ローマ人への手紙3章27〜31節
3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
3:28 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。
3:30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
3:31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
99.05.30. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
取り除かれた偽りの誇り
3章27〜31節
約三箇月ほどローマ人への手紙から離れて「主の祈り」を学んだけれども、今日からまたローマ人への手紙の説教を再開したい。ローマ人への手紙の学びは十二週間ぶりなので、今まで学んだ箇所を少し思い出しながら3章27節に進みたいと思う。
ローマ人への手紙の1章からパウロは、ローマの教会に自分が伝えている福音をはっきりと宣言している。福音のことを教会に話すということは、明らかに、クリスチャンになってからも続けて神の救いの福音について深く学ぶ必要があることを私たちに訴えるものである。それは当然のことである。もっと深く福音を学び、本当に私たちに救いを与えてくださった神の御言葉のメッセージとはどういうものなのかを考える必要があることをパウロは深く教えている。ローマ人への手紙は、その教会に福音を宣言し、伝え、教えるような手紙である。
そのことを私たちはローマ人への手紙のテーマとなる1章の16〜17節においてはっきり見ることができた。そこでパウロは旧約聖書のハバクク書の「義人は信仰によって生きる」という箇所を引用している。ある意味で、ローマ人への手紙全体はそのハバククの言葉の意味を深く説明する手紙であると言ってよい。「義人」とは誰なのか。「信仰によって生きる」とはどういうことなのか。その「信仰による」というところをパウロは深く説明し、それによって「生きる」とはどういうことなのかを一つ一つ深く説明しているかのように手紙を書いている。そのようにローマ人への手紙全体をとらえることができると思う。
福音を「よい知らせ」と呼ぶ。しかし、問題をよく理解してから聞くのでなければ、聞いてもそれが「よい知らせ」だということがわからないものである。つまり、いきなり医者が来て「あなたの癌は治りますよ」と言っても、自分に癌があると思ってもいないならば、それはその人にとって「よい知らせ」にはならないのである。「何か変なこと言ってるな」と思うだけで、「癌もないのに、癒す必要なんかないじゃないか」というような話になる。しかし、医者が「実は、あなたは癌におかされています。かなり進行していて、このままではあなたに救いはありません。あなたは死にます」と説明された後で、「しかし、一つだけ救いの道があります」と言われる時に、それはその患者にとって本当に「よい知らせ」となる。神はその「よい知らせ」を深く説明する前に、私たちの本当の状態がどのような状態なのかをローマ人への手紙1章18節から3章の20節の箇所で説明している。まず1章18節で簡単にこう言っている。
不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
私たちは「神の怒り」の下に置かれているのである。私たちのすべての不敬虔とすべての不正に対して、神の怒りが下される。その「不敬虔」とは、神を無視して生きている罪を指している。敬虔ではないというのは、神無しで生きることである。特別にひどい悪事を働かなくても、愛と礼拝を捧げるべき神を愛さず、心から神に感謝して神の御名を賛美することもしない。そのような生活は不敬虔である。表面的にはどんなに親切で善人のようであっても、愛すべき神を憎んで生活を送っているなら、それは「不敬虔」なのである。この「不敬虔」こそ罪の本質なのである。
そして「不正」とは、神の命令を破る罪の話である。神の御言葉に対して逆らい、その御言葉の教えを破る。そのような罪のことを「不正」という言葉であらわしている。「あらゆる人間の不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている」ということをパウロはまず最初のところで宣言している。
「真理をはばんでいる人々」とは誰のことか。それは全人類を指している。人間というものは真理をはばむものである。つまり、真理から逃げている。「表面的には真理を求めているように見える人々こそ、そのようなものである」と言っているのだ。そのことを強調して言わなければならないと思うのである。
まだ読んでもいない本について話すのは不謹慎かもしれないが、出版の紹介を見て今買おうと思っている一冊の本がある。その本は西洋をプラトンの時代から二十世紀まで説明する本である。本の中でその著者は、「現代の文化はギリシャとローマの上に建てられたという考えはキリスト教に反対する啓蒙主義的な考え方であって、本当の歴史は、すなわち西洋文化を築き上げた人たちはプラトンやアリストテレスを知っているよりもむしろヨシュアやモーセのことや聖書のことをよく知る人たちであった」ことを強調している。それがその本の中心的なポイントの一つになっている。
西洋の文化はギリシャやローマの上に建てられているようなものではない。意味をそこから借りたり、表面的な装飾をそこから借りたりはしているが、本質は聖書を信じるところにあったのだ。啓蒙運動の人々、特にドイツの啓蒙主義者たちはユダヤ人を嫌っていたので、聖書を取り除いてそれが“白人”の文明であることを訴えようとした。彼らは出来得るかぎりのことをして聖書の影響を否定し、西洋の文明を違うように説明しようとした。その本の著者はこの問題をテーマの一つとして扱っている。
確かに、クリスチャンではないインテリの人たちの目的は神から逃げるということにある。彼らは真理をはばんでいる。真理を否定している。真理から逃げるために仏教を作り、真理から逃げるためにイスラム教を作るのである。真理から逃げるためにプラトン哲学などをも作るのである。彼らにとって真理は耐えられないものなのだ。罪人はそれを憎み、その真理に反抗し、自分たちのためにあらゆる偽りの宗教を作り出すのである。そのような罪人の「不敬虔」と罪人の「不正」は、真理なる神ご自身を憎むところから出ている。それに対して、神の無限な怒りは天から啓示されている。このポイントをパウロは最初から明確に指摘する。その「神の怒り」こそ、罪人にとっての問題なのである。
福音は、「神はあなたを愛して、あなたを無条件に受け入れてくれる。だから、どうぞ神を受け入れてください」というようなメッセージではないのだ。「神はその愛を蜂蜜のように注ぎ出しているので人々はその甘さに溺れて救われてしまう」というような福音をパウロは伝えてはいない。最初から、「あなたは真理に逆らっており、心においても生活においても神に敵対している。それに対して神は無限なる怒りをもってあなたをさばきたもう。それがあなたのすべての問題の本質なのだ」ということをパウロは宣言している。そこから福音の「よい知らせ」は始まるのである。
続いてパウロは、異邦人の偶像礼拝のことを細かく描き、「神の怒りはそのような偶像礼拝の社会に対して啓示されている」と宣言している。更に、いわゆる道徳的に高い生活をしていると思われる人々に対して神の怒りは啓示されているということを2章のところで説明している。その後で、2章17節のところではっきりとユダヤ人を名指しして話している。そこでは、主イエス・キリストを信じないユダヤ人に対して神の怒りは啓示されていることを説明している。
そして3章に入ると、まとめとして、「すべての人間は例外なしに罪人である」ことを宣言する。そして、「それは旧約聖書の教えである」と言う。パウロはそのことを1章の最初の導入の挨拶のところで既に強調して語っている。つまり、自分が伝えている福音は旧約聖書の教えと全く同じ教えであって、旧約聖書の教えの成就であるということを強調しているのだ。1章18節からずっと罪人に対する神の御怒りについて説明してきたパウロは、3章では、旧約聖書の詩篇などからの多くの引用をもって「すべての人が罪の下にある」ことを深く教えている。
義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。
ここでパウロは旧約聖書を引用して、罪人の誇りを徹底的につぶすのである。人々は「わたしはそんなに善を行なってはいないけれども、わかっていないわけではない。悟りはちゃんとあるんです。ただ、こうこうしかじかの理由でそれを行なっていないだけなのです」というような屁理屈をつくって自分を弁護したりする。しかし、パウロは宣言する。「悟りもない。正しさもない。善を行なうこともない」と。「でも、わたしは求めています。本当に求めてるんです」とあなたは言う。それに対してパウロは「いいえ。嘘です。あなたは少しも求めてはいない」と答える。ひとりもいない。まったく完全に創造主が与えた目的の観点から見れば、皆が100%無益な者となっているのである。
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。」
クリントン大統領を思い出すだけでこの箇所を考えてはならない。これはすべての罪人の状態なのだ。そのことをパウロは明確に語っている。これは私たちのことなのである。偽りと暴力の心を罪人は持ってしまう。罪人の心の中にはすべての悪とすべての罪が満ちている。毒蛇のような舌を持っている。本当に悪者の心と私たちの心の違いは程度の違いはあっても、質的には同じ罪人なのだ。パウロは、罪人の罪の問題の深さをここで暴いて「これは私たちのことを指しているのだ」と教えているのである。
「また、彼らは平和の道を知らない」とパウロは言う。「知らない」というのは、わからないという意味ではない。知ろうともせず、拒絶し、平和を求めもしないということなのだ。そして最も深い問題が最後に書かれている。即ち、「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」のである。「神に対する恐れがない」というのは、神を愛さないということにほかならない。神を信じてもいない。求めてもいない。神との関係こそ、すべての人間関係、そしてすべての心の中の問題の根源である。これが最大の問題であり、すべての問題はここから出て来る。それ故、「罪人はただ神の律法を守ることによって義人になることはあり得ない」ということをパウロは説明している。
「義人は信仰によって生きる」という言葉を見るときに、「義人とは誰のことなのか」を考えなければならないが、「義人はいない。正しい者はひとりもいない。みな無益な愚かな罪人となった」のである。これが「よい知らせ」の出発点なのだ。福音はここから始まる。問題を直す前に問題を説明しなければならないのである。問題を直す前に、問題を認めなくてはならないのである。パウロはそこで私たちに自分たちの本当の問題が何なのかを旧約聖書の御言葉から明らかに示してくれている。結論は、「律法を守る行ないによって義人になることはない」ということである。律法は、私たちの罪を深く教え悟らせるものであって、それによって義と認められるものではない。
従って、21節から26節までの短い箇所はローマ人への手紙全体の中心的なところとなる。そこでパウロは、義人はどのようにして義人となるのかを説明している。即ち、主イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、私たちの受けるべき罰を受けてくださって「なだめの供え物」となってくださったことによって私たちは義と認められるということである。「なだめの供え物」とは、下される怒りを完全に受け入れて、その怒りの問題を完全に解決するということである。「なだめの供え物」とは「怒り」の話なのだ。「和解」という言葉を使って救いのことを説明するときに、私たちと神との関係がだめになっていることが前提となっているのだ。
しかし、主イエス・キリストが「和解」をもたらしてくださった。それは、私たちと神が互いに愛し合うことができるように、キリストが道を開いてくださったということなのだ。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と、ヨハネの福音書14章6節でキリストが言われたとおりである。「贖い」というときに、それは罪の中で奴隷の状態に陥っている人々を解放するために代価を払ってくださったということを意味している。
しかし、「なだめの供え物」と言うときには、それは「怒り」の話をしているのである。私たちの上に下るはずであった神の御怒りは、主イエス・キリストの上に下された。主イエス・キリストが、私たちの代わりに神の怒りの杯を100%飲んでくださって、完全に受けてくださった。それによってのみ、私たちは罪赦されて神の御前に義人と見做されるのである。そうでなければ、私たちのような罪人が神の御前で正しい者と見做されることは全く完全にあり得ない。それは私たちが皆知っているとおりのことである。
誇 り
その福音のことをこのように説明した後で、パウロは、「主イエス・キリストの十字架のみによって救われる」ということを深く説明するのである。みんなが罪人だということを説明してから、3章27〜31節までの短い段落では、罪人の「誇り」の問題を取り扱っている。この問題は4章に入って更に深く説明されている。「信仰による」ということをパウロは説明しているのである。3章27節から31節は3章の結論であるとともに、4章の「信仰による」という問題の導入ともなっているわけである。
結局パウロは「十字架のみによって救われる」とはどういう意味なのかを説明しているのである。そのことは3章の結論でもあるし、4章の「信仰のみによる」というメッセージの導入でもある。パウロは、「イエスを信じる者を義と認めてくださる」ということを26節のところで説明した。そして、「律法ではなく、キリストの十字架を信じる信仰によって救われる」ということを説明したあとで、27節から31節で3章の結論と4章の導入を与えている。
27それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。28人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。29それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。30神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。31それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
この短い箇所にはわかりずらいところもあるが、まず「誇り」についていっしょに考えたい。「誇り」に関するこの短い解説は、ローマ人への手紙の中心的な部分のすぐ後に登場していることでその重要性の高さを示唆している。この段落の最初の節は「誇り」に関する問いで始まっており、これら数節の主題は確かに「誇り」以上の事柄にあるけれども、その中で「誇り」が最も目立っている。それは次の問いを生じさせる。即ち「誇りを取り除くことをなぜパウロはこれほどに重要視するのか」と問わなければならない。その答えは、自分の栄光を求めるという人間の性質に関わりがある。
「誇り」というものは、悪い意味において言うならば、つまるところそういう人間の傾向のことなのだ。パウロは3章23節で人間の罪について、「すべての人は、罪を犯したので、神の栄光に達しない」と述べている。これは、神の似姿として創造された人間の最初の目的を示している。人間は神の栄光をたたえるはずであった。そのようなものとして創造されたのである。ある人にはこれは人間が単なる“もの”と見做されているように聞こえるが、聖書の見方はそうではない。人間が神の栄光をほめたたえるべきであるのは、ただ単に彼が被造物であって、そのため創造主に負うところがあるという理由だけからではない。それよりも重要なことは、人間が神の似姿であり、したがって神のようなものであるゆえに、神の栄光をほめたたえるべきなのだということである。
御父、御子、御霊は、互いの栄光を求めあう(ヨハネの福音書11章4節、12章28節、13章31節、14章13〜14節、16章14節、17章1〜5節、ピリピ人への手紙2章9〜1節、ヘブル人への手紙5章5節)。人間の最も高い召しとは、神の栄光を求めることであると聖書が教えるとき、人間は御父、御子、御霊のような人格的存在であり、それゆえ神の愛の本質である相互の契約的祝福の交わりに入ることが許される、と教えられているのである。
しかし、人間はもはや神の栄光をほめたたえない。人間は、堕落において自分自身を神の地位に置いたからである。罪人は、自分が神となることを求めるようになり、自分自身を中心にして善悪を定義した。その心が根本的に歪んでしまった被造物である人間は、今や三位一体なる創造主の栄光の代わりに、自分の栄光を求めるようになった。それだから、キリストはパリサイ人に対して「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」(ヨハネの福音書5章44節)と言われたのである。福音書の後の方でヨハネは、おそらくキリストを信じたはずの指導者たちについて、「しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった」(ヨハネの福音書12章42〜43節)と語っている。
さて、「それでは、私たちの誇りはどこにあるのか。その誇りはどうなるのか」という問題をパウロは提起している。「誇る」というギリシャ語の言葉は場合によっては「喜び」とも訳されている言葉であるが、「誇ること」或いは「喜ぶこと」の真偽に関わる問いは、それゆえ福音の中心的関心事なのである。パウロは自分の手紙の中で何度もこの「誇り」という言葉を使っており、この言葉はパウロにとって非常に大切な言葉なのだ。コリント人への第二の手紙の中だけでも「誇る」という言葉がどれほど使われているかをみると、1章12節、5章12節、7章4節と14節、8章24節、9章2節と3節、10章の8節、13節、15節、16節、17節、11章10節、12節、16節、17節、18節、30節、12章1節、5節、6節、9節といったぐあいである。名詞の形であれ、動詞の形であれ、パウロの手紙ではこの言葉は頻繁に出てくる。そしてこれは旧約聖書の70人訳のギリシャ語の用法と基本的に同じものである。
罪人の誇りは自分にあり、その偶像にある。そして、それはこの世の力、富、名声にある。旧約聖書70人訳における「誇り」という言葉の用法においてそのことははっきりと出てくる。パウロは自分の手紙の中で「自分の肉の行ないを誇る」とか「主イエス・キリストを信じるその信仰を誇る」というような話をするが、何を誇りに思うのかによって本当のクリスチャンと偽物のクリスチャンを区別し、あるいはクリスチャンとクリスチャンでない人を区別しているのである。偶像礼拝とは「不滅の神の御栄えを、・・・もののかたちに似た物と代える」こととして定義されている(1章23節)。
パウロはユダヤ人に対する非難の中で、彼らが真の神を知っているという事実を「誇って」おり(2章17節)、その神の真理を自分自身の栄光のための道具に変えて、それによって異なったかたちの偶像礼拝の罪を犯していることを指摘する。同じように、義と認められる条件として信仰に割礼を付け加えて福音を歪曲した律法主義者たちは、改心者たちの「肉」を「誇る」ことを求めた(ガラテヤ人への手紙6章13節)。この三つの例のすべてにおいて、神を人間の目的のための道具にしようと試みる偶像礼拝の根本的な罪が「誇り」を歪めてしまうという罪の本質となっていることが明らかにされている。
従って、間違った誇りは、真の誇りが確立されるために取り除かれなければならない。「これは福音によってなされるものだ」とパウロは説明している。真の信者とはどういうものか。ピリピ人への手紙3章3節を見よ。
神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ割礼の者なのです。
自分の罪がキリストにあって与えられる神の恵みによる以外に赦され得ないことを知っているがゆえに、彼らは、パウロのように、ただ「十字架」のみを誇りとすることができるのである(ガラテヤ人への手紙6章14節)。福音は、人間の為し得るあらゆる良き行ないを取り除き(エペソ人への手紙2章9節)、信仰すらも選ばれた者たちに与えられる神の賜物であることをはっきりと宣言することによって、あらゆる偽りの栄光を取り除く。ユダヤ人たちは割礼を持っていることを「誇り」と思っていた。赤ちゃんの時に、父やレビ人が割礼をしてくれただけなのであって、何か自分が特別に素晴らしいわざを行なったから割礼を受けたわけではないのに、罪人はそれを誇るのである。「私はすばらしい。あなたにはそれがないから、だめなのだ」というふうに考えたりする。事実、罪人は低いレベルにおいて自分を誇るものである。それは神の選びにおいても表わされてしまう。選ばれた者たちのことをパウロはコリント人への第一の手紙1章26〜31節でこう書いている。
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
特に28節と29節に注目してほしい。選ばれた者たちの中には知恵ある者や偉い者は多くない、とパウロは言う。それはこの世の誇りを持たないようにするためであった。神は、この世で誇る者を低くし、ご自分の民を高く挙げてくださるのである。「この世で誇ることが出来ると思っているような者たちを神はお選びにはならない」とパウロはここで説明しているが、これは非常に大切な箇所である。私たちはいったい何を誇っているのだろうか。何を誇りに思うのか。そのことについて私たちはよく考えなければならない。罪人は、何か自分に特別と思えることがあればすぐにそれを誇りに思ってしまうものである。「誇り」という言葉は時々「喜び」と訳されてしまうが、それは適切な間違いだと思うのである。つまり、誇ることは確かに喜ぶことなのであって、両者は深く関連し合っている。
自分の息子が何か素晴らしいことをすれば、母親は満面に笑みをたたえて「私の息子がこんなことをしたんですよ」と言って誇りに思うわけである。母親は心から喜んでいるので、その喜びが自然に顔や態度にあらわれてしまう。自分が何か素晴らしいことをしたときも、気持ちよくなって人々に話さずにはおれなくなるだろう。特に子どもたちは無邪気に喜ぶものだ。テストで100点満点を取れば、友だちや親に話したりする。そして、それを誇るのである。自分のライバルは90点とか50点しか取れなかったことを知ると「え〜っ。私、100点だあ。あなたは?」とか言って誇る。
大人になっても多少は巧くやるにしても、やることは結局同じである。罪人は自分を誇りたくなるものなのだ。讃めてもらいたいという気持ちも同じようなものである。へつらいでもいいから讃めてほしいのだ。それは自分を誇りたい心にほかならない。そして、箴言の中で多く語られていることだが、罪人は自分を誇ろうとするので、ある人々はわざとへつらって他人を利用したり陥れようとしたりするわけである。それはすべて自分を誇りたいという罪人のヒューマニスティックな心につながることなのである。
原始的な文化のばあい、例えば昔のアメリカのインディアンたちはどのように生活したのかというと、奥さんたちが天幕を作ったりしていた。農業も奥さんたちがやっていた。毎日の生活のほとんどの仕事は婦女たちがやっていた。男性は何をしていたかというと、戦争や狩猟をしていた。戦争したり、動物を捕ってきたりして、夕方になると焚き火のところで煙草を燻らせながら互いに自分の武勇伝を語ったり、自分がどんなに強いのか、どんなに素晴らしい戦いをしたかを誇り合うのである。もちろん事実を誇張したりすることになる。「哮り狂うライオンが20匹も襲いかかってきたけど、私はこの指一本で片っ端からやつらを倒したんだぞ」というような話になってしまう。実際は巧く逃げただけなのに...。そのように自分を誇るのである。しかし、それは文化の中において決まりきったものになるわけである。そこまで罪人は誇る。その心の問題は実に実に深いものなのだ。
しかし、思い違いをしてはいけない。誇ること自体を禁じるような教えは聖書のどこにもないということを知るべきである。「正しい誇りを持ちなさい」というのがパウロの言おうとしていることなのだ。ローマ人への手紙3章27節では「誇りは取り除かれる」とあるが、それは「罪人の誇りが取り除かれる」ということである。自分を誇るところは何一つない。しかし、パウロは5章2節の後半で同じ言葉を使っている。日本語の新改訳では「神の栄光を望んで大いに喜ぶ」となっているが、ギリシャ語原語は「神の栄光の望みのゆえに誇る」である。3章27節と同じ「誇り」という言葉が使われている。続く5章3節でも、「そればかりではなく、患難さえも誇る」と言っている。これも「喜ぶ」ではなくて「誇る」と訳されるべきである。そして、同じく11節で「私たちは神を大いに誇っている」とある。
だから、3章では「誇りは取り除かれた」と言っているけれども、5章に入ると、本当に「正しい誇り」について教えているわけである。何も誇らないということはあり得ない。なぜ人間は誇るのかというと、神の似姿に創造されているからである。先に説明したように、御父、御子、御霊なる神は、互いを誇り、互いに栄光を帰し、互いの栄光を求め合うものであり、それは三位一体なる神ご自身の中にある契約的祝福の交わりである。神は私たちをご自分の似姿として創造してくださったのだから、私たちは真に誇るべきことを誇らなければならない。すなわち、創造主なる神を誇りに思うべきであるし、正しさを誇りに思うべきなのである。また、神の恵みと神の救いを誇りに思うべきである。
しかし、罪人は良いことを曲げることによって罪を犯す。良いものを完全に否定するというよりは、良いことを曲げることによって罪を犯すものである。例えば、金銭は良いものとして神から与えられているが、それを偶像にしてしまえば偶像礼拝となり、罪になる。葡萄酒やアルコールは良いものとして与えられたのに、それを神にしてしまって、酔うまで飲んでアルコール中毒になるなら、それは良いものを曲げて悪いものにしてしまったことになる。すべての祝福についてそれは言える。事実、誇る心を持って生きるのは「力」である。ある人々はどこから力を得るかというと、憎しみから力を得たりする。憎しみに燃えているので、そこから戦う力を得ていく。私たちも憎しみから力を得ることができないわけではない。今日購読した詩篇101篇の中にも、罪を憎み、罪に対して戦うところから力を得るという面もあるのは明白である。それはそれでよいと思う。
しかし、神を誇り、神の御国を誇り、神の御恵みを誇ることこそ力の源なのである。誇っているので、そこからどんどん力は湧いて出てくる。私たちは、誇るべきことを誇ることによって力が与えられる。それは人間の心理的な部分でも言えることである。要するに、「自分の行ない、自分の知恵、自分の善、自分の素晴らしさなどを一切誇らずに、主イエス・キリストの十字架の働きのみを誇る」ということをパウロはここで話しているのだ。先にも触れたが、同じ意味のことをパウロはガラテヤ人への手紙6章14節でも話している。
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない。これは恵みのみによって救われた者の真の信仰告白である。罪人なので、自然に、そして簡単に他のことを誇ってしまう傾向はあるが、福音の真理を覚え、神の御恵みを覚えるときに、私たちは正しく誇るべきところに戻るわけである。救われた者にとって、キリストの他に誇るものは一つだにないのである。
どのような律法か?
パウロは、「それでは、私たちの誇りはどこにあるのか。それはすでに取り除かれた」と言う。何も残っていない。誇りはすでに取り除かれた。「どういう原理によってでしょうか」とパウロは問う。この「どういう原理によるのか」という翻訳は、基本的にこれでよいと思うけれども、誤解しやすい言い方なので気を付けたい。パウロはギリシャ語の「ノモス」すなわち「律法」という言葉をここで使っている点に注目しなければならない。原語で読めば「どういうノモスによってでしょうか」と言うわけである。しかし、この言い方は律法を指しているとは限らない。「律法」というギリシャ語には「原理」或いは「原則」という意味もあるからである。
ここでは「原理」について話していると私も理解している。しかし、「ノモス」という言葉には「原理」と「律法」の両方の意味があるということを覚えながら聞いてほしい。例えば、「律法」という言葉に置き換えてみると、「どういう律法によってでしょうか。行ないの律法によってでしょうか。そうではなく、信仰の律法によってです」となる。それで、「神がイスラエルに与えた律法はどういう律法なのか。行ないの律法なのか。それとも信仰の律法なのか」ということをパウロは訴えているのだと解釈する人もいる。おそらく「原理」という意味でとらえてよいと思うが、当時このパウロの手紙を読んだローマの人々は、「ノモス」という言葉を読むときに「律法」とまったく関係なしに考えるはずはない。
だから、「どういうノモスによってでしょうか」と言うときに、「律法の原理はどういう原理なのでしょうか」と自然に考えてしまったはずである。ローマ人への手紙を受けた人々は、旧約聖書と福音の関係について最初の1章のところからここに至るまでずっと考えさせられてきた。そして、ここで、「その悪い誇りが取り除かれたのはどういう原理によってなのか」と問われる。この問いの意味は、「このことは神の律法について私たちに何を教えているか。誇りを取り除くと言う場合、それはどのような種類の律法でなければならないのか。神の御言葉はどのように教えているのか」というものである。
その答えは、「行ないの原理によってでなく、信仰の原理によって」である。つまり、旧約聖書の律法の教え(すなわち旧約聖書全体の教え)は「信仰によって救われる」と教えているのであって、「行ないによって救われる」というような教えではないという意味がその中に含まれているわけである。律法は最初から救いのための行ないを要求する律法ではないし、決してそうは成り得ないものであった。モーセの律法は、パウロが教えているの原理と同じものであって、「信仰による義認」を教えているのである。聖書は初めから「信仰によって救われる」という救いの原理を教えている。そのことをパウロは指しているのだと思う。
この解釈は恐らく、この箇所の「律法」という言葉の使い方を読み込みすぎているかもしれない。とは言え、パウロが伝えようとしている要点に大きな変わりはない。なぜなら、「原理」とも訳されるこの「律法(ノモス)」という言葉は、聖書の教えそのものを指しているからである。どのような種類の原理が偽りの誇りを取り除くのか。それは、4章において長く説明される聖書的な信仰の原理なのである。
信仰は偽りの偶像礼拝的な誇りを取り除くゆえに、パウロは28節で「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」と言っている。この「私たちの考えです」という訳は、私の日本語の足りなさのせいかもしらないが、パウロはここで自分の意見を述べているわけではない。「これが結論です」という意味なのだ。つまり、1章18節から今までずっと3章26節まで、旧約聖書から説明したりして、聖書が教えている救いはどういう救いなのかをパウロは説明してきた。その中でパウロは「信仰のみによって救われる」ということを強調してきた。それが結論である。「考え」と訳された言葉は原語では「結論する」という動詞なのである。つまり、「信仰によるというのが...結論です」と言っているのだ。パウロは「信仰の原理」について説明しているのである。「信仰の原理」とは、今まで説明してきたとおりに「信仰によってのみ義と認められる」ということなのである。
しかし、ユダヤ人にこの要点をはっきりと理解させるために、パウロはもう一つの問いを付け加える。29節で「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか」と問う。律法を守ることによってのみ義と認められるのなら、異邦人は救われ得ないか、何か別の方法で救われなければならない。しかし、どちらの選択肢も受け入れられるものではない。それで、「もし律法の行ないによって義と認められるのであれば、神はユダヤ人のみの神ということになる」とパウロはユダヤ人と異邦人の両方に対して訴えている。律法を、儀式や制度などの狭い意味において行なっているのはユダヤ人のみなので、ユダヤ人のみが律法の行ないを守っているというふうに考えてしまうと、救いはユダヤ人のためのみのものとなり、異邦人のためのものではないことになる。
しかし、「神は異邦人の神ではない」という結論はどうなのかというと、ユダヤ人は誰ひとりそれを認めはしないであろう。創造主にして唯一絶対なる神は、異邦人の神でもあり、ユダヤ人の神でもあり、すべてを支配しておられる神であられる。そのことを彼らはよく知っている。パウロに言われて「律法の行ないによって誇りは取り除かれるということではなく、信仰によってその誇りは取り除かれる」ということについて考え、「すべてのものを支配しておられる御方が、信仰のみによって私たちを救ってくださる」と理解するならば、これは唯一絶対なる神であることがよくわかるわけである。
神が唯一であるなら、唯一まことの宗教しかあり得ないのである。それでもユダヤ人は「無割礼の者は神に来ることはできない」と答えるかもしれないが、そのような応答について4章9節以降のところでパウロは扱っている。ここでパウロは「確かに神は、異邦人にとっても、神です」と明確に答えている。ユダヤ人は、この箇所の質問と答えを見るとき、真理を求めているのであれば、「やはり信仰によって誇りを取り除くという方法でなければ、ユダヤ人だけの神になってしまう。それは絶対におかしい。万物の創造主であられる神を私たちは礼拝するのだ」ということをすぐに認識できるわけである。もし神が異邦人にとっても神であるなら、救いの方法は彼らにとっても同じでなければならない。これは、信仰による義認が唯一の救いの道であることを意味しているのだ。
それゆえパウロは30節で、「神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです」と説明している。ここで話していることをパウロは4章で更に深く説明している。ポイントは、神の御言葉の教え即ち当時では旧約聖書の教えは、「ユダヤ人は信仰によって救われ、異邦人も信仰によって救われる」ことを教えているということである。異邦人も、割礼のある者も、唯一の道によって救われる。それが初めから神の御言葉の教えである。
律法を無効にする?
そこでもう一つの問題が浮かびあがってくる。異邦人が律法なしに救われるのであれば、律法は何のためにあるのか。パウロは3章31節でそのことについて問いかけ、そして答えている。
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
この問いは、パウロが別なかたちで記した他の箇所にも出て来る(ローマ人への手紙3章1節以降、同7章7節以降、ガラテヤ人への手紙3章18節以降を参照)。この31節は、パウロが今から説明しようとする大切なポイントの一つであるので、是非、この箇所をしっかり覚えていただきたい。これはユダヤ人と同様に、異邦人にとっても重要な問いである。というのは、たとえ異邦人がいけにえを捧げたり、割礼を受けたり、経札を身に付けるように命じられていないにしても、なおも律法は彼らに与えられた聖書の一部だからである。信仰による義認は律法を無効にするのだろうか。律法は廃止されるのか。「そんなことは決してない」とパウロは言う。クリスチャンは律法を無効にするのではない。それどころか、クリスチャンは律法を確立する信仰を持っている。イエス・キリストの福音は律法を確立するものである。この大切なポイントを忘れたり誤解してはならない。
私たちは皆アブラハムの真の相続人である。アブラハムの真の相続人であるならば、アブラハムがその子孫に与えた最大の富みである「神の教え」を持っているはずだ。それはモーセの時から書かれて代々受け継がれてきたけれども、私たちがアブラハム、モーセ、ダビデたちから受け継がれた最も尊い富みはこの御言葉である。この聖書である。箴言の中でソロモンがそのことを繰り返し繰り返し強調している。この御言葉の教えを受け、それを信じ、それを心から守る者は、それを確立する者である。しかし、それは「御言葉を守ることによって救われる」とか「旧約聖書の何かの儀式を守ることによって救われる」ということではない。そのような間違った考え方を持ってしまうと、人間的な誇り、人間的な思い、人間的な傲慢さに戻ってしまい、御言葉の教えの意味を完全に殺してしまうことになるのだ。「信仰のみによって救われる」ということを信じ、それを喜ぶ者こそ、本当の意味での「誇り」を守る者である。そして、本当の意味で神の律法を確立する者となるのである。それがパウロの教えである。
だから、パウロが「原理」という言葉によって教えようとしているポイントは、「御言葉の原理とはどのようなものか。聖書はどういうことを教えているのか」ということにある。御言葉の教えは行ないによって義と認められるというような教えではない。信仰によってのみ義と認められるという教えである。だから私たちはキリストのみを誇りとするのである。その誇りをもって生きる者は、神の律法を無効にするのではなく、神の律法を確立することになる。クリスチャンは律法についてどう考えるべきなのか。その問題を考えるためにも、この箇所は非常に重要である。
私たちは今から引き続きローマ人への手紙を学んでいく中で「私たちは如何に律法を確立するか」ということを細かく学んでいくことになる。今の時点で、パウロが律法と福音の間にあると思われる一切の矛盾を否定していることを明確に理解しておくことが重要だ。その反対に、律法は、ただ福音にあって、また福音のゆえに、福音によってのみ立つ、ということをパウロは教えている。信仰義認を取り去るならば、それこそ律法は無効にされてしまう。この要点の論理は、ローマ人への手紙の論証を進めていく中で明らかにされていくが、それは、信仰が律法そのものにおいて義認の道であることを示すことで初めてなされるものなのである。
さて、誇りに思っていることは口から出てしまうものである。何を誇っているのかは、周りの人にもだいだいわかるものである。自分の息子のことを誇っている母親がいれば、その誇りは口から出てきてしまう。それを言う義務は何もないのに、自分が誇っていることを口はしゃべってしまうのだ。ついつい皆に話してしまう。新しいドレスを買ったとき、そのドレスが素晴らしいと思えば友達に見せたり話したりしてしまう。テストで100点満点をとると、言わないではいられなくなる。会社で偉くなれば誇りに思ったりする。自然にそうなるものではあるが、私たちクリスチャンは、何よりもキリストご自身を誇りとするのである。
本当にキリストを誇ってるというなら、あなたの口からそれが湧き出ているだろうか。それがポイントである。自然に誇っていることが口から出るものなのだ。自然に話してしまう。だから、主イエス・キリストを誇りに思っているかどうかは、自然にキリストのことを話しているかどうかによっても表わされてしまう。また、祈りをささげる時にも、感謝の祈り、賛美の祈りをささげているのだろうか。それともただお願いばかりなのだろうか。「...お願いします。...お願いします。...お願いします。アーメン」とか「これをください。あれをください。...ください。...ください。アーメン」という異邦人のような祈りになってはいないだろうか。私たちの祈りはついついそうなりがちなものである。自然に心から感謝の祈りをささげて神の御名を賛美する、そういう祈りは神を誇りに思う者の自然な祈りであると思う。
例えば、職場の同僚に「ジョーンズさんは何を誇りに思っているのかしら」と聞かれて、「さあ、さっぱりわかりません。誇りなんか何もないんじゃない?」というようなことを周りの人は言うのだろうか。それとも、「ジョーンズさんにはこういう趣味がある。彼はそれを誇ってる」と言ってくれるだろうか。或いは、「あのジョーンズさんは、イエス・キリストが誇りなんだ。彼は聖書の言葉を本当に誇っている」と言うだろうか。「彼は教会を誇ってる」と言われたとしたら、それも間違いだと言わねばならない。神の御恵みと主イエス・キリストの十字架の働きを誇りに思い、心からそれを喜ぶ、それこそ恵みの救いを信じている心なのである。この箇所を読むときに、私たちはそのことを再認識する必要がある。
私たちは毎日の生活の中で十分に主イエス・キリストに対して賛美をささげていないなら、また十分に周りの人々にキリストについて証ししていないということがあるならば、それは私たちの心の中のキリストに対する感謝が足りないことのあらわれであり、キリストを誇る心が足りないことのあらわれである。しかし、主イエス・キリストを誇る心はどこから来るかというと、それは神の御恵みを本当に知り、その御恵みを固く信じ、御恵みに対する感謝の思いから自然に出てくるものである。御恵みを覚えて感謝する心はどこから生まれるのか。それは毎週の礼拝の中で聖餐式を行ない、自分が罪人であることを深く認めて、「キリストの十字架の恵みがなければ自分には絶対に救いはない」という告白に戻るところから生まれてくる。
聖餐式で私たちは自分の罪を悔い改めるけれども、過ぎた一週間の日々において実に感謝が足りなかったとしても、少なくともこの時に心から賛美をささげてキリストの十字架を喜び、感謝と喜びにあふれて聖餐式を受けるべきだと思う。この時に、神の豊かな御恵みを覚えて聖餐式を受けるのである。これによって私たちの感謝の心は少しずつ成長していくのである。感謝の心が少しずつ成長していくことによって、その感謝はだんだんと私たちの毎日の生活において表わされていくようになると確信するものである。そのことも覚えつつ、いっしょに聖餐式を行ないたい。
――1999年5月30日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com