ローマ人への手紙8章28節 (1)
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
2000.12.17. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。
私たちは知っています
8章28節
8章の全体的な流れを思い起こしていただきたい。8章1節から、パウロは主イエス・キリストにある救いを説明しているが、17節からのところで特にパウロは「クリスチャンの望み」について強調して、次のことをローマの人々に教えている。即ち、私たちは主イエス・キリストと共にすべてを相続する者であること、キリスト者がこの世において受けるすべての苦しみは将来啓示されようとしている栄光とは比べものにならないこと、そして、被造世界全体は神の御霊が私たちのためにとりなしてくださるゆえに持つ望みを共有していることをパウロは教えている。
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と話したあとで、望みにおける救いについて話している。そして、御霊をいただいている私たちの中にあって、御霊はともに祈ってくださり、とりなしてくださると言っている。つまり、これらは皆、苦しみの中にある者が続けて主イエス・キリストに忠実に従うことができるように励ます言葉なのである。17節からはずっと苦しみや迫害の中にある者に対する励ましの言葉である。8章28節に続く箇所においては、「患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」と語り、一日中死に定められており、ほふられる羊とみなされること、そして、「何ものも私たちを神の愛から引き離すことができない」と語るのである。
なぜローマ人への手紙の中でこのことがそれほどに強調されるのかを、思い起こしていただきたい。この箇所全体を通して明らかなのは、ローマ人たちにある種の試練が迫っていることをパウロは知っていたので、彼らが堅く立つことができるように彼らに必要な霊的土台を指し示しているということである。しかし、なぜパウロは特別な試練の時が来ると考えていたのだろうか。それは、彼が、新約聖書の他の記者たちと同様に、キリストの最後の預言を心に留めつつ書き記しているからである。
これはマタイの福音書24章にあるオリーブ山での弟子たちに対する主イエス・キリストの最後の説教につながる話なのである。後に、多くの偽預言者や惑わす者が現われ、戦争や戦争の噂があふれ、飢饉や地震が起こり、教会に対する非常に深刻な迫害が起こるために、多くの者の愛は冷たくなり、多くの者が信仰から離れ去ってしまうような患難の時代が来るとキリストは預言した。そして、その時代が終わる前にキリストは神殿をさばく、と預言した。即ち、エルサレムの神殿は石が崩されずに積まれたまま残ることは決してない、と宣言されたのである。
主イエス・キリストの死と復活の時から紀元70年にローマ軍によって神がイスラエルの神殿をさばくまでの40年間は、教会にとっては大きな試練のときとなると、主イエス・キリストは前もって弟子たちに教えたのである。当然ながら、このようなキリスト御自身による預言は、初代教会の考え方の中心的な部分となった。実際に、使徒行伝を読めば、繰り返しキリストの教会に対していろいろな試練が与えられたということがわかる。ユダヤ人たちが使徒ペテロたちを捕らえて投獄したり、ステパノを殺したりした。
救われる前のパウロ(旧名サウロ)は教会迫害のリ−ダ−であったが、救われた後のパウロが広く伝道の旅をするときに、ユダヤ人からの迫害を受けたことも記されている。パウロは町から追い出されたり、投獄され、石打ちにされ、殺されそうになる事件は至る所で起こった。エルサレムでは、ユダヤ人たちに殺されないように守るためにローマ軍はパウロを逮捕した。パウロは法廷に立って自分の信仰について弁護しなければならなかった。最終的に、パウロもペテロも、弟子たちは皆殺されていった。エルサレムの教会が激しい迫害にあったことはヘブル人への手紙に書かれてある。財産を剥奪され、家から追い出されて逃げ惑ったりしたことが記されている。
黙示録の2章と3章を見ると、主イエス・キリストは小アジアの諸教会に手紙を送るが、その中で迫害を受けたり、悪い教師の影響を受けたり、いろいろな仕方でサタンがキリストの教会を駄目にしようとしていたことがわかる。エペソの教会の愛が冷めていることも記されている。それは、主イエス・キリストがマタイの福音書24章のところで警告したとおりのことであった。初代教会は実に大変な患難の時代に生きなければならないことを主イエス・キリストは教えられたが、当時の教会はその認識をしっかり持って歩まなければならなかった。パウロもその手紙の中で教会にその警告を与えるのである。今からもっと大変な試練に遭うことをパウロは教えている。
コリント人への第一の手紙7章のところを読んでもすぐには意味がわからない人もいるであろう。そこでパウロは、結婚しないでいる方がよいと言っているが、「クリスチャンは、できれば歴史の中でずっと結婚しないでいる方がよい」と言っているのではない。「今の試練の時代にあっては、結婚しないでいる方がよい」と言っているのである。「今だかつて無かったほどに大変な試練の時が来る。その大変な試練が来るとき、乳飲み子や妊婦の苦しみは実に大変なものになる。そのような時代にあっては、結婚しないでいる方がよい」という観点からパウロは教えているのである。結婚してはいけないと教えているのでもなければ、結婚しないでいる方がきよいのだとかいう話でもない。そのように誤解する解釈をする人も教会の歴史の中にはいるけれども、コリント人への第一の手紙7章はそのような話ではないのである。
「今は大変な試練の時代である。大きな患難の時代が来る。この時代の教会に与えられる試練は非常に大きなものとなる」ということがその話の根底にある。今から、その患難の中にローマの教会も置かれることになるのである。実際、イエスが預言された大患難の時代は、紀元64年に、二つの出来事よって現実となった。その一つは、イエスの御降誕の17年前にヘロデによって始められたエルサレムの神殿の再建が完成したこと。もう一つは、ネロがローマを焼き払ったこと。この二つの出来事が起こると同時に大患難時代は始まった。
ヨハネの福音書2章19〜20節のところで、主イエス・キリストは御自分のからだの神殿を指して「この神殿を壊してみよ。わたしは三日でそれを建てます」と言われたとき、ユダヤ人らはキリストの意味を誤解して「この神殿は建てるのに46年かかった。あなたは、それを三日で建てると言うのか」と言っていたように、既に46年以上も神殿再建の工事は行なわれていた。その神殿は紀元64年に完成したが、その同じ年に、ローマで大火災が発生し、ネロ皇帝はそれをクリスチャンのせいにした。
ローマの大火災はクリスチャンたちの仕業にされたが、クリスチャンはユダヤ人とは区別された宗教的集団として認識されており、従って、もはやローマの法がユダヤ人に与えていた保護の下にはいなかったのである。そして、神殿の完成はユダヤ人たちに偽りの確信を与え、ユダヤ人たちは、「我々ほど偉大な神殿を持つ者はいない。我々こそまことの神の民である。クリスチャンは偽者だ」と叫んでクリスチャンたちを迫害した。教会への迫害はユダヤ人から始まってエスカレ−トしていった。時同じくしてネロ皇帝のローマ帝国による教会への迫害も始まった。その紀元64年から、紀元70年のエルサレムへのさばきまでの約7年間、非常に激しい迫害と試練が教会に与えられた。
それは文字通りに「患難の時代」であった。だから、教会がその苦しみに耐えることができるようにと、パウロは慰めと励ましの教えを与えているのである。このローマ人への手紙8章の17節から8章終りまでの教えは、とくにそのことを覚えて理解しなければならない。これは、直接的には、患難の中に入るローマの教会を励ますものとして与えられたからである。患難はすみやかにやって来て、7年間、キリストがローマ軍をエルサレムに率いて来られる時まで続いた。それはちょうど、主が旧約の時代にアッシリアの大軍をエジプトに
(イザヤ書19章1節)、またバビロン軍をユダに (エレミヤ書20章4節; 21章4節; 52章3-4節; 第二歴代誌33章11節) 率いて来られた時と同じである。
それだから、「望みをもって試練の中を歩む」という信仰を持つことはクリスチャンにとってとても大切である。それは、「自分に与えられた試練には意味がある」ということを告白する信仰なのだ。その信仰があるから、大いなる試練の中にあっても、神の勝利と神の恵みが豊かにあることを確信して歩むことができるのである。その確信を与えるために、パウロはローマの教会を励ましている。ローマの教会は、実際に地下の埋葬所などに隠れて礼拝したりするのを余儀なくされた。数百年に渡って、語り尽くせない多くの迫害に会い、殺されたりした。
今でも、例えばアフリカのス−ダンのクリスチャンは、イスラム教の軍による迫害を受けて多くのクリスチャンや指導者たちが殺害されている。クリスチャンの子どもや婦人たちを捕えて奴隷にしたりしており、大変な迫害は今でもアフリカでは行なわれている。中国でも、集会所が破壊されたり、信者が集まるのを禁じたり、投獄したりして教会に対する迫害がますます強化されている。そのような迫害の中にあって子どもを失い、妻を失い、夫を失い、いのちをも失ったりする。それらの苦しみを受けるとき、「何のためにこの試練はあるのか、どういう意味があるのか」をクリスチャンは当然深く考えるはずである。そのような迫害の中にある教会は、神に対する真の確信を持っていなければ、とても耐えられない。だから、何の為なのかをパウロは教えて励ましている。28節を見よう。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
この8章28節は、パウロの励ましの言葉の中で一番有名な言葉である。この28節はもともと、ほとんど文字通り、ほふられる羊のように取り扱われることになる教会への慰めと励ましの言葉であった。その教会は、苦悩、迫害、裸、危難、剣に遭おうとしていた。そのような歴史の背景を念頭に置いてはじめて、このパウロの言葉を正しく理解し味わうことができるのである。
知っている
この28節は、新約聖書の中で最もよく引用されている言葉の一つである。日本語訳では常にそうだが、言葉の順番がギリシャ語と逆になっている。ギリシャ語では「私たちは知っている」という言葉から始まっている。パウロはまず「私たちはこのことを知っている」と言う。「知っている」は、非常に強い言葉である。「私たちはそれを望んでいる」とか「こうであればよい」とかいう話ではない。「私たちは知っている」とパウロは強調して言う。
ここでパウロは、この「知っている」ということについて、私たちが通常この言葉を考えるような意味では語っていない。パウロが言う真理とは、私たちが五感によって知るようなものではない。また、否定すれば「バカか」と言われるような、一般的な経験に基づいた単純な事実でもない。なぜこのようにはっきりと「私たちは知っている」という言い方ができるのかというと、神の主権と神の救いの目的がこの箇所の土台となっているからである。全知全能なる神は、この世に起こり来るすべてのことを支配しておられる。そして、御自分の救いの目的を絶対に最終的に果たしたもう。そのことを知っているので、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを知っている」と言うのである。
聖書の否定できない諸々の真理から必然的に導き出される神学的結論によって、最終的には万事が相働いて神の民の祝福となることを、知っているのである。これは、神についての知識であり、絶対的な主権を持って御自分の目的を果たす神の御力を知っているということなのだ。即ち、「神御自身について私たちは何を知っているか」という知識に基づいていることなのである。神は、どのような御方なのか。神は、どのような力を持っておられるのか。どのような目的を持っておられるのか。「そのことを知っているので、このことをも知っています」という話なのである。また、神が私たちを愛しておられて、私たちを祝福することは神の永遠の目的の一つであることをも私たちは知っている。こういうわけで、神がその目的のために万事を働かせてくださる、と結論づけなければならないのである。
つまり、パウロがここで「知っています」と言っている知識は、他に依存している知識なのである。単純に自分の経験ですぐにわかるような知識ではない。これが哲学的な話になってしまえば、何が何だかわからなくなる。例えば、今私たちはこの部屋にいるけれども、周囲にいる人が本当に実在のものなのか、外の景色が美しいのは実在のものなのか、哲学者たちの中にはそれを疑ったり「証明できない」と言ったりする者がいる。「それを疑う」と言うなら、それは哲学者というよりも頭が変になっている者の考えた方だと言ってよい。
この部屋にいて、今目の前や隣にいるのは誰なのかを「私は知っている」と言ってよい。その知識は当然認めるべきことであり、知るべきことである。しかし、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ということは、その類いの知識によっては知ることのできないものである。つまり、目で確認したり、目の前にある現実として否定できないようなことではないのだ。「すべてのことが、益として働く」ということは、簡単に認められることではない。場合によっては、全部がその逆に見えることさえあるわけである。だから、これは経験から出る知識ではない。自分の目で見て当然なものとして持つような知識ではない。これは、疑おうとすれば疑うことができる知識であるし、覚えようとしなければ忘れることができる知識でもある。演繹法であれ、帰納法であれ、その結論となる知識は、忘れることも可能だし、疑うことも可能なものなのだ。
これは「本当に、そうなのだろうか」と疑うことのできるような知識である。あるいは、忘れてしまって、頭から消えてしまうことだって有り得るのだ。特に自分の経験がその知識と合致しなければ、本当なのかどうかを疑ってしまうものである。それ故、「私たちは知っています」とパウロが言うとき、これはまったく「信仰に基づいた知識」なのである。「信仰に基づいている知識」とは、御言葉から与えられる知識でもあるし、神に目を留めて持つところの知識なのである。この二点は非常に重大である。神学的に引き出された結論と聖書の証言とによる信仰に基づいた知識である。神に目を留めて持つ知識というものは、神がどのような御方であるかを覚えるときにわかるものなのである。
私たちの問題の一つは、神がどのような御方なのかを忘れてしまって、神に目を留めなくなるために、神に対する思いがおかしくなるところにある。これは人間同士の関係においても言えることである。変に相手を疑ってしまうことは、人間同士の関係においてよくあることだ。そして、事実が確認されると、「ああ、やっぱり彼はそういう人だった」と思うのである。つまり、信頼できる相手を疑った自分を責めることになったりするのである。反対に、疑うべき相手なのに疑わないで、変に確信を持ったりすることもある。人間同士では、その両方とも有り得ることである。それは、忘れたり否定したりし得る知識である。忘れることは、実際には否定することになると言ってよいだろう。人は、直接反対したりはせずに、否定することができるものである。
だから、荒野におけるイスラエルの子らは、神のいつくしみや主権に直接文句を言うのではなくて、モーセに対して不平をぶつけたのである。アダムは、サタンが誘惑したとき、神のいつくしみを疑った。アダムはエバを利用して神を試そうと決めたのである。アダムもイスラエルの子らも、必然的な神学的結論を引き出したり、神の啓示を思い起こしたりする能力を失っていた。彼らの考えは、罪によって曇らされていた。明白で確かであったはずのものが、自らの情欲に焦点を当ててしまうとき、覆い隠されて、忘れられてしまったのである。荒野にいたイスラエルの罪は何だったのかというと、「神がどのような御方なのかを忘れている」というものであった。荒野をさ迷っているときのイスラエルは多くの試練にぶつかった。試練にぶつかる度にイスラエルは「神は何をしているのか」と、疑いの心をもってつぶやくのである。神の目的を求める意味で「神は何をしておられるのか」を考えるのではなく、疑っていた。
イスラエルは試練にぶつかる度に、神を疑い、神を否定するような思いを持ったのである。その時に、神はイスラエルを叱り、そしてエジプトの軍から彼らを救い出して、水を与えたりマナを与えたりしてくださった。神は、繰り返し御自分を疑うイスラエルを救ってくださって、疑うことの愚かさを彼らに知らしめたのである。紅海が二つに分かたれてエジプト軍の手から救い出されたほどの強烈な経験が一生に一度もあればもう死ぬ日まで忘れ得ないと思うのだが、数日も過ぎるとまた忘れてしまうのである。石を打つと水が出たのを見て、「やっぱり、どんなことがあっても神に信頼すべきだ」と教えらたはずなのに、試練が来るとまた忘れて神を疑うのである。「これが欲しい、あれが欲しい」と言って神に逆らうのである。とにかくイスラエルは神を疑う。それがイスラエルの罪であった。
この罪は、創世記3章にあるエバの最初の罪でもあったのだ。サタンが、「本当に、神はそう言ったのですか。神は、最高の祝福をあなたに与えたくないからそう言ったのです。その木の実を食べれば、神のような者になれるのです。神はあなたに祝福を与えるのではなくて、あなたからその祝福を取り上げているのです。さあ、取って食べなさい。そうすれば祝福されます」というように惑わすと、アダムとエバはその誘惑に自分を任せたのである。それは、「神がどのような御方なのかを忘れる」ということに他ならなかった。それは、神御自身から目を離して問題を考えようとすることである。それで、神がどのような御方なのかを忘れるとき、試練であれ祝福であれ、今の状態を神から与えられたものとして考えることができなくなる。「神は、私たちを愛して、私たちにいろいろな意味での豊かな祝福を与えるためにこのような試練をも与えてくださったのだ」という確信を失ってしまうのである。
神から目を離してしまえば、そして神がどのような御方なのかを忘れてしまえば、「すべては益となる」という知識を持つことはできない。神から目を離すと、すべてのことは最終的に良いものであって、絶対に神の御恵みの勝利に終わることを知ることができない。「この試練も、この迫害も、この苦しみも、神の御恵みの勝利のためにあるものであって、絶対に神はこれをも益としてくださる」という知識、その確信を失ってしまうことになる。この知識は、信仰による知識であり、神に目を留めるときにしか持つことのできない知識なのである。
もう一つ、私は「御言葉から来る知識」という言い方をしたが、御言葉を読んで学ぶとき、すべての箇所で神御自身に目を留めるように勧められている。私たちには、今話したような簡単な神学的演繹法に加えて、御言葉の明白な証言も与えられている。実際に御言葉の中から、たとい死ぬほどの試練であっても、必ず最終的に神はそれを益としてくださることを見ることができる。そのことを私たちは信仰によって実体験として持つことができる。本を読むことの意味は、その著者の経験を自分のものとすることができるところにある。私たちはすべてのことを自分で経験することができるわけではない。本を読むのは、他の人の経験から学んで、そこから知恵を得て、他の人の経験を自分の経験とするところに意味がある。史実に基づいて書かれた歴史の書物はそのためにあると言える。そして、よく書かれている小説もそのためにあると言えるのだ。
ドストエフスキ−の「カラマ−ゾフの兄弟」や「罪と罰」を読むと、ドストエフスキ−が小説として書いている話が当時の現実を物語っているようなものであって、そこから知恵を得ることができるものだということがわかる。ドストエフスキ−は、「罪と罰」で丞人公ラスコリーニコフの経験を細かく描いている。ラスコリーニコフがなぜその女性を殺したのかという思いを読んで考えることによって、あたかも自分の経験であるかのように持つことができるのだ。その女性を殺したときの心理状態があまりにも細かく描写されているので、読者はその経験に引きずり込まれてしまう。そして、そこから知恵を得ることができるのである。ある人が「罪と罰」を読んだ印象があまりに強烈だったために、道を歩いていて警官に出会った時に思わず身を隠した、というエピソ−ドがあるくらいなのだ。よい小説はそこまで読者の心をとらえるものである。
実際に、ドストエフスキ−は小説を書くとき、新聞の記事などを使ったりして現実の会話や人々の実体験を取り込んだりした。現実的なものを書こうとするわけである。劇作家イプセンは、友人と話するときにかなり長話をしたと言われている。イプセンは友人との会話をよく次の劇に使ったりするので、友達に嫌われるようにもなったと言われている。私が言いたいポイントは、良い小説や良い劇作というものは現実性のあるものだということである。そして、読者はそこから経験と知恵を学ぶことができるものなのである。
聖書はまさにそのような書物として与えられている。二つだけ例を挙げるなら、神はヨセフとその兄弟たちの祝福のために (創世記45章5節,
7-8節; 50章20節)、またヨブを祝福するために共に万事を働かせられたことを聖書から教えられている。私たちは、ヨセフのようにエジプトの牢獄に投げ込まれるような経験をする機会はまずないだろう。しかし、ヨセフの経験を読んで、私たちはそこから知恵を得、そして学ぶべきである。聖書に書いてあることについて、それがサウルの経験であれダビデの経験であれ、パウロのことであれ、また主イエス・キリスト御自身のことであっても、「知っています」と私たちが言うとき、それをあたかも自分自身の経験によって得た知識であるかのように言っているのである。
聖書に書かれてあることはすべて私たちのために書かれたものだと、パウロは教えている。ヨセフがそのような経験をしたということが何のために記録されたのか。どうして細部にわたって記録されたのかというと、それは私たちのためなのである。私たちがそれを読んで学ぶためである。ヨセフの経験を私たちのものとするためである。ヨブの試練がなぜ書き記されたのかというと、私たちがヨブのような経験をしなくてもよいためなのだ。つまり、私たちがヨブの経験から学んで、その結論のところに立つことができるためであると言ってよい。
それで、ローマ人への手紙8章28節に書いてあるこの「知識」は、神に目を留めるところから来る知識なのだ。聖書から学ぶことによって得る知識である。この知識は確信から来ており、信仰に基づく知識なので、聖書の御言葉を忘れたり、神から目を離したりすれば、この知識を失ってしまうことになる。モーセの律法の中では、特に申命記はそうであるが、モーセは繰り返しイスラエルの民に「忘れるな。忘れてはならない。忘れるな・・・」言っている。イスラエルには、神の御恵みと祝福を忘れてしまう危険性があった。
「忘れてしまう」と言っているのは、普通の知識として忘れてしまうということではない。「ああ。私たちはエジプトから出たんだっけ。そう言えば、もう忘れちゃったね」というようことではない。「覚えていない」というのは、「それが実生活において何も意味をなさない」ということなのだ。知らないわけではない。知ってはいても、そのことと今の状態とがつながらないのである。本当なら、そのことを覚えて、その意味を正しく今の状態に適用しているのであれば、今の状態に対する見方はまったく違うものになるはずなのだ。本当に知っているのなら、今自分が直面している状態に対する心の態度や思いはまったく違うはずなのだ。
神が、すべての事を支配して働いておられて、すべての事を益としてくださる。「そのことを確信している。そのことを知っている」と私たちは告白している。そして、「その知識は忘れたり失ったりすることのできる知識である」と言うとき、結局私たちは毎日繰り返し御言葉の真理に触れて、心と思いがその真理に根差しているのでなければ、簡単にそこから離れてしまうものだということを認めているのである。御言葉は私たちの心の糧である。その御言葉を常に読んで、そこに戻って、そこに書いてあることを思い起こし、それを心に刻み、繰り返し繰り返し読んで覚えるのでなければ、私たちは人生における最も大切な助けを失ってしまうことになるのだ。それを忘れ、それは役に立たない知識となってしまう。
この箇所を、アダムとエバの罪との関係について考えたり、荒野のイスラエルとの関係において考えたりするときに、「この知識を確信として持ち続けるためには戦いがある」ということに気が付かなければならない。「戦わなければ失われてしまう知識」という言い方は、認識論の観点からすれば変に聞こえるかも知れないが、実際にこの世の中には偽りと真理の戦いというものがあるのは事実である。その戦いは、ずっと人類の歴史の中にある。偽りと真理の戦いの中にあって本当のことを正しく把握するためには、私たちは戦って真理を知ることになるわけである。神が私たちを愛して、すべてにおいて私たちを導いてくださる。どんな事であれ、この8章の最後(38〜39節)のところでパウロが述べた結論に至るのである。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
これが言わんとするポイントなのだ。「こう確信しています」というのは「そのことを知っています」と言うのと同じことである。どんな事であっても、死も、いのちも、どんな被造物であっても、私たちを主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできない。「被造物」という言い方は、神御自身が私たちを見捨てることはしないという意味を含むものである。そうであれば、どのようにして神の愛から私たちを引き離すことができるのか。「被造物」はサタンや悪霊をも含む言い方である。また、「権威ある者」とは、直接的には当時のローマ帝国のネロ皇帝やユダヤ人の指導者たちによる迫害を指している。「高さも、深さも」は、とにかく想像し得るすべてのことを指す。生きることも、死ぬことも、私たちを神の愛から引き離すことはできないのである。
そのことをパウロは確信しており、これはすべてのクリスチャンの確信でなければならない。これは、神の愛に対する確信である。そして、戦わなければ、この知識を持つことはできない。これは世にあって最も尊い知識である。これは戦って得る知識である。霊的な戦いを続けていなければ、これを忘れ、これを失うことになる。神の愛から引き離されることは絶対にないが、確信から引き離されることはあるのだ。その確信を失い、神の愛を忘れてしまうことはあり得ることなのだ。それ故、御言葉の信仰に立ち、真剣に戦い、求め、その知識と確信を得なければならないのである。
そういう意味で、クリスチャンは神に目を留め、御言葉の真理を心に刻んでそれを喜ぶのでなければならない。これは戦いであり、戦って得るものなのである。そのことは、この箇所を読むときに覚えなければならないもう一つの大切なポイントだと思う。私たちは、神がどのようなお方か、私たちの人生のための神の目的は何であるのかを知っており、また、人を取り扱われる神の契約的方法を御言葉から教えられて知っている。「それ故、人生に起こる全てのことが、確かな成果を生むために相共に働くよう、神によって定められていることを私たちは確信できる」とパウロは言うのである。
「私たちは知っている」というのは、神の愛に対する確信のことである。神は私たちを愛しておられて、御自分の全能の力をもってその目的を必ずや成就してくださることを私たちは確信しているので、この世の中にあってどんな事があろうとも、私たちはこの知識を失うことはない。そのようにパウロは教えている。この確信と保証は信仰の祝福であり、信仰を維持するために用いるのと同じ手段によって維持されなければならない。即ち、神御自身に目を留めていなければならないのである。このお方がどのようなお方であるか、どんなに愛に満ちた御父であるのかを忘れる時、昔の時代に教会が直面したような虐殺や、現在もアフリカや中国のある地域で教会が耐えているような迫害や試練に遭わなくても、この世の人生のあらゆる困難は私たちを圧倒するからだ。
荒野におけるイスラエルの子らのように、もしこの御方から目を背けるなら、たとえ豊かに養われており、驚くべき御恵みによって守られていても、私たちはまるで神がおられないかのように不平をぶつぶつと言うであろう。私たちは神の御言葉を実際に日々の糧とする必要がある。それこそが信仰の源であり、私たちが生きていく力であるからだ。イエス御自身ですら、御言葉に信頼することによって悪魔と戦われたのである。パウロの言うこの確信を真に味わうために、私たちもそのように戦わなければならない。
「私たちは何を知っているのか」について、今から数週間にわたって学ぼうと思うが、パウロがここで語っていることを簡単に言えば、こういうことである。原語と日本語の言葉の順番がまったく逆になっているので、原語の順番に従って説明したいが、「私たちは知っている」という言葉の次に来る言葉は「すべてのことを」である。「すべてのことを」と言うとき、何を言おうとしているのかというと、まさに「すべて」なのである。これも8章の最後で強調されていることにつながる言葉である。何でも例外にしたがるのが罪人の思いの常であり、「その人はそうだったかも知れないが、私は違う」と言いたいのが罪人の常である。しかし、一つの例外もなく、神は「すべてのことを」働かせて益としてくださるのである。
「すべてのこと」の意味についてはまた時間をかけて説明していきたいが、どんなに大変な試練であっても、また私たちの失敗や私たちの愚かさによることがどんなであっても、神の御栄光のために神は私たちを導いてくださるのだ。そういう意味で、すべてのことを神は益としてくださるので、私たちは神に信頼して神に委ね、素直に神の御言葉を守って歩めばよいのである。心配しても仕方ないし、心配する意味もない。心配せずに、神に委ねて歩めばよいのである。そのことをまず教えられると思う。
8章28節の日本語訳は、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という言い方になっているが、少しニュアンスが違っている。この文章のギリシャ語における主語は「すべてのこと」であるので、「すべてのことが」という文章にすべきである。即ち、「すべてのことが相共に働いて益となる」ということである。「すべてのことが一緒に働きあって益となる」という意味なのだ。「一緒に働いて」というのは、一つ一つの事でとらえるときには益になっていないようであっても、他の諸々の事とシステマティックに働いて益となるということである。「この一つの事自体が良かったかどうか」よりも、「この一つの事は、神が私たちの人生全体の中で与えてくださった一つの事であって、それは全体と一緒に相働くことによって最終的な結論は出る。そして、その結論は絶対に益となる」ということなのだ。
例えば、五つの事があったとする。その一つの事が単独で益となるとは限らないとしても、他の四つの事と一緒に働きあう時に、五つの事は全体として働いて、五つの事全体が益となるという話なのである。それ故、あなたが今日経験した事は、今日の段階では終わらないのである。今日の段階では結論は出ないし、今日の段階ではまだ益にはなっていないかも知れない。しかし、今日の経験プラス明日の事、更に来年や再来年の事などが一緒になって、全体として必ず益となる。すべてのことが、一緒に相働いて益となるのである。そのポイントをパウロはここで教えている。だから、結論まで行かなければ、今日の試練や今日の苦しみがどういうことなのかはまだわからないのである。今日の苦しみは、あと十年歩み続けなければ、結論にはまだなっていないかも知れない。
このことをよく表わす例として、イギリスの清教徒の話がある。彼には非常に優れた説教の賜物があったが、ある人は20代の時に彼の説教を聞いたけれども、その後も神を信じることがなかった。しかし、百歳近くになってから彼は20代の時に聞いた説教を思い出して神を信じて救われたのである。結論まで行くには時間がかかるものだが、すべてのことが、一緒に働いて、益となる。私たちは、そのようにすべてが最終的に益となることを、知っているのである。
益となること、即ち祝福となることについて、パウロは29節から更に細かく説明しているが、私たちは最終的に主イエス・キリストに似た者となるのである。それが神の御計画の最終的な状態である。すべてのことが、その意味で益となるのである。私たちが主イエス・キリストに似た者となるように、すべてのことを神は相働かせて益としてくださるのだ。「すべてのことが」というのが主語になっているが、勿論これは神の働きである。神学的には日本語訳は何も問題はないが、ギリシャ語と日本語の文法的な違いがあることを知っておくことも大切だと思う。
そして、「ある人たちにとってすべてが益となる」とパウロは言っている。つまり「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには」と言っている。これも重大なポイントである。創造主なる神を信じていなければ、最終的にすべてのことは益とはならないのである。むしろ反対に、すべては益とはならずに悲劇となるのである。祝福を与えられても、機会が与えられても、それらを正しく受け入れず、そこから何も学ばずに神に逆らい、最終的に神から離れる者は、すべてを失うのである。それが、神を愛さない人々、神を信じない人々の結末である。その結末に至るまでは豊かで素晴らしい人生のように見えるかも知れないが、結論が駄目なら、それまでのすべては無意味と化すのである。
これは詩篇73編においても見られることである。アサフは、この世の罪人たちが誇り高ぶって豊かに栄えるのを見て、足がたわみそうになった。悪者たちには試練はなく、災いがない。彼らは豊かで好き放題にその欲を満たしている。それを見たアサフは心を傷め、神を忘れそうになるところであった。しかし、神に目を留めたとき、その者たちの人生の結末がどのようなものになるかを悟った。アサフは神のさばきを思い起こしたのである。この悪者たちは神のさばきの御座の前に立たなければならない。彼らは多くの祝福を受けていたのに、まるでその祝福は自分の権利であるかのように振舞い、何一つ神に感謝しなかった。それ故、神の御前に立って裁かれるとき、すべてを失うのである。
そういう意味で、神を信じなかった彼らには、そのすべてのことは益とはならずに、裁きと呪いになる。「神を愛する人々」のためにはすべてが益となる。神を愛さない人々には、すべては益とはならずに呪いとなるのだ。全く逆なのである。これは、永遠の天国と永遠の地獄の話につながることである。
パウロは、クリスチャンを定義する言葉として「神を愛する」という言葉を使っている。この定義は前の8章1節と大切な関係がある。罪人の心の最も深い問題は、神を憎むことである。別に自分の脳裏に憎しみを抱いて生きているわけではないが、神を無視し、神無しに生きようとするのである。そのように、愛を受けているのに無視して生きることこそ、本格的な憎悪なのである。感謝しないで、とにかく神を無視して生きる。それこそ罪人の生き方であり心であって、神を憎む思いがその根底にある。それが罪の本質的なところなのだ。クリスチャンになったということは、神を憎んでいたその心の最も深いところが変えられて、神を愛する者に変わったということなのだ。それが、クリスチャンとクリスチャンではない人の基本的な区別である。
それ故、パウロは「神を愛する人々」と言う。これは非常に明白で重大なポイントなのだ。「神を愛する人々の人生は、すべてのことが他のすべてのこととつながっていて、全体として働いている」とパウロは言う。神が、確かな目的をもってそのすべてを相働かせてくださるのである。そのすべては一つの結論へと私たちを導いてくれる。即ち、「私たちが主イエス・キリストに似た者となる」ということである。それは大いなる祝福の結論である。それ故すべてのことが一緒に働いて祝福となるということを、私たちは確信している。しかし、試練の中にあるとき、それを忘れやすい。だから、パウロはそのことをずっと39節の終りまで深く広く強調して教えている。
パウロの言っている確信や知識を持っているかどうかをどのようにして知ることができるのか。この知識を正しく持っているかどうかを簡単にチェックする方法がある。病院に行けば何かの試験紙で尿を調べればすぐに明らかになる病気がある。或いは血液検査によって簡単に病気が判明するようなテスト方法がある。それと同じように、ローマ人への手紙8章28節を正しく覚えているかどうか、本当に確信しているかどうかをチェックする簡単な方法がある。それは「感謝しているかどうか」である。「聖書が命じているとおり、自分はすべての事柄において感謝しているだろうか」と自問することだ。それだけである。実に簡単なことなのだ。感謝の心を持っているかどうかが鍵なのだ。
感謝の心から離れているならば、この8章28節のことを忘れているのである。決して正しく自分に与えられた状態を受け入れてはいないのである。感謝するというのは、いつもニコニコ笑っていて、跳ねたりして踊ったりていることではない。笑っているから感謝しているということにはならない。クリスチャンは、涙を流していても、極度の悲しみと苦しみの中にある時も、本当に神に目を留めて、神の御恵みを覚えて、心から神に感謝することはできるはずである。感謝の心を失って、荒野のイスラエルのように、何でもかんでも不平を言うような気持ちになっているなら、あなたはこの箇所の信仰から離れているのである。そのような人は、神が私たちに宝として与えてくださった真の知識から離れているのだ。
テサロニケ人への第一の手紙5章18節に、「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」とある。神が働いておられることを確信している者は感謝にあふれている。それは、試みの中で痛みや苦悩に満ちるかもしれないことを否定しない。しかし、その信仰は、炎の中から、上にある神の御座を見上げる。彼らは、その中から感謝と賛美をささげることができるのである。
そして、罪人は、結局のところ感謝から離れてしまいやすいものだということも言わなければならない。私たちは罪人であるゆえに、この道から迷い出やすい。感謝の心と神の愛に対する確信を維持することは、私たちには困難なことである。そこで、自分の道について考えるよう促し、正しい道に連れ戻してくれるものを私たちは必要としている。そのために、神は私たちに感謝の心を新たにするための儀式を与えてくださった。それが聖餐式である。神は、私たちが毎週の礼拝に共に集い、御自身との契約を新たにするようにと命じてくださった。その命令に応答するとき、私たちはその御威光に目を向け、その御言葉に耳を傾けなければならない。礼拝のどの部分も、神がどのようなお方であるのか、私たちは何者なのか、そして私たちはなぜこの世にいるのかを思い起こさせるものなのである。
主の晩餐にあずかるとき、私たちは罪を告白し、神の御国を他のすべてに勝って第一にして生きるという「献身」を新たにするのである(マタイの福音書6章33節)。聖餐式を表わすギリシャ語「ユ−カリスト」という言葉は、「感謝する」という意味の言葉である。英語でも聖餐式は「ユ−カリスト」と呼ばれるが、これは感謝の儀式である。それは、主イエス・キリストが私たちのために十字架上で死んでくださり、よみがえってくださり、賜物として信じる者たちに永遠のいのちを与えてくださったことに対する感謝を表わす儀式である。主イエス・キリストの十字架の愛を覚えて行なうものである。
父なる神が私たちを愛してくださって、主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった。そして御霊が私たちに与えられて、信仰を与えてくださった。聖餐式において私たちは、その神の愛といつくしみへの確信を新たにしている。そこで私たちは、神が御自分の独り子を私たちの代わりに苦しめ、死なせたもうほどに私たちを愛してくださったことを思い起こさせられる。私たちは、私たちをそれほどに愛してくださった三位一体なる神の御許に感謝を携えて来る者である。
クリスチャンは、神の救いの御恵みに対する感謝を毎週新たにする必要がある。聖餐式はそのためのものである。自分の罪を悔い改め、心からそれを捨て、その心を新しくされ、そして主イエス・キリストに目を留めて、神への感謝の心を新たにするのである。そして、今から始まる一週間を、神への感謝の心をもって歩む誓いを新たにするのである。神と歩むその心の備えが与えられ、神の方法がたとえ理解できなくとも、その愛といつくしみとに確信を持つのである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。
――2000年12月17日――
著 ラルフ・A・スミス師
編集 塩光明長老
著者へのコメント:shiomitsu@berith.com