ローマ人への手紙5章1節
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
99.07.11. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
神との平和
5章1節
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
この箇所でパウロは、アブラハムの信仰をもっと直接的にはっきりと私たちに適用しているのではないかと思う。この5章1節から5章の終りまでの箇所がローマ人への手紙全体の構造と福音の説明において新しい区切りなのか、それとも新しい段落は6章からになるのかについては注解者たちの間で意見が分かれている。多くの注解者たちは5章をローマ人への手紙における新しい区切りの始めとして見ており、1〜4章よりも6〜8章に近いものだと見做している。C・E・B・クランフィールドの二巻からなるローマ人への手紙のギリシャ語釈義の注解書は、その著者に対するバルトの影響にも関わらず、それは最も良い注解書の一つである。彼は1章18節から4章25節迄をその主題である1章17節にある言葉「信仰による義人」の解説とし、5章1節から8章39節迄をその主題の節の次に来る言葉「生きる」の解説として見ている。
パウロは「信仰によって義と認められた」と切り出して「神との平和」について語っているため、その説明は義認を越えて信者の人生における義認の結果へと展開していると考えられている。なぜこの5章の位置付けのとらえ方が違ったりするのかというと、5章1〜11節のところでは「義と認められる」ことの結果について話しているように見えるからである。つまり、5章1〜11節では、「義と認められたので、神との平和を持ち、神を喜ぶ」ということをパウロは話している。そして、12節から5章の終りまででパウロはこんどはアダムとキリストとの対比について話している。ひとりの人アダムにあって人間は契約の呪いを受けたように、ひとりの人イエス・キリストにあって契約のいのちを祝福として受けることを説明している。パウロは再び契約の話に戻って、「義と認められる」ことの一番根本的な土台のことを話している。
だから、「義認の話はずっと5章の終りまで続いている」と考える者もあるし、5章1〜11節を見て「これは義認の結果についての話ではないか」と考える者もいるわけである。クランフィールドのアプローチは一般的である。なぜならパウロが5章1〜11節で義認よりも和解について語っているからである。しかし、12〜25節では、パウロは話を義認の主題に戻しており、義認の教理の最も根本的な部分を扱っているように思われる。
人類はアダムにあって契約的な一致を持っているという教理と、義認は新しいアダムとの一致を通してもたらされるという事実とは、パウロが最初の四つの章で説明している人間の罪と義認の教理に関する説明全体の基盤となる真理なのである。従って、5章はキリスト者の生き方に関する議論の始めというよりは、義と認められることについての説明の結論としてとらえる方が良いように私には思われるのである。
文脈におけるつながり
そのことが何を意味するかは5章1〜11節を理解するうえでとても重要なこととなる。もしこの箇所が6章以降のことよりも4章に深く関わっているのなら、私たちは、アブラハムの信仰とこの5章でのパウロの教えとのつながりを嫌でも考慮せざるを得なくなる。そして、これらのつながりは重要であり、たくさん与えられている。
例えば、5章1節より前の部分において、「平和」という言葉は1章17節、2章10節、3章17節で三回使われているが、後の6〜8章の部分では8章6節で一回使われているだけである。アブラハムの信仰を理解する鍵の一つである「望み」という言葉は二回しか使われていないが、非常に強調をもって使われている。即ち、4章18節で「望みえないときに望みを抱いて信じました」とある。5章1〜11節では「望み」は三度使われているが(2節、4節、5節)、6〜8章では一度しか使われていない。この書全体の中で最も重要な言葉の一つである「栄光」という言葉は最初の五つの章で七度使われているが、6〜8章では三度だけである。「忍耐」という言葉は、アブラハムについては使われていないが、彼の信仰と救われた者の信仰とを特徴づけるものとして使われている(2章7節)。「信仰」という言葉は特に重要である。最初の四つの章では二十回以上も使われ、5章で二回登場しているが(1節と2節)、6〜8章では一度も使われていない。
また、私たちとアブラハムの間に特定の関連性を持たせるもう一つの言葉は「不敬虔」という言葉であるが、アブラハムについては4章5節で、私たちについては5章6節で使われているだけである(関連語が使われている1章18節も参照)。「義認」という言葉は6〜8章では三度使われているが、ローマ書全体における14回の登場のうち11回は最初の五つの章にある。最後に、極めて重要で、おそらく決定的ですらある関連は、「誇る」や「喜ぶ」と訳される語群に見出される。ここでは一つのギリシャ語の様々な形態について話している。それはしばしばローマ人への手紙の最初の区切り
(1章18節〜5章25節) における説明の重要な部分に登場するが、6章以降では一度しか登場していない(15章17節)。
パウロが最初に「誇り」について語るのは、ユダヤ人をその偽善のゆえに叱責したときである。ユダヤ人は神と律法とを誇るが、神を敬わず、律法を守らない(2章17節と23節)。このことが神にあって真に誇る者たち(5章11節)
との比較対照の背景となっている。さらに目立つのは、4章の議論が3章27節の「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか」というパウロの問いに始まるという事実である。これがこの問題全体の要(かなめ)であるからだ。もし人が律法の行ないによって義と認められるのなら、彼には自分自身を誇る根拠があるが、もし信仰によって義と認められたのなら、その誇りは完全に取り除かれている。アブラハムの例は、私たちの信仰の父には彼自身にも彼の行ないにも何一つ誇る根拠がなかったということを示すために紹介されている。彼は信仰のみによって義と認められた。
「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません」(4章2節)。この誇りの排除は、無論、不正な誇りの排除を意味しているのである。パウロは、人間の自律を主張する人々に特徴的な罪人の誇りの根拠をすべて取り除く。しかし私たちに誇りがないわけではない。私たちはキリストにあって“誇る”のだ(5章2節、3節、11節;
この箇所のギリシャ語は2章17節と23節で使われているのと同じ言葉である。通常ここでは「喜ぶ」と訳される)。アブラハムと共に、信仰によって義と認められる者たちは、「望み」をもって「喜ぶ」のである。
アブラハムと私たち
これらの関連性を考えることは重要だと思う。それは、パウロがここで次の話題へと移るのではなく、むしろアブラハムの信仰によって義と認められることが何を意味するのかを示しているということを理解する必要があるからである。私は、今回このローマ人への手紙の説教のためにいろいろ勉強しているときに、4章におけるアブラハムの人生の話は聖書の教理を抽象的に教えているということよりも、神がどのようにアブラハムを導かれたのかという契約の歴史を通して、神は、私たちに契約の根本的なところを明らかに教えてくださっているということを今回は特に深く感じさせられている。
5章に入ると、「義と認められた者に平和がある」と説明してから、こんどは試練の話に入っている。この文脈がアブラハムの物語と非常に似ているということはすぐにわかると思う。4章を見れば、アブラハムは神から祝福が与えられ、契約関係にあってアブラハムは神との平和をもって生活していたことがわかる。その中でアブラハムは大変な試練にあったりする。ずっと死ぬ日まで、人間的に言うならば、アブラハムは自分の目で約束の祝福を現実としては見たことはなかった。アブラハムは約束の種を見た。つまり、約束の子イサクは自分の妻サラによって生まれた。ある意味でそれによって契約の成就を見ることができたとも言える。しかし、イサクは契約の約束である「国々」とか「王」とかいうようなものではなかった。アブラハムはまだ「種の状態にある契約の成就」を見ただけであった。「その契約の成就はあと400年間待たなければならない」という但し書きをもって契約の祝福を受けたのだ。実に、最後まで、その信仰を試され続けて生きる以外になかったのである。
そのアブラハムの信仰の話を、ローマの教会の信者たちに話しているのには大きな意味があると思う。パウロはずっとダビデの話だけをしてもよかったし、モーセの話をしてもよかった。ヨセフの話をしてもよかったのだ。みな信仰によって義と認められた人たちである。他にも信仰の模範になる人たちのことがヘブル人への手紙11章にあり、長いリストがそこに記されている。みな信仰の模範を示してくれる人たちである。しかし、アブラハムを選び、アブラハムを通してローマの教会に教えているのには特別な意味があった。5章においてそのことを見ることができる。この時のローマは初代教会であり、古代教会である。つまり、教会としてはまだ赤ちゃんであった。ちょうどアブラハムと同じように、教会は始まったばかりであった。
主イエス・キリストは大きな約束を与えてくださったが、当時のクリスチャンの数はわずか一握りであった。パウロがローマ人への手紙を書いた時に信者は数百人から数千人に増えていただろうが、それでも「全世界が救われる」というとてつもない約束を与えて、「全世界が救われるために働きなさい」という命令をキリストから受けたパウロの時代の教会は、アブラハムのような信仰を持っていなければ続けて前に進むことはできないものであった。アブラハムは、パロにいじめられ、アビメレクにいじめられた。それと同じように、ローマの教会はカイザルにいじめられ、ユダヤ教にもいじめられていた。大変な試練に合わなければならなかった。大変な苦しみに合わなければならなかった。信仰を持って歩み、最後まで続けて戦う堅忍の決意がなければ、ローマの教会が続くことは不可能であった。
アブラハム契約の意味を考えることはアブラハムの信仰を語る神学的な理由ではあるが、契約の歴史においてアブラハムはどんな立場にあるのかを考察するとき、このローマ人への手紙を受けた教会はアブラハムと同じような立場にあったことが理解されなければならない。ローマの教会は、新しい契約を受けた最初の世代の人々であった。この人たちは、本当にアブラハムのような状態に置かれている。この人たちは、本当にアブラハムのような信仰を持って生きなければならない。
そういう訳で、パウロは1節から11節でアブラハムの信仰と私たちの関係について話している。即ち、「義と認められる」その契約的な信仰の話をしてから、パウロはアダムに戻って「義と認められる」ことの最も根本的なところを説明しているのではないか。つまり、「義と認められる」ことの話は5章の終りまで続くわけである。その「義と認められる」ことの意味をパウロはここで深く説明する。それは、ローマの教会がアブラハムのようにその信仰が試されるときにしっかり立って信仰の道をはっきり歩むことができるようにするためである。アブラハムはその信仰が試された者であった。彼に与えられた数々の信仰の試練は彼を滅ぼしたり圧倒したりすることなく、結果としてむしろ望みにおいて彼を強めたのである。これが真の信仰を持つすべての者に試練が働く方法なのだ。それゆえパウロは5章1〜11節のギリシャ語において直接叙述法で語り、自らの救いについてキリストに信頼する私たちは平安を持ち、「患難の中では何よりも神御自身に望みをもって喜ぶ」と主張するのである。そういう意味で、5章1〜11節の「信じて義と認められた者には平和があり、彼らは神を喜ぶ」という話は、試される信仰の話であり、その確信がどのようなものなのかを説明しなければならないわけである。表面的に言うならば、どこにも平和はないように見える。ローマの教会は激しく迫害され、殺され、ありとあらゆる虐待を受けた。ローマ帝国はローマの教会とキリストの教会全体に対して宣戦布告していたようなものである。黙示録の表現を用いるならば、ユダヤ教は獣に乗って神の民に対して戦争をしていた。キリストの教会を抹殺しようとする。その大変な試練の中にあるクリスチャンは、神の契約の深い意味を知らなければならない。そして、試練が与えられていることの意味を知らなければならない。喜びの力をもって試練に向かっていかなければならないのである。そのことは義と認められる教理の中に含まれていることなのだ。その点で、アブラハムの信仰を受け継ぐ者として教えられる必要があったのだと思うのである。もちろん、私たちもこの点において深く教えられる必要があると思う。
ローマ人への手紙を学び始めたときに、私たち自身についても話したと思うが、日本で福音を伝える者として私たちは最初の世代ではない。少なくとも100年間は福音がこの国で宣べ伝えられている。しかし、最初の世代と今の立場はあまり変わっていないということも言わなければならない。ある観点から見ればずいぶん違うのは事実である。100年前の日本人は聖書もなかった。複数の翻訳も当然なかった。注解書や証しの本も全くなかったのだ。今のように地域教会があっちこっちに沢山あるという状態も一切なかった。そういう意味では、私たちは最初の世代よりもずっと恵まれた状態にある。そのことを忘れてはならないし、そのことを感謝し、喜ぶべきだと思う。しかし、同時に、クリスチャン人口の面から見れば、まだまだ日本の教会の働きは開拓伝道の域を出てはいないことも事実である。キリストの命令の意味からすれば、日本の教会はまだ始まったばかりの状態にある。その理由としてはいろいろな事があるが、そういう意味で私たちはクリスチャンの闘いがあることを非常に深く認識しなれけばならないのである。アブラハムのような信仰を持ち、神の約束を信じて歩み続けなければならない。そのことを強調しなければならないと思う。全世界が彼を通して救われるという約束をアブラハムは受け、すべての国々はアブラハムを通して祝福されるという約束を受けた。そこから最初の歩みは始まった。しかし、呪われた地であるカナンに行き、そこで宣教師の働きをするようにアブラハムは召命を受けた。彼が福音を宣べ伝える相手は救われない相手なのである。たとえアブラハムの時代に救われる者がいたにしても、400年後にその者たちは滅ぼされてしまう。カナンの罪は最後の熟した状態にまで満ちてはいなかったので、カナン全体としての裁きはまだ下されておらず、罪が熟したソドムとゴモラだけが裁かれた。アブラハムはそのような国の中で宣教師として働かなければならなかった。与えられた約束は本当に遠い遠い将来にあったが、それでもその約束を信じて闘わなければならない。妥協しないで福音を伝え続けなければならない。信仰をもって歩み続けなければならないのである。
私たちもそうである。私たちの世代において日本が救われることを望むのは確かにむずかしい。私もそのような約束を毎週毎週強調するつもりはない。私たちの世代において、私たちの死ぬ前にこの日本が救われるという約束はない。何世代もかかるかもしれないし、いつになるのかは知らされていない。私たちも長い目でみて闘わなければならない。そういう意味で、代々の闘いとして信仰の闘いが与えられている。いろいろな意味で苦しみにも遭うであろうし、あらゆる面で闘わなければ教会は続かないであろう。今までの100年間の闘い方は非常に弱かったと言わなければならない。そのために、中国よりも日本の教会の方がくすぶっており、前進できないでいる。客観的な状態から言うならば、戦後の50年間、中国の方がずっとずっと大変なのに、平和な日本の方がずっと福音の働きは弱く、遅れているのだ。韓国よりも日本の方が遅れている。客観的な状態を言うなら、韓国も日本よりずっと大変であったのに、日本の方がずっと遅れている。日本には日本なりのいろいろな理由があるかもしれない。私たちはその中にあって闘っている者なのだ。そのことをはっきりと認識し、しっかりと闘って、神の福音の勝利を求めなければならない。アブラハムのように勝利を信じ、たとえ死ぬようなことがあっても妥協せずに闘うのである。「この社会は死んでいる。この社会がキリストを信じるようになるのは不可能に近い。本当にむずかしい」と思っても、その中で生きた信仰を持ち、約束を信じ、望みを持って福音を宣べ伝え、御言葉に従って生きる。そのアブラハムのような強い信仰を持って生きなければだめなのだ。弱い信仰では、約束に目を留めないような信仰では、また三十年後に再び開拓伝道から始めなければならない。そのまた三十年後にもまたまた開拓伝道から始めなければならないようなことになる。子どもたちが中学生くらいになると、教会から離れてしまう。高校生くらいになると教会から離れて行く。そのことが代々繰り返されていくことになる。それが今の日本の教会の現状である。そんなことでは、教会の成長はとても望めないのである。そこに深刻な問題があるのに気がつかなければならない。そういう意味で、非常にはっきりした闘いをするアブラハムの信仰を私たちも持たなければだめなのである。それで、この5章の1節から11節の箇所はローマの教会のためにも、また私たちのためにも、非常に大切な教えだということを深く思わされるのである。それでは、5章1節をまず見てほしい。
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
新改訳聖書の下の脚注に「持っていようではないか」あるいは「堅く保とうではないか」という別訳があるが、「持っています」という訳の方が正しいと思う。「信仰によって義と認められた」というところで、私たちの客観的な立場をパウロは示している。「義と認められる」ということについては前にも話したが、もう一度簡単に述べておきたい。それは、裁判官の前に立たされる者が、裁判官によって「あなたは正しい」という判決を受けることなのである。ローマ人への手紙1章18節からのところで、私たちが犯罪者であることをパウロは明かにしている。絶対なる神の永遠の王国の中で、王なる神御自身に対して私たちは反逆の罪を犯した。私たちはみな、王なる神を裏切り、その神の王国を憎み、神の権威に対して逆らい、その律法と定めを破り、王なる神の裁きを受けるべき犯罪者である。その宣告からローマ人への手紙は始まると言ってもよい。それゆえ、王は裁き主でもあるので、その裁き主の前に立つ私たちは、裁きを受けるべき罪人である。「神に裁かれて永遠に滅びるべき者なのだ」ということをパウロは最初のところで宣告している。しかし、三位一体なる神の御子なる主イエス・キリスト御自身が人間となってこの世に来てくださり、私たちの代わりに、私たちが受けるべき罰を受けてくださったことにより、この客観的にして法的な問題は十字架上で完全に解決された。キリストが身代わりとなって私たちが受ける筈のその罰を受けてくださったので、裁判官は私たちに対して「あなたは有罪を認めるか。それとも無罪を主張するか」と尋ねるとき、私たちは主イエス・キリストを指して、「主イエス・キリストが私の代わりに私が受けるべき罰をもう受けてくださった。私はキリストを信じたので、キリストにあって私は無罪です」と答えることができる。そのように答える者に対して裁判官は、「あなたは無罪です」と宣告するのである。「義と認められる」とは、極めて法的な言い方であって、永遠なる王である神が私たちを見るときに、私たちをキリストにある者として見てくださって完全に無罪であることを認めてくださることを意味している。
そのことを聖書にある比喩をもって説明するならば、私たち自身の正しさはその最も正しいところさえも汚れた衣のようなものでしかないのである。イザヤは、「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」(イザヤ書64章6節)と言っている。しかし、主イエス・キリストが十字架上で私たちの代わりに死んでくださったことにより、私たちの汚れた衣は取り除かれ、キリストの血によって洗い浄められ、主イエス・キリストの義が私たちに転嫁された。私たちは主イエス・キリストの義しさという白い衣を着て神の御前に立つのである。それで神は、私たちを自分の生活と歴史だけの独立した一個人として見るのではなく、キリストの義の衣を着せられた者として見てくださる。つまり、キリストにある者として私たちを見てくださって「正しい者」と宣言してくださる。この法的な観点からパウロは救いを教えている。これは「義と認められる」という言い方において特に強調されている。
ただし、義と認められることをこのように法的なこととして考えるときに、法的な言い方や説明などを狭く考えすぎるとおかしなことになるので、十分に注意しなければならない。例えば、パウロが罪について説明するとき、私が先程使った「王の法を破り、王に逆らう犯罪者」というような言い方は強調して使われているわけではない。そのような言い方よりももっと広い言い方が使われていることに注目すべきである。どこから始まっているのかというと、パウロは1章18節のところで「創造主」というところから語り始めているのである。創造主との関係は契約の関係である。契約関係には法的な事柄も含まれるが、創造主は、単に王なる裁き主というだけに留まらない。創造主は無限に愛なる神であって、万物を愛のうちに創造してくださった。アダムとエバの出発点は法律の前に立って「守るか、破るか」というような話ではなく、愛なる神の豊かな祝福の中に置かれていた。愛と祝福に満ちている状態の中に置かれてアダムとエバは出発したのである。アダムとエバはすべてをただで賜物として与えられ、祝福しかない状態の中にあって、「祝福してくださった神に信頼してその御言葉を守って歩むかどうか」という、非常に簡単で基本的なところにおいて試されたのである。信仰が試されなければ、アダムとエバは本当の意味で大人にはならないからである。だから「善悪の知識の木」という名前がある。無限の祝福の中にあってそのただ一本の木において試されることによって精神的に赤ちゃんであったアダムとエバは大人になるはずであった。信仰が試されるとき、正しく反応するときに始めて本当の意味で大人の信仰を持つようになるはずであった。「善悪の知識の木」の実だけは食べないで、その他のすべては食べてもよかったのだ。すべてが与えられており、それらを自由に食べることができたが、唯一「善悪の知識の木」からだけは食べてはならないと命じられていた。一流ホテルに入って、無限に豊かな選択があるブッフェに招かれて、その無限な選択の中で「この一つだけは取らないように」と言われるたとする。その一つ以外のすべてが美味しいものばかりで自由に食べることが許されている。あなたならどうするだろうか。罪人は、そんなこと言われると「それだけはどうしても食べたい」ということになるかもしれないが、最初にまだ罪人ではなかったアダムとエバにとっては、その非常に豊かな状態の中に置かれて無限の選択の中で一つだけが禁じられているという試練は極めて容易なものであったのだ。それでもアダムとエバは罪を犯したのである。
そして、罪人は罪を犯したためにエデンの園から追放されても、なおも神は御恵みをもって人間に祝福を与えてくださった。今朝交読した詩篇107篇もそのことをよく表わしている詩篇であるが、それはイスラエルの話である。イスラエルに神はまず祝福を与える。祝福が与えられたイスラエルは絶対に感謝しようとしない。むしろ、「当然、私にはこの権利がある。私の家に冷房があるのは当然のことだ。車を持つのも当然のことだ。平和に道を歩く権利も当然私のものである」というふうに考えるわけである。道を歩くとき、殺されるか殺されないかということを心配しなくてもよい。平和の状態の中で生きることができるのは当然のことだと考える。毎日食べる物があるのも当然。病気になれば病院に行けるのも当然。病院に行けば何かの解決があるのも当然。すべてが自分の望むとおりでなければならない。欲しい物が得られなければ、それこそ当然ではなくなって、「不公平なことだ」と思うのである。そして逆らうのである。それが私たちの状態であり、それは不信仰なイスラエルの状態でもあった。もし私たちは、毎日与えられている当然な祝福に対して心から感謝しているのであれば、その詩篇107篇に書いてあるように、神の御業に対して本当に感謝して神を賛美するはずである。その心を持って歩むなら、私たちは神の祝福を当然として見下すことには決してならない。しかし、罪人は、すべてを「当然」と思ってしまう。そして、その当然の祝福を結局は軽んじて自分の手で壊してしまうのである。それを壊してしまった後で、惨めな気持ちになる。惨めになって始めて自分の愚かさを知らされて神を求めるようになる。その繰り返しがイスラエルの歴史であった。その繰り返しが詩篇107篇の話であるが、ローマ人への手紙1章から読み始めれば、罪人は常にそのようなものだということがよくわかる。それが罪人の状態である。感謝しない。それが1章に書かれてあるように、罪の始まりなのである。感謝しないので偶像礼拝に陥ってしまう。偶像礼拝になるので、どんどん堕落していく。それはみな神に対する感謝の心を持たないところから始まっているのだ。それが罪人の罪の出発点である。感謝しないから、神を礼拝することもしない。そして偶像礼拝に走ってどんどんどんどん駄目になる。駄目になって始めて気がつかされて、振り返るのである。
放蕩息子の話がそうである(ルカの福音書15章)。そこまで駄目にならなければ罪人は目覚めない。この放蕩息子の話を比喩として自分のことを考える必要がある。毎日毎日酒に酔って悪い遊びに明け暮れているときには、「このままの生活ではどうしようもない」ということに気がつかない。お金を全部使い果たしてしまうところまでいかなければ気がつかない。そうなって苦しんでいても、それでもその時すぐには気がつかないものである。周りの友達が皆自分を捨てて、消えていなくなる。“金の切れ目は縁の切れ目”ということで、友達は一人二人と去って行く。それらが本当の友ではなかったことにようやく気がつき始めるが、それでも反省しないのでもっと状態は悪くなっていく。ついに豚と一緒に生活し、豚の餌を食べるまでに落ちぶれてしまってから、やっと反省するのである。そして、父の家を思うのである。それが放蕩息子の話であるが、罪人というものは、そこまで駄目にならなければ、考えようともしない。それでも神は寛大で義なる御方なので、そこまで堕落した罪人であっても、神を呼び求めるならば神は答えてくださる。そのことが繰り返し詩篇107篇に出て来る。愚かで、自分を駄目にしてしまい、そこで神に祈り求めると、神は恵みをもって答えてくださるのだ。ローマ人への手紙の1章からの罪の説明を見るとき、それが単に法的な話ではなくて、恵みなる創造主、契約の主の話なのだということがわかる。契約は祝福から始まり、それは恵みに基づいている。契約は、神の愛と神の恵みを表わすものであることは最初からそうなのである。罪人は、その愛なる神に逆らって生きている。それが人間の罪なのだということをパウロは1章のところで説明している。
そして、神は、人間に救いを与えてくださるとき、義と認めてくださるのは確かに法的な話であるけれども、ただ単に法的で客観的な手続きをやっているかのように思ってはならない。決してそうではない。「贖い」という言葉、「なだめの供え物」という言葉、そして「和解」という言葉を使ってパウロは説明している。神の救いを色々な観点から考えなければ、正しい理解とは言えないのである。なぜなら、これは契約の神の愛の救いであって、単に法的に罪を扱っているだけというわけではないからである。愛をもって主イエス・キリストをこの世に送ってくださった。主イエス・キリストは、愛をもって私たちの罪のために死んでくださった。それで、主イエス・キリストにあって義と認められた者は神との平和を持っている。そのことをパウロは5章1節で話すとき、「義と認められた結果は平和である」という論理的な話をしているというよりも、「義と認められることには、こういう意味も含まれている」ということを説明しているのだと思う。「平和を持つ」というのは広い言い方であって「シャローム」という契約の言葉なのである。「シャローム」は、契約の完全な祝福の状態を表わす言葉である。死の反対はいのちだという言い方もできるが、「シャローム」も死の反対を意味する言い方であって、呪いの反対を意味する言葉である。義と認められた者、即ちその罪の問題が解決された者は、契約の神との関係において和解されている。神との平和を持っている。これは非常に客観的なことであって、心の中でただ気分がよくなったというような話ではない。「シャロームの中にあって生きている」という意味である。神との平和を持って生きている。そのことをパウロは説明している。「シャローム」を持っているということは、「神は私たちの敵ではなくなった」ということである。パウロは厳しい言葉を使っている。「怒り」という言葉を繰り返し使っている。罪人の私たちは神の敵であった。神は、義なる怒りをもって罪人を裁きたもう。1章18節からその説明は始まるが、私たちは神の敵であり、契約的にサタンの子どもであるかのように横柄な心と態度で神の前に立ち、敵意の関係にあった。私たちは客観的に神に対して闘っていた。しかし今は、神と「シャローム」の関係にあって祝福される者となった。義と認められるということは、御父なる神は私たちを愛して御自分の子どもとして受け入れてくださり、「シャローム」の関係に戻ったということなのである。「平和を持っている」ということは、創造主との契約の関係が完全なものになったということを指す言い方である。
エデンの園の中でアダムとエバは最初は神との「シャローム」の関係を持っていた。そのことを考えれば、非常に明確な意味で「シャローム」の意味を考えることができると思う。アダムとエバは、互いの関係においても平和であった。そして、動物との関係も平和であった。すべての被造物との関係も平和であった。自分の心の中の関係も平和であった。なぜかというと、神との関係が平和であったからである。客観的な意味で神と正しい関係にあったからである。神に対して逆らったとき、互いの関係もだめになり、周りの環境との関係もだめになった。そして、心の中のすべての思いも歪んでしまい、平和を失ってしまった。自分の肉体も朽ちて死ぬべきものとなった。神との関係がおかしくなれば、他のすべてはだめになる。神との関係が正しければ、他のすべては守られる。それが基本である。アダムとエバは、エデンの園の中で、最初は「シャローム」を持っていた。それで動物たちはアダムを見ても食べたいとは思わなかった。ライオンも狼もアダムを攻撃せず、ヘビも咬むことをしない。世界はそこから始まったのである。アダムとエバは互いに言い争うこともなかったし、心の中の罪意識のために恥ずかしくなるようなこともなかった。それこそ、顧みれば10年前の罪をまた悔い改めたくなるようなことはない。アダムの心の中には完全な平和があった。エバとの関係も完全に平和であった。それが「シャローム」の状態である。罪を犯さなかったなら、アダムは神の声を聞いたときに喜んで出迎えたはずであった。その声がどのような声だったかはエゼキエル書の1章を読めばよくわかる。それは大水のとどろきのようであり、大きな陣営が歌っているような声であり、大きな大きな音であった。英語では「白い音」と言うが、その大きな声を聞いたとき、アダムとエバは驚いて逃げてしまったのである。心に平和があるなら、そうであるはずはなかった。大水のとどろきのような大きな素晴らしい音を聞いたとき、それを聞いて喜んで出迎えるはずであった。求めるはずであった。しかし、罪のために心の中の平和を失っており、神との客観的な平和を失っていた。それで、その音は彼らにとっては敵の音のように聞こえた。それで逃げて隠れた。そして、神に聞かれると、嘘をついたのである。平和を持つ者は神を求めるはずである。神を喜ぶはずである。平和を持たない者は、神から逃げようとするが、逃げられはしない。もともと神との平和とは、そのような本当に客観的にも主観的にも問題が一切無い状態である。けれども、アダムとエバは罪を犯してしまい、この世は罪に墜ちてしまった。この世界は、アダムとエバが罪を犯したときから、ヘビの子孫とエバの子孫の戦いが歴史の中心となっている。歴史の中の戦いは、西洋人と東洋人の戦いではない。白人と黒人の戦いではない。諸々の主義の戦いではない。民主主義的な国と共産主義的な国との戦いでもない。歴史の戦いは、エバの子孫とヘビの子孫との戦いなのである。それが歴史の根本的な戦いであって、歴史が終わるまでその戦いは続く。それだから、この世で神との客観的な平和を持つということは「これですべてはうまく行く」というような意味でないのは明らかである。
誤解しないでいただきたい。動物園に行って虎の檻に入って虎と一緒に遊ぼうと考えてはならない。私たちはエデンの園のアダムとエバの状態に戻ったわけではない。動物たちはまだ私たちを憎んでいる。すべての人間関係も完全になったわけではない。自分の心の中も完全にきれいになって罪の問題が全くないという状態になったわけではない。私たちは戦わなければならない。しかし、いったいどうやって戦うというのか。戦う力はどこから来るのか。なぜそのような戦いの中にあって続けて喜びを持つことができるのか。そのことについて説明するときに、パウロは、戦いの中にあって私たちは「神との平和」というところに立ち、神に目を留めて、神に対する堅い信仰を持ち、神の御恵みを喜ぶ者にならなければならないことを教えている。神の御恵みを喜ぶ者は、試練に遭うときにも力があり、その試練からも益を受けるばかりで、どんどん成長し、成熟していく。しかし、神を喜ばない者は愚か者である。クリスチャンの中にも愚か者はたくさんいる。この教会にも100くらいいるかもしれないが、愚かなクリスチャンは、試練に遭うときに喜んでそれを神から受け、神に目を留めることをしない。そして「なぜだ。なぜこんなことになるのか」と、叫んだりぶつぶつ言ったりする。それでその試練はどんどん厳しくなり、更に苦しくなり、最終的に打ちのめされ、へりくだった心が与えられて、「どうか神さま助けてください」と祈るのである。すると、神はその祈りを聞いてくださり、助けてくださる。助けられて問題がなくなると、愚かなクリスチャンは「よかった。救われた」と思ってその試練のことを完全に忘れてしまう。試練を通して学んだことも忘れてしまう。実に簡単に、そして早く忘れるものである。再び試練が来ると、また同じように反応してしまうのである。しかし、「繰り返し繰り返し神は救いの手を伸ばしてくださった。他のどの試練でも神は助けてくれた。前の試練のときも、確かに神は祈りを聞いてくださったのだから、とにかく私は神に信頼しよう。神はきっと正しい道に私を導いてくださる。アブラハムのように、目に見えない神の御国に目を留め、神の御手の働きに目を留めて、すべての客観的な状態がだめであっても、なおも私は神を信じよう」というところにまで導かれるのである。試練に遭う度に信仰は試され、強められて、少しずつ成長させられる。早く成長するためには、心が本当にへりくだされて、キリストに目を留め、神との平和を喜ぶ信仰がなければならない。ローマ人への手紙の1章の言い方で言うならば、感謝の信仰でなければならない。神の御恵みを感謝する。神の救いを喜ぶ。そこに立つことを私たちは学ばなければならない。そのことをこの箇所からも教えられていると思う。信仰によって義と認められた私たちは、神との平和を持っている。そこから話を始めて、平和を持っているので試練の中ではどうなのかをパウロは話している。最後のところでパウロは、「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです」と言っている。パウロはここで「喜びましょう」とは言っていない。クリスチャンとは、「神を喜んでいる」者なのだとパウロは教えている。神との平和を持っている。神を大いに喜んでいる。それが本当の義と認められる信仰である。神との客観的な契約関係がよくなっている。すべては客観的に平和になっている。けれども、再びキリストが来られる日まで、即ち歴史の終りまで、私たちにはエバの子孫としての戦いがあるという事実を認識しなければならない。それはヘビの子孫に対する戦いであるし、自分の心にある罪との戦いでもある。しかし、最後まで、神に目を留めて戦わなければ、戦いに勝つことはできない。神の約束を信じ、神に目を留めて戦う。それがアブラハムの信仰である。私たちはアブラハムのような信仰を持って戦わなければならない。
パウロがここで述べているのは、義と認められることの論理的帰結として神との平和が来るということよりも、義認がその性質上神との平和をも意味するということである。一つ一つの祝福が三段論法の糸によって前のものに結びつけられているというような論理的連鎖ですべての祝福を考えるのではなく、救いのすべての祝福をイエス・キリストにある契約的一致に含まれるものとして悟るとき、私たちはその区別の重要さを知るようになる。この箇所の本当の要点は、私たちが契約の基本的祝福によって祝福されているということなのだ。ダビデは主が罪を認めない人の幸いについて語っている(4章6〜8節)。キリストを信じる者たちはその幸いを相続するのである。キリストにあって義と認められたので、神は私たちを御自身の御怒りの下にある罪人とは見ないで、御自分の最愛の子として私たちを受け入れてくださるのだ。私たちは神がもはや私たちと敵対関係にはなく、味方であられることを意味する神との客観的な「平和」を持っている。別な言葉で言えば、私たちは神との契約的な交わりに完全に回復されたということである。これはダビデが語り、アブラハムが相続した幸いよりもさらに大いなる幸いなのだ。アブラハムはこの世の相続人となるという約束を受けたが、彼自身が生きている間にその相続を受けるてはいなかった。しかし、すでにキリストがその約束を成就し、その相続は私たちに与えられている。キリストにある神との平和の賜物は、その中に契約のすべての祝福を含むものである。8章31〜32節でパウロが「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できようか。私たちすべてのために、御自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがあろうか」(8章31節)と言っているとおりである。ローマのクリスチャンは、義認とは「神との平和によって祝福され、神がもはや彼らに不義を転嫁しない」ことを意味するという点をしっかり理解する必要があった。なぜなら、すぐにも彼らは試練に直面することになっており、その試練はアブラハムが直面したものと同様に厳しいものとなるからであった。彼らの外面的状況は神との平和の証拠とはならず、むしろその祝福の所有と矛盾するようにさえ見える。彼らは次のような疑いを抱くように誘惑されるだろう。「もし神が私たちと平和をもっておられるなら、なぜ全世界が私たちに敵対するのか」。しかし、その答えは、「神がその人と平和をもっておられるなら、神を憎む世界は当然その人に対して宣戦布告するであろう」ということである。この世で人を支え得る唯一の信仰とは、神の復活の力を見て、望み得ないときに望みを抱いて信じる信仰なのである。キリストを通して与えられる義認とは、私たちの神との関係が完全に契約のシャロームへと回復されているという意味であることを知るとき、私たちは世界の救いと邪悪な者たちの全き敗北において神の栄光が現わされるという希望をもって喜ぶのである。御力の現われは遅くとも、それは確実に現わされる。神の栄光は現わされ、敵は降伏するのである。
罪人は愚かで弱いものなので、喜びからすぐに離れてしまいやすいものである。感謝から離れてしまいやすいものである。そのために神は私たちに聖餐式を与えてくださった。聖餐式にあずかるとき、私たちは正式に神の御前に出て「私は罪人です」と告白している。パンを食べ、葡萄酒を飲むときに、「この主イエス・キリストの十字架の死がなければ、私は決して救われはしなかった」ということを認めて告白している。私たちは、聖餐式を受けるとき、まず第一に感謝を神にささげて神の御恵みを喜ぶものである。罪を悔い改めるのも大切なことであり、自分を吟味して聖餐式を受けるための心の準備はもちろんすべきである。しかし、自分の罪を見て、自分の罪を悔い改めるときに、がっかりしてしまうことも確かにあるだろう。「今週またこの罪を悔い改めなければならないのか...」と、自分の罪を見て、自分の愚かさを深く感じてがっかりしてしまいがちな面もあろう。これは聖餐式の時にこそあってはならない思いである。罪を悔い改めるべきであるのは確かであるが、私たちの罪が聖餐式の中心ではない。神の御恵みが中心なのである。神は、私たちを選ぶ前に、私たちがどのような者であるかをよく御存知であった。神は私たちを見て、「ああ。がっかりだ。ここまでこの人が愚かだとは思わなかった」というふうに思ってはおられない。始めから、私たちを選ぶ前から、すべてを御存知なのだ。私たちがどんなに愚かで弱い者なのかを御存知なのである。本当に受け入れてくださって愛してくださる神に向かって、罪を悔い改めるとき、目は自分に向かってはいない。罪を悔い改めるとき、目を自分に留めているならば、それは誰に対して罪を犯したのかにすら気がついてはいないということになるのだ。放蕩息子が自分の父の家に戻ったとき、父に目を留め、父のことを考え、父に語ったのである。「私...私...。私が...」というのではない。天の父に目を留めて罪を悔い改めるのである。天の父が私たちをここに招いてくださった。天の父は、私たちを愛してくださることを御言葉をもって宣言しておられる。そして、長老たちは、御父の代表として私たちに主イエス・キリストを提供している。そのパンと葡萄酒は、神が与えてくださった祝福である。私たちはそれを受けるとき、感謝をもって神の契約の愛を受けるのである。それこそ神を信じることである。それは神の御恵みを信じることである。感謝して受ける。私たちは、この時こそ神との平和を持っていることを知るべきである。聖餐式はそのことを非常に明らかに表わすものである。皆が、神の御前に座っている。神から葡萄酒を受ける。それは安心、安息、そして「シャローム」を表わしている。その葡萄酒とパンを神から受けて、神とともに食事をしているようなものである。私たちは、神の神殿で神の御前にあってともに食べるのである。「シャローム」の状態はこの宴会においてはっきりと表わされている。これは、神の花嫁の宴会である。神の愛の宴会である。そのことを覚え、本当に感謝の心をもって聖餐式をいっしょに受けたいと思う。
――1999年7月11日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com