ローマ人への手紙3章1節〜8節
3:1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
3:3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
3:4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。
3:5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
3:6 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
3:7 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
3:8 「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
98.11.15. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
ユダヤ人にとっての益
3章1〜8節
1では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。2それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。3では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。4絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。5しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。6絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。7でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。8「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
今日から3章に入るが、3章の最初のところでパウロは割礼やユダヤ人について自分が今まで教えたことへの反論を考察するため、話を本題からややそらしている。第一に、異邦人が“心の割礼”を受けていることについてパウロが書いたことが真実なら、“外見上の割礼”にはどんな意味があるのだろうか。なぜ神は、それを契約の儀式として命じ給うたのか。ユダヤ人であるということに如何なる価値があるのか。1節にあるパウロのそれらの問いに対する答えは、神の義と裁きについてさらに反論を引き起こすものである(5節、7節)。2章の中でパウロはユダヤ人の罪を指摘するが、その中でパウロは問題に答えている。ここで本論からの短い逸脱は、この書の後の方でさらに詳しく取り扱われる事柄を指し示しているのだ。神のイスラエルとの契約の問題は9〜11章の殆どを占めることになるが、そこには裁きにおける神の義の問題を取り扱う箇所も含まれている。
ユダヤ人にとっての益とは何か
この箇所におけるパウロの問いは非常に重要だ。2章17節からの箇所で、ユダヤ人は異邦人と同様に罪人であって神から離れていることを明らかにしている。割礼そのものさえも、ユダヤ人にとっては祝福になっていないような話になっている。もしも、割礼を受けた者が割礼を受けていない者と何も変わらないのであればいったい割礼のどこに意味があるのか、という話になる。ユダヤ人は、割礼を神から与えられたものとして持っている。その割礼を与えられたユダヤ人が異邦人よりも神から離れているという可能性があるならば、割礼の意味は何なのかが問われる。神がユダヤ人を選び、ユダヤ人を御自分の特別な祭司の民として選んでくださった意味はいったい何だったのか。つまり、アブラハムの契約が与えられた意味は何なのかということになるのである。
神はアブラハムと彼の子孫と契約を結ばれ、その契約は割礼の儀式において象徴的に表わされた。その契約にはアブラハムとその子孫の両方にとって最高の約束が含まれていた。「アブラハムは大いなる者となり、彼と彼の子孫によって全世界が祝福される」という約束である。契約のしるしはアブラハムの子孫に契約の意味を示すために与えられた。しかし、2章の17〜29節で「割礼」の問題が取り扱われるとき、最終的にこれはアブラハムの契約の話になるわけである。アブラハムの契約を破っているイスラエル人は、心において神を恐れている異邦人よりも神から遠く離れているような話になっている。それで、パウロは「本当の割礼は何なのか」「本当のユダヤ人は何なのか」という問題を突きつけているわけである。
それに対してイスラエル人はどう答えるかというと、「そういうことならば、アブラハムの時から神に選ばれた民である私たちにはもう何も意味はないというのか。ユダヤ人であることにどんな益があるというのか。また割礼の儀式に一体全体どんな意味があるのか」というものになる。勿論、教会の中にも多くのユダヤ人はいたし、教会とユダヤ教の闘いはパウロの時代の根本的な闘いであった。ユダヤ人は教会に対して「あなたがたはまだ本当の神の民ではない」と言う。「割礼を受けてイスラエル人にならなければだめなのだ」と主張する。パウロはその間違った考え方に対して答えなければならなかった。ユダヤ人、或はパリサイ人的なクリスチャン、その両方に対してパウロは答えなければならなかったのである。
「異邦人は割礼を受ける必要はない」ということをパウロは説明しなければならないが、それを説明する時に、「それなら、割礼の意味は何だったのか。神はイスラエルを選んだのではなかったのか。今までのイスラエルの歩みには何も意味がなかったと言うのか」という反論が当然起こってくるわけである。もしも契約のしるしが、それを受ける者には神の特別な祝福があることを意味しないのであれば、神によって選ばれることの利点は何なのか。ユダヤ人はなぜ特別な意味もなく特権もないような儀式を行なわなければならなかったのか。その反論に答えることができなければ福音は成り立たないのである。
それ故ここで、パウロは自分が宣べ伝えている福音に対する反論を論駁するわけである。1〜4節までは割礼の問題に対して論駁し、5〜8節では少し横道にそれるようなかんじで割礼の問題を取り扱う中での神の主権について論駁している。従って、この1節から8節の箇所は、福音に対する二つの反論に対する論駁がなされているわけである。この反論は無意味なものではない。パウロはこの箇所の反論が全くナンセンスであるかのようには答えていない。これは「契約の賜物」という概念全体に関る問題である。もしも本当にユダヤ人には特別な益はなく、割礼に何の祝福もなかったなら、アブラハム契約の意義は台無しになり、神の真実に疑いを差し挟むことになる。それ故、この問いが重要であることは確かなことであった。
パウロの答えは二つの部分に分かれている。第一に、ユダヤ人にとって益であったのは、「契約の祭司」というその立場であった。第二に、イスラエルにとっての益とは、「預言者の民」というその立場にあった。
まず、1〜4節のところでパウロは「ユダヤ人にどんな意味があるのか。アブラハム契約にはどんな益があるのか。割礼にはどんな意味があるのか」というユダヤ人の異議に対して答えている。2節で、「ユダヤ人には特別な意味があるのか」という異議に対してパウロは「然り。あらゆる点から見て、それは大いにある」と答えている。その理由は「神の御言葉がユダヤ人に委ねられているからだ」と説明している。ユダヤ人に神の御言葉の祝福が与えられたのである。「神のことばが彼らに委ねられている」という言い方は、「神御自身がイスラエルに語ってくださった」ということを表わすものである。
例えばシナイ山のことを思い出せばわかる。神御自身の声をイスラエルは聞いた。神御自身がイスラエルに語ったのである。このような国は他にはない。そのことをモーセは申命記4〜5章で話している。イスラエルにとってこれは何よりも大きな特権であった。カナンの地が与えられたことが最高の特権だったわけではない。ソロモンの時代には金銀が豊かに与えられて全世界で最も栄華を極め、この世で最も美しい建物を建造したが、それが最も優れたところではない。イスラエルの特権、イスラエルの祝福、イスラエルにとって最も優れたところについて考える時に、言うべきことは一つしかない。「第一に、彼らには神のことばが委ねられている」とパウロは言う。
「第二に...」のことは何も語られていない。「第一に...」しかないのである。一番のことは「神のことば」である。それが特別にイスラエルに与えられたのだ。それがユダヤ人に与えられている。他の国々には御言葉は委ねられていない。イスラエルのみを通して他の国々は神の御言葉を聞かなければならない。イスラエルは神の祭司の民なのである。このイスラエルの立場には重要な意味があった。祭司の特権は、神に近づくことが許されているということになるが、神はその「祭司」である民に御言葉を与えてくださった。イスラエルはバビロンほどの大帝国を持つようにはなったりはしない。ペルシャのような帝国、ローマのような軍とかいうようなものは、イスラエルには与えられなかった。イスラエルの最も優れた特権は、神の御言葉そのものにある。割礼を受けた者は神の祭司の民である。その神の祭司の民に、御言葉が委ねられた。
「割礼の祝福」そして「アブラハムの子孫である特権」のすべてを、一言で表現するならば、「御言葉」の一言に尽きるのである。ここで私たちは、御言葉が与えられているその祝福の大きさについて考えなければならない。イスラエルと他の国々との区別はどこにあるのか。イスラエルの長い歴史の中で、すべての祝福を一言でまとめるとすれば、それは何なのか。いろいろなことにおいて神の御恵みを豊かに受けた国ではあるが、すべては最終的に一つのことに尽きるのである。それは神の御言葉そのものである。
神はアブラハムとその子孫を祭司の民となるように召命し、御自身を啓示する御計画の中心とされた。これが彼らに与えられた祝福の本質であった。世界のすべての国々は、バベルの時に神の御言葉から迷い出たが、偶像礼拝をする群衆の中から神はアブラハムを召し出され、彼を祭司の民の父とされたのである。イスラエルは、彼らが神の律法のうちに知識の具体的表現を所有していたという事実のゆえに、本当ならば幼子の教師となるはずだったのである(ローマ書2章20節参照)。
イスラエルはまた預言者の民であった。彼らを通して神は語られたのである。これ以上大いなる名誉はいかなる国の民にも与えられ得ないものであった。キリストの日まで、彼らは実に預言者の民として大いなる祝福をいただいていたのである。次のように記されている。
そして言った。「私たちの神、主は、今、御自分の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神から人に語られても、人が生きていることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか」(申命記5章24〜26節)
あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。(申命記4章33〜36節参照)。
「祭司の民」そして「預言者の民」という、この偉大な二つの特権をユダヤ人は持っていた。永遠のまことの神を知ること以上に大いなる祝福はないのであるなら、イスラエルほど祝福された国民はない。神御自身に関する真理は他のいかなる真理よりも明るく輝くのであれば、イスラエルはギリシャの哲学、ローマの法学、中国の政治の知恵に遥かに優って富んだ宝を所有していたのである。端的に言えば、イスラエルは全ての国々の上に高く上げられたのであった。これほど偉大な特権と祝福をいただいている民は他にない。
当然、御言葉が私たちにも与えられていることを私たちは覚えなければならない。その特権、その祝福の大きさについて、私たちこそ本当に考えなければならない。150年前とか200年前の日本人に御言葉は与えられはしなかったのである。初めて日本に福音が入ってきた時、御言葉は日本語に翻訳されてはいなかった。今の日本語の翻訳にはまだ足りない点や問題があるとはいえ、私たちは今、御言葉を持っている。皆がこのように自由に自分の手の中に御言葉を持つことは非常に大きな祝福なのである。
1450年頃までは西洋でも印刷機がなかったので書物はみな大変な宝物であった。教会には聖書はあったが、信者は自由にそれを持つことはできなかった。博物館にある聖書を見た人もいると思うが、当時の聖書は非常に大きな書物であって、すべてが手て書かれてあり、それに鎖がかけられ、宝のように大切に保管されていた。鎖がかかっているのは盗まれないようにするためであった。クリスチャンはいつ御言葉を聞くかというと、日曜日の礼拝でしか聞けなかったのが普通であった。礼拝で牧師は御言葉を長く朗読した。今でも昔の伝統を守っている教会に行くと、毎週新約聖書と旧約聖書の読む箇所が決まっていて、牧師がそれを拝読するのである。それは、教会員には聖書がなく、他の時には御言葉を聞く機会がないために、御言葉そのものを日曜日にたくさん読んであげなければならなかったからである。それによって、信者たちがみな御言葉を聞くことができたのである。一年を通して福音書を全部読んでいた。
そのようにして教会員は主イエス・キリストの話を一年に一回は通して聞くことができた。同様に旧約聖書の大切な箇所を毎年繰り返し聞くことができたのである。他に御言葉を聞く機会はなかった。だから、日曜日に皆は御言葉そのものを聞きに教会に来ることになる。昔の教会では御言葉が朗読される時に会衆は全員立って聞いていたものである。礼拝は2〜3時間もかかったが、教会に入った時から礼拝が終わって出ていく時まで、ずっと立ちっぱなしで礼拝したのである。座る場所はなかった。石材で造った建物なので冬はかなり冷える会堂だったが、会衆はずっと立ったままで礼拝を守った。それほどに御言葉を慕い求めていたと言える。御言葉が少ない時代に、信者たちの御言葉を求める心は非常に強かったと言っていいと思う。
私たちは、いつでも御言葉を持っている。読みたい時に読むことができる。自分の家の中には何冊も聖書がある。一冊しかない人は少ないのではないか。自分の手の中に聖書がある。英語訳もあれば、日本語訳もある。中国語訳もあれば韓国語の聖書もある。これほど豊かに御言葉が与えられた時代はない。こんなに簡単に聖書が手に入る時代はなかったのである。同時に、今は御言葉そのものを喜ばず、飢え渇きがなく、御言葉を大切にしない時代である。御言葉を実に軽く扱うようになっている。「私たちに御言葉が委ねられている」ということの意味を考えるならば、私たちにはユダヤ人よりもずっと大きな祝福が与えられているのだ。
私たちは、他の国と比べれば裕福だと言えよう(自分の財布を覗けば「貧しい」と感じる人があるいはいるかもしれないが....)。しかし、人類の全歴史の中で、何よりも大切で大きな祝福について考えるならば、私たちは実に実に豊かに恵まれている者である。そのことをよくよく認識しなければならない。御言葉が与えられるということは、何よりも大切で、何よりも大きな祝福なのである。この祝福を認識しなければならない。その祝福が与えられていることをここでパウロはユダヤ人に説明している。御言葉は神の永遠の真理である。その祝福が与えられている者は、実に幸いな者である。
イスラエルに、そのような大きな祝福が与えられている。けれども、その委ねられた祝福の御言葉を、イスラエルの人たちは正しく受け入れただろうか。それほどの祝福が与えられて、イスラエルはどうなったのだろうか。その問題は別なものとして存在する。イスラエルは姦淫を犯す妻のように、不実であった。そのことは3節と4節に出て来ている。
3では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。4絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。
イスラエルの中に「不真実な者」があったなら、それはいったいどういうことになるのか。確かに神の御言葉が与えられているが、その御言葉に対して彼らは正しく応答しない。与えられている御言葉を大切にしない。それを喜ばない。そのような者は神の真実を汚してはいないか。汚しているとすれば、それは神の真実を問うというような問題になるのだろうか。ここでパウロはユダヤ人を問い正している。ユダヤ人に神の大きな祝福が与えられたのに、彼らはそれを正しく受け止めなかった。「不真実」であったのだ。彼らにとっては、御言葉が与えられたのは傲慢になるための動機となってしまった。「自分たちは他の人々よりも優れている」という思いを抱いてしまったのである。「自分たちは特別に神に愛されていて、他の者たちは皆憎まれている」と考えた。それで、「何をしても構わない」という生き方になり、パリサイ人や律法学者に成り下がってしまった。
そのような「不真実」がユダヤ人の中にあるからと言って、それで「神の真実に何か問題がある」ということになるのだろうか。「絶対にそんなことはない」とパウロは断言する。イスラエルの不真実は、契約を賜わった神の善、或は契約関係における神の真実を無効にするであろうか。決してそんなことはないのだ。神の真実を問うということ自体、神がどのような御方なのか、そして人間は何者なのかを忘れることなのだ。神は真理であられ、その真理は永遠に堅く立つ。しかし、すべての人間は嘘偽りを語るものである。
ここでパウロは「契約的な考え方」を私たちに示している。イスラエルに契約的な祝福が与えられた時、イスラエルには契約的な応答が要求されていた。神の主権はあくまでもそのようなものである。私たちは、私たちには隠されている神の御計画の秘密を知ることはできない。隠された神の永遠の御計画は何なのかを探り出して、そこから特別な知識を得て、それによって生きるように教えられてはいない。どのように生きるべきかというと、「神の契約を守る」ということなのである。イスラエルの人々は、神の契約を守ることを忘れている。パリサイ人たちの考えはもはや契約的な考え方ではなくなっていた。彼らの考えは聖書の倫理を何よりも大切にする考え方ではない。「神を恐れて、神を愛して、神の命令を守ることよりも大切なことはない」というような考え方ではなくなってしまっていた。
パリサイ人たちは、「ユダヤ人は特別なものであり、他の人種よりも優れている」と信じ込んでいた。「私たちには神との特別な関係がある。他の者たちはだめな者たちだ」ということを信じていた。パリサイ人は人種的に誇っていた。そして、自分たちが何をしても神は受け入れてくれるかのように考えていた。彼らの全生活はその信仰を表わすものになっていた。そのような考え方は、選びの契約的な意味も分かっていないし、生きた契約関係を持つ意味をも分かっていないものである。つまり、旧約聖書に書いてあることが何を意味するのか分かっていないということになるのである。
例えば、旧約聖書の中で、イスラエルは神の契約から離れてしまう。神の契約から離れてしまったイスラエルは偶像礼拝を行なったり、いろいろな罪を犯していた。それ故イスラエルは神から離婚されてしまう。バビロンの時のエゼキエルの言い方やホセアの言い方は離婚を意味するものであった。イスラエルが神から離婚される時、明らかに神は完全であってイスラエルの方が100%悪いというものであるが、契約関係とはそのような生きた愛の関係だということである。契約を破るなら、契約を破る者に対して神は懲らしめを与えて契約に戻るように導くこともある。しかし、続けて契約を破り、神から離れて偶像礼拝に走るならば、「それほどに離れたいならば、離れてゆけ」という契約の裁きが与えられることになる。
そのことはローマ人への手紙1章の中だけでも何度も出てくる話である。それで、神は、彼らを彼らの心に委ねたという話になる。イスラエルは離婚された。「それなら神は真実ではない」ということだろうか。決してそんな話にはならない。神は真実な御方なので、イスラエルは離婚されたのである。神は正しいからこそ、イスラエルは離婚されたのである。神は契約を守る真実な御方なので、イスラエルは離婚されたのである。
契約関係というものは二者間の生きた関係なのだ。二人以上の場合でも同じことだが、当事者間の生きた関係なのである。決して一方通行の関係ではない。しかし、ユダヤ人は契約を一方通行のようなものと考えていた。「神が私たちを選んだのだ。神がすべてを与えた。私たちには何も責任はない。与えた神の方に責任がある。応答しなくても、反応がなくても、何もしなくても、神はとにかく一方的に私たちにすべてを与えてくださるのだ」というような考え方になってしまっていた。そんなことはない。契約関係は生きている人格的な関係なのである。
パリサイ人たちの考え方を別の表現で言えば、それは「機械的な考え方であった」と言える。「神はすべてを私たちに与えた。それで、すべてが私たちのものとなったのだ。いつでもボタンを押せばまた祝福は来る」というように考えてしまう。これは、神についての普通の異教の宗教の考え方でもある。「神は私たちのために存在している。私たちは神を利用して、自分たちの欲しいものを得るのだ」というような宗教である。「大学受験で合格したい」というので、ちょっとそっちに行って手を合わせて祈願する。「もしかしたら、これで合格するかもしれない」と思うのである。「結婚したい」と思えば、そこに行って奉納金を供えたりして「もしかしたら結婚相手が与えられるかもしれない」と思う。そのように、異邦人にとって、また異教の宗教においては、神は利用するために存在するものなのだ。
パリサイ人たちの考え方は結局そのようなものになっていた。しかし、本当の契約関係は愛の関係なのだ。それは人格的な関係である。妻が「この夫は、利用するために与えられたのだ。どこまで利用できるかしら」というような考えを持つ筈もない。夫も「いい妻が与えられた。実によく利用できる奴だ。この事にも利用し、あの事にも利用し、利用するだけ利用して、役に立たなくなったら窓から放り出せばいい」と考えるだろうか。愛の関係はそのようなものではない。愛は、お互いに与え合う関係でなければ本当ではない。「神の御国のために、私に何ができるだろうか。どうしたら私は神のために役に立つ者になれるだろうか」ということを、本当なら考える筈である。「生きた人格的な関係」は、双方がお互いのために与え合う関係であり、愛し合う関係である。罪人の場合には赦し合う関係でもある。お互いの祝福を求め合うものなのだ。
私たちと神との関係においては、私たちが神の祝福を求めるとういような関係ではないが、私たちは神の栄光を求めるものである。「私は、今日、どうしたら神の栄光を表わすことができるだろうか」と考える筈である。パリサイ人たちは完全にそのような契約的な考え方から離れてしまっていた。「私たちに与えられたのだから、これはもう私たちの物だ。私たちにはこの特権がある。他の者たちはだめ...」というような考え方に落ちてしまっていたので、「それじゃ、一方的に受けただけなのに、私たちが地獄に行くとでも言うのか。そんなことが可能だとでもいうのか。なんと理不尽な。そうであれば、割礼の意味はいったい何なのか」と反論する。
しかし、割礼の意味は「神との生きた契約関係にある」という意味なのである。あなたがその関係を破るならば、それは神の責任ではなく、あなたの責任なのだ。あなたは神の似姿である。神の似姿として実に高くて素晴らしい存在なのである。神との契約、本当に生きた愛の契約関係を持つことができるものとして創造されたのである。その契約関係を破るならば、それは誰でもないあなた自身の責任である。これが契約の考え方である。神の真実を擁護するための根拠としてパウロは実に驚くべき聖書の箇所を引用するのである。4節で、パウロは次のように言っている。
それは「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため」と書いてあるとおりです。
この引用された聖句の箇所は皆さんもよく知っていると思うが、これはダビデが罪を悔い改めた時の詩篇である。これは詩篇51篇からの引用である。ダビデは罪を犯した後、約1年間経ってからやっと悔い改めた。悔い改めた後、まもなくしてこの詩篇を書いた。それから数年過ぎてから詩篇32篇を書き記した。詩篇32篇と51篇は両方ともバテ・シェバのことでダビデが犯した罪の悔い改めの詩篇である。ダビデはイスラエルの間で確かに祝福された人物として顕著な存在である。しかし、神への不実においてもまた著しい存在であった。その罪において、ダビデは神の契約を完全に破ってしまったと言うことができよう。姦淫を犯し、殺人の罪をも犯して、神が自分に与えた地位を悪く利用して大変な罪を犯してしまった。
ダビデは実に神との契約関係を大胆に破ってしまったのである。そして悔い改めもしなかった。実に、神が預言者ナタンを送ってその罪を取り扱うまでは、ダビデはずっと悔い改めなかった。これは本当に契約を破る罪であって、アダムが犯したような罪である。ソロモンも同じような罪を犯した。イスラエルは、贖われたそのところで偶像礼拝をしてしまった。アダムのように、契約を破る罪を犯してしまったのである。まことに、古い旧約の時代、毎回々々、神は大きな御恵みを与えてくださる時に、民はアダムと同じような罪を繰り返し繰り返し犯してしまうものであった。
セツの子孫はだめになる。ノアの子孫もだめになる。アブラハムの子孫もだめになる。ダビデとソロモンがだめになる。エズラの時代になって捕囚から帰った時もイスラエルは再びだめになったのである。パリサイ人たちの時代になると、イスラエル全体が神から離れていた。「新しいアダム」がいなければ、人間は忠実に神に従って生きて本当の意味で成長していくものにはならないのである。さて、ダビデは、その旧約聖書の中にあってアダムのように大罪を犯した人物の一人である。ダビデは、罪を犯した後、悔い改めの告白を詩篇51篇に書き記した。1〜4節aで、ダビデは次のように告白している。
神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。
ダビデは、バテ・シェバに対して大変な罪を犯した。それだけでなく、バテ・シェバの夫をも殺してしまった。イスラエル全体がその罪のゆえに苦しみを受けなければならなかった。その罪から生まれた息子は死んだ。ダビデの他の息子たちもその罪の影響を受けてだめになり、皆ダビデとの関係もだめになってしまった。ダビデは、この罪のために生涯苦しむことになった。けれども、そのダビデは、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました」と告白することができた。つまり、罪は実に神に対するものであることを深く認識したのである。人間に対しても私たちは罪を犯している。人間に対しての影響もいろいろあろう。しかし、何よりも、第一に、すべての罪はまず神に対しての罪なのである。ダビデはそのことを告白するときに、パウロが引用した箇所を続けて告白している。
それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたは聖くあられます。
神が裁きを行ない給うのだ。神が裁きを行なうとき、神は正しく、聖くあられる。イスラエルの中で、ある意味でこれは最も忠実で一番すばらしいユダヤ人が神の契約を破ったというような話である。多くの詩篇を書いた神のしもべダビデ、神が特別に愛したダビデ、そのダビデがそのような大罪を犯したのである。ダビデの不真実は神の真実を表わすということを、ダビデ自身が告白しているのである。「私は実に酷い罪を犯しました。それはあなたに対する罪でした。それは、あなたの真実を表わすものでした。あなたがさばくときにあなたは正しいことが証明されます。すべての罪咎は私の方にあります」と告白しているのである。
さて、それがダビデの場合に真実であったとすれば、イスラエル全体の場合においても真実でなければならない。そして、ユダヤ人でいったい誰がこのことを否定するだろうか。もしも、ダビデが、このような理解をもって神の真実を告白しているのであれば、ダビデと同じように罪を犯したけれどもダビデのようには悔い改めていない者は、神の義なる裁きを受けるとしても誰一人文句は言えない筈である。神は真実であり、神がさばくとき、裁かれる者は正しい裁きを受けるのである。「そのことを認めなければならない」と、パウロは言っているのだ。
私たちの不真実でさえも、神の真実を表わしてしまう。神はあくまでも真実で正しい御方であり、あくまでも神であられる。人間が何をしても、神に害を与えることは不可能である。聖書が語っている意味において「神」という言葉が使われるとき、それは「神であられる」という意味に含まれているものなのだ。神は、絶対者であられ、聖なる御方であられる。善であり、愛であり、義であられる神に、不真実は絶対にない。私たちの罪でさえも、そのことを表わしてしまうことになる。イスラエル人はそれに対して文句が言えるのだろうか。答えは「否」である。
なぜ神は怒りを下されるのか
何も文句が言えない筈なのだが、ユダヤ人はまたも別の異議を申し立てるのである。最初の反論へのパウロの答えがもう一つの反論を導き出すことになることをパウロは熟知していた。その新たな反論は、パウロを反律法主義者と看做し得るものであった。そこでパウロは、異議に答える中で、反対者たちの中のある種の考え方と、パウロの教えに対する彼らの偽りの告発との両方を論駁する。彼らの心の中にある異議とはどんなものかというと、「私たちの不真実でさえも神の真実を表わすというならば、正しくなくてもいいのではないか。私たちの不義が神の義を表わすのであれば、なぜ一生懸命正しさを守らなければいけないのか」というものである。
この異議申し立てをしている人たちは、5〜8節までを読めばわかるように、ある人たちはそれがパウロの教えだと主張していた。つまり、彼らはパウロが教えている「恵み」の教えを曲解して「何をしても構わないとういことか。恵みなのだから、神は別にどうでも構わないのだ」という意味にとるわけである。パウロに反対するユダヤ人、そしてパリサイ人的なクリスチャンたちもそのようにパウロを非難していたようである。まるで「パウロの教えは無律法主義だ」と言わんばかりである。パウロはそのような捉え方をする者たちに対して次のように論駁する(5節と6節a)。
しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
まず「私たちの義が神の栄光を表わすというなら、どうして神は怒るのか」という異議が申し立てられる。「怒る必要なんかないではないか。これも神の栄光を表わすのだから...。何でもかんでも神の栄光を表わすことになるのだから、神は怒りを下す必要なんかないではないか」と言うのである。今日でもこのように考える人々がいる。つまり、契約的に考えることはしないのである。契約的に考えることをしないので、神を引き下ろして人間のレベルに置いて考えようとする。人間のレベルに置いて神のことを考えるならば、確かに、人間は神に対して何をやっても同じだという考えになってしまうであろう。
しかし、神は私たちのレベルではないのだ。神は絶対者であられる。聖であられる。義なる、愛なる、創造主なる神であられる。その神に対して、まるで自分と同じレベルと同じであるかのようにぶつぶつ文句を言ったりすることができる筈はないのである。まず、人間は、神について語るときに、神を畏れて、神を信じ、へりくだった心を持って、神の下に立って語るべきである。それなのに、この横柄な人たちは、まるで自分たちは神と同じレベルに立っているかのうように考え、そして語るのである。「何でもかんでも神の栄光を表わすなら、どうでもいいじゃないか。それだったら、なぜ神は怒る必要があるのか」と異議を唱える。怒りを燃やす神は不正なのか。「絶対にそんなことはない」とパウロは答える。義なる神が世を裁くという根本真理を実質的には否定してしまっているその愚かさと罪を指摘することによって、パウロはそのような考え方を否定している。
もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。(6節)
つまり、「そうであれば、神はこの世をさばくことはできなくなる」と言うのである。神は、裁き主、義なる神であられる。異議申し立てをしているユダヤ人たちも、そのことが分かっている筈である。とてもそのように考えることはできない。パウロは同じポイントを違う言い方で次のように言っている。
でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。(7節)
「もしも、私の罪が神の栄光を増すのであれば、なぜ神は怒りたもうのか。なぜ私はその罪のために裁かれなければならないのか」と尚も彼らは反論する。しかし、知らないのか。神は裁き主でもあられるのだ。罪に対して神は御怒りを持って裁きを行ないたもうのである。「でも、私の罪で神の栄光が表わされるというのでしょう。神の栄光が増すのでしょう。それなら、怒る必要がどこにあるのか。結果はすべて神にとってはよいのだから...」と彼らは言う。そのような議論は、「善を現わすために、悪をしようではないか」(8節)という結論に至るということでパウロは否定している。
しかしパウロは、「私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが.....」と言っている。このようなオブジェクションを論じている者たちは結局、「パウロの教えに従って考えるならば、何をしてもいいのだ。だから、大胆に罪を犯せばいい。パウロがそう教えているのだから...」ということをパウロについて語っているのである。そのように考える者たちに対してパウロはただ簡潔に、「もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められる」とだけ答えている。
6章や他の所でもまた同じような問題が出てくるが、恵みの教えを曲げるならば、結局「何でもかんでも構わない」ということになってしまうものである。パウロは、あくまでもその考えを否定し、「神は神であられる」と答えるのである。「神のことを考えるときは、神に対してへりくだった心を持ち、神に従う心を持って考えなさい」ということを9章でも教えている。「そのようなことを言うあなたは、当然の裁きを受けるのだ」と言う。パウロはこのような者たちといつまでも議論を続けることはしない。議論を打ち切っている。愚かな質問に対して時間をかけて話したりはしない。
この3章の1〜8節までの箇所で、パウロは、神の真実、神の正しさを強調する。そのことを強調するとき、或は5〜8節のような異議申し立てに答えるときも、パウロは、神御自身がどのような御方であるのかをはっきり覚えて考えるように勧めている。そして、「生きた契約関係を持っている者として考えなさい」ということを話している。確かに、私たちの失敗であっても神の栄光を表わすことになる。だからといって「それじゃあ、失敗をしようではないか」という話にはならない。私たちの罪、私たちの愚かさも、神の栄光を表わすことになるのは事実であるが、わざわざ愚かになろうとか、わざと罪を犯そうとかいう話にならないのは当然過ぎるほど当然なことである。
では、私たちにはどういう特権が与えられているのだろうか。どういう祝福が与えられているのだろうか。それは、御言葉そのものである。それは永遠のいのちを与えてくださる神のことばである。それは、キリストの再臨の時に復活せられて永遠のいのちが実際に与えられる時まで私たちを守ってくださるものである。御言葉は私たちの戦いの武器である。御言葉は私たちのまことの糧である。御言葉は私たちの守りの城である。御言葉によって導かれて、御言葉によって救われる。御言葉によってきよめられて成長する。これこそ私たちにとってすべてである。このことを私たちは、アブラハムの契約に入れられた祭司として覚えなければならない。私たちにはこの大きな特権が与えられている。実に大きな祝福が私たちに与えられていることを喜び、もっとその御言葉を心から慕い求める者にならなければならないと思う。
真の心の割礼を持っているのかいないのか。それは結局、神の御言葉に対する反応によって表わされる。「心の割礼」の意味は(勿論「肉の割礼」の意味もそうであるが)、御言葉を阻むものを取り除くことであり、その罪の肉を取り除いて捨てることによって、御言葉の祝福が与えられるというものである。だから「心の割礼」と呼ばれている。それは「耳の割礼」という言い方にもなるのである。イスラエルの問題は、御言葉が耳に入らない。耳があっても聞こえないのである。或は、耳に入るとしても、心には入らない。イスラエルの人たちには、神の御言葉そのものを求める心がない。それだから、神から離れてしまうことになったのである。その「心の割礼」「耳の割礼」を本当に正しい意味で持つことが私たちにとっては大切である。バプテスマにおいて言うならば、「バプテスマの本当の意味を保つ」という話になる。
契約的思考
御霊が与えられ、新しい契約の祝福のすべてが与えられている私たちは、その新しい契約の祝福を生かすべく神の栄光を求め、神の契約を堅く守るべきである。その私たちとの生きた契約関係を神御自身が喜んでくださり、神が私たちを愛してくださる。私たちは永遠の愛をもって愛されている神の子供なのである。神の子供らしく御言葉を守り、神の命令を喜び、正しく歩み、神の御国のために実を結ぶことを何よりも心から熱心に求めるべきである。その心を持つことを正しく契約的に考えるのである。それは正しく結婚関係を考えるのと同じことであるし、正しく親子関係を考えるのと同じことである。
神が私たちを御自分の契約の子供として愛してくださっており、教会を御自分の妻として愛してくださっておられる。何が私たちに要求されているのか。他でもない、神を愛することなのだ。心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、神御自身を愛するのだ。そのことが私たちに要求されている。それが本当の契約の関係である。イスラエルの人たちにはどうしてもこのことが分からなかった。神を愛さない。神を求めない。そういう時代だったので、パウロの福音も通じない、という問題であった。実に耳にも心にも御言葉が入っていかない時代であった。
この短い箇所において注目しなければならないところはパウロの論法である。一言で言うなら、その話し方は「契約的」である。パウロは、神の真実、誠実、善を当然のこととして話している。これらは絶対的で不変なことである。これらは、私たちにとっては考えるための「真理」であって、疑うことのできる“概念”ではない。ひとたびこれらの真理が失われるならば、まさに真理という概念そのものが失われるのである。そうすると、考えること自体が無意味になってしまうことになる。パウロは、ただ単に「そうしないのは哲学的に不合理だ」ということを納得したからこれらの真理を究極的な出発点と考えているわけではない。パウロは、神を知っているがゆえに、これらの真理に立つのである。
パウロは、天におられる御父を愛し、御父に信頼している。パウロはまた、人間とその罪深さとを熟知している。まず第一に哲学や知的反論が問題だということは決してないのである。天の御父に対する信仰にはっきり立つことに加えて、パウロは人間の契約的な責任を強調している。人間と神との関係は、人間に利用されるために神が存在しているというような異教のレベルにまで引き下げられてはならない。そのような考えや思いは神への冒涜であるばかりでなく、人間自身をも引き下げてしまうものである。
人間は、神の愛の光の中に生き、その愛に対して神に倣う者として応答する人格的な存在として創造されたのである。人間が神との契約関係を喜ぶという概念自体が、人間が持ち得る最高の概念なのだ。この素晴らしい真理を私たちに教えてくださったのは神御自身である。しかし、その契約の現実とは、人間が神に似たものだというその素晴らしさの故に恐るべき責任をも負うことでもあるのだ。
それゆえ、愛なる神であると同時にねたむ神でもあられる御方が唯一の究極的真理である契約的世界において、人間の不真実は実に恐ろしい現実となるのである。神との関係は生きた契約的関係であるからだ。それ故、「神と、神がその御恵みによって私たちに与えた素晴らしい関係とに従って考える」とはどういうことなのかというと、それは「契約的に思考する」ことなのである。しかし、契約的思考は、契約信仰と、愛をもって服従する契約的生活から生じるものなのである。
聖餐式を行なう時、私たちは、割礼の意味、バプテスマの意味のところに戻るものである。私たちも罪人であってダビデのように罪を犯してしまうものである。イスラエルのように罪を犯し、アダムのように罪を犯してしまうものである。私たちは罪人なので、皆、心が頑なになって神の御言葉を求めなくなったり、聞こうとしなくなったり、逆らったりする。御言葉を持っていながら、それを求めない。御言葉を委ねられた者であるのに、それに逆らったりしてしまう。私たちは、そのように愚かな罪人なので、聖餐式のときに、本当に神の御前に出て自分の罪を悔い改め、心をきよめ、罪を捨てて、神との契約を新たにするものである。これは私たちにとって実に重大なことなのである。
自分の心の中に罪があれば、それを早く取り除かなければだめなのである。私たちも、ダビデのような祈りを毎週毎週ささげている筈である。「どうか神さま。私の心を洗ってきよくしてください。どうか神さま。私の罪を赦してください」と祈って、救いをいただいたその初めの所に繰り返し繰り返し立ち返るのである。そして、贖ってくださったことを喜び、感謝するのである。それが聖餐式である。この礼拝を正しく行なうならば、神の御前に純粋な心をもって御言葉を受け入れる心の態度をも持つはずである。神との生きている愛の関係を正しくする、そのところに戻るのである。
そのことを覚え、主イエス・キリストがどんなに私たちを愛してくださったかを覚え、罪を捨てて主イエス・キリスト御自身を求めるのである。「主よ。私はあなたのために生きます。あなたの御言葉に従います。あなたは私のすべてです」という心にはっきりと立ち返らなければならない。それが聖餐式である。生きている愛の関係としての契約関係を正しく理解するのでなければだめなので、神は私たちにこの聖餐式という大きな祝福をも与えてくださったのだと思う。そのように心の備えをして一緒に聖餐式を受けたいと思う。
――1998年11月15日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com