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    ローマ人への手紙4章9〜12節


    4:9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、

    4:10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。

    4:11 彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、

    4:12 また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。

    99.06.20. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    アブラハムと割礼

    4章9〜12節

       先週私たちは4章1〜8節のところから、「人間の誇り」と、「信仰によって救われること」について考えた。「信仰によって救われる」とは、「人間のすべての誇りが取り除かれて神のみを誇るというやり方で救われる」ことだということを学んだ。神が、賜物として、私たちに救いを与えてくださったのである。私たちはそれを受けるだけである。私たちに何か知恵があるとか、何か良いことをしたとか、私たちの方から神を求めたとかいうようなことが一切ないので、私たちには誇れるところは何一つない。誇るところは神のみである。

       パウロはこのことをアブラハムを通して、またダビデのことをも通してイスラエルと異邦人に語っている。これは非常に重大なことなのである。旧約聖書の創世記12章のところからずっとパウロの時代まで、イスラエルは神のご計画の中心にあった。神はイスラエルをご自分の契約の民としてお選びになり、アブラハムとその子孫を祝福してくださった。そのアブラハムたちがどうであったのかは、当時のユダヤ人にとっても非常に重大な問題であったし、異邦人にとっても大きな問題であった。当時の異邦人が読んでいた聖書は、私たちが今持っている旧約聖書であるからだ。それがパウロの時代の聖書であった。

       聖書は創世記から黙示録までの全部が一冊の書物となってはじめて唯一の「聖書」となるのであって、分けることのできない書物である。けれども、当時はまだ旧約聖書しかなかった。異邦人が聖書を読むとき、「神はアブラハムの時代からイスラエルを通して働き、イスラエルを通して人類に真理を与えてくださった」ことを知らされるのである。それなのに、イスラエルが神から離れるとは、いったいどういうことなのか。主イエス・キリストはイスラエルの救い主として来られたのに、イスラエルが信じないとは、いったいどういうことなのか。そのようなことを異邦人たちは当然真剣に考えたはずである。一方では、イスラエルの人たちも旧約聖書をよく知っていた。

    しかし、「よく知ってはいるが、何も知ってはいない」という問題がイスラエルにあった。ただ表面的に知っているだけで、本当の信仰を持っていないためにその意味を完全に曲げてしまっていた。使徒行伝の中で、神の教会を迫害するものは誰なのかというと、イスラエル人なのである。つまり、ユダヤ人である。その偽り物の教会が真の教会を迫害していることがずっと使徒行伝に出て来る。しかし、真の教会にあって本当に主イエス・キリストを信じている人たちがしっかりとした確信を持つようになるためには、旧約聖書に書いてあることを深くそして正しく理解する必要があった。なぜなら、サタンは御言葉を引用して主イエス・キリストに誘惑を与えたように、パリサイ人或いはパリサイ人的なクリスチャンは旧約聖書を引用して異邦人を騙そうとしたり間違いに導いたりしているからである。

       数年前にガラテヤ人への手紙をいっしょに学んだが、その中で、ユダヤ人は救いの教えを変えてしまい、ユダヤ人にならなければ救われないということを異邦人に要求する。その教えは福音の意味を完全に変えてしまうものであった。そのような反対者がパウロの時代には多くいたので、アブラハムはどうだったのか、ダビデはどうだったのかということを旧約聖書から教えて、救いの意味を深く説明する必要があった。

       「アブラハムは信仰によって義と認められたゆえに誇る根拠を持たない」と説明した後、パウロは議論をさらに一歩進める。明らかにパウロの目的は、「義認が全く御恵みによるものである」ことを論証することにあった。彼がこの事を、私たちが旧約聖書と呼ぶところの聖書を通して論証しようとしていることもまた明らかである。この箇所でパウロは、一つひとつの課題を取り上げ、それぞれを聖書の教えに照らし合わせて説明する。そうすることで、パウロがこの書簡の冒頭で述べたように、彼の宣べ伝えた福音が、実に「神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもの」であることを明示しているのである。

       パウロの時代のユダヤ人にとっても、当時救われたばかりの異邦人にとっても、新しい契約に関する最大の問いの一つは「割礼」であったと思われる。ユダヤ人が割礼について関心を持つことじたいには本質的に悪いことは何もない。結局、割礼は神がキリストの生まれる約二千年も前にアブラハムに与えた「契約のしるし」であった。その上、割礼のしるしは、イスラエルの民族としての存在と意味の基として神がアブラハムに賜った契約を象徴するものであった。ユダヤ人にとって、割礼に関心を持たないのは冒涜に近いことであっただろう。敬虔なユダヤ人ならだれでも、アブラハムとの契約やキリストにあってそれが持つ意味について関心を持つはずであったし、この課題について聖書の教えに心開いているはずであった。

       パウロのこの箇所における教えには、論争の“激しさ”はない。それゆえ、おそらくローマの教会には、これらの事柄について説明を必要としていた敬虔なユダヤ人や、混乱していた異邦人たちがいたと推測される。他方で、パウロはローマにおける一部の特別な状況というよりも、初代教会におけるより一般的な必要に応えているのかもしれない。いずれにせよ、割礼に関する問いは重要なものであった。そして、私たちの信仰が契約的な信仰であることを認めるなら、この問いは私たちにとって、今も重要なものであるのは明らかなことだ。私たちもいかにして神とともに歩むべきかを知るために、神の契約のあり方を理解する必要がある。

       それだから、4章9節からパウロは「割礼」について話す。割礼のことは新約聖書の中にたくさん出てくる。小さい頃には聖書を読むことのなかった人が二十代になって初めて聖書を読むときに、新約聖書から読み始めてみると、割礼の話がやたらと出てくるのに戸惑うに違いない。しかし、創世記から読み始めるならば、なぜ割礼がこれほどに大切なのかということを少しは理解できるはずである。いきなり新約聖書から読み始めるならば、なぜ割礼がそれほど重大な問題になるのかはわからないであろう。この「割礼」の話は9節から12節までにある。

    9それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、10どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。11彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、12また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。

     

    割礼においてか、無割礼においてか?

       新改訳では、10節は「割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか」と訳されているが、脚注にある直訳を見れば「割礼においてなのか。無割礼においてなのか」という話だということがわかる。「割礼においてか。無割礼においてか」とは、「割礼の状態にある時のことなのか、無割礼の状態にある時のことなのか」という意味である。新改訳の訳はその意味を伝えてはいるけれども、それは意訳になっている。この箇所でパウロは、割礼と信仰の関係について教えており、アブラハムはいつ義と認められたのかということを、割礼という契約の印が与えられた時との比較をもって説明している。

       先週私たちは、創世記15章6節にある義と認められた時のことと、契約を与えられた時のことについて考えた。アブラハムは、創世記12章(75歳)で契約が与えられ、それから20年以上経た創世記17章(99歳)で契約の印である「割礼」が与えられた。創世記15章で「義と認められた」と書いてあるところは契約が与えられてから10年ほど経った時と思われる。契約が与えられた時、義と認められた時、そして契約の印が与えられた時とがあって、それらは何年もの隔たりをもって与えられていることがわかる。その「時」を見れば、その論理的な関係についても考えることができる。

       神の摂理においてこのような順序が与えられているのは非常に大切なことなのだと理解すべきである。単純にその順序を見ると、神ご自身が契約を与えてくださることがまず出発点であることがわかる。つまり、神の働き――神がアブラハムを求めることが出発点なのである。「アブラハムが神を求めたので」ということで話が始まってはいない。神がアブラハムを求めて契約を与えてくださり、アブラハムは信仰をもって応答した。そして、神はアブラハムにその信仰の「証印」として割礼という契約の「しるし」を与えてくださったのである。

       そういうわけでパウロは、この幸い、この祝福は、どういう時にアブラハムに与えられたのかということを9節から話しはじめる。パウロの最初の問いは詩篇32篇2節でダビデに告げられた幸いに言及している。「この幸いは割礼のある者にだけ与えられるのだろうか」と尋ねれば、ユダヤ人は「そうです」と答えたであろう。実際に昔のユダヤ人の注解書の中にもそのような説明がある。割礼の箇所ではなく、贖いの日のことを説明する中で、「贖いの日にはイスラエルの罪だけが贖われているのか、それとも他の国々の罪も贖われているのか」という問題についてユダヤ人は、「それはイスラエルだけが贖われる日である。他の国々とは無関係である」と言明していくつかの旧約聖書の箇所を引用している。その中で彼らはダビデの詩篇32篇2節をも引用して「これは明らかにイスラエルだけの救いの話なのだ」と説明している。

       その当時のユダヤ人の注解書は今でも残っている。当時のパリサイ人たちの考えは、「割礼のある者のみが罪の赦しを受けることができる」というものであり、それが彼らの基本的な教えであった。しかし、パウロはその問題を明確な質問として提起する。「この幸いは、どういう者に与えられるのか」と問う。もちろんダビデが詩篇32篇を書いたとき、ダビデは割礼ある者としてそれを書いたということに疑問を挟む余地はない。しかし、ダビデの詩篇32章2節と創世記15章6節には「認める(見做す)」という同じへブル語の動詞が使われているので、パウロはその二つの箇所は同じことについて語っているものとして二つの箇所をリンクして考えているわけである。両方とも、罪の赦しについて語っているという事実をそこに見る。

       だから、創世記15章6節から詩篇32篇に話を移し、また詩篇32篇から創世記に話を戻している。「ダビデが話している幸いは、割礼ある者だけのことなのだろうか。このことについてはアブラハムの箇所を思い出してほしい」といってアブラハムの話に戻るわけである。それで、9節の終わりで「私たちは、『アブラハムには、その信仰が義とみなされた』と言っていますが...」と言って創世記に戻るわけである。そのためにこの聖句がここで引用されているのである。ダビデの箇所とアブラハムの箇所をいっしょに考えるように読者を導いているのである。「アブラハムは、どのようにその信仰が義とみなされたのでしょうか」とパウロは問う。つまり、どのような状態だったのかと聞いているのだ。

       更に「割礼の状態でしょうか。それとも無割礼の状態でしょうか」と問いかける。これは、簡単ではっきりしたことについての質問である。主イエス・キリストもパリサイ人に話すときに何度もこれと同じような言い方を用いていた。「あなたがたは聖書を読んでいないのか。聖書のことを知らないのか」とキリストは繰り返しパリサイ人たちに言っている。つまり、パリサイ人たちは聖書をよく読んでいるのに、その意味がまったくわかっていないのだ。表面的に見ても明らかなことなのに、彼らにはピンと来ないのだ。その箇所を読んでも、気づかず、意味も知らずに間違った読み方をしているといって主イエス・キリストは彼らを批判している。

       エホバの証人についても同じことが言える。エホバの証人の三鷹駅前グループがあるけれども、もしかすると彼らの中には私たちよりも一週間の中で聖書を学ぶ時間が多い人がたくさんいるかもしれない。彼らは聖書研究会を毎週よくやっているし、伝道の訓練にも多くの時間を使っている。実際に多くの時間を使って伝道も行なっている。非常に熱心であるのは事実である。行ないにおいては非常に熱心である。しかし、ヨハネの福音書を読むと、百回近くも「信じる」という言葉が出てくる。主イエス・キリストを信じることによって永遠のいのちが与えられるということがヨハネの福音書では非常に強調されている。一つの書だけで百回近くも、「信仰のみによって救われる」という真理がいろいろな観点から語られているのに、それには気がつかないのである。「いろいろな行ないによって救われる」と彼らは信じている。簡単に言うならば、それはパリサイ的な信仰である。大ざっぱな言い方をすれば、今のユダヤ教も昔のパリサイ人たちの伝統に立っているといってよい。ローマン・カトリックもそのパリサイ的な信仰が入ってしまったと考えてよいと思う。

       三位一体を捨て、御子と御霊は神ではないと主張するようになった西洋のユニテリアンというグループがある。ハーバード大学は1640年頃に、キリスト教の牧師を訓練育成する目的で設立されたのだが、1700年にはもう信仰から離れてしまい、ユニテリアンの学校になってしまった。マサチューセッツやニューイングランドではユニテリアンの信仰が根強く、まったく聖書を信じないし、清教徒たちを心から熱心に憎むパリサイ的な信仰に立っている。簡単に言えばそういうことなのだが、なぜ皆パリサイ的な信仰になってしまうのか。単純過ぎる言い方かもしれないが、本当はイスラム教も、更に仏教さえもそういうものだというふうにまとめることができないわけではない。

       どうしてその方向に行ってしまうのかというと、その信仰によって人間は自分のことを誇ることができるからである。自分を誇る信仰に戻ろうとするわけである。自分が神となる。自分が中心である。まさしくそれが偶像礼拝の根であり、神を信じない信仰の本質的な部分であるので、罪人はどうしてもそのようなものになっていく傾向がある。アブラハムが義と認められたのはどんな状態の時なのか。アブラハムは、まだ割礼のない状態のときに神を信じたので、その信仰が義と認められた。この事実は聖書の中で非常に明白なことである。にもかかわらず、パリサイ人たちはその極めて明白なことに気がつかない。そして、自分たちの間違った人間的な伝統を固く守ろうとする。それだから変な解釈になる。まさにエホバの証人と同じである。

       それ故パウロは、この明白な聖書的事実をそのまま指して話すのである。主イエス・キリストがパリサイ人と話しているときによくパリサイ人は驚いて黙ってしまうことがあった。このローマ人への手紙4章を読んだパリサイ人たちも沈黙してしまったであろうことは想像できると思う。これほど明らかに簡潔に示されると何も言えなくなるだろう。この事実を通して考えたユダヤ人は僅かであったろう。十年あるいは二十年、三十年も経ったりすると、それなりに何かの答えを考え出すだろうことも事実である。しかし、ここで聖書に書かれてあることが簡潔に明白に伝えられているのを見ることができる。パウロは、特別な知識がなければ理解できないような難解な解釈を要するような言い方で聖書を引用しているわけではない。

       アブラハムは、神が彼をその父の家を離れるように召したときに契約を与えられ(創世記12章1〜3節)、義認はその約10年後に宣言され(創世記15章6節)、その義認の正式な宣言から15年ほど後に契約のしるしが与えられた(創世記17章1節以下)。したがって、明らかに割礼の儀式は、25年程前に与えられた契約や、約15年前に宣言された義認にも不可欠なものではなかったのである。それゆえ、パウロの質問に対する答えはきわめて単純明快なものである。アブラハムは割礼を受けていない状態の時に義と認められたのである。契約が与えられたのも割礼を受ける前であり、義と認められたのも割礼を受ける前であった。だから「割礼はそのための条件ではない」ということをパウロはここでユダヤ人たちと誤解する危険のある異邦人たちとにはっきりと説明しているのである。

     

    すべての人の父アブラハム

       神はなぜアブラハムの人生をこのように導いてくださったのだろうか。アブラハムを選び出して契約を与えた神の目的は何だったのか。パウロの説明はこうである。「神は、アブラハムを、キリストを純粋に信じる異邦人の父とし、また割礼を受けただけではなくてアブラハムのように信仰を持つユダヤ人の父とするために、彼が信仰のみによって義と認められたことを明らかにされたのである」とパウロは言う。この結論は、割礼を受けなければ救われないのかと心配する異邦人たちに確信を与えるのに十分明白な教えであり、またパウロの福音に反対していた者たちの口を封じ、同時に、純粋な関心を寄せていたユダヤ人たちを満足させたに違いない。

       今日の私たちにとってもこのパウロの結論は非常に大切なものである。この明らかな教えを歪曲する者がいないわけではない。しかしそれは私たちに古い契約と新しい契約との関係を明らかにすると同時に、二つの時代の契約のしるしの違いを示し、「救いはただ神の御恵みにより信仰を通してのみ与えられるものである」という事実を一点の疑いの余地もないまでに明らかにしてくれる。このポイントは、いくら強調しても強調し過ぎることはない。罪人とは、常に肉にあって誇るための根拠を見つけようとして単純な信仰に何かを付け加えようとするものだからである。アブラハムとダビデの例は、聖書の神を信じるすべての者に聖書の救いの道を示すものである。

     

    契約のしるしと証印

       11節でパウロは、「彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです」と言っている。割礼の意味とは何なのかを話しているのである。割礼には二つの意味があった。割礼は、契約のしるしであり、また契約の証印であった。皆さんがウエストミンスター信仰告白28章1及び大教理問答の問162と問165を読むとき、洗礼について「バプテスマは契約の証印としるしである」と教えられていることに気がついていると思う。それはこのローマ人への手紙4章11節のような箇所を証明本文とする教理である。つまり、バプテスマと割礼は、契約の意味において似ているということを教えているのである。まず割礼について少し考えてから、割礼とバプテスマの違いも明確にしたいと思う。

       「割礼」と「契約」の関係については、「割礼は契約のしるし」であると書いてある。「契約のしるし」ということは、契約の訴えを神に対してすることである。そのことを最もよく表わしている箇所は創世記9章12〜16節の箇所であろう。 

    わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。

       ノアの洪水のあとで、神は「契約のしるし」として虹を与えてくださった。その「しるし」は神御自身が御覧になるためのものである。そして、神は、その「しるし」を見るときにご自分の契約を覚えてくださり、二度と大洪水で地を滅ぼすようなさばきを与えないと約束された。「契約のしるし」を見るのは神御自身であり、契約を覚えてくださるのは、神御自身なのだ。私たちが誰かに洗礼を授けたり、また、主の晩餐に与るとき、その契約の儀式は何よりも先ず神に御自分の契約を思い起こしていただく「しるし」なのである。「しるし」を神に見ていただいて、「どうかご自分の契約を覚えてください。あなたの御恵みと契約の約束を守ってください」と神に訴えるものである。そのために「契約のしるし」は与えられている。

       だから、エゼキエル書の中では、エゼキエルは天にある神殿を見たときに、神の王座のまわりに「」があるのを見たのである(エゼキエル書1章28節)。ノアの「契約のしるし」が天において神の王座のまわりにある。神がご自分の王座に座して人類を見るときに、その契約のしるしである虹を通して見てくださるわけである。ノアの契約を覚えながら神は歴史を導いておられる。だから、これほどにアメリカも日本もヨーロッパも神に逆らっているにもかかわらず、ノアの洪水のような裁きは来ないのである。しるしである虹を通して神は見ておられるからである。

       このことは黙示録の箇所にも出てくる。ヨハネは、キリストが冠のように虹をつけておられる幻を見た(黙示録10章1節)。そして本質的にエゼキエルと同じ神の御座を見た。「天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった」と、黙示録の4章2〜3節に記されている。神の王座のまわりにノアの契約の虹がある。それが「契約のしるし」の意味である。

       アブラハムの契約は、「あなたを通して世界を救う子孫が与えられる」というものであった。へブル語でそれは「」の話であるが、日本語で「」と訳すと変に聞こえるので「子孫」と訳されている。エバに「」の約束が与えられ、エバによって生まれる「」が世界を救うという約束が与えられた。同じ約束がこんどはアブラハムに与えられた。即ち、アブラハムを通してそのエバの「」が与えられるという約束である。しかし、アブラハムとサラにはその子を生む力がないことがその人生においてますます明らかにされていく。アブラハムとサラは、子どもを求めても求めても与えられなかった。

       それは「契約の種」を生む力はアダムから生まれた肉にある者からは出て来ないことが明らかになるためであった。アブラハムの肉には契約の祝福を与える種を生む力がない。それで、“アダムの肉”を切り捨てて、新しい種を生む「復活の力」を神から与えられなければならなかった。割礼はそのことを表わすものである。割礼は、アブラハムへの契約の「しるし」なのである。割礼によって肉が取り除かれている。アダム契約の呪いが取り除かれなければ祝福の「」は生まれないことを割礼という「しるし」において表わしているのである。

       アブラハムの場合、肉が死んで新しくなることを「いけにえ」のかたちで表わされる「象徴的な死」として割礼を考えることができる。つまり、完全にその肉を切り捨ててしまえば確かに子どもを生むことはできなくなるので、割礼の儀式では完全に肉を切り捨てるのではなくて、象徴的に上の肉(包皮)だけを切り捨てるのである。それは、ほふられて死ぬことを象徴的に表わす儀式である。アブラハムは、死んでしまってからのちに神の御恵みによってよみがえったことを割礼によって象徴的に表わしている。それで、割礼によってはじめて契約を相続する「」がアブラハムから生まれてくる。それが創世記の話なのだ。そのように割礼は、旧約聖書の他のいけにえ制度と同じように非常に具体的に神の約束を表わす儀式なのである。

       それで、旧約聖書の人たちが割礼を行なうとき、その「契約のしるし」を神に見せるのである。「どうか神さま、御恵みにより、約束の種を与えてください」と神に訴えるのである。それが「契約のしるし」の意味である。モーセはそれを行なわなかったために、自分の妻と子どもたちを連れてエジプトに向かう途中、神は彼において「契約のしるし」を見ることができないので、御怒りがモーセとモーセの家族の上に下った。「契約のしるし」を神に見せていないので、神はモーセを裁こうとされた。その時、モーセは急いで神との契約のしるしを見せることによって裁きから逃れることができたのである。「契約のしるし」とはそういうことである。

       それゆえ、私たちも、バプテスマを行なうとき、使徒行伝の中にあるように、本当は教会みんなが集まっているかどうかが大事なのではない。「契約のしるし」は神に見せるものであって、教会に対する証しとして行なっていることではないし、人間のための証しではない。「契約のしるし」は神に見ていただくものなのだ。別に日曜日の礼拝のときに行なってはいけないものではないが、「契約のしるし」はまず神に見せるものだということをしっかりとここで覚えていただきたい。

       そして、その同じ割礼の儀式は契約の「証印」でもある。「証印」とは、受取人に約束された祝福を保証するものである。神が「契約のしるし」を私たちに賜るとき、御自分の契約を思い起こし、守り給うことを私たちに保証してくださるのだ。契約の約束の保証として契約の儀式が行われることが「証印」である。つまり、子どもに割礼を行なうときに、子どもにとって、また私たちにとってそれが何なのかを表わすものである。「しるし」は、神にとってどういうものなのかであったが、「証印」は、私たちにとってどういうものなのかということである。その「契約のしるし」は、こんどは私たちにとっては神の約束の「証印」であり、保証なのである。

       「神はこのようにしてご自分の契約の約束を保証してくださる」という意味でその契約の儀式を行なうのである。バプテスマを受けるとき、神の代表として長老たちは儀式を行なう。これは、神の契約の保証が私たちに与えられるためである。「神は、その契約のしるしをごらんになって、それを覚えていてくださる」ということが、こんどは私たちに保証として与えられるているわけである。それが「証印」の意味である。割礼は、アブラハムとその子孫にとって契約の「しるし」と「証印」であるというのはそういう意味である。

       アブラハムのこと、ノアのこと、エゼキエル、そしてヨハネの黙示録、こういったことすべての持つ重要性を認めることは難しいことではない。神は契約の約束を与えるとき、御自分の契約を思い起こされることを私たちに示しておられるのだ。決して忘れ給うことのない神に正式に思い起こしていただくための「契約のしるし」として定められた事柄は、同時に、おそらくはいっそう重要なことに、それは私たちのための保証でもあるのだ。虹が御座を取り囲んでいるかぎり、私たちは神が御自分の契約の約束を忘れることがないことを確信できるのである。

       「バプテスマ」も、割礼も同じように「しるし」であり、また「証印」でもある。その点においては、バプテスマと割礼は同じものであるが、割礼の場合は「アブラハム契約の証印としるし」であった。アブラハム契約は「種」の契約であり、「祭司」の契約であって、救いの契約ではなかった。救いはアブラハムとその種(子孫)を通して与えられるという意味においては確かにそこに救いの意味もあったと言えないことはない。しかし、「アブラハムは救いの契約ではなかった」と言っているのは、その契約は「アブラハムの肉による子孫だけに救いが与えられる」という意味を持つようなしるしとか証印ではないということである。

       例えば、契約を受ける前の段階でアブラハムは創世記14章のところでメルキゼデクに会っている。メルキゼデクは祭司であってアブラハムよりも上にいる。なぜなら、アブラハムはメルキゼデクに十一献金を捧げているからである。メルキゼデクは神の祭司であって神のしもべであり、救われた者であるのは明らかであるが、メルキゼデクはアブラハム契約に入っている者ではない。モーセのしゅうとイテロもミデヤンの祭司であり本当の信仰を持っていて神を信じる者であったが、モーセがイテロに会ったとき、イテロはアブラハム契約に入っていてアブラハム契約の祭司の民として認められているグループには含まれていなかったのである。

       他にも旧約聖書の中の異邦人で神を信じるからといって割礼を受けてイスラエルに加わらなければならないということはなかった。シバの女王はソロモンから福音を聞かされてから自分の国に戻って「私は今からイスラエルの神、創造主にして唯一絶対なる主を信じる」と宣言したときに、「皆は割礼を受けなければならない」という話にはならないのである。ダビデの時代にツロの王とシドンの王がいたが、二人ともイスラエルの神を信じる王となったので、神殿の建設において彼らの援助は受け入れられたのだ。まことの神を信じたので、いっしょに神殿を建てる働きという特権が与えられたわけである。

       そのように、異邦人が旧約聖書の中で救われても、「契約のしるし」を受けなければならないとかアブラハムの契約に入らなければいけないということはなかったのである。入りたければ入ることはできた。しかし、アブラハムの契約に入らないからといってクリスチャンではないということではなかった。カレブはカナン人であった。カナン人は神の呪いの下にあったので、カレブの場合は割礼を受けてユダヤ人にならなければ、カナンから離れて別なところに移住しなければならない。他の地に移住するか殺されるかの二者択一しかなかった。王でもないカレブは、カナンから全く離れた所に行き、神の民からも離れて住み、そこで自分で神を礼拝するということは困難であった。それで、割礼を受けてイスラエル人になる道を選んでユダヤ人の国籍を取り、ユダヤ人として土地も相続するし、ユダヤの十二部族の中にも入る者となった。

       つまり、養子となる道は何時でも誰にでも開かれていたわけである。それで、異邦人が割礼を受けてイスラエル人になる道は常に開かれていたと言える。そういう意味で旧約聖書の中の割礼は「救いを受けた」ことの証印ではない。割礼は、それを受けたことによって神の特別な祭司の民となったことを意味していた。即ち、「この契約の民を通して全世界を救うメサイアが生まれようとしている。そのメサイアが来るまでの間、神の命令を守り、御言葉をすべての国々に証しする祭司の働きがイスラエルに与えられている。自分はその国民の一人となった」という意味なのである。

       新しい契約にあっては、救われた者と祭司の民であることの区別はない。しかし、アブラハムの契約においては、救われた者と祭司の民との区別は最初からはっきりしていた。まず、女性は割礼を受けないことが挙げられる。割礼は男性だけに与えられた。モーセの契約になるともっと複雑なものとなる。ヨセフは二つの族となったので全部で十三の部族になっていたが、レビ族だけが祭司の族であって他の十二部族は祭司ではなかった。しかし、レビ族の中ではアロンの家族だけが本格的な祭司であった。更に、アロンの家族の中では長男の家族だけが本格的の中の本格的な祭司であった。

       イスラエルの祭司制度は複雑なものであった。しかし、出エジプト記19章を見ると、イスラエル全体は祭司であると明記されている。だから、異邦人と比べればイスラエルはみな祭司である。イスラエルの中を見れば、レビ族だけが祭司である。レビ族の中で見ればアロンの家族だけが祭司である。アロンの家族を見れば、アロンの長男だけが祭司である。そのように旧約聖書のモーセの時からの祭司制度は非常に複雑になっている。そのすべてにおいて女性は入っていない。子どもも含まれていない。20歳にならなければ祭司としての訓練も始まらないし、30歳にならなければ本当の祭司の働きはできない。

       しかし、アロンの家族の中であっても、アロンの長男の系図であっても、男性であっても、指一本でも欠けているとか怪我でかたわになったりして身体的な欠陥があれば、祭司の働きはできないのである。それだから、本格的な祭司はわずかな人間に限られていた。それはどういうことを意味するかというと、エデンの園を見ればよくわかる。エデンの園の中では、アダムもエバも至聖所に住み、至聖所で直接神との交わりを持っていた。つまり、アダムもエバも祭司であった。子どもが与えられれば、子どもたちもみな祭司として与えられた筈であった。祭司として認められないのは神から離れているということであって「近づいてはならない」ということなのである。

       しかし、アダムが罪を犯した後は、古い契約はずっと「近づくな」ということを人類に伝えているわけである。「異邦人は近づくな」「イスラエルもレビ族以外は神の天幕に触るな」「レビ族のアロンの家族以外は聖所に入るな」「アロンの長男以外は至聖所に入るな」ということを古い契約は宣告しているのである。アロンの長男たちであっても、至聖所に入るのは年に一回だけ許されており、入る時にはちょっとだけ入って血を注いで急いで出て来なければならないものであった。至聖所に入っている時間は僅か一分もないほどのことであった。「聖なる神に近づくな」というのが旧約聖書の祭司制度のメッセージなのである。

       神は聖なる御方である。罪人は皆汚れていて神に近づくことは許されない。アロンの長男が大祭司となって至聖所に入る時には、特別に香をたくさん立てて濃い煙を周りいっぱいに立ちこめるようにしなさいと命じられている。そうする意味は、大祭司がその汚れを覆って見えないようにして神の御前に行くということであった。特別な衣装を着て、進む道すがら血を地面に注いで、非常に気を付けて神に近づかなければ、神に殺されてしまうのである。

       律法の中には書いてないけれども、実際に歴史の中のユダヤ人たちの記録を今日の私たちも読むことができるが、大祭司は足にロープをつけて至聖所に入ったことが知られている。万が一、神に打たれて死んだ場合には、外にいる人たちがそのロープで彼を引っ張り出せるようにしていたのである。つまり、これは非常に危険なことをしているわけである。皆さんにはそのような経験はないだろう。主人が台所に入るのに、死んだら引っ張り出せるようにその足にロープをかけたりはしない。お風呂に入るときだってそんなことはしない。そこまで危険なことを私たちは生活の中で経験することはまずない。大祭司の仕事は危険であり、神の怒りが下るかもしれないという恐れが常にあった。

       しかし、新しい契約では、その儀式の意味は根本的に変わった。「契約に入るしるしと証印である」という点で「バプテスマ」と「割礼」は似ている。バプテスマを考えるとき、割礼からその意味を考えないわけにはいかない。しかし、両者には大きな大きな違いがある。新しい契約においては、すべて救われた者はみな祭司である。祭司は限られた人数だけではなく、すべて神を信じる者は救われて祭司となるのである。つまり、「どうぞわたしに近づいて来なさい」という意味なのだ。「至聖所の門は開かれている。だから、どうぞ入って来てください」ということなのである。信じる者みなが祭司である。子どもたちも祭司である。女性たちも祭司である。男性はレビ人でなくてもみな祭司である。アロンの家族でなくても祭司である。アロンの長男でなくても至聖所に入る特権が与えられている。

       だから、すべて主イエス・キリストを信じる者は、「契約のしるしと証印」としてのバプテスマを受けるのである。女性たちもバプテスマを受けるのである。その祭司の祝福は旧約聖書よりもずっと広いものとなった。異邦人もユダヤ人も同じように受けるものとなった。新しい契約においては、救われることと祭司であることはまったくいっしょにあるのだ。その点がアブラハムの時代と大きく違う点である。

       それ故、私たちはエデンの園に戻ったのである。否、私たちが得ている祝福はそれよりも遥かに大きい。エデンの園に戻ったということだけでなく、本当の天にあるエルサレムに入って天にある真の至聖所に入る特権が私たちに与えられている。それはアブラハム契約の中にはないものである。割礼のことについて考えるとき、私たちは割礼とバプテスマの違いについてはっきり認識しておく必要があると思ったので、このように「証印」と「しるし」の意味を長々と説明した次第である。

       アブラハム契約には、割礼を受けた者は「種」を生む契約のしるしを神に見せて「どうか神さま。あなたの契約の子どもが私たちに与えられますように」と訴える意味もあるし、アブラハムたちにとっても「神は、あなたに新しい契約、その祝福の契約を生む力を必ず与えてくださる」という証印の意味があった。それで、アブラハムはまだ割礼を受けていないときに神を信じて義と認められた。その意味は実に大きなものだということをパウロは説明しているわけである。割礼の意味は非常に重大である。しかし、先に説明したように、信仰はそれよりずっと以前にあったのである。「割礼を受けていない時に義と認められた」とはどういう意味なのかというと、「それは、彼が、割礼を受けていないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためである」(ローマ人への手紙4章11b〜12a節)。

       アブラハムがまだ割礼を受けていないときに信仰をもって義と認められたということは、異邦人の信仰の父となるためでもあるし、信仰を持つユダヤ人の父となるためでもあった。アブラハムは、神を信じるすべての者の信仰の父となるのである。ガラテヤ人への手紙3章の後のところでパウロは、「御霊によって私たちはアブラハム契約の中に入れられて養子にされ、神の子どもとなり、アブラハムの子どもとなっている」と言ってこのことを説明している。ここでパウロは、まだ割礼のないときにアブラハムが義と認められたことの意味について説明しているのである。

       「信仰」と「契約のしるし」の違いをこのようにパウロが説明するとき、それは私たちが救いの意味を深く理解するためでもある。旧約聖書のイスラエルと新約聖書の教会の関係とはどのような関係なのかを私たちも当然知らなければならない。それを知ることによって私たちは聖書全体を正しく自分たちの生活に適用できることにもなるからである。バプテスマとの関連においてもこれは非常に大切なことである。アブラハム契約のしるしを受けた子どもたちの皆がすべて神を信じたわけではないことをパウロはローマ人への手紙9章から11章までのところで十分に説明している。

       「契約のしるしを受けたのに神を信じていないとは、いったいどういうことなのか」を説明するとき、「表面的に神の民に入る特権が与えられた人間のすべてが救いに選ばれたわけではない」ということをパウロは9章で説明している。「離れていった人たちは、信仰を持たないで自分で神から離れてしまったので、その責任は彼自身にある」ということを10章で説明し、「常に残された者たちがいる。皆が信仰を捨てたわけではない。そして、いつかイスラエルは神に戻るのだ」ということを11章で説明している。子どもたちはバプテスマという「契約のしるし」を受けた。それはまた「契約の証印」である。神は、あなたがたを養子としてとり、御自分の子どもとしてくださったので、私たちは皆アブラハムの子どもたちなのである。その契約の証印が私たちに皆に与えられている。

       しかし、アブラハムもアブラハムの子孫も同じであって、私たちは信仰を持たなければ、しるしだけあるからといって救われるということではない。「そういうことなら、しるしとか証印には客観的な意味なんか何もないではないか」と思ってしまう人がいるかもしれないが、決してそんなことはない。神の契約の証印としるしを受けた私たちは、神の家族の取り扱いを受ける者となったのである。もし、イスカリオテ・ユダのような人がいたとすれば、その者はただ神から離れて信仰を捨てたというだけの裁きに終わるわけではない。

       つまり、普通に神を信じない人々と同じ裁きになるということではないのである。その者は非常に厳しい裁きを受けることになる。「そういう者は生まれなかったほうがよかったのだ」とキリストは言っている(マタイの福音書26章24節)。信仰を捨てて神から離れてしまうような者は、その契約の証印を受けた者であるからこそ、特別に厳しい裁きを受けることになる。神の御恵みを特別に与えられているのに、それを裏切り、それを捨てたからである。そういうわけで、契約のしるしには客観的な意味があるということを知らなければならない。

       ヘブル人への手紙6章でパウロは、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」と説明している。そこに書いてある祝福は、契約に入る者に与えられている祝福のことである。教会に来て聖餐式を受けたり、御言葉を教えられ、教会員とともに神への賛美をささげたりすることは御霊の祝福なのである。私たちはいっしょに御霊の祝福にあずかっているのである。永遠のいのちの祝福にあずかっている。神の契約のもろもろの祝福が私たちに客観的に与えられているのである。それゆえに、それを裏切ることには非常に重大な意味があるわけである。

       イスカリオテ・ユダは、それほどに主イエス・キリストに愛され、「キリストの友」とまで呼ばれていた。その人がキリストを裏切った。それは普通のパリサイ人がキリストを信じないことよりもずっと大きな罪であり、ずっと厳しい裁きを受けことになる。それと同じなのである。そういうわけで、「契約のしるし」と「契約の証印」には客観的な意味がある。それは祝福となるために与えられている。それは祝福になる筈である。イスカリオテ・ユダの話をすると、何か自分たちを恐怖で縛るためにこの契約のしるしは与えられたのかというような解釈をするならば、それは大変な誤解である。子どもたちも「ああ。こわい」と思うだけであってはならないのである。大きな大きな祝福が与えられているときに、「ああ。こわい」と言うなら、それはあるべき最初の反応ではない。大きな祝福が与えられるときに、「責任がこわいから、私はいやだ」という反応をする人間はとんでもない愚か者である。その反応によって、その人は心においてその祝福を与えた者を憎んでいることを表わしていることになる。

       これはタラントの譬え話にも出てくることである。五タラント与えられたしもべは、「こんなに多くのタラントを私にくれた。一生懸命働いてこれを増やして主人に見せて喜んでもらおう」と思って、さらに五タラントを儲けた。しかし、一タラントをもらったしもべは、「あの人から祝福が与えられたのは大変なことなのだ。これには大変な責任が伴うことになる。あの人は、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方なのだから。一タラントをそのまま返したら喜ばないだろう。でも、一タラント以下を返したらとんでもない仕打ちを受けるかもしれない。だから、何も失うことがないように、これを隠しておいて絶対触らないようにしよう。あの人は厳しいお方なのだから」と思って、その一タラントを地の中に隠しておいた。

       これは結局、祝福を与えてくれた主人を憎む心をもって受けたのである。与えてくれた者に対しての感謝がまったくない。こんなもの受けても仕方がない。隠しておいて、あとで返せばいい。表面的にはそこまで言わないにしても、そのような心の態度で受けているのである。祝福が与えられているのに、それを喜ばず、感謝もしない。だから、その者には非常に厳しい裁きが用意されている。当然のことであろう。それを受けて感謝するならば、すべてが祝福となるのである。

       「契約のしるし」を受けた子どもたちには大きな大きな祝福が与えられている。もちろん私たちは教会として足りないところもあるし、ちっぽけなものであり、たいしたものではないことは確かである。しかし、子どもたちが神の契約の祝福を受けてここに来て毎週神の御言葉を聞くことができる。契約にあずかる者として一緒に礼拝をささげることができ、一緒に祈ることができる。それは、実に、実に、大きな祝福なのである。永遠の意味を持つ祝福なのである。神の民、神の家に与えられた祝福である。このとんでもなく素晴らしい祝福を私たちの子どもたち一人ひとりが皆受けている。その祝福を受けた時に、それに対してどう応答するのだろうか。どんな反応をするのだろうか。「いやだ。そんなのは。万が一離れたりしたらイスカリオテ・ユダのようになってしまうから、いやだ。欲しくない」というような反応をする者は、心から神を憎んでいるのである。悔い改めなさい。そして神の御恵みを感謝しなさい。

       皆罪人だというのは事実である。私たち家庭も個人も地域教会もすべて足りないのも事実である。しかし、神ご自身があなたを今の家族の中に入れてくださって、大きな、大きな、永遠の意味を持つ祝福を与えてくださった。子どもたちにバプテスマが与えられたのは、神の御恵みなのである。授けたのは私であっても、それは神の代表としてあなたたちに「契約の証印」を与えたのである。保証してくださるのは神ご自身である。毎週このように集まり、客観的な祝福が与えられている。神を信じる家庭にあって毎日毎日生活を送ることができるのは神の祝福なのである。それはすべて神が一方的にあなたに与えてくださったものである。

       生まれる前からその家庭に与えられて祝福を受けるように神があなたを選び、あなたに祝福を与えてくださった。それを素直に感謝すればよいのだ。「神が、このように私を特別に愛してくださったのだ。心から感謝します。五タラントでも、二タラントでも、一タラントであっても、自分に与えられたものは神の御国に役に立つものにしよう」という心は、感謝の心に過ぎないのだ。どこまで特別な能力があるのかという話ではない。感謝があるかないかの話なのだ。

       感謝があるかないかということは、突き詰めれば、信仰があるかないかの話なのである。契約のしるしを与えられた子どもたちは、皆、神の子どもとなって大きな祝福が与えられている。それを感謝して正しく受けるならば、代々続けて祝福され、千世代までも祝福される筈である。それは聖書の約束である。

       私たちは感謝から簡単に離れてしまいがちな者である。それ故、神はその感謝な心を取り戻すようにと、契約を新たにする儀式を与えてくださった。それが毎週行なっている聖餐式である。バプテスマと聖餐式は御自分の契約を覚えてくださるよう神に訴え、神に呼ばわるものである。私たちは、神からの御恵みを求め、御名のゆえに我々を祝福してくださるよう、請い願うものである。「しるし」としての役割を果たす同じ儀式は契約の「証印」でもある。

       聖餐式のとき、バプテスマと同じように、神が私たちに一方的に祝福を与えてくださり、私たちはそれを素直に受けるのである。それを受けるとき、神の祝福として受けて、感謝して受けるのである。その感謝の心が一週間の出発点である。感謝をもって一週間を始め、感謝のうちに生きるようにと、神が私たちを導こうとしておられる。恵みを与えてくださった神に対する感謝と喜びの中に生きる者は、自分に与えられたタラントを神の御国のために実を結ぶように働く者である。聖餐式の意味はそこにある。

       子どもたちが一緒に聖餐式にあずかることを私たちの教会では大切にしているが、新しい契約の意味がそこにあるからである。「子どもたちは祭司ではない」ということはない。大人だけが至聖所に入るというものではない。十三歳にならなければとか特別な勉強をしたのでなければ至聖所に入ることができないというものではないのである。子どもたちも主イエス・キリストの所に行ってよいのだ。子どもたちがキリストの前に行こうとしたときに弟子たちが邪魔しないようにと彼らをたしなめたが、主イエス・キリストは、「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです」と言われた。それを私たちは日曜日の礼拝において守っているわけである。

       子どもたちは、聖餐式を受けるときに大人と同じように、キリストの御前に来て、キリストから契約の祝福を与えられる特権が与えられている。子どもたちにも契約のしるしが与えられているのである。長老たちはパンと葡萄酒を持って皆さんに渡すけれども、祝福は神から与えられている。教会からでもなければ長老からでもない。パンを取り、それを口に入れるのは、「主イエス・キリスト。私はあなたを信じます。あなたの十字架の働きを心から感謝します」という意味なのだ。葡萄酒を飲むときに私たちは、「あなたが流された血によって私の罪は贖われ、私は洗いきよめられます。心から感謝します。私はあなたを信じ、あなたに従います」という、その意味でパンを食べ、葡萄酒を飲むのである。感謝して、喜んで、聖餐式にあずかる。それは五タラント、二タラント、一タラントの正しい受け方なのだ。そこに責任が伴うのは確かである。

       感謝して、神からの愛としてそれを受け、「神さま。あなたが私を愛してくださっていますことを、心から感謝しています」という心の態度、それが日曜日の礼拝である。一人ひとりが各自聖餐式を受けるのは、神が私たちの一人ひとりを受け入れてくださっているからである。主イエス・キリストは、私たちの一人ひとりを祝福してくださる。一人ひとりを大切にしてくださっておられる。至聖所に入るのは大祭司だけではなく、信じるすべての者が入るのである。そして、アブラハムの子孫である私たちは、座って御前で葡萄酒を飲むのである。そのようなことは旧約聖書の大祭司にも許されなかったことである。それが、今は、子どもでさえ許されている。神の安息が主イエス・キリストにあって私たちのものとされているからである。

       私たちは、王なる神の御前に座って一緒にパンを食べ葡萄酒を飲むことができる。そこまで高い地位と特権が私たちに与えられている。王の養子とされているからである。そのことを感謝して聖餐式を受けるべきである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――1999年6月20日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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