ローマ人への手紙5章9〜11節
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
99.10.24. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
神を喜ぶ
5章9〜11節
5章1節で、パウロの説明は、義と認められた私たちは神との平和を持っているというところから始まっている。「神との平和」は、義と認められることの中に含まれていることは既に説明したが、神が私たちに救いを与えてくださるとき、神は私たちを御自分の子どもにしてくださる。神は私たちを罪から救ってくださるとき、それはただ単に法的な問題を解決するだけで、遠く離れていて親密な関係を持たない、というようなものではない。犯罪者であった私たちを赦し、私たちの罪を取り除き、洗い聖めてくださり、私たちを御自分の所に受け入れてくださり、私たちを御自分の子どもにしてくださるのである。神との平和を持つということは、完全に神との関係が回復されて、私たちは神に受け入れられているということである。そのことをパウロは1節で話している。
この「平和」は「和解」という言葉につながるものである。敵であったものが和解されたのだ。遠く離れていた者が、親しい者となった。神と完全に正しい、そして親しい関係を持つ者とされたのである。それゆえ、私たちは恵みの領域に立って喜ぶのだ、とパウロは言う。恵みの領域に立っている者は、神の栄光を望んで喜ぶ。つまり、歴史全体と自分と神との関係を知るようになり、救いにおける神の最終的な栄光のあらわれを望んで喜ぶのである。そのことが2節までのところある。神の敵であった者が神の子どもとなり、そして主イエス・キリストの栄光にあずかる者となった。主イエス・キリストと共に永遠に栄光が与えられる者となったのだ。このような大きな救いを知る者は、当然喜ぶことになる。クリスチャンは、神の大きな御救いを心から喜ぶ者である。
そこまでであれば何ら問題はないであろう。しかし、次にパウロは、患難をも苦しみをも喜ぶと言うのである。試練を喜び、大変な問題に直面するときにも喜んでいるとパウロは言う。何年もクリスチャンとして生きている者であればパウロの言う意味がわかる筈だと思う。パウロは、「患難をも喜ぶ」と言うときに説明を加えている。なぜ試練を喜ぶことができるのか。なぜ患難や苦しみの中で喜べるのか。それは、「患難の意味が何なのかを知っているからだ」と言うのである。患難によって神は私たちに忍耐と揺るがされることのない忠実な心を与えてくださる。それによって私たちは、神の御恵みに対する喜びと望みは深まり、それは揺るがないものとなる。パウロはこう言っている。
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ここで、「御霊が私たちに神の愛を証ししてくださる。それによって私たちは確かな望みを持ち、その希望は失望に終わることはない」とパウロは言う。そう説明した後、パウロは6〜8節で神の愛について語っている。御霊が私たちに証ししてくださる神の愛とはどういうものかというと、それは「十字架の愛」の話なのである。御霊の証しによって、クリスチャンはその十字架の愛をはっきりと知っている。それゆえ、試練の中にあっても、神に愛されているという確信を持つことができる。神に愛されているという確信に立つなら、忍耐をもって神の働きと導きを求め、神の救いを待つことができる。それによってクリスチャンは成長していく。そして、パウロは次の9節と10節で「望み」の話に戻っている。
神の愛に基づいた望み
9節で、「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」と言っている。「義と認められた者が、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことである」とは、今すでに主イエス・キリストにあって義と認められた者が将来において神の御怒りから救われるのはもちろんだということなのだ。ここでパウロは、困難な問題が解決されたのであれば、簡単な問題は当然解決されるという論法で話している。「大は小を兼ねる」というわけである。大きな事をまず話してから小さな事に移るという論じ方をしているのだ。
大きくて困難な問題とは、敵であった私たちの罪の問題である。神に逆らい、神を憎み、神から逃げようとする、私たちはまさにアダムとエバのような心を持っていた。それが私たちにとっては実に大きな問題であった。神を憎み、神を無視して生きている。その問題を、神は主イエス・キリストをこの世に遣わすことによって解決してくださったのだ。私たちの身代わりとなって十字架にかかり、罰を受けて死んでくださり、そして甦られ、天に昇られた。そして、キリストを信じる者には罪の赦しが与えられ、永遠のいのちが与えられ、救いが与えられたのである。私たちが義と認められるためにキリストの血が要求された。即ち、キリストの十字架という犠牲としての死が要求されたのだ。これ以上深くて素晴らしいことはとても考えられない。
「義と認められた私たちは.....」というとき、パウロは今の私たちの状態をも考えている。まだまだいろいろな問題や試練に直面するであろうし、この世に生きている間はいろいろな事において試されるであろう。しかし、「罪からの救い」という“大きな問題”を解決してくださった神は、必ずや最後まで私たちに救いを与えてくださるに違いないことを私たちは確信している。「今、キリストにある救いにあずかっているならば、今後の事については心配しなくてもよい。その者は、神の怒りから救われるのはなおさらのことである」とパウロは言う。「怒りから救われる」というのは将来の話であり、これは“最終的な御怒り”のことである。
今でも、私たちが試練にあったり問題にぶつかったりするとき、私たちは既にキリストにあって義と認められた者としてその試練にぶつかっていくのだから、それらの試練は神の怒りではないことを確信することができる。クリスチャンに与えられた救いは将来の御怒りからの救いも含まれている。クリスチャンに与えられた将来の御怒りからの救いには、「現在直面している試練や痛みは神の御怒り」というカテゴリーに入るものではないという事実が含まれている。神は、私たちに対して、父が子に対して怒るように懲らしめることはあっても、決して最終的な怒りを与えることはなさらない。
だから、もし神がこのような偉大な御業を成し、御子キリストを十字架で私たちの罪のために死ぬために遣わしてくださったのなら、なおさらのこと、比較的小さな御業、即ち義と認められた者らを未来の御怒りから救うことができないというようなことは有り得ないのだ、とパウロは言っているのである。それ故私たちは「望みをもって生きる」のである。5節で、「神の愛が・・・注がれている」と言ってから、「だから、あなたは神の愛の中にあるのであって、怒りから救われており、これからも救われるのだから、心配しなくてもよい」と証ししているのだ。私たちはその神の愛のうちにあって確信を持っている。まことに主イエス・キリストを信じて義と認められた者は、神の御怒りを心配する必要はない。
簡単に譬えれば、会社と家の違いのようなものだということができよう。会社によっては違ったりするかもしれないが、プレッシャーをかけて競争させるのが普通である。会社と会社の間にも競争がある。仕事が出来なければその会社は消えてしまう。私は若い時に工場で働いたことがある。その職場では、一時間単位で処理しなければならない仕事量が定められていた。それを終わらせなければ首を切られてしまう。最初のうちはノルマも軽かったが、経験を積むにつれてプレッシャーは強くなる。多くの仕事をこなせれば昇格するが、こなせなければ格下げとなる。とにかく会社としても個人としても生産効率を高めなければならないというプレッシャーの中に常に置かれていた。雇われるとき、「二週間やってみて、与えられた基準とノルマが果たせなければ解雇する」という条件を最初から言い渡されていた。
普通の会社では毎日そんなことは言わないだろうが、結局そのようなプレッシャーが職場にはある。競争に勝てなければ会社としても存続できないからである。家ではそういうわけにはいかない。妻に、「今日、これだけの働きがなければ、もう私たちの関係はおしまいだ」と言えば、それは大変なことである。家のことは愛に根ざしたものであり、その愛を確信できるはずである。結婚した時、死ぬ日まで互いに愛し合い、互いを守ることを誓っている。だから、「今日の食事はまずかったので、もう別れよう」ということにはならない。冗談のように聞こえるけれども、実際にそこまで離婚を容易に考える人たちがいるのだ。
しかし、神に愛される神の子どもとなった私たちは、神の怒りを心配したり、首にされることを恐れたりする必要はない。豊かに愛されているのだ。神を憎む罪人を救うという話ではもはやない。御自分の子どもを助けるという話なのである。愛の関係がはっきりと確立されていることが前提となる。親は子どもを取り扱うけれども、それは首にするというような問題ではない。成長を助けるために叱ったり、教えたり、懲らしめたりはする。それは“怒り”ではない。救われて、神の愛の中にあって守られているのである。誰もその愛から私たちを切り離すことはできない(ローマ人への手紙8章31〜39節)。しかし、天の父である神は、私たちの罪を取り扱い、懲らしめたり叱ったりしてくださる。そうするのは私たちが救われるためである。私たちが怒りによって滅ぼされないためである(コリント人への第一の手紙11章32節)。
私たちの父となられた神は、もはや私たちを敵として見てはおられない。敵に対するような怒りを私たちの上に下すようなことはない。相手を滅ぼすような怒りを私たちの上に注ぐことはない。それを知っているので、私たちは毎日の生活において神の愛を確信して生きるのだ。これからの歩みにおいて、敵として神に出会うことはない。敵に対するような恐れを抱くことはない。私たちはみな天の父の御手の内にあって守られている、ということをパウロはここで話している。私たちを励まし、私たちがその愛を確信して歩むように教えているのである。
それ故、アルミニアン主義の人たちであっても本当の意味でアルミニアンの信仰を持つことはできない。本当に主イエス・キリストを信じているアルミニアン主義者は、心の中においてはカルヴァン主義で、口においてはアルミニアン主義なのだ。彼らの内に矛盾があるとしても、彼らも心の中では「神は力ある御方であり、必ず救ってくださる。神は世界と歴史を支配しておられる」ことを信じて祈りをささげている。もし実際にアルミニアン主義の信仰を持っているのであれば、それこそ毎週救いを失っているであろう。
以前そのような友人がいた。彼はアルミニアン主義の教会に行っていたが、「私は何回も救われた」と言うのである。毎週の日曜日の礼拝で罪人を招き、救いを失った者を招き、もう一度救いを受けさせるのである。その友人は何回も何回も救われたりした。罪を犯すと、自分の救いを失ったと思うので、神の怒りを招いて永遠の地獄に行くのではないかと毎週心配したりしていた。いつもその事を思うと眠れなくなったりしたという。実は、自分が神を信じているかどうかについて確信がなければ、それは正しい反応だと言ってよい。しかし、主イエス・キリストを本当に信じて神の子どもとなったのであれば、地獄に投げ入れるという最終的な神の怒りに対して恐れを持つ必要はまったくない。「神が敵となるかもしれない」というような心配は絶対にない筈である。
愛され、守られているから、私たちは実を結ぶことができるのだ。それは実に大切なポイントである。神の子どもとなった私たちは、父の愛を確信し、神のために働き、神と共に働くことができる。「敵なのか、友なのか、わからない。もしかすると、敵なのかもしれない。もしかしたら私を憎んでいるかもしれない。神の怒りに触れて捨てられるかもしれない。神がどのように私を見ているのか、私にはわからない」と、本当にそう考えているならば、絶対に実を結ぶことはできない。実を結ぶ働きは、感謝と愛から生まれてくるからである。感謝しつつ、神を愛して神の御国のために働くのでなければ、実を結ぶことはない。そのことをパウロはガラテヤ人への手紙5章のところでも強調して教えている。だから、ここで私たちは、敵として神の怒りが下されることを心配する必要はないことを明確に教えられている。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
“敵であったとき”に救いを与えてくださった神は、もちろん和解された私たちに救いを与えてくださるのである。敵にでも救いを与えるのであれば、和解させられた者に対しては救いを与えないことは有り得ない。私たちはもはや敵ではなく、神の友であり、子どもである。注意してこの10節を読んでほしい。「御子の死によって」その敵を救い、「御子のいのちによって」その友を救う、という対比がここにある。イエスの十字架の死という“救いの御力”を、神の右の座で私たちのためになされる執り成しという“いのちの御力”と対照させている。これは今天におられる主イエス・キリストの執り成しの話なのである。復活して天に昇り、神の右に座しておられる主イエス・キリストは、常に私たちを見ておられる。主イエス・キリストは、二千年前に十字架にかかって死んでそれで終りというのではない。毎日毎日、主イエス・キリストは生きていて私たちを見ておられる。
十字架の死によって一番大きな問題である敵意と罪の問題を解決することができたのであれば、今生きていて私たちを見守っておられる主イエス・キリストが私たちを救えないということがあり得るだろうか。敵さえをも救った御方は、必ず御自分の友や子どもたちを救ってくださる。死によって救うことができたのであれば、いのちによって救うことができるのは、なおさらのことである。そういう意味で、私たちが直面する試練は小さなことであり、患難もまた取るに足らないものである。主イエス・キリストを信じた者は、そういう意味で、これからも神が最後まで守ってくださることを確信して生きるべきである。私たちがまだ神の敵であった時に、神は私たちを愛してくださって主イエス・キリストをこの世に送ってくださって、私たちに救いを与えてくださった。神は御自分の愛する御子の死によって私たちを御自身と和解させられたのだ。
このことが事実であるなら(そしてその通りなのだが)、神の味方そして子どもとされた今、神が私たちを完全に救い給うことへの確信は確固たるものとなる。その愛について御霊は証ししてくださる。十字架の意味を私たちに教えてくださる。十字架の意味を知っている者は神の愛を知っている。キリストの血によって義と認められた、その十字架の意味を知っている者は未来に対する希望に満ちている。自分の人生が悲劇に終わることはないことを確実に知っている。来たるべき最終の御怒りからも救われ、自分の人生の結末は御怒りでなく栄光となることを知っているのである。
つまり、私たちの人生の中で起こるすべてのことが栄光へと向かっているということである。この文脈におけるこれらすべての要点は、私たちの希望をいっそう強めるものである。私たちが希望で満たされるように、私たちに対する御自身の偉大な愛を確信することを神は望んでおられる。そのような愛の確かさと望みの豊かさが、真の実を結ぶ人生のための土台なのである。私たちは罰が恐ろしいからとか、自分の罪悪感を消そうとするためにとかでなく、神の救いの愛への感謝から、神とその御国のために良き働きをすべきなのだ。そのことをパウロはここで教えている。
従って、この箇所の要点は、パウロが前章で「患難は信じる者には聖化の手段である」という事実について語ったことにつながっている。これは、パウロが希望について語っている事柄にも明白につながっている。これは堅忍の教えに含まれている一つのことである。堅忍について話すとき、真の信仰と偽りの信仰との区別があることも話している。このことを正しく言い表すのは容易ではない。私たちはみな罪人であって罪を犯してしまうものである。それでは、誰も自分が真の信仰を持っているという確信を持ってはいけないのかというと、そんなことはない。
しかし、ダビデの例も考えなければならないだろう。ダビデは、姦淫と殺人の罪を犯し、それを一年近くも隠していた。大変な罪を犯してしまったダビデはずっと長い間、悔い改めなかった。変な話だが、仮にダビデが私の誰かに電話で「実は、私は姦淫と殺人の罪を犯したけれども、悔い改める気持ちにはなれません。私は本当のクリスチャンなのでしょうか」と言ってきたら、私たちは「あなたが本当のクリスチャンであるなら、悔い改めなくてはならない。悔い改めないなら、あなたは本当のクリスチャンではない。今のような話を聞いて、あなたが本当のクリスチャンなのか何なのか、私は知りません。」としか答えようがないであろう。そして悔い改めるように勧めたり励ましたりはするであろう。ちょうどナタンがダビデにしたように、話してあげなければならない。そのような罪を犯し、悔い改める心も持たないならば、本当の信仰を持っているかどうかは私たちにはわからない。
堅忍について考えるとき、そういう一面があるのは事実である。罪を犯しても悔い改めないでずっとそのまま生活を続けるのは実に危険な状態である。そして、実際にそのような事はあるのだということを新約聖書からも見ることができる。偽りの信仰を、四つの種の譬え話から見ることができる。二番目と三番目の種は、最初は喜んだが、試練が来ると信仰を捨てて神から離れてしまう。色々な誘惑が来ると、その誘惑に負けて信仰を捨ててしまう。その二番目と三番目の種は、本当の信仰ではなかった。しかし、一時的に本当の信仰のように見えたのである。確かにそのようなことはないわけではない。
だが、パウロは、ローマの教会に話しているときに、「もしかしたら、あなたがたの中に偽りの信者がいるかもしれないから、確信を持ってはいけない」というように話すことはしていない。実際に、堅忍においてはそのような問題があるので、若者たちはよく「それでは、私は確信を持ってもいいのだろうか。神に愛されているという確信を持って歩んでもいいのだろうか」というような質問をする。救いの確信について心配したりする人がよくいる。しかし、バプテスマを受けて神の命令を毎日の生活において守っているならば、そして、罪を犯したときに、それを悔い改めて聖餐式を正しく受けるならば、その人は神に愛されているという確信を持ってもいいし、持つべきである。
「私は罪人です」と告白するのは問題ではない。私たちはパリサイ人たちのように「私は、外にいるあの罪人たちのようではなく、礼拝をちゃんと守っている」というような思いを持って聖餐式を受ける者ではない。私たちは罪人である。神は、罪人を救うために主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださって救ってくださったことを、私たちは信じる。聖餐式のパンと葡萄酒とはキリストを代表するものとして与えられている。私たちは聖餐式を守ることによってキリストを受け入れるのである。聖餐式を受け、救われた確信を持って生きるのは極めて普通のことである。確信がなく、心配ばかりして、愛されているのかいないのか、敵なのか友なのか、救われるのか救われないのかというような心を持って生きる方が例外のことなのだ。
教会員がみな家に帰ると、「私は、救われるだろうか。救われないだろうか」などというような思いを持つなら、それこそ大きな問題があると言わねばならない。私たちは神の愛を確信しており、聖餐式はその愛を私たちに毎週証ししている。神は、主イエス・キリストを与えてくださった。私たちはキリストを受けるのである。まことにキリストを受けたのであれば、それ以上大きな何かを求めるだろうか。キリストを与えてくださったほどに神は私たちを愛してくださったのだ。その神の愛を確信して、十字架の贖いの働きを確信して、いま復活して生きておられる主イエス・キリストを信じて生きるのである。毎日、常に、キリストはまどろむこともなく、私たちのことを見ていてくださる。救ってくださった後で、義と認めてくださった後で、御自分の子どもとしてくださった後で、私たちをどこかに放っておいて忘れてしまうようなことはない。
たまにニュースなどで、子どもを車に置いたまま忘れてしまった母親の話を聞くけれども、神にはそのようなことはない。神は常に私たちを守っていてくださる。ヤコブは七十七歳のときに大変な旅をしなければならなかった。その時ヤコブは神に誓願を立てて、「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます」と言った(創世記28章)。つまりこれは、「私は本当にあなたに仕える者として生きます。どうぞ私と共に居てください」という祈りである。
勿論、ヤコブは神が祈りに答えてくださることを確信して祈っている。その信仰をヤコブの生涯においても見ることができる。それと同じように、「神が共に居てくださる。生きておられる主イエス・キリストが最後まで私たちを救ってくださることを確信しなさい」とパウロは言っているのである。それ故、私たちは愛と望みを持ってこの人生を歩むのである。
神御自身を喜ぶ
それでパウロは、私たちが持っている神との平和と喜びから話しはじめて(1〜2節)、患難の中での喜びと患難が希望を生み出すことを説明し(3〜4節)、5節では愛のテーマを導き、6〜7節でそのテーマを発展させ、9〜11節で再び希望の話、平和の話に戻って、段落の最後の11節で喜びの話に戻っている。この1〜11節の段落全体がキアスマスの構造になっているのがわかる。そこで、この5章の最初の段落は、喜びと賛美というテーマに戻って締めくくられるのである。11節でパウロはこのように言っている。
そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
ここで使われている「喜ぶ」というギリシャ語は、以前にも指摘したように、通常の喜びという言葉よりも語勢が強い言葉である。この言葉は「誇る」とも訳され、特に満ちあふれる喜びについて使われている。この段落の冒頭で、「私たちは、義と認められているがゆえに、神との平和を持っており、神の栄光の望みを喜ぶ」とパウロは述べた。いま段落の終りに、彼は、私たちが神の御栄光を望んで喜ぶにとどまらず、「神御自身を喜ぶ」ということを強調しているのである。この段落には、喜びの発展があると私は考える。平和の中にあり、恵みの領域の中にある私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいる。神の栄光を喜んでいる私たちは、試練の中でも喜ぶ。そして、最後に私たちは神御自身を喜ぶのである。
神御自身を喜ぶのが本当に成長したクリスチャンの信仰なのだ。神が何か与えてくださるのを望んで喜ぶわけではないし、助けてくれることをただ喜ぶのでもない。勿論、それらも喜んでよいことであり、私たちはそれらをも喜んでいる。救いの偉大さを思い、神が与えてくださるものを喜ぶべきである。神が常にともにいてくださることを私たちは喜ぶべきである。しかし、神御自身を喜ぶということは、それらとは焦点が違うわけである。神を求め、神を知り、その神御自身を喜ぶのである。これが成長したクリスチャンの信仰であることをパウロは教えようとしている。喜びの発展の中で言及されている喜びの三つの型のすべては、クリスチャン全員において当たり前のものであるはずだ。
パウロが語る第一の喜びは、「救われているがゆえにある喜び」である。救われたばかりのときの私たちは、自分の罪を知らされ、神の怒りを知り、その罪が赦されたことを喜ぶところから始まっている。それはそれでよいことなのだ。「神は私を愛してくださってキリストを与えてくださり、キリストは十字架上で私のために死んでくださり、私はキリストを信じることによって罪が赦された」ということを喜ぶのは非常に良いことである。そこから私たちは出発する。そして、私たちは、生涯の終りにキリストにあって受け継ぐことが約束されている栄光の未来の救いを思い、キリストにあって喜ぶのである。神が与えてくださる良きものを喜んだり、キリストにあって私たちのものである救いの偉大さを喜ぶことについて不適切なことは何一つない。その逆に、私たちが大いなる救いの受け取り手であるならば、それを喜ばないことの方が極度の悪になるのだ。
しかし、パウロが指摘しているのは、私たちの喜びが単なる物質に対する喜びでもなければ、サタンがヨブについて提案したような(ヨブ記1章9〜11節)、全てがうまく行っているからという理由だけで生じる打算的な喜びではない。その反対に、クリスチャンとして神がヨブに教えた教訓を学んだがゆえに、私たちは患難をも喜んでいる。クリスチャンになったばかりの時にはあまり試練にぶつからないかもしれないが、やがて成長するために神はいろいろな試練を与えてくださる。そのときに、十字架の愛を覚えなければならない。試練の中で、常に働いておられる神を覚えなければならない。試練の中にあっても喜ぶことができるなら、ある程度大人の信仰になったと言える。これが二つ目の喜びである。たとえ神が特定の状況の中でどのように働いておられるのかわからなくても、私たちは神が試練を用いて祝福してくださることを知っている。この知識は更に成長した喜びにつながる。
救われたばかりのクリスチャンは、救いの祝福を喜ぶことがどういうことかを知っているが、試練を喜ぶことはクリスチャンになってからある程度時間を経てはじめて学び得るものである。本当の大人の信仰とは、そのすべての事の中で、神がどのような御方であるのかを悟って神御自身を求める信仰である。即ち、「私は、このような神に愛されている。このような神に救われた。この御方が常に私と共にいてくださる。私は神御自身を喜ぶ」という信仰である。これが三つ目の喜びである。そのことをパウロは段落の最後で話している。すべてのクリスチャンは、その三つのことにおいて喜ばなければならない。当然喜ぶべきなのだ。若いクリスチャンは、神御自身について経験的に知識不足であろう。しかし、成長するにつれ、試練の中を神と共に歩むことによって神御自身を知るようになる。
例としてあまり相応しくないかもしれないが、大学の時にクラブ活動のメンバーになるためには招きが必要であった。自分が成りたいからといってメンバーになれるものではなかった。招きを受けてはじめて10週間のテストを受ける資格を得る。そのテストは“しごき”のようなもので、非常に過酷なものであった。奴隷のように従うことを要求され、10週間奴隷にされた後、最後に“地獄の週”が待っている。その“地獄の週”では、朝から晩までつまらない労働を課せられ、食事も満足に与えられず、クラブ員らの叫びに脅かされ、罰も与えられるし、満足に睡眠も与えてはくれない、非常に苦しいものであった。それはクリスチャンではない男の子だけのクラブ活動である。
なぜそこまで苦しめるかというと、苦しい経験を共にするとそのグループは親密なものになるからである。人為的にそれを設けて無理矢理にさせるのは良くないことだと思う。だから、決してそうすることを勧めるわけではないし、そうすべきではないと思う。しかし、ポイントを捉えていただきたい。軍隊でも、非常に厳しい訓練を受けなければならない。必要以上に苦しめられるけれども、それは、グループが一体となるためなのだ。彼らは互いを本当に知らなければならない。最も効果的に互いを知るためには、大変な経験を何回も何回も繰り返す必要がある。その苦しみを通して互いを知り、信頼関係が築かれる。或いは、「あいつは信頼できない」ということにもなる。
しかし、誤解しないでいただきたい。神が私たちに試練を与えてくださる目的はそれとはかなり違うものである。神は、私たちの罪を取り扱ってくださって、火で燃やしてくださる。しかし、神は常にその試練の火の中で私たちと共にいてくださるのだ。神と共に試練の中を歩むにつれて、私たちは神がどのような御方なのかを自己の経験においてもっと知るようになる。神にどのように愛されているかを教えられ、神に信頼できるということが経験によってもっと深く解るようになる。試練は神御自身についてのより深い知識へと私たちを導いてくれる。患難の中で私たちは神の愛と真実とを学ばせられる。「その時は理解できなくても、必ずいつかは感謝できるようになる。そのようなやり方で神はそれらの試練を通して働き給う」という確信をもってはじめて私たちは試練の中で喜ぶことができるのだ。
クリスチャンとしての歩みにおいて成長するにつれ、私たちは過去において神が成されたことの意味を、不完全ではあるが分かるようになるのである。私たちは経験によって神の知恵を学ぶが、それが私たちを神御自身についてのより深い知識、また喜びのより深いレベルへと導くのである。そういう意味で、10歳のクリスチャンと20歳のクリスチャン、そして30歳、40歳、50歳のクリスチャンの確信の度合いは違うものである。理解するポイントは全く同じであっても、試練を通しての経験によってどれほど深くその真理を理解しているかは大きく違ってくる。神を喜ぶことは10歳の子どもでも2歳の子どもにでも出来る。しかし、2歳よりも10歳の子どもの方がもっと神を喜ぶことができるし、30歳や50歳のクリスチャンの方がもっと深く神御自身を喜ぶことができる。神は共に歩んでくださり、ずっと教え導いてくださっておられるのだ。
それ故、パウロは、「クリスチャンは神御自身に目を留めて歩む者なので、神御自身について常に教えられており、神に親しみ、神を喜ぶ」と言っているのである。クリスチャンは、聖書の御言葉に書いてあることを信じ、神との毎日の交わりにおいてその御言葉の真理はどんどん自分の心の中に刻まれて、「神はこのような御方なのだ」ということを更に豊かに知らされる。試練にぶつからなければ気づかないのが罪人の問題なのである。心の中に罪があるので、それを取り除くための手術を神はしてくださる。手術で癌を切除しなければ、やがてその癌は成長し転移して私たちを殺してしまうからである。それ故、神はいつも私たちの罪を取り扱ってくださる。何度も何度も手術を繰り返して、時間をかけて少しずつ有害なものを取り除いてくださっている。少しづつ切除するのでなければ、私たちには耐えられないからである。
神は、少しずつ私たちの罪を悟らせてくださって少しずつ罪を取り扱ってくださる。その神の愛について私たちはどんどん知るようになり、実際に信頼することを学んでいくのである。そして、神御自身を常に喜ぶことのできる者に成長させられるのである。こういうわけで、パウロはこの箇所を「私たちは神御自身を大いに喜んでいる」と述べて結んでいる(11節)。私たちは、神の御性質、御栄光、慈しみ、御力を心から喜んでいる。私たちは、私たちに対する神の誠実さを知って喜んでいる。これは、神がどのような御方であられるのかという深い知識に根ざした、成長した喜びなのである。
ここでの要点は、成長したクリスチャンが神御自身を喜ぶが、未熟なクリスチャンは神が賜わる祝福だけを喜ぶということではない。成長したクリスチャンも神の祝福を喜び、未熟なクリスチャンも神の御性質を喜んでいる。肝心な点は、未熟なクリスチャンは神をまだまだ経験していないという点である。神を喜ぶ喜びは、苦しみや試練を通して神の誠実を学んできた大人のクリスチャンのそれほどには深くないのだ。大人のクリスチャンは来るべき栄光に対しても深い味わいを持っているが、それは神御自身をより深く味わっているからであり、来たるべき栄光の最も偉大で、最も素晴らしい側面は、この神と共に持つ交わりにあるという事実のゆえなのだ。
この神についての喜びは礼拝に限定されるわけではないが、特に礼拝において見出されるものである。礼拝に集まるとき、私たちは神を喜ぶことを正式に行なっている。賛美をささげ、御救いの愛のゆえに感謝をささげ、神との契約を新たにするのである。詩篇を歌うことはともに神を喜んでいることを表わすものである。昔の教会では、日曜日に断食することを禁じていた。日曜日は礼拝の日であり、喜びの日である。その喜びの日に断食してはいけないと考えたのである。ある人たちは日曜日の朝食を食べないで教会に出かけたが、それは日曜日の最初の食事を聖餐式において受けるためであった。しかし、礼拝の後での愛餐会などで一緒の食事をすることを禁じたり断食をしたりするのはいけないことであった。日曜日は主の御前で喜ばなければならないからである。互いの祝福を求めて交わりを持つ。神の御恵みを感謝して一緒に食事の交わりを持つのである。ここで私たちは正式に神の御恵みを喜んでいる。
旧約聖書の学びでも見てきたことだが、イスラエルが祭に集うときには「喜ぶ。喜ぶ。喜ぶ。」ということが繰り返し強調されている。喜んで神に礼拝をささげるのである。ここで私たちの毎日の生活の根本的なところが決められるのだ。私たちの心の生活も、思いの生活も、ここで決められるのだ。正式に招かれて神の御前に来て、神を喜ぶ。これが私たちの生活の土台となるのである。ここから出て行って、毎日の生活の中で神の御恵みを覚えて喜ぶのである。試練の時にも神が共にいてくださることを覚えて喜ぶ。そして、最後まで神は絶対に私たちを捨てはしないという望みを持ってその試練の中にあっても喜ぶのである。
試練は私たちを教えるための手段となり、私たちを神御自身に近づけ、私たちに神の愛を悟らせ、確信に満ちて神御自身を毎日の生活の中で喜ぶ者に成長させてくれる。これは聖化の大切なことの一つなのである。聖くなっていくということは、喜びが深められていくことなのだ。聖くなることと喜ぶことを別にして考えてはならない。聖ければ聖いほど、喜びも大きくて深いものとなる。天国に入るとき、私たちはすべての罪から完全に解放されることになるので、その時には完全な喜びを持つことになる。「常に喜ぶ」というとき、ただ軽い気持ちで微笑んでいるような意味でないのは明らかである。また、性格が明るいとか暗いということでもない。「神を喜ぶ」とは、神との関係の話なのだ。神に対する喜びをもって人生を歩むのである。
神御自身に目を留めて歩むならば、喜びは成長すればするほど深くなっていく。本当に主イエス・キリストに目を留めて歩むならば、喜ばないではいられなくなる筈である。これほど偉大で素晴らしい神が、私のような者を愛してくださったのだ。主イエス・キリストが私と共に歩んでおられる。それを知るとき、喜ばずにはおれない。喜ばない者は、神を信じない者である。神を信じない者は、神が近くにいればいるほど耐えられなくなる。神を憎んでいるならば、神の愛には耐えられないのは当然である。神を愛する者は神を喜ぶはずである。
しかし、私たちは罪人であり、実に愚かな者であり、神御自身から目を逸らしてしまいがちな者であるのも事実である。いろいろな所に目を留めてしまって神を忘れてしまいがちな者である。神がいつも一緒にいてくださることを、忘れてしまう。神が愛してくださっていることを、忘れてしまう。そうなりがちな私たちを、日曜日に神は集めてくださって、喜びの歌を歌い、感謝の祈りをささげ、一緒にお祝いをして喜ぶ心に私たちを連れ戻してくださる。主にある兄弟姉妹と共に確かな喜びをもって主イエス・キリストの御名を賛美するのである。日曜日の特別な礼拝の時間に神にささげる賛美は、私たちの生活全体の特徴となるべきものである。そして、その生活全体が、広い意味での礼拝として神にささげられるべきものなのである。
聖餐式はその中で特に大切なものであることを皆さんはよく知っていると思う。聖餐式を受けるとき、私たちは感謝の祈りを二回ささげている。コリント人への第一の手紙の11章に書いてあるとおりに、パンについて感謝し、葡萄酒についても感謝をささげる。神は、代表を通して、主イエス・キリストを表わすパンと葡萄酒を与えてくださる。キリスト御自身を私たちに与えてくださるのである。もし私たちはその意味を知っているのであれば、心から自分の罪を捨て、喜ぶ心ををもってキリスト御自身を受けるはずである。
正式に繰り返しこのことを行なう必要があるのは、私たちが罪人だからである。私たちは、導かれなければすぐに逸れてしまうからである。神は、この聖餐式を用いて私たちを導き、私たちが心からの喜びをもって主イエス・キリストに礼拝をささげることができるように助けてくださるのである。聖餐式はそのために与えられている。罪との戦いに勝利するように助けてくださるものでもあるし、何よりも神御自身を喜ぶことができるように私たちを訓練するものとして与えられている。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。
――1999年10月24日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com