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    ローマ人への手紙2章12節〜16節


    2:12 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。

    2:13 それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。

    2:14 ---律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。

    2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。---

    2:16 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。 

    98.10.18. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    律法を行なう異邦人

    2章12〜16節

     

       ローマ人への手紙2章1〜16節までの箇所を数週間にわたって学んできたが、最初の1節から11節までのところで、道徳的に高いと思われている人間を取り扱っている。その中にあって、いわゆる道徳的に高い人間に対して、「あなたは罪を悔い改めていないのに、自分は正しいと思っている。しかし、自分が正しいと知っていることであっても、その全部を行なってはいないということも心の中では分かっている。他人を裁きながら、自分も同じことを行なっているということを知らない筈はない。それならば、どうしてあなたは義なる神の裁きから逃れることができると思うのか」と、パウロは訴えているわけである。

       その人が異邦人であるのかユダヤ人であるのかは、この段階ではあまり関係はない。つまり、まだはっきりとユダヤ人に話を移してはいないのである。12節から16節までの段落では11節までの箇所に続いて、「本当の良い行ないとはどんな行ないなのか」を、その道徳的に高いと思われる人たちに対して訴えており、その中でユダヤ人と異邦人との違いの話が出てきている。そして、17節からはっきりと、直接、ユダヤ人に対してパウロは語っている。だから、1節から11節で道徳的な人間について話し、12節から16節でユダヤ人と異邦人についての問題と律法の問題が実際に登場する。そして17節から、はっきりとユダヤ人に対して話しているということを覚えておいていただきたい。

       16節までの訴えの中でパウロは、「本当の正しさとは何なのか」ということを取り扱った。パウロの訴えのポイントは異邦人の道徳家に対して極めて適切である。その道徳は悔い改めや真の神への信仰に根ざしたものではないという点で表面的であり(1〜5節)、神の栄光を目的にしないという点で方向性が違っているのみならず(6〜11節)、そのいわゆる道徳は神の律法に準拠したものでもない(12〜16節)。6節から11節の段落では、いわゆる道徳的な人間と真に神の栄光と誉れを求める人間との違いが指摘されている。

       続く12節から15節までの箇所で「本当の正しさとは何なのか」という問題を取り扱う時に、パウロはユダヤ人と異邦人の対比を出してきている。神の律法という問題、そして異邦人であろうとユダヤ人であろうと(ここで異邦人が議論の中で先に来ていることには大切な意味がある)すべての人間は神の御前に立つという問題、これは律法に話を絞り込む前にパウロが取り扱う最後の課題である。ここで間接的ではあるが、パウロは律法の命じるところを行なっていない単なる道徳的な異邦人の罪と、律法を持っているという外面的なところを誇りはするが実際はそれを守っていないユダヤ人の罪を暴くのである。この全体的な流れをよく覚えながら、更に学びを続けたいと思う。

     

    律法を行なうことによる義認

       この箇所における行ないの強調については既に論じた。ここで、パウロの言葉が実際にどれほど強いのかをもう一度心に留めることは適切であると思う。「律法を行なう者が正しいと認められる」(13節b)とある。このポイントから離れずに読むことが大切である。12節で、「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によって裁かれるます」とパウロは言う。ここで、正しくない者はユダヤ人であっても異邦人であっても、神の裁きの座の前に立つときに、正しくない者は誰であれすべて裁かれると教えている。

       ユダヤ人だから救われるという話はない。表面的に道徳的な生活を送っているから救われるということもない。裁きは神の律法の基準に従って完全に行われる。律法を持っていない人間は、律法なしの裁きを受けるけれども、その意味についてパウロは後で説明している。つまり、異邦人に対しては、律法の儀式を行なっているか否か、というような裁きはない。モーセの契約を守る責任とはそのような意味ではないのである。しかし、モーセの律法無しに裁かれるというとき、その裁きは一つのはっきりした正しさの基準があることが前提なのである。そうでなければ「」という話もないのだ。そのことをパウロは5章のところで説明している。

       罪の定義は、ヨハネの第一の手紙にもあるように、「律法に逆らう」ことである。だから、モーセの律法が与えられていない者の場合は、モーセの律法によっては裁かれないが、罪を犯した者は滅びることに変わりはない。モーセの律法とは、モーセの契約のことであり、「律法」とは神の義の基準のことである。それは絶対的なものとして与えられている。罪を犯した者は、モーセの契約という啓示が与えられていなくても、モーセの契約の中の儀式を行なっているかどうかを問題にされなくても、罪を犯した者は滅びるのである。モーセの律法を与えられた者は、それでもなおモーセの律法を守らずに罪を犯しているのであれば、律法によって裁かれて滅びるのである。

       「律法なしに罪を犯した者」とは、モーセ契約を持たない異邦人を指すが、「」という言葉は異邦人を含むすべての人間がそれによって裁かれる絶対的な義の基準を示唆するものである。異邦人であろうとユダヤ人であろうと、神に対して罪を犯した者は自らの罪のゆえに必ず裁かれて滅びる。彼がここで取り上げている大切なポイントは、律法が最後の裁きの基準であり、異邦人であろうとユダヤ人であろうと、その命令に従わない者はすべて滅ぼされる、ということである。その裁きの原則についてパウロは話している。罪を犯している者は必ず裁かれて滅びるということが12節のところではっきりと宣言されている。

       それ故、異邦人にとってもユダヤ人にとっても、最後の裁きの日における問題は、その個人が律法を行なう者であったかどうか、ということになる。直接引合いに出されてはいなくても、異教信仰の異邦人で道徳を説く者にとっては滅びを意味する。彼の道徳は神の律法の道徳基準からはかけ離れているからである。二つの偉大な命令の最初の一つである「神を愛し、霊とまこととをもって神を礼拝する」ことは、彼の道徳体系の中のいかなる場所をも占めてはいない。そのことは無視されている。本当の意味での隣人への愛も同じである。異邦人と異教徒の道徳の本質は、その偽りの自律にある。神のためではなく、隣人のためでもない。自分のため、或は、抽象的な善そのもののためであり、それも帰するところ自分のためということになる。結局自己中心なのだ。明らかにこのような類の“道徳”は、「律法を守る」ということの意味には含まれてはいない。

       13節は12節の説明である。「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです」とある。ここでパウロは義と認められることについて話している。「正しいと認められる」とは「義認」のことである。「律法を行なう者が義と認められる」のである。先週はトピックとしてこのことを話した。行ないがなければ義とは認められない。最後の裁きは「行いに対する裁き」である。主イエス・キリストの山上の説教にもあるように、話を聞くだけで救われるのではない。聞くだけで行ないがないなら、それは砂の上に家を建てるようなものである。キリストの話を聞いて、信じて、その信仰を行ないにおいて表わす者は、岩の上に家を建てたことになる。それと同じ話をパウロもしている。

       「私はユダヤ人だ。私は律法を知っている」と言って、それで救われるかというと、そんなことは絶対にないのである。ユダヤ人にはその傲慢な心があることは福音書で明らかである。ユダヤ人たちは、神の特別な民として律法を持っていることで自らを誇ったが、福音書にみられるように、ユダヤ人指導者たちは律法の本当の心よりもかなりその独特な自分たちの解釈に表面上合致するか否かに感心を示していた。17節からパウロはそのユダヤ人の問題を直接取り扱う。自分がユダヤ人でアブラハムの子孫だからと言ってそれで救われると思ってはならない。バプテスマのヨハネも最初の説教の中でユダヤ人に向かって次のように言わなければならなかったのだ。

    まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『我々の先祖はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。(ルカの福音書3章7〜8節)

       持つだけでは救われない。つまり、本当の信仰は、律法を行なうことによって表わされるのである。2章の後半でも繰り返しこの話は出てくるが、その話はユダヤ人にとっては実にきつい、そして驚くような話であった。というのは、福音書の学びでも話したけれども、ユダヤ人たちは「アブラハムは地獄の門の入口に立っていて、地獄に投げ込まれた人間を見て、割礼を受けた者がいればその者を引き出して天国に行かせてくれるのだ」と教えたりしていた。つまり、「割礼さえあれば救われる」と考える者たちがいた。

       それを聞いて「とんでもない話だ」と思うかも知れない。しかし、昔のローマ帝国の時代から今日に至るまで、クリスチャンたちはバプテスマをそれと同じように考えてしまう傾向があるのは事実である。昔のヨーロッパには、死ぬ日までバプテスマを受けずに、死ぬ直前にバプテスマを受ければ救われると考えた人たちがいた。彼らは出来るだけバプテスマの日を延期しようとする。「バプテスマを受けた後の罪は重く、大変な裁きになる。もう赦されないかもしれない」と考えたりする。或は、バプテスマを受けた時点では救われていても、その後で変な事して罪を犯すとその救いを失うかもしれない、と考えたりする。そして教会の歴史の中には、「バプテスマ」=「救い」という考え方の闘いが起こったりした。

       改革時代にも同じ問題があったことは知られている。改革時代に書かれた書物を読むと、バプテスマについて少し理解しにくいところがある。カルヴァンなどはバプテスマの大切さを強調しているが、「バプテスマ」=「救い」ではないことをもはっきりさせようとした。ローマン・カトリックの場合、子どもにバプテスマを授けることは子どもに救いを与えることになる、という考えになりがちである。当時のアナバプテスト派は今日のバプテスマ派と厳密に言えば違うものであるが、バプテスマの考え方については似た立場を取っている。伝統的に言えば、現代のいわゆるバプテスト教会は改革派教会から出たものである。メノナイトとか兄弟団などはアナバプテスト派の伝統から出たものである。

       それにしてもバプテスマについての考え方は混乱してしまった。一つの問題は、バプテスマを契約的に考えるのではなくて救いとして考えることである。ユダヤ人が割礼をそのように考えたのと同じである。「割礼をすれば救われる」という考えと同じように、「バプテスマを受ければ救われる」というように考えてしまう。だからパウロは「律法を聞いたとか割礼を受けたからといって救われるという話ではない」と、彼らに教えなければならなかった。本当の信仰は、律法を行なうところで表わされるものである。義と認められた人間は、義と認められた人間らしく生きなければならないことをパウロは強調するわけである。律法を聞く者が救われるのではなくて、律法を行なう者が救われるのだとはっきり教えている。

     

    神を畏れる異邦人

       パウロは次に敬虔な異邦人の場合を考慮する。これは単なる仮定上の話ではない。彼は神の律法が命ずるところを実際に行なう異邦人について語っているのである。日本語の聖書では、なぜか14節から15節までは長い線を使って括弧の中に納めたようになっているが、その必要はないと思う。なぜそうしたのかというと、恐らく15節と16節のつながりをどう考えるのかということだろうと思うが、その必要はない。14節で、「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです」とパウロは言っている。15節でもっと説明しているけれども、まず14節を見てみよう。ここではもはや2章前半の表面的に道徳的な異邦人のことは考慮されていないのは明らかである。原文の語順からすれば「生まれつきのままで」という言葉は「異邦人」の前に来るべきである。従ってこの節は「生まれつきのままで律法を持たない異邦人が、律法の命じる行ないを.....」と訳されるべきである。

       本能的に律法を守っているとか、本能的に律法の要求すところを行なっているというような英語の翻訳があるけれども、日本語訳はその英語訳に基づいて訳されている。しかし、この箇所の「生まれつきのまま」或は「自然のままで」と訳されているこの言葉の意味は、律法を持っているか持っていないかという話なのである。

       つまり、ユダヤ人と違って、異邦人は生まれながらにして律法を持ってはいない。パウロの念頭にはユダヤ人のことがあったのは明らかである。ユダヤ人たちは「私たちにはモーセの律法がある。私たちは神の律法を持っている。だから大丈夫だ。異邦人は律法を持っていないので、彼らは救われない」というのが一般的なユダヤ人の考えであった。それだから、律法を与えられていない異邦人が、その律法の命じる事を行なう時にどうなるのかについてパウロは説明しなければならなかった。律法の命令を実行する異邦人たちは、たとえ彼らがモーセ契約の下にいなくとも、「自分自身が自分に対する律法」なのである。この曖昧な表現の意味は、次の節で十分に説明されている。15節aでパウロは、「彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示している」と説明する。

       さて、ここで大人の聖書研究会に入ることができるかどうかのテストをしてみたい。パウロはここで旧約聖書のどの箇所を引用しているのだろうか。パウロはその箇所の表現を少し変えているが、それはユダヤ人なら誰でも知っている有名な箇所である。異邦人でもクリスチャンになって旧約聖書を読むようになればよく知っている箇所である。パウロが旧約聖書のどこを指して言っているかに気が付かないならば、それはまだ聖書の勉強が足りないと言わなければならない。これらの言葉でパウロは、旧約聖書における最も偉大な約束の一つと、ユダヤ人にとって親しみ深かったはずの聖句を指し示しているのだ。実は、これは、エレミヤ書の31章33〜34節を指しているのである。この箇所は旧約聖書ではとても重要な聖句なのである。

    彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。―― わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。―― わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。

       ここで預言者エレミヤは、イスラエルの未来について話している。エレミヤはイスラエルの人々の祝福と救いの時代を約束し、将来イスラエルが本当に救われる時に神の律法は彼らの心に書き記されるようになる、と言っている。これは神が最初にモーセに与えられた約束であり(申命記30章6節)、旧約時代にも個人が経験した祝福であった(詩篇37篇31節、40篇8節、イザヤ書51章7節)。それはおもに神の新しい契約による後の世代に対する御恵みの約束なのである(エレミヤ書32章40節、エゼキエル書11章19節、36章25〜27節)。神がイスラエルを救う時、彼らは心から律法を守ろうとするようになる。神はイスラエルにその心をお与えになる。それが救いであり、神はその救いをイスラエルに約束している。

       今パウロは、異邦人について話している。パウロの主張で注目すべきことは、彼が古い契約の最も偉大な約束が異邦人によって成就されていると語っている点である。パウロの時代には、異邦人の心に神の律法が書き記されると言うのである。神がイスラエルに与えた契約の約束をこの異邦人たちに与えたと言うのである。この言明はユダヤ人にとって大きな衝撃であった。どうしてエレミヤ書に書いてある約束が異邦人に与えられるというのか。異邦人には、生まれながらにして律法は与えられてはいない。しかし、「異邦人が律法の命じることを行なっている」ということは、その異邦人が神を愛する者だということである。

       絶対に誤解しないようにくれぐれも注意して聞いてほしいが、いったい律法は何を命じているのだろうか。律法が命じているのは、ただモーセの十戒の5番目から10番目までのことだとよく思われている。特にこの箇所はそのように解釈されやすいが、決してそんな話ではない。「律法の命じることを行なう」とは、簡単に言えば、「神を愛し、隣人を愛する」ことである。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、主なるあなたの神を愛し、また自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」ということである。神についての話を無視して、ただ人間的に親切で良い人の話をパウロはしているのではない。「律法を行なう異邦人」とは、まことの神を信じ、愛し、礼拝し、その神に対する心を持って隣人を愛する者のことなのである。

       14節の「自分自身が自分に対する律法」であるということは、彼らが自律的に何かの律法の源だという意味でなく、新生した神の子どもであるがゆえに神の義なる命令を守るという意味である。明らかにパウロが考えている対象は異邦人のクリスチャンたちである。異邦人が主イエス・キリストにあって信仰により義と認められ得るという事実こそローマ人への手紙の主要なテーマなのである。

       そのように異邦人が律法の命じる行ないを行なう時、神の律法がその異邦人の心に書かれていることを表わしている。神の律法が異邦人の心に書き記されてあるということは、イスラエルに与えられた契約が異邦人にも与えられていることを意味している。そのポイントをパウロはここで特に深く説明はしていない。しかし、そのポイントは明らかに説明されている。もしそうでないならば、どうしてこの異邦人は律法を行なうことができるのか。これは、「どうして親切になれるのか」というようなレベルの話ではない。本当の神を知り、本当の神を愛し、偶像礼拝をせず、神を愛するが故に律法の命じる正しい生活を送ることなのである。異邦人がそれを行なうとはどういうことなのか。それは、神の御霊がその人たちの中にあって働き、異邦人が真の神を信じるようになったからである。キリストを信じて救われたからである。彼らもクリスチャンとなったからである。そのことをパウロは説明しているわけである。律法の命じることを行なう。それが本当の救いの実であり、それが本当の良い行ないなのである。

       十戒は確かにモーセの律法全体を要約したものであるけれども、十戒について考える時、特にアメリカではその傾向が強いのだけれども、1番目から4番目までの戒めを忘れてしまうのが普通である。「父と母を敬いなさい。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない.....」ということがまず頭に浮かんでくるわけである。しかし、十戒はまず「殺すなかれ」とか「盗むなかれ」というところから始まっているわけではない。本当の神のみを愛し、本当の神のみを信じる。すべてはそこから始まり、そこから出てくるのである。

       主なる神の御恵みはモーセの十戒の一番最初のところに出てくる。即ち「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」というのがモーセの十戒の始まりなのだ。神の御恵みによる救いを忘れてはならない。この神の御恵みを覚え、この神のみを神として信じなさい。他の神々を信じてはならない。礼拝において偶像を作ってはならない。それを拝んではならない。それに仕えてはならない。神の御名を尊び、その御名をみだりに唱えてはならない。安息日を守りなさい。それらはすべて神との関係についての戒めである。だから、「神の契約を守りなさい」というところから律法は始まっているのである。

       生まれながらの異邦人が、そのような生活を送っているとすれば、その行ないはどこから来たのか。これ即ち、神の約束が異邦人に与えられていることに他ならないのである。異邦人の心に神の律法が書き記されているのである。だから、パウロがここで語っている異邦人とはクリスチャンのことである。ここでクリスチャンの話が出て来ているのである。この人たちのことをパウロは後にもっと詳しく説明している。勿論その中にはユダヤ人のクリスチャンもいるが、異邦人が本当の意味で律法を守る時に、それは神の救いが彼らに与えられたことを表わしているのである。

       異邦人について触れたあとで、17節からパウロはユダヤ人に対しての攻撃をはじめる。「周りを見なさい。もうすでに聖書の神を信じる異邦人たちがいる。聖書の神を信じ、神を愛し、神の御言葉を守る異邦人があなたがたの周りにいる。ユダヤ人よ。あなたがたは何を考えているのか」というようなかんじのアプローチなのだ。ローマ人への手紙を読む時にあくまでも覚えなければならないことは、使徒行伝がその背景にあるということである。使徒行伝を読む時、パウロがどこにいてもユダヤ人たちが現われてパウロを迫害し殺そうとしていたのがわかる。ユダヤ人とクリスチャンの闘いは非常に激烈なものであったのだ。ユダヤ人はキリストの教会をつぶそうとしていた。だから、パウロはローマ人への手紙の中で割礼について長く話したり、ユダヤ人の問題について長く話したりしているのだ。

       律法が異邦人の心に書かれている。これらの異邦人は2章前半に出て来たあの悔い改めを知らない異邦人のような者ではない。反対に、「彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです」と、パウロは言う。日本語訳のように15節の最後に棒線を入れて区切ってしまうと、16節と15節は切り離されてしまって解釈が困難になる。15節と16節は一緒に考えなければならないものである。つまり、いつ彼らの思いは責め合ったり弁明し合ったりしているのか、それはどういう話をしているのかというと、それは16節とそこにある未来の最後の裁きの日の教えとの密接な関連性の中で理解されなければならないことなのだ。

       異邦人が神の律法を守り行なう時、その心に書かれてある神の御言葉をもって自分を探り、吟味する時に、必ずや責めるべきところがあるし、悔い改めるべきところもある。御言葉によって取り扱われて、自分を責めたり、弁明したり、ということになる。そして、神が裁きの日に私たちの心の秘密のすべてを裁くというところで終わっている。それで、行ないと心が最後のところでいっしょになる。律法を守る異邦人は救われる。しかし、律法を守るその異邦人は完全な人間なのか。勿論そんなことはない。その心の中では自分を責めたり、弁明したりして、自分を吟味している。クリスチャンの異邦人はその心の中で、自分が罪人であり、裁きにふさわしい者であることを知っている。しかし、同時に彼らは主イエス・キリストが彼らの完全な救い主であることも知っている。彼らの思いはこれらの真理の両方に対して証をするものである。

       神を信じる異邦人は、悔い改める心をもって裁きの日に神の御前に立つのである。その日に神は、私たちの心の秘密を全部完全に裁き給う。心の秘密をすべて裁くということをユダヤ人に対して言う時、それはとても大きな意味を持っている。それはパリサイ人たちのことを思い出しながら福音書をよく読めばわかることである。

       例えばヨハネの福音書8章で、主イエス・キリストが神殿の中で教えておられた時に、パリサイ人たちが姦淫の現場で捕まえられた女をイエス・キリストの前に連れてきた。そこは神殿なので、主だったユダヤ人たちはみなそこにいた。パリサイ人は「この女は姦淫の現場で捕らえられた者である。モーセの律法の中で、こういう女を死刑にするように命じているが、これについてあなたは何と言うのか」と言ってイエスを試した。パリサイ人たちの目的はキリストを陥れるためであった。もしイエス・キリストが律法を破るような発言をして姦淫の女を許すとしたら、キリストを告発することができる。また、もし主イエス・キリストが、「モーセの律法に書いてあるとおりに女を石打ちにしなさい」と答えれば、それはローマ帝国の法を犯すことになるのでローマ帝国に訴えてキリストを捕らえさせることができる。ローマ帝国は死刑の執行権利をユダヤ人から剥奪してそれを許さなかったからである。

       キリストはどちらの答えをするにしても罠にはまるわけである。これはユダヤ人とパリサイ人たちによる陰謀であり、綿密に計画されたことであった。彼らの心は曲がっており、その女が大変な罪を犯したことなど心配してもいないのである。その女を裁くことによって神の民を正そうとしているのか。神の栄光を求めるためにその裁きをしなければいけないと思っているのか。そんなことはない。聖書によれば、死刑とは、神の裁きが国家を通して行われる行為である。神の栄光も考えずに汚れた心をもってパリサイ人たちはこのことを企んでいる。それ故、キリストは何も答えずに、ただ身をかがめて、指で地面に何かを書いておられた。何を書いていたかについて深く考える必要はない。それが大切な事であれば教えてくださった筈だからである。

       パリサイ人たちはさらに激しく問い続けてやまなかったので、キリストは身を起こして、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われた。ギリシャ語ではこの「」という言葉には定冠詞がついているので「The Sin」ということになる。特定の罪を指して「この罪」と言っている。即ち、「この罪と係わっていない者が、まず彼女に石を投げなさい」と言われたのである。これによって、ユダヤ人たちが恥知らずにも深く律法のことを考えてもいないことが暴露されてしまった。

       モーセの律法に従うならば、死刑を執行するのはキリストではなく、証人なのである。証人となる者が死刑の罰を執行しなければならない。だからローマ帝国に訴えれば、ローマの法を犯した張本人はむしろそのパリサイ人たち自身ということになるのだ。では「どうぞ石を投げなさい」と言われたら、それでも投げるつもりなのか。それとも、投げないつもりなのか。自分たちはモーセの律法を守るつもりなのか。或は、自分たちはローマ帝国に逆らうつもりなのか。そういう事にもなるわけだが、ここでは「この罪」というキリストの言い方は大切である。

       その女を死刑にするのであれば、律法に書いてある通りに姦淫の相手である男も死刑にしなければならないが、その男はどこにいるのか。「姦淫の現場で捕らえた」と言うなら、なぜ男を連れてこないで、女だけを連れてきたのか。女が自分ひとりで姦淫したとでも言うのか。相手の男も一緒に裁かれた結果、姦淫が事実ならば、律法によればその男女二人とも死ななければならないのである。一方だけを死刑にすることはできない。

       相手の男を連れてこなかった理由は一つしかない。それは、相手の男もパリサイ人の陰謀に加担している者だからである。陰謀を企てて悪い女を騙し、その女を利用してキリストを陥れて捕らえるための罠だったのだ。だから、その男を連れて来ない。ここまでどうしようもない悪い心をもっているパリサイ人たちが、人々に「律法を守りなさい」と要求しているのだ。同じような事は福音書の中で何度も何度も繰り返し出て来ている。この者たちの中に悔い改める心はあるだろうか。否、そんな心は微塵もない。神を恐れる心はこの人たちの中にはない。

       だから、パウロはここで、神の律法を行なっている異邦人のことについて話す時に、心の中で責め合ったり、弁明し合ったりする思いがあるということを指摘する。つまり、この異邦人たちには悔い改めようとする心があるのだ。神の裁きの日に、人の心の中のすべての秘密は表わされる。その裁きの日には、本当に悔い改めているかどうか、悔い改めの心があるかどうかが明らかにされて裁かれるのである。誰が本当に神の律法の服従者であり、誰がそうでないのかが明らかにされる。その時に、本当に律法を守っているのかどうかもはっきりする。なぜなら、神の律法への真の服従とは心の問題であり、また神御自身への愛に始まるものであるからだ。真の服従には神の真理に直面した人々の自責の念が含まれる。これは悔い改めと神の約束を信じる信仰へと導き、そこから真の服従の本質である感謝へと導くのである。

       悔い改め、信頼、感謝というサイクルはこの世に生きるかぎり続くものである。裁きの日、クリスチャンの生活を特徴づける罪に対する戦いと悔い改めは、彼らの信仰の証となる。実に律法への服従と呼ばれるのは、この罪に対する戦いのことなのだ。というのも、事実、クリスチャンは誰一人、神を愛する事においても隣人を愛することにおいても不十分であり、愛すべき姿において愛することは出来ていないのだ。しかし、神が人間の心を探られる審判の日に、この基準を真理として認めて自らをそれに合わせようと求めたのは誰かが明らかにされる。そういう意味でパウロはここで、律法を守る心と罪を悔い改める心はいっしょであることを説明していることにもなる。

       本当に神を恐れて、へりくだった心を持って神の律法を読めば、自分の罪がどんどん表わされてしまうほかない。「創世記から黙示録まで読んだけれども、良心の呵責は一度もなかった」と言うなら、読んではいないのだ。目を通しているだけで、読んでいることが何一つ心にも頭にも入っていないのである。神の御言葉に直面する時、神は私たちに自分の罪を表わしてくださり、私たちを悔い改めに導いてくださる。そして、律法を行なうように私たちは導かれる。それで、聖書を読めば読むほど、悔い改める心は深められる。悔い改める心を持っているかどうかは、裁きの日に、はっきりと表わされる。神の律法を愛して、その律法を守ることを真に求めているかどうかが、はっきりと表わされる。そのことをパウロは教えているのだ。

       これは個人一人ひとりにとって、神に対するその個人の歩みにおいて実に大きな意味を持つ教えだと思うし、神学的にも実に大きな大切な教えである。この「律法を行なう」という話はクリスチャンの間でも非常に熱い論争を引き起こすところである。このことについては、残念なことに、アメリカの改革派教会の中にあってでさえなかなか一致がないのが現状である。ウェストミンスター神学校の有名な教師でノーマン・シャパードという人はジョン・マーレーの跡継ぎでジョン・マーレー自身が選んだ後継者であったが、この事を強調して教えたためにウェストミンスター神学校から追い出されてしまった。この人はいわゆるセオノミストほどではないが、「モーセの律法(聖書の命令)を行なわなければ救われない」ということを強調したために神学校から追い出されることになったのだ。グレッグ・バーンセンは、ヴァン・ティルの一番弟子であったのに、ウェストミンスター神学校で教鞭を取ることができなかった。それは、彼が律法を強調したからである。そこまでこの話は大変な論議を呼ぶものであり、難しい話になってしまうものなのだ。 

       しかし、真剣に神を求めているのであれば、これは少しも難しい話である筈はない。今朝も詩篇の119篇を賛美したではないか。119篇はクリスチャンのための歌である。モーセの律法のすばらしさを歌い、それを喜び、モーセの律法を慕うがゆえに、その律法の儀式をも喜ばしいものと考えている。なぜだろうか。それは、律法の儀式がすべてキリストの死について私たちに教えるからである。どの命令も素晴らしいものだ。そのすべては私たちに義しさの知恵を与えてくださる。神の教え(創世記から黙示録までのすべて)は、私たちに義しさの基準を与えてくださる。神の命令と御教えのすべてを愛してそれを守り行なうことを熱心に求めるものである。

       これは私たちの立場として大切な教理の一つである。この立場を持つだけで、誤解されたり反対されたりすることもある。しかし、もし立場を持つだけで終わってしまうなら、私たちは昔のユダヤ人と何ら変わりはない。「私の立場は、律法を守らなければならないという立場です」というだけであれば、摩擦を起こすだけで、実際に残る実は何も出てはこないだろう。神の律法を信じ、その律法を本当に守ろうとするならば、私たちは一人ひとり、自分で神の御言葉を真剣に心に刻むほどに深く学ぶ必要がある。私たちは本当に御言葉そのものを慕い求めて神の御言葉を心に刻むほどに真剣に求めているかどうかを、反省しなければならない。 

       「律法を信じます」と言うのか。それなら律法に何と書いてあるか、答えてみよ。そのようにテストされたら、私たちは皆ユダヤ人の小学校さえ卒業できるかどうか疑わしいものである。その試験を日本語でやってみたらどうだろうか。清教徒は子供たちみんなにへブル語を教えていた。「聖書そのものを知らなければだめになる」と真剣に考えていたからだ。「御言葉を求めるあなたの心は、どこまで深いのか。本当に求めているのかどうか」という話になるわけである。真剣に律法を子供たちに教えるなら、次の世代は私たちよりもずっと知恵がある者に成長するはずである。しかし、モーセの律法を本当に子供たちによく教えているのかどうか、自己吟味すべきである。

       中世期の時にどうしてユダヤ人はみなインテリになったりしたのか。その一つの理由は、小さい時から熱心にタルムードで教えられていたからである。タルムードのモーセの律法は曲がったかたちではあるが、ユダヤ人の子どもたちは真剣に教えられていた。親達は律法の箇所を指して「こう書いてあるが、どういう意味なのか」と問いかけてどんどん子どもたちにディベートさせたり、モーセの律法に書いてある一つ一つのことの意味を考えさせ、論じあい、そして暗記させたりする。モーセの律法を曲げて教えるタルムードを勉強してさえ、ヨーロッパの中のインテリ派の中ではユダヤ人が断然多くなったのである。

       十九世紀のハンガリーではユダヤ人は人口の6%もなかったのに、医者、弁護士、哲学者、科学者などのインテリのリーダーたちの50%以上はユダヤ人が占めていた。それはハンガリーがユダヤ人を憎むようになった原因の一つにもなったが、なぜそうなったのかというと、公立学校が無かったからである。公立学校があったなら、みな同じ教育を受けて同じように愚かになって、ユダヤ人だけが目立つことにはならなかったであろう。ユダヤ人が目立ってしまったのはタルムードによる教育が主要因であると言ってよいと思う。タルムードによる勉強はモーセの律法を弱めたり、モーセの律法を曲げたりするような勉強である。それでも、その影響は大変なものとなった。

     

    律法を聞くだけの者ではなく

       今の時代の大きな悲劇の一つは、教会が、クリスチャンが、律法を行なうように励ますところからあまりにも遠く離れてしまっているところにある。おそらく誰も文字通りにこのような言い方はしないだろうが、多くの場所で今日の福音派の教会は「律法を聞く人が律法を持つ人である」という立場に危険なほどに近い。「ただ信ぜよ」という表現は限られた前後関係においては正しく理解される時には真理であるが、別な場合においては偽りにも成り得る。真の聖書的な信仰は、喜びと、律法の義しさに従いたいという願いとをもって、神の律法に応答するものである。教会の力は、ただ新約聖書だけにではなく、神の御言葉のすべて(新旧約聖書を全体として)を持っているところにあるのだ。

       神の御言葉を子どもたちに教えるよりも大切なことはない。これはお父さんとお母さんが時間をかけて子どもたちに教えるものである。他の事など学ばなくてもいいと言ってるわけではないので、誤解しないでいただきたい。どういうかたちで教えるかについても話してはいない。方法はそれぞれの家庭が決めることである。今私は、「御言葉を本当に教えているのかどうか」だけを問うているのである。ホームスクールをやるからと言ってそれで御言葉を教えているとは限らないのだ。御言葉を本当に子供たちに「よく教え込む」のでなければ、本当に御言葉を信じていることにはならない。

       力の限りに御言葉を子どもたちに教えることこそ神の命令を信じることである。それが申命記6章7〜9節のことである。神を愛して、神の御言葉をまず自分自身の心に刻むのである。それは神の命令のことである。神の命令を自分の心に刻んでから、それを子供たちに「教え込む」のである。律法を行なう異邦人の姿はそうでなければならない。それがクリスチャンの姿でなければだめなのだ。「立場」の話は、神学の学びにおいてはそれでもよいが、実生活での行ないがなければ、ただ立場があっても仕方がないのだ。

       実のところ、アメリカで私たちと似た立場に立つクリスチャンたちの間でも、「立場があっても仕方ない」という問題がある。立場について喧嘩しすぎて、その立場を信じる者は喧嘩好きだというような話にもなったりする。立場について喧嘩するよりも、その立場に従った「真理を行なうこと」がポイントなのだ。しかし、私たちはその点においても非常に弱い。告白はよく出来ても、本当に「神の律法を行ないたい者」としてその律法をことごとく自分の心に刻むことはできていない。その律法を愛して、子どもたちにそれを真剣に教えることができていないのではないか。その事を真剣に考えるとき、私たちの中には足りなくない者は一人もいないであろう。実に、自分の足りなさを深く感じさせられるものである。

       家庭で、職場で、「神の律法を行なう者」とならないかぎり、そして子供たちに真剣に聖書全体を教えないかぎり、私たちは罪に失われている世界に対して僅かな証しか持てないか或は全く証がないことになる。そして、キリストにある兄弟姉妹への励ましになることもない。もしも教会が改革を必要とするなら――そして実際に必要としているのだが――我々がそれぞれ自分自身、自分の家庭、自分の地域教会を改革するところから始まらなければならないのである。

       神の御言葉のすばらしさを思い、その御言葉を愛して、その御言葉を喜び、心に刻み、それに従って生きる。もし、私たちはそのような生き方をするならば、神の裁きの日に、神が義と認めてくださる。もし、私たちは神の御言葉を「信じる、信じる、信じる...」と言いながら御言葉を守り行なう「行ない」がないならば、そして悔い改める心をもって行なうことを常に求めてクリスチャンとして本当に成長するのでなければ、「信仰はいったいどこにあるのか」という問題にもなるわけである。「実」がないところには、「根」もないのだ。

       そういう意味でパウロは、「律法を行なう」「心の秘密(隠れたこと)がさばかれる」という話をするときに、私たちにとっては非常に大切な話をしているのである。試練の時こそ、神の律法を学ぶことになる。今朝の賛美で詩篇119篇の67節や71節などにある通りである。そのような告白は119篇の中で何回も何回も出てきている。「苦しみに会う前には、私は過ちを犯しました。しかし今は、あなたの御言葉を守ります(67節)」「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました(71節)」とダビデは告白して、神に感謝をささげている。試練について深く感じ、神が自分を試しておられるのを覚えるとき、御言葉は本当に活きて迫ってくる。これはそういう話なのだ。試練が無いときには愚かで過ちを犯したが、試練に落ちたときに神の御言葉を学び、それを守り、神の御名を賛美することが本当にできるようになったという告白なのだ。これがそのまま私たちの告白でなければならない。試練が来るときにますます神を求める心を持って神の律法を愛して試練に向かうならば、クリスチャンは必ず磨かれて成長する。

       パウロが教えたこの「律法を行なう者は裁きの日に救われる」という真理を本当に喜び、主イエス・キリストを中心にして御言葉(創世記から黙示録のすべて)を喜び、信じ、それを守り行なうことができるようになりたい。そういう心を持って心から罪を悔い改めて、常に熱心に神を慕い求める者として生活をすれば、私たちは必ず成長する。そして、神の裁きの日に、神が私たちの心の秘密を表わすときに、私たちは決して恥ることはない。罪を犯してしまって悔い改めなければならない事が多くあるとしても、その心の根本は罪を憎み、罪を悔い改めて神を愛し、神の御国を求めている。行ないは足りなくても、その心がはっきりしているのであれば、裁きの日に秘密が表わされた時にも心から喜ぶことができる。神の裁きの日には、その心の秘密こそ、義と認められるべき人間と罪に定められるべき人間との区別となるであろう。その違いは明らかになる。

       毎日の生活において御言葉を求めているのでなければ、悔い改める心も出て来ない。神を求める心も出ては来ない。御国を求める心も出ては来ない。私たちは、御言葉を信じる告白においては立派な事は言えても、御言葉を求める心の浅さは実に深い、と思うのである。パウロがここで話している本当のクリスチャンの姿を覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――1998年10月18日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙2章6〜16節

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