。真理から盗んでそれを使えば、それで真理に従う者になったわけではない。

       フロイド自身、「最終的に人間は心の中にあることを隠しとおすことはできない」と言っている。これはフロイド心理学の最重要ポイントである。最終的に心にあることを隠すことはできない。それは行ないにおいて必ず出て来てしまう。「だから、言葉をも含めて、人の行ないを見ればその心まで読み取ることができる」というのがフロイド心理学の原則の一つとなっている。それは実にそのとおりである。御言葉にも繰り返しそれは教えられていることである。心の中に火があれば、その着物は焼けてしまうと箴言でも教えている(箴言6章27節)。心にあることは、何らかのかたちで表わされてしまうものである。心を変えなければ、最終的に行ないを変えることは到底できない。だから、最後の裁きは「行ないによる裁き」であってよいのである。人の行ないを取り扱えば、その人の心まで探ることができる。時間の使い方、語る言葉などを裁けば、その心がいったいどこにあるのかが分かるのである。それ故、最後の裁きは行ないによる裁きなのだ。 

       それ故、本当のクリスチャンとクリスチャンではない人との区別がどこにあるのかというと、それは「主の祈り」にあると言えよう。クリスチャンではない人が主の祈りをささげるとしても、それは人々がお寺や神社でやっているような祈りと変わりはない。それは結局のところ御利益を求める祈りでしかない。「大学受験に受かりますように」「結婚相手が見つかりますように」「どうか職業が見つかりますように」「子どもを授けてください」等々を祈願する。「御利益がなければ、私は他の神の方に行くかもしれない。だからどうか私の祈りを叶えてください」と祈るばかりである。役に立たない神はいらないのである。自分が中心であって、神は自分のために存在するのだと思っている。もちろん単純にそうは言わないけれども、根本的に突き詰めれば、それがクリスチャンではない人たちの哲学でありまた宗教なのである。

       聖書の主の祈りはまず神御自身から始まる。「私は神のために生きます。天の父よ、あなたの栄光、あなたの御心、あなたの御国をなによりも求めます」というところから始まるものである。それが本当の祈りである。そのように祈るのでなければ、私たちの信仰はどこかで曲がってしまっていると言わざるを得ない。そして、その祈りから始まる行ないであってはじめて本当の良い行ないに成り得るのであり、その祈りから始まらない行ないは良い行ないには成り得なず、絶対に不可能なのである。この事を聞いて理解したとしても、実際の生活において私たちは結局この祈りの心から離れて自己中心的に良い行ないに務めたりする。そして、なぜか空しい思いを抱いたりする。なぜ空しいのか。それは、本当の意味で自分のすべての罪を捨てて、常に神の御前にあって真の悔い改めの心をもって神の御国とその義を第一に求めていないからではないのか。クリスチャンはそのような者ではない。クリスチャンは常にまず自分の罪を悔い改めている者であって、神御自身と神の御国をまず第一に求める者でなければならない。このことは常に私たちの心に刻まれていなければならないことである。

       多くの事について考えを展開する時、牧師の説教は往々にして変に解釈されやすいものである。アメリカ人は単純に語られたままを受け入れる場合が多いけれども、東洋ではどうもそうではないらしい。「何故牧師はそんな事を言うのか。この為か。あの為か。本音はこういう事なのかもしれない。あの事について暗示しているのかも...」とか色々なことになってしまいがちである。日本語学校に通った15年前の経験だが、話をしていると、「この事を言うということは、あなたが本当に言いたいのはこういう事ではないのか」と言われて驚いたものである。本人はそんな事は微塵も考えていないのだ。どうしてそんな連想をするのかと戸惑ったりしたことを覚えている。何度もそんな経験を繰り返すうちに、「そうか、そのような聞き方というものもあるものなんだ」と理解するようになった。

       しかし、今ここで、私は言った通りのことをまさに言おうとしているのであって、他の事を言おうとしてはいない。パウロとバルナバのことを考えてみてほしい。マルコのことで二人は激論を交わしたことがあった。マルコは以前にパウロたちと一緒に宣教の働きでパンフリヤにいた時にホームシックに陥ってしまい、働きから離れて家に帰ってしまったことがあった。一行がアンティオキアに戻って後、再度宣教の旅に出ようとすると、マルコもまた行きたいと申し出たが、パウロはそれを許さなかった。途中で離れてしまうような者は宣教の旅に連れていくことはできないとパウロは考えた(使徒行伝15章36節以降)。

       もちろん宣教の働きに限って言っていることであって、信者として駄目だという意味でないのは明白である。そのような不安定なマルコは宣教する者としてはまだ相応しくないとパウロは考えたのである。責任ある仕事を任せて一緒に厳しい行動をするわけにはいかない。まだそこまで強くはないからだ。危険でもあり苛酷な宣教の旅には本当に足手まといとなるからだ。御国のための働きを心ならずも妨げる者になってしまうかも知れないからである。だから「あなたはここに残ってまず成長を求めなさい」というわけである。「他の人々にも色々と悪い影響を与えることになるので、決してあなたを連れて行くことはできない」ということである。大変な戦いの旅に子どもを連れていくようなことになるからだ。

       バルナバはパウロと意見を異にした。「いや。マルコはこの前の事を十分に悔い改めているから、連れて行くべきだ。福音のためであるからこそ、連れて行くべきだ」とバルナバは考えた。パウロは、「福音の為だからこそ、連れていくべきではない」と考えた。二人の意見は違っていた。パウロは個人的にマルコを嫌っているから駄目だと言っているのではない。パウロはテモテへの第二の手紙の中で「マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです」と書いたりしており、マルコが素晴らしいクリスチャンであることを認めている。個人的にパウロはマルコを嫌っていて、バルナバはマルコが好きだった、というような話ではないのだ。二人とも、御国を第一にしており、神の誉れを第一にしていた。ただ、どうすべきかという戦略において意見が違っていただけである。けれども、御国を求める思い、福音のために生きる思いにおいては完全に一致していた。戦略的な事柄においての意見の違いで争ったことは事実であり、それは聖書に記録されている。御国を第一にしていても、戦略に対する意見の違いはあるし、時には衝突することもある。意見が合わない。仕方なく、パウロはシラスを連れて行き、バルナバはマルコを連れて行くことになった。しかし、御国を求める心に矛盾は全くないし、後でパウロはバルナバとも一緒に働いているし、パウロとマルコも一緒に働いている。

       私が心配していることは、「御国を本当に求めているのかどうか」ということである。この箇所で問われているように、私たちは自分の心の中を吟味し、本当に神の御国を第一にしているのかどうかを深く深く自問すべきである。御国のために生きているのか。御国のために祈っているのか。御国のために働いているのか。本当に御国のことを第一に求めてすべての事柄を考えているのかどうかを、自問しなければならない。本当にその心がしっかりあるならば、他の事は問題とはならないのである。お互いを尊敬しあって、助け合い、祝福し合うことができる筈なのだ。しかし、御国を求める心において一致がなければ、御国を第一にするという大前提においての一致がなければ、私たちの問題は実に実に深いものなのだということになる。これは、本当のクリスチャンと偽りのクリスチャンを区別する分岐点である。クリスチャンとクリスチャンでない者との区別となるところである。この心がはっきりしているのかどうかを私は心配している。御国の思いを本当に持っているのか、どうなのか。主の祈りを本当の意味で祈っているのか、ということである。おのおのこの事を覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

       パウロはここで私たちに、御国のビジョンについて話している。それを話す時、結局私たちに根本的なことについて考えさせてくれる。罪人というものは、簡単に御国のビジョンから離れてしまい、御国のビジョンを忘れてしまうものである。そして、自己中心的になり、結局真理に従わないで、真理に逆らう道を歩んでしまう。いとも簡単にそうなってしまうものなのだ。主の祈りが毎日の祈りとして私たちに与えられているのはその為なのだと言ってよい。毎日、主の祈りをささげる時に、天の父の御名の栄光を求め、天の父の御国を求め、天の父の御心を求めている。それを第一に求めるのが祈りである。それを毎日々々祈っているうちに、心もそのように変えられていく。

       パウロは、良い行ないがただ単に目に見えるかたちによってでなく、それを行なう者の心の態度によって良しとされるのだと教えている。人の行ないが神に対する服従のゆえに神の御国のためになされたか否かが私たちの神との関係を決定する。神を愛する者はその御国と義とを求め、その真理に従う。その人の良い行ないとは、自律的な親切や善意ではなく、神の栄光と誉れの追求の実なのである。クリスチャンになったということは、自分の十字架を負ってキリストに従っていくことである。それが真理に従う者の態度である。自分に対して死に、神に対して生きる者となったのである。これは、自己中心的ではなくなるという意味である。心においてはっきりとその態度を持って生きるのである。自己中心的な者は自分に対して生きて、神に対しては死んでいる。そこからすべての問題は湧き出てくるのである。

       聖餐式の時に、私たちはその根本的なところに戻るものである。自分は神の御国を本当に求めているのかどうか。本当に神の御国をまず第一に求めているのかどうか。「私は、自分に対して死んで、神に対して生きているのかどうか」を吟味するのである。そして、自分に対して死んで、御国を第一に求めるという心に立ち返って、「主イエス・キリスト。あなたが私のために十字架上で死んでくださったことを心から感謝します。私はあなたのものです。私はあなたの為に生きます。あなたの為に死にます。すべてにおいて私はあなたを中心に考え、そして歩みます」というのが信仰の告白であり、信仰の誓いである。聖餐式を受ける時、私たちはそこに戻るのである。罪人である私たちは、すぐにそこから反れてしまう傾向の強い者であるが、クリスチャンは常にそこに戻らなければならない。その事を真剣に覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――1998年10月4日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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