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    ローマ人への手紙8章1〜8節


    8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

    8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

    8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

    8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

    8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

    8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

    8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

    8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。

    2000.06.04. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    律法と御霊

    8章1〜8節

    こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

       ローマ人への手紙の8章の一番最初の言葉は新改訳聖書では「こういうわけで」と訳されているが、「だから」という言葉である。「だから、主イエス・キリストにある者は絶対に罪に定められることはない」とパウロは言う。そこから8章は始まっているが、この「だから」という言葉はどこを指しているのか、全体的なつながりはどうなっているのか。そこからまず考えたいと思う。

       ローマ人への手紙8章は、罪、律法、肉に関する議論に結論をもたらしている。この議論は5章12節から始まっている。5章12〜21節までの箇所でパウロは、アダムとキリストという二人の契約の頭の対比をもって論じている。「アダムにあってすべての人間に死が入った。しかし、主イエス・キリストにあっていのちが与えられる。アダムにあって罪とさばきと死がはいり、キリストにあって義しさと義認といのちが与えられる。そして、その救いは、神の御恵みのみによって与えられる」ということを説明している。

       アダムという契約の代表者につながっている者は、アダムとともに罪に定められる。しかし、主イエス・キリストを信じる者は、主イエス・キリストを契約の代表者として与えられて神の御前でキリストにある者として立つことになる。それで、キリストにあるのかアダムにあるのか、そのどちらにあるかは重大なことである。キリストにある者は恵みによっていのちが与えられ、アダムにある者は罪によって死に定められる。道はその二つしかない。

       しかし、パウロは5章の終りのところで、「罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」と言っている。これが契約の頭なるキリストについての理解の真髄である。「罪によって死が支配したように、今からは恵みが支配する」と言うのである。そして、キリストによって打ち立てられた恵みの支配は、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」ことを保証している(20節)。つまり、「罪が満ちたけれども、恵みはそれよりもずっと満ちていって恵みは罪に対して勝利を得るのだ」と言っているのである。この箇所は、「罪にとどまることがより大きな恵みの現われを促すことになり、それが神に栄光を帰すことになる」というような偽りの結論に至るように読者を導くことは意図されていない。

       そのアダムとキリストという二つの契約の全体的なことを5章で説明してから、6章に入ると、「では、罪についてどう考えるべきなのか」という問題を取扱う。恵みは罪よりも力があり、罪があったところで恵みは更に豊かに表わされるというなら、「それでは恵みが表われるために、罪を犯してもいいのか」というと、断じてそうではないとパウロは説明する。6章1節は、クリスチャンの罪や律法との関係という広いテ−マを提起しているが、それは今、契約の頭であるアダムとキリストという光に照らして論じられている。「契約の主であるキリストに結びつけられる」ということは、罪に対して死に、神に対して生きるために、死人のうちよりよみがえられた御方であるキリストに結び合わされることである(6章1節以下参照)。

       私たちは主イエス・キリストを信じることによって罪から解放されたのである。罪の中に留まって続けて罪を犯して生きるということは、キリストを信じる信仰の意味を捨てることに他ならない。キリストを信じるということは、恵みを受けて罪から解放されることである。キリストを信じたと言っているのに続けて罪の中を歩むことは有り得ない。アダムと、彼にある私たち全員を指す表現である「古い人」がキリストと共に十字架につけられたのなら、クリスチャンが続けて罪にとどまることは不条理である。私たちは自分を、「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリストにあって生きた者である」と考えるべきなのである。

       次にパウロは6章14節で話の中に律法を導入する。なぜだろうか。それは律法が、アダムにある古い契約に言及するもう一つの言い方だからである。また、6章14節以下の議論から明らかなように、古い契約における律法の支配は罪の支配と関連づけられるため、私たちは自分の救いを「古い契約の支配からの救い」という観点からも見なければならないからである。罪から解放されたということを話しているときに、「キリストを信じる者は律法から自由にされ、もはや律法の下にはない」と教えている。「古い契約の支配からの救い」という視点から見るとき、クリスチャンと律法の関係についてもっと広い問いが生じてくる。そして、その問いの中には律法そのものに関する問いも含まれる。それ故パウロは、「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません」と宣言している。

       結局、もし律法が罪の支配と関っているというなら、聖書のことがよくわからない読者や浅くしか考えない読者、そしてひねくれた読者は、「律法に何らかの誤りがある」と思うであろう。しかし、決してそんなことはない。それは有り得ないことである。「罪の下にはない」ということは「律法の下にはない」ということにもなる。その律法とクリスチャンの関係をパウロはこんどは7章のところで詳しく説明している。罪との関係および律法との関係を、6章と7章で話しているが、なぜ律法は私たちを支配しないのかというと、クリスチャンである私たちはキリストとともに死んだので、律法はもう私たちに対して要求することはできないからである。

       死んだ者は律法との関係が終わっており、律法は死んだ者に対する権限を持たないのだということをパウロは7章の1〜6節のところで説明している。「それでは、律法は罪なのか」という問いに対して「絶対にそんなことはない」と7節で説明している。律法は聖く、公正で、良いものである。律法が悪いのではない。律法そのものにはいかなる問題もない。むしろ問題は肉、即ち、アダムにある自分にある。「律法によって私たちは自分の罪を知らされるのだ」とパウロは7章1〜25節で説明している。キリストをその契約の頭とし、キリストにある者とされた新しい人は、アダム、律法、古い契約の世界に対して死んだのである。その新しい人は、新しい人生を歩み、神の御霊によって吹き込まれたいのちに生きるべきである。

       御霊の賜物を知ってはじめて、私たちは、どのようにして律法を成就して神に向かって生きることができるのかを知るのである。そして、5章で宣言された御恵みの勝利は、その影響力がこの世における私たちの人生を決定する真理であることを知るのである。聖霊が私たちのうちで働いてくださることにより、新しい契約の真理は実を結ぶようになるからである。

     

    罪に定められることはない

       罪の問題を説明し、恵みの意味について説明し、律法の問題を説明し、更に罪との戦いについて説明してから、パウロは5章と7章にある要点に戻ってその全体のまとめとして8章1節で、「だから、今は、キリストにある者が罪に定められることは決してない」と結論しているのである。これは、キリストにある者にとって罪の問題は完全に解決されたという宣言である。この宣言をもって8章は始まっている。

       キリストにある者は救われた。キリストにある者はもう罪の裁きを受けることはない。その結論を宣言してから、2節からの箇所は5章から今まで説明したことを新しい観点から説明するのである。5章は、キリストにある者とアダムにある者との対比であった。6章は、キリストと共に死んでキリストと共によみがえることが強調されている。7章では、律法の下にあるのではなく、律法から解放されたと教えている。しかし、それは律法との関係がなくなったという意味ではないということをも説明している。

       8章2節からは、こんどは御霊との関係から、罪のこと、律法のこと、新しい契約のこと、キリストにあることの意味などをまとめて説明している。7章までの結論として、「キリストにある者が罪に定められることは決してない」と宣言してから、2節で「なぜなら」という言葉で、今までとは違う観点から説明を始めるわけである。完全な義として神の御前に私たちを代表し、私たちの罪に対する律法の公正な要求を満たした新しい契約の頭の働きは、神の御怒りと裁きに対するあらゆる恐れから私たちを解放してくださったのである。

       2節については翻訳の問題がある。新改訳聖書の訳は「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」となっているが、これは解釈による意訳である。一部の注解者たちは、この箇所の「律法」という言葉を「神の律法」というよりは「原則」または「規則」を指すものと見ている。それは不可能な解釈ではない。確かにパウロはこの言葉をそのような意味に使ったりする。しかし、この8章2節を「原理」と訳すことには問題がある。前後の文脈を考察すれば、「原理」という訳は不自然である。なぜなら、続く3節のところで話は「律法」に戻っているからである。

       本当は3節も、「なぜなら、律法にはできなくなっていることを・・・」と話が続いているのである。3節は、どうして罪と死の律法から解放される必要があったのかということを説明している。そしてその3節から始まる箇所は、2節に書いてあることの説明なのである。説明の内容は、律法の話、御霊の話、キリストの話になっている。つまり、2節は“原理”について話しているというよりも、そのまま「律法」について話していると理解する方が自然である。ギリシャ語では、この「原理」と訳されている言葉は文字通り律法(nomos)という言葉なのである。だから、ここは「原理」よりも律法と訳す方が正しいと思う。

       同じnomos(ノモス)というギリシャ語が7章の中ではずっと律法と訳されているし、8章の2節以下の説明も「律法」の話になっているからである。実は、7章の中には少し難しいところがあって、N・T・ライトという新約聖書学者の7章の説明を見ると、21節で、「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです」という箇所の「原理」という言葉のギリシャ語もまた「nomos(ノモス)」という言葉なのであるが、彼はこれをモーセの律法のこととして解釈している。23節も、「私のからだの中には異なった律法があって・・・」という箇所も彼はモーセの律法だと解釈している。

       私もこの箇所をいろいろともっと調べている段階であるが、しかし、それらの箇所はすべて8章の2節につながる話なのである。従って、この「nomos」という言葉は、律法をアダム、罪、死と関わらせる文脈の流れと調和するように「律法」を指すものと理解する方が良いと思われる。

       パウロが律法そのものを攻撃しているのではないのは明らかである。パウロは、律法を悪用して滅びの道具へと歪めてしまうアダムから相続した「」を攻撃しているのである。もう一つ翻訳のことだが、2節の「あなた」と訳されている言葉のギリシャ語は「」という言葉が使われているので、「私を解放したからです」と訳した方が良いと思う。そのようにこの8章の最初の1節と2節を理解してよいと思う。

       「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法」ということは、新しい契約を指している言い方である。つまり、「いのちの御霊の律法」は新しい契約の言い方であり、「罪と死の律法から私を解放した」というのはモーセの律法を指した言い方である。しかし、ここでは「モーセの律法」という言い方よりも「古い契約」と言った方が良いと思う。なぜなら、ここでパウロは5章にあるアダムとキリストとの対比を違う言い方で話しているのではないかと思われるからである。

       そして、6章と7章で「律法」と言うとき、それは古い契約の最も高い表われであるモーセの律法の教えを指している。それで、「古い契約」と「モーセの律法」をいっしょに考えていると思うのである。「罪と死の律法」という言い方はどういう意味なのかというと、7章で見たように、古い契約であるモーセの律法は要求はするけれどもその中には御霊の力は与えられていない。モーセの律法の中には救いもない。だから、繰り返し繰り返しいけにえをささげなければならなかったのだ。

       「救いがない」と言っても、彼らが救われていないという意味ではなくて、その古い契約の時代は、「救いをまだ将来の約束として待っている時代」だということである。実際にはまだ手にしてはいない。彼らが手にしていたのは約束である。その約束は必ず与えられるという確信を彼らは持っていた。そういう意味で、私たちと同じように救いを受けたという言い方もできなくはない。しかし、ヘブル人への手紙にあるように、繰り返し繰り返しいけにえをささげなければならなかった者にはその罪の意識がまだ残っており、まだ救いを待っているようなものである。それはまだ救いが完成されていない状態である。

       まだ救いは完全なかたちで実行されてはいないし、「まだ与えられていない」という認識をもっていけにえと礼拝をささげなくてはならなかった。それは「神殿制度と犠牲制度」においてはっきり表わされていた。旧約聖書の時代のイスラエルの人たちは、いけにえをささげるときに天幕の門から入って庭のところでいけにえをほふって祭司に渡し、祭司はそれを祭壇に載せて神にささげるべき部分を神にささげていた。しかし、礼拝者は聖所や至聖所に入ることは許されていなかった。それ故、「私は汚れている。私は、まだ罪が完全には浄められていない」という認識はまだ残っている。神の至聖所に入って座り、そこでいっしょに食べたり飲んだりできるというようなことは絶対に許されなかった。それが旧約聖書のモーセ律法であった。そういう意味で、それは「罪と死の律法」と呼ばれるにふさわしいものであった。

       つまり、繰り返し繰り返し動物を殺さなければならなかったのである。繰り返し繰り返し、自分が罪人であることを知らされ、神の御前に立つことが許されないものであることを認識させられるものであった。あたかも、教会に行くと「あなたは汚れているから、入ってはならない」という叫びをもって挨拶をするようなものであった。旧約聖書の律法とはそのようなものであった。実際に祭司たちは武器をもって聖所の前に立っていたのである。無理矢理に聖所に入ろうとする者があれば殺されるのである。そこまで「あなたは汚れているからだめだ」ということを礼拝者に具体的に伝えるわけである。

       それで、「罪と死の律法」という言い方は、古い契約全体についての言い方としてまったく相応しいものである。アダムは罪を犯してエデンの園から追放されたが、もう一度エデンの園に入ることは許されないのである。入ろうとすればケルビムに殺されるのである。それは「罪と死」の状態であった。古い契約は「罪と死の律法」と呼ばれるのは実に適切なことなのだ。アダムは、律法とその要求とに結びつけられている。罪は律法によって引き起こされる。そして、私たちは、アダムから受けた肉によって支配されているからである。

       歴史においてそのことは明らかである。そのアダムの時代は失敗して死に終わった。そして新しい契約がノアに与えられたが、それも罪のゆえに失敗して死で終わった。そして、神は新しい契約をアブラハムに与えた。イスラエルは約束の地カナンに入ったが、そこでも罪を犯し、神に裁かれて契約的に死んだ。また失敗したのである。神は、新しい契約をモーセに与えてくださった。これもサウル王の時代にイスラエルは罪を犯して失敗したので、神は裁きを行ない、そして新しい契約をダビデに与えられた。これもまたダニエルの時代に失敗に終わって裁かれ、神はダニエルとエズラたちに新しい契約を与えた。それも主イエス・キリストが来られた時に失敗に終り、神はAD70年に裁きを行なってイスラエルを裁いた。そして、新しい契約を教会に与えてくださったのである。

       このキリストにある契約は今までのとは違う。この新しい契約の頭はもう今までのように“アダム”ではないのである。この契約の頭は神の御子、主イエス・キリスト御自身である。新しい契約の頭は、罪のために死んで罪と死に対して完全な勝利を得た主イエス・キリストである。よみがえって、天に昇り、御父の右に座してすべてを支配し導いておられるキリストである。それゆえ、新しい契約はその古い契約と根本的に違うものである。そのことをパウロは5章のところで説明し、6章でもまた説明している。7章の1節から6節でもそのことを話している。

       それ故、「古い契約」を「罪と死の律法」、「新しい契約」を「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の律法」という言い方で説明しているのである。どうして「いのちの律法」と言うのかというと、それは6章の「復活」の話なのである。「いのちの御霊」とは「いのち」を私たちに与えてくださる御霊のことである。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊」とは、新しい契約の代表者にある者に御霊が永遠の復活のいのちを与えてくださるという話なのである。その「御霊の律法」とは他でもない「福音」のことであり、「新しい契約」の話なのである。それは「アダムにある契約から私たちを解放してくださった」という話なのだ。

       私たちは、古い契約体系全体から、即ち、罪を引き起こして死をもたらす律法から解放される必要がある。キリストの福音によって、神はそれをしてくださった。人にはできないことを、神がしてくださったのである。この解放こそ、主イエス・キリストが成就してくださったことなのだ。だから、この節を解りやすく言い換えるならば、「福音が、私たちを、アダムの契約から解放した」ということになる。そういうわけで、日本語の「原理」という訳は不自然な意訳である。もし意訳するのであれば、むしろ「契約」と訳す方が「原理」という言葉よりもずっと良い。意訳的な翻訳をするのであれば、この2節は、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の契約が、罪と死の契約から、私を解放したからです」と訳す方が良い。その意味についてパウロは3節からのところで説明している。

    肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神は御自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

       「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」と言っているが、律法は何ができなくなっていたのだろうか。「律法」すなわち古い契約は、いのちを与えることがもうできなくなってしまったのである。本来、神がアダムに契約を与えた目的は、永遠のいのちをアダムに与えて、アダムとエバから出る人類全体は神とともに歩み、三位一体なる神の契約の交わりにはいるためであった。それが「いのち」の最高レベルの定義である。

       「いのちを持つ」というのは「神との交わりを豊かに持つ」ということに他ならないからである。それは、三位一体なる神との契約の交わりにはいることなのである。その神との親しい交わりによって、お互いの交わりも豊かなものにされるのである。被造物との関係においても正しい関係を持つようになる。「律法」は、それを与えることができなくなってしまった。アダムに与えられた契約は、本来どんどんいのちの祝福が広まるばかりの契約であった。しかし、契約の代表であるアダムが罪を犯したことによってその古い契約は、いのちの祝福を与えることのできないものになってしまったのである。

       その古い契約の「無力」は、アダムの罪と私たちの罪によるのだ。律法自体の問題ではなく、それは私たちの罪の問題なのだということは、パウロが7章でずっと説明しているとおりである。律法自体は霊的なものであり、聖なるものであり、正しくて良いものである。問題は、私たちにある。問題は私たちにあるので、そのために律法は無力になってしまった。律法は、真に罪を裁くことができず、いのちを与えることはできない。

       7章の10節でパウロは、「それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることがわかりました」と言っている。「いのちを与えるはずであった律法は、それができなくなってしまっている」のである。なぜなら、罪人の罪が律法を無力にしてしまったからである。律法に逆らって罪を犯すからである。それで、「律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」とパウロは説明する。どのようにしてくださったのかというと、「神は御自分の御子、主イエス・キリストを、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰された」(3節)のである。神は、罪を処罰してくださった。

       普通ならば、「律法は罪をさばくことができるはずではないか」と考えるであろう。しかし、律法は、十分に罪を裁いて処罰することができないので、律法は罪によって無力にされてしまうものなのである。つまり、罪に対する律法の裁きというものは常に不十分なものなのであり、真に罪を裁くことができない。動物をほふったりしても、身代わりが不十分なので、律法は本当の意味で罪を処罰することができない。

       では、どうしたら罪の問題を根本的に解決できるのだろうか。それは、主イエス・キリストをこの世に遣わして、義なる神の御子である主イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、十字架上で私たちの罪のために完全な罰を受けて死んでくださるのでなければ、罪の解決はないのである。聖くないものが身代わりになっても、それは根本的な解決にはならない。

       それゆえ神は、本格的に罪を取扱い、根本的に罪の問題を解決してくださった。罪に対する神の裁きは完全に執行され、それによって私たちは律法の裁きから解放されたのである。キリストにおいて罪を処罰されたのである。それは完全な裁きであった。新しい契約の新しい頭の十字架の死によってのみ、罪の問題は解決される。今や、キリストを信じる者たちは、いのちの御霊によって支配されるのである。

     

    それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(4節)

       2節から4節までは一つの要点を説明するものなので、文脈としては、この4節までを一つのポイントとして捉えなければならない。新しい契約は、古い契約から私たちを解放してくれた。それはどういうことかというと、もう一度言うが、古い契約には本当の救いを与える力はなく、罪を根本的に取扱うことができないからである。それで、神は主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、主イエス・キリストは罪の問題を完全に解決してくださった。それは、「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるため」なのである。律法が要求している義しさが捨てられるというような話ではないのである。

       主イエス・キリストが十字架上で死んで葬られ、そしてよみがえってくださった目的は、古い契約の問題を解決するためであったという言い方もできるけれども、その意味は、「古い契約が要求している義しさはどうでもよい」ということではない。むしろ、律法の要求がはじめて私たちにおいて成就されるためなのである。だから、7章に書いてあることが消えてなくなったわけではない。また、私たちが律法を完全に守ることができないのも事実である。律法を守ろうとするからこそ、罪との戦いがあることもまた事実である。しかし、「律法の要求が私たちの中に、御霊の力によって全うされる」のだということを、ここでパウロは私たちに説明している。

       それ故、新しい契約は、罪の問題を両方の意味において解決しているのである。罪の客観的な問題は、神に逆らい、神に対して罪を犯したので、神はその罪を裁き、絶対に罪を罪無しとはしないというところにある。しかし、罪には主観的な問題もある。人間は、根本的に変わらなければならないのである。そこに「」の問題がある。肉の問題の解決のためには、新しく生まれ変わらなければならない。新しく生まれた者には御霊が与えられ、御霊はいのちの律法を守るように導いてくださる。それで、神の律法の要求が私たちの中に全うされるのである。

       これらはすべて、7章で語ったことにつながっている話である。7章の続きとしてパウロは話をしている。肉の問題と、御霊の働きを、どう考えるべきなのか。パウロはここで、いったい何を言おうとしているのか。それもまた5章からのところを思い起こさなければぴんとこないことである。文脈的にはそこから全部つながっているからである。

     

    御霊と律法

       律法と罪に関する問いは、パウロが新しい契約において本質的な祝福である神の御霊とクリスチャンの生活における御霊の位置付けについて説明するところで投げかけられた。8章1〜11節を読むとき、私たちは7章14〜25節を常に念頭に置く必要がある。なぜなら、それはここにある肉の思いと御霊の思いの間にある対立が、7章14〜25節でパウロが語った戦いに光を投じてくれるからである。パウロは神を喜ばせたいと常に願っている。しかし、実生活において罪の欲が常に彼の願いの達成を不純にしている。その両者の間にあって自分は引き裂かれていることをパウロは描写している。

       「ここで大切なのはその人の人生の根本的な方向性である」ということをパウロは8章で述べている。キリストに属している者は、その根本的な人生の方向性と目的は神の御国なのである。その心は神に向いている。神を愛し、何よりも神の御心を行ない、神に仕えることを願っている。5節を見てほしい。

     

    肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従うものは御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(5〜9節)

       パウロは、2〜4節にある「」と「御霊」のことはどういうことなのかをここで説明している。これは7章にある「律法」と「」の戦いを別の観点から説明しているものであることは、注意深く読めばわかると思う。新改訳聖書では「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えます・・・」と訳されているが、口語訳では5節は、「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである」という訳になっている。文語訳にも「もっぱら」と「ひたすら」という言葉はない。また、口語訳では「霊」と訳しているが、それは「御霊」と訳すほうが正しい。しかし、「もっぱら」と「ひたすら」という言葉は、ギリシャ語にはない。

       では、なぜそのように訳しているのかというと、「考える」とか「思う」という言葉にこれらの修飾語を加えることによって、普通によりも重い表現にしようとしたのだと思われる。普通に「考える」とか「思う」よりは強い表現にするための苦肉の訳なのである。なぜなら、「考える」という言葉も「思う」という言葉も、ギリシャ語の原語が持つ意味としてはやや物足りないからである。しかし、「もっぱら」とか「ひたすら」を付け加えると、こんどは強すぎてしまう。それで、付けると強すぎるし、付けないと弱すぎるという問題があって、翻訳においては苦労するところである。日本語ではどんな言葉が最も適切なのかは私にはわからないが、言わんとするところを理解していただきたい。

       5節には、「肉に従う者は肉的なことを考えますが、御霊に従うものは御霊に属することを考えます」という対比がある。「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」とある。肉の思いは神に敵対し、反抗し、神の律法を喜ばず、神の律法に従わない。このことを、既に学んだ7章の14節から終りまでの箇所といっしょに考えなければならない。7章14節から25節までの話でパウロは、肉的なことをもっぱら考えているのだろうか。いいえ。決してそんなことはない。ここで私たちは、パウロは何を考えているのかを注意深く捉えなければならない。

       パウロは「心の中では神の律法を求めている」と言っている。「心の中では、私は善を行ないたいと願っている」と言っている。パウロが考え、そして求めていることは、神の律法、神の御国、善を行なうことである。しかし、実際にどこまで出来ているのかというと、まるで違う話になっている、と説明しているのである。どんなに求めても、決心しても、実際にしていることにおいて自分は本当に足りなくて、自分のしたくないことをしてしまう。それが7章14節から25節までの話である。

       パウロは、そこで非常に暗い話をしているわけではない。御霊に属する者はどんなに肉に従う者とは違うものなのかを話しているのである。パウロは7章の説明の後で、その違いがどういう違いなのかを更に説明している。どう違うのかというと、何を考えて生きているのか、何を求めて生きているのか、どういう思いをもって毎日の生活を送っているのか、という点において全く違うということなのである。神に対する思いと対比するものとして肉の思いがあり、肉の思いと御霊の思いとの対比がある。それは全く正反対な思いなのである。

       例えば、家族としても、個人としても、大人も子供も、自分の人生において何をしようとしているのかを考えたりするであろう。毎日の生活の中には様々な思いがある。私たちは、何のために生きているのか。もし私はクリスチャンでなかったなら、50歳になるまでいったいどんな生活をして来ただろうかを想像することは困難である。50歳のクリスチャンでない人は、自分の人生にはどういう意味があると考えているだろうか。自分の生きる目的は何なのか。

       クリスチャンではない若者と話すと、ただただ楽しいことをしたいのだと言う。それしか出てこないような話になる。だから、結婚はしたくないとか、子供はいらない、難しいことは考えたくないしやりたくない、縛られたくないとかいうような話になる。楽しいことだけをしたい。どうもそういう傾向があるようだ。では、自分の人生の目的は何なのか。何のために生きているのか。そんなことはあまり考えていないようである。国が豊かなので、それを考えないという贅沢も許されているというのだろうか。戦争の中に生きている人たちや、恐慌の中に生きている人たちや、砂漠の中で苦しい生活を強いられている人たちには考えられないことである。彼らにとっては、毎日が生きるか死ぬかの戦いなのだ。なぜ戦っているのか。死んだ方が楽ではないのかという考えにもなる。

       しかし、御霊に属する者は、毎日の生活において何を求めているのか。勿論、求め方においてとても足りないのは事実である。思いも浅はかで、思うことも少な過ぎると言わなければならないであろう。思いの聖さにおいても実に不十分である。しかし、御霊に属する者は、主イエス・キリストが教えた主の祈りにあるように、神の御国を考え、求めている。「私は、御国のためにどのように役に立つことが出来るだろうか。何が出来るだろうか」ということを求めているはずである。

       ちょっと横道になるが、だから、終末論の考えにおいて間違ってしまうと非常に難しいことにもなるわけである。毎日ただ「神の御国が来ますように」と口ずさむけれども、それは実際の人生につながらないからである。千年王国無説の考えであれば、御国が来るということは歴史が終わるという話になる。それは自分の行ないとは関係ないものである。千年王国前説の場合も、キリストの再臨の時にはじめて御国は来ると考えており、自分の日々の行ないと生活とは関係ないことである。「御国が来ますように」という祈りと、「私は今日、御国のために実を結びます」という思いはつながらないのである。だから、祈りがもっと具体的なものになるのは難しい。

       千年王国後説を信じる私たちは、本当ならもっと具体的に考える筈である。「御国のために私はどうやって実を結ぶことができるのか。御国のために、私はどうしたらいいのか」ということを、私たちは毎日求め、具体的に考え、祈り、御霊に属する思いをもって生活を送るのである。それこそクリスチャンの有様である。

       肉の思いは神に敵対し、反抗するものである。「私はクリスチャンだけど、それはしたくない。そのことで神に従うのは嫌だ。神は厳し過ぎる。どうしてクリスチャンだからといってそんなことをしなければいけないのか。これもできない、あれもできない。どうしてクリスチャンはこんなに哀しいものなのか。荷が重い。クリスチャンだから、大変なのだ」というような思いを持って生きてはいないか。それは、肉の思いに従って生きることなのである。表面的にはクリスチャンであっても、肉の思いに従って生きている。それは、神に敵対し、反抗しながら歩む生き方である。そのような思いをいつも抱いて生きる者は、肯定的に御国を求める御霊に属する思いはないということになる。

       クリスチャンではない人たちの場合はそのような思いではない。彼らの肯定的な思いは神に敵対する思いそのものである。「神無しに、これをしたい、あれを作りたい。神無しに、この問題を解決したい」という思いなのである。すべてにおいて、神から離れて問題を解決したり、したいことをしたりする。

       シェークスピアのマクベスの中にも似たようなことが出て来る。マクベスの妻が、罪の呵責の重さに耐えられずに精神的におかしくなってしまう。医者が来て、マクベスに、「私はこの問題を解決することはできません。これは、本人にしか解決できないことです」と言う。その言わんとするところは「神にしか解決できない」ということなのだが、マクベスは「治す薬はないのか。この役立たずめ!」と医者に言う場面がある。現代だと、「大丈夫。解決のための薬があります」と医者は言う。そして、精神安定剤などの薬を与えて落ち着かせ、眠らせ、それで大丈夫だと言うのである。しかし、本当の解決は神にのみある。神によってその罪が赦されたことを知るとき、本当に救われるのである。

       しかし、マクベスの妻は絶対に罪を悔い改めようとはしない。マクベスもその妻も、神無しで問題を解決しようとする。それで解決の道が閉ざされ、神に裁かれてマクベスは幕を閉じるのである。解決は欲しいが、神に対して自分の罪を悔い改めて自分を変えることは嫌だと罪人は思う。それは罪人の肉の思いである。肉の思いは、神に従って考えるのではなく、神無しで問題を解決しようとする。

       それで、7章と8章のパウロの話は、御霊によって、神の律法の要求が私たちの中に成就されるという話なのである。つまり、心の中で熱心に神の律法を求め、愛を求め、クリスチャンとして成長することを求めるのである。それと反対に、肉の思いに従って生きる者は心の中で、「神はいらない。愛はいらない。御言葉はいらない。もう私は自分のしたいようにする」と思っている。それは肉の思いである。しかし、御霊に導かれる者は、「私は実に足りない者です。よく失敗もするけれども、神の御国と神の義を第一に求めます」という思いを持っている。それは御霊の思いである。それが7章で話しているパウロの心である。心の中では神の律法を喜んでいるのである。だからこそ、心の思いと実際の生活に矛盾を深く感じるのである。

       しかし、問題は、心の中で御霊の力によって律法の要求が全うされているかどうかである。御霊が私たちの中に住んでおられるのであれば、私たちは御霊に属する思いを自分の本当の思いとして持って生きるはずである。御霊は、私たちの心の中で、律法の要求を全うしてくださるのである。そういう意味で、福音によって、古い契約には解決できなかった問題は解決される。御霊が私たちの中に住み、御霊によって私たちは神を愛し、神の御国を求める思いを持って生活を送ることができる。本当の意味で罪から解放されているのである。失敗とか罪を犯してしまうことはあるけれども、心の思いは罪から解放されている。心は、神とその義を第一に求める者として新しく創造されて、それが出来るようになったのである。それが8章とその前の5章と6章と7章の関係であると思う。

       8章の教えを理解するとき、「律法が私たちにおいて成就される」という意味が何なのかを知るのである。そして、7章と8章は少しも矛盾していないこともわかる。7章は弱いクリスチャンについてのことで、8章は強いクリスチャンになった者のことだというような解釈では決してない。7章の話は、換言すれば、つまり、「御霊が私たちの中にあってこのように働いてくださるので、私たちは御霊の思いをもって生活を送っている」とうことである。もし御霊に属する思いを持っていないのなら、つまり肉の思いに従って生活する者は、神に敵対して逆らい、反抗しながら生きるほかないのだ。そのような人は決して神の律法を喜びはしない。

       「思い」の話は、「もっぱら考える」とか「ひたすら思う」という強い表現を使ってしまうと、心の中でまったく完全に純粋に神の律法や御国のことばかりを考えて、この世の事は一切考えないというような印象になりがちであるが、実際の生活においてはそうではない。求めているその思いははっきりしているけれども、その思いに矛盾するものは幾らでも出てくるし、頭の中でその思いを十分に明白にして他のすべてをその思いに従わせるようにはっきり考えを整理したりすることも実に足りないのである。そのために、他の色々な罪の思いが出てきたりする。ひたすら御国のことを考え、もっぱら神の義を考えているのなら、実に幸せなことだと思う。しかし、私たちは罪人であり、まだ罪の心が残っているので、根本的には変えられて神を愛する者になってはいるが、他の罪の思いがいろいろと潜んでいたり出てきたりしてしまうものである。それも7章のパウロの話に含まれていることである。

       聖餐式のとき、私たちは、神の御国を中心として求める思いを持って、自分が何のために生きているのかという原点に戻る。「神の義と神の御国を私たちは第一に求めます」という決心に戻るのである。その思いを繰り返し繰り返し認識し直してはっきりさせる必要がある。私たちの人生の方向性と目的は、はっきりしている。それをはっきりさせるとき、他の思いはすべてその下に従属するものとなる。その残っている“肉の思い”をどんどん捨てて、常にそれと戦い、御霊に属する思いを本当に自分の思いとして確認し、それに相応しい諸々の思いを持って生活することを新たに誓うのである。

       聖餐式の度に、私たちはそこに立ち返らされるものである。実際に聖餐式において私たちはそれを行なっている。それができるのである。御言葉を読むとき、「私は御言葉に従って実を結びたい」と心底願うはずである。「神の栄光を表わすように生活を送りたい」と、願うはずである。「それ以外の望みは私にはない」という心に戻ることができる特権を私たちは聖餐式において与えられている。その心に戻ることができるのは救われた者の祝福であり特権である。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    2000年6月4日

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙7章14〜25節(3)

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