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    ローマ人への手紙8章28節 (3)


    8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

    2001.01.28. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    神を愛する

    8章28節

       ローマ人への手紙8章28節でパウロは、「神がすべてのことを導いて御自分の民を祝福してくださる」と告白しているが、私たちクリスチャンのことについて語るときに、パウロは二つの観点から語っている。即ちパウロは、誰のためにすべてのことが働いて益となるのかを、二つの句で明らかにしている。最初の句は「神を愛する人々」である。もう一つの句は、「神の御計画に従って召された人々」である。この二つの観点からクリスチャンのことを考えるわけである。

       この世にあってはっきり見ることができる観点から言うならば、クリスチャンとは「神を愛する人々」のことである。この句は、神に対する心のあり方に従ってその人々を定義している。それは不完全ではあっても、私たちには理解できるものである。しかし、「神の御計画に従って召された人々」と言うとき、それは神の永遠の御計画の話をしているのである。それは、クリスチャンを神の永遠の御計画に従って考えるものである。私たちには見えないこと、私たちの理解を全く越えていることについて話しているのである。にもかかわらず、これが重要であるのは、神の御計画を知っているということ、また「神がその御計画に従ってすべてのことを働かせ給う」という知識こそ、万事が本当に益となるように働くことを確信する根拠だからである。

      「神を愛する人々」については、具体的にどういう人々かを私たちは言うことができる。しかし、「神の御計画に従って召された人々」と言うとき、その中には、今はまだ信仰を持っておらず、まだクリスチャンになってはいないが、やがてキリストを信じるようになる人たちも含まれているのだ。今からの日本で、いつ福音が広まるか、またどれほど速く広まるか、どれほど多くの人が救われるか、私たちには未知数である。中にはクリスチャンと自称していてもはっきりしないロトのような人もいる。神の永遠の御計画については、私たちは何も言えない。しかし、「神を愛する人々」については、具体的に定義できるものである。

     

    神を愛する人々

      まず、「神を愛する人々」について考えよう。「神を愛する人々」とは、主イエス・キリストを信じる信仰を告白する人々のことである。この句は、クリスチャンを、神に対するその献身によって定義する。信仰がなければ、神に対する愛はない。それは説明しなくても、私たちの皆が知っていることである。しかし、このポイントは最初から明確に言っておかなければならない。なぜなら、主イエス・キリストがパリサイ人たちと語っているときに、パリサイ人たちは、自分たちこそ神を本当に愛する者であると思い込んでいた。少なくとも、そのことを公然と主張していた。しかし、主イエス・キリストとの会話を見ると、彼らの反応はまったくの不信仰であった。

       神の御言葉に対する不信仰の反応は、決して神を愛することではなく、神を憎む反応である。その「私たちこそ神のものであり、神を愛する者だ」と言っていたパリサイ人は、機会が与えられると、神の御子である主イエス・キリストを十字架につけて殺してしまった。それがパリサイ人たちの神に対する愛というものなのだ。とんでもない話である。本当の意味で主イエス・キリスト御自身を信じることこそ、神を愛する愛の出発点である。主イエス・キリストが自分を愛してくださって身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったことを信じた者は、神を愛するようになる。信仰と愛は、時間的には同時にあるけれども、論理的には、愛なる神を信じたことによって当然ながら神への愛が生まれるというものである。

       神が私たちを愛して、私たちを救うために、御自分のひとり子をさえ惜しまずに世に遣わしてくださり、私たちの罪を負って十字架の上で死んでくださった。そのような愛なる神を信じるときに、当然、愛をもって応えることになる。それ故、「クリスチャン=神を愛する人々」という表現になる。信仰があれば、神に対する愛は絶対にある。神への愛は、必ず信仰に伴うものである。例えば、ヨハネの第一の手紙の中で、ヨハネは、クリスチャンとクリスチャンではない人のことについて話すときに、「兄弟愛のない者はクリスチャンではない」と言っている。愛によって区別されるのだ。信仰を持っているなら、絶対に愛も持つようになる。そのようにヨハネは教えている。ここでパウロも同じ事を教えている。「神を愛する人々」が、まことのクリスチャンなのである。

       だから、「神を愛する人々」は、具体的に言えば、まず第一に信仰を告白する者である。しかし、もっと具体的にはどういう人々なのかというと、主イエス・キリストの教えの中にはっきりと記されている。ヨハネの福音書14章15節で、キリストは次のように言っている。

     

    もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

       新改訳には「はず」という言葉があるが、原語にはない。だから、「あなたがたはわたしの戒めを守るのです」と訳す方がよい。主イエス・キリストを愛する者とは、キリストの命令を守る者である。これは、聖書が繰り返し述べていることであり、これは、神を信じる者の神への愛の具体的な現われとして第一に期待されることなのだ。これはヨハネが記した書物における主要なテ−マの一つである(ヨハネの福音書14章21節、24節、15章10節、11節、14節、ヨハネの第一の手紙2章3節、4節、5節、同5章2節と3節)。神を愛するならば神の戒めを守るのである。

       しかし、戒めを強調するときに、ある人々は誤解して、それをまるで律法主義であるかのように見做したりする。そうではない。まず初めに、キリストを愛するとは、永遠の三位一体の第二人格を愛することなのである。私たちと主イエス・キリストとの関係はまったくの上下関係であることは言うまでもない。これは平等の関係ではない。主イエス・キリストは、人間となってくださっても、王の王であられる。主イエスは、救い主メサイアであられる。私たちは主イエス・キリストと対等な者では絶対にない。主イエス・キリストは御自身を私たちの友と呼ばれたが、それは愛と親しさの表現であって、平等という意味ではない。また、キリストは私たちの兄と呼ばれている。

       私たちは、「キリストと共に天に座っている」と言われており、それは、王の王が私たちを御自身の栄光に満ちた支配に加えてくださっているという意味である。人間としてのイエスは、私たちのうちの一人となってくださり、しかも、私たちのうちの最も小さき者に近づくために身を低くされたのである。しかし、イエスは神であられることをやめたわけではなく、その神性においては、無限に高くあられる御方である。私たちの神なる主としてのこの御方の権威は絶対的である。そのような御方を愛するなら、私たちは神への服従によってその愛を示さなければならない。

       主イエス・キリストに対して愛を持つということは、キリストに全く従う心を持つことに他ならない。「神を愛する人」とは、キリストにすべてをささげ、「私はあなたに従います。あなたの戒めを守ります」と告白する者なのである。神の御子キリストは、三位一体なる神の第二位格であると同時に完全な人間である、そのキリスト・イエスが私たちに命令を与えてくださるとき、その命令を喜んで守ることこそ真の愛の現われである。愛しているから、命令を守るのだ。

       それは、「契約に対する忠実」という観点から考えればよくわかることだと思う。自分の主に対して忠実であり、主を尊び、その命令をことごとく守るなら、それこそ主を愛する心である。これは人間関係においても言えることであろう。「私は、その人を尊敬しています。その人の命令なら絶対に守ります。その人のためならいのちを捨ててもいい」というような関係はこの世の人間の間にもある。歴史の中でも、自分の殿様のためには進んでいのちを捨てる者がいる。軍の尊敬する上官のためにいのちを捨てることもある。

       私たちは、契約に対する忠実を表わすものとして、キリストを「主」として受け入れ、キリストを尊敬し、キリストを愛し、「この御方のためならいのちを捨ててもよい」と、考えているはずである。キリストは王であり主である。主のためにいのちを捨てる心を持って、「主に言われたことをことごとく守ります」という生き方が、主を愛することである。しかし、それだけではまだ言い尽くしてはいない。というのは、王と家来の関係とか、主人としもべの関係というものは、愛の関係だとは限らないのだ。殿様は、自分の家来を愛しているとは限らない。歴史の書物を読めばわかるように、殿様に対する家来の思いは、愛とは言えない。それは敬意とか忠義のようなものなのだ。「いのちをかけて殿様に従う」と言っても、「殿様を愛している」という話にはならない。

       しかし、聖書では、キリストの教会はキリストの花嫁であり、妻なのである。私たちの従順は、単に君主に対する家来の服従や主人に対するしもべの服従や忠義のようなものではない。教会にとって、キリストは自分を贖うために苦しまれ、死んでくださった最愛の夫なのである。しかも、無限に知恵があり、完全な愛に基づいた教えと助けと慰めを与えてくれる夫なのである。そのような夫を持っているなら、その妻は従うのに何にも困難はないであろう。御自分の妻である教会に対するキリストの優しい愛には何一つ律法主義的なところはないし、教会の祝福と栄光という目的以外に命令をお与えになることもない。夫である主イエス・キリストが、私たちを真に愛してくださるのである。人格的に、個人的に、一人ひとりを本当に心から永遠の愛をもって愛してくださるのである。私たちはその愛を知っている。

       これはまさしく福音の真理の中心的なところである。初めに主イエス・キリストが十字架の上で、私たちのために、御自分のいのちを捨ててくださった。初めにキリストが私たちを愛して、死んでくださったのだ。私たちを愛して、身代わりとなって死んでくださり、そして、自分の愛する“妻”である教会を祝福するために命令を与えてくださる。命令を与えてくださるのは、主イエス・キリストが妻である教会よりも無限に知恵があるからである。キリストと教会の場合、夫の方が妻よりも無限に知恵があり、大きな愛を持っているのである。そのような夫婦の関係は人間の間にはない。私たちの場合は、夫の方が知恵があるのかどうか、夫たちも確信が持てないかも知れないし、妻も確信がないかも知れない。二人で一緒に知恵を求める方がよいのではないか。

       キリストとその花嫁である教会の関係では、まったく話が違うのだ。主イエス・キリストは、完ぺきで無限な欠けるところのない愛をもって教会を愛しておられる。そして、完全な知恵を持って、教会に戒めを与えてくださる。そのような愛をもって愛してくださる夫に対して、「イエス」と応えることは少しも難しいことではない。しかも、その夫には無限で完全な知恵があって、絶対的なレベルで何一つ間違いを犯さないのである。そのような御方に命令されたなら、「イエス」と答えて、その命令を喜んで守ることは、難しいはずはない。

       だから、「神の民である教会は、主イエス・キリストの愛への応答として主イエス・キリストを愛し、その命令を守るものである」と言うとき、それは、本当に相応しくない者を永遠で無限な愛をもって愛してくださった神の愛への自然な応答なのだ。愛されている妻としての自然な応答なのである。神は、私たちの心の最も深いところの状態をも見透しておられるのに、それでもなお愛してくださる。つまり、一方的な愛をもって愛してくださるのだ。しかも、私たちをを救うために、私たちの罪を負って死んでくださり、そして、愚かな罪に満ちている私たちを助けるために命令を与えてくださるのである。すべての命令はその愛から出ている。それを知ったなら、どうして喜んでその命令を守らないはずがあろうか。愛の応答としての服従は、福音の真理を信じるときに自ずと湧き出てくるものなのだ。

       だから、命令を守り行なうというのは、愛の話なのだ。「殿様の言うとおりにしなきゃ、だめだ」というような話ではない。確かに、契約の話もあるし、忠実も要求されるし、主の主、君の君、王の王という言い方もある。絶対的な王として恐れつつ、その命令を守るという面も確かにある。しかし、それは第一ではない。「命令」とは、愛してくださる天の御父、教会を愛している教会の夫、自分のいのちを捨てて妻である教会を救う主イエス・キリストの命令なのだ。その愛を深く知っている者であれば、自分のすべてをささげてその愛に応え、その命令を喜び、守り行なうはずである。それが「神を愛する人々」である。愛してくださる神への愛に生きる者である。それがまことのクリスチャンの姿である。聖書に記されている神の愛は、実に驚くべきものであり、実に不思議なもの、この世のどこにもないものである。その愛を信じたなら、神を愛するはずである。

       少し横道に反れるが、比較宗教を学ぶときに、コ−ランを読んだり、ヒンズゥ−教の書物などを読んだりするが、このような愛は全くない。神概念は一応あるが、聖書を読めば、その違いは比較にならないものである。このような神は、ほかにはいない。詩篇に書いてあるとおりである。

     

    主よ。神々のうちで、あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。(86篇8節)

    主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。(96篇3〜5節)

    まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。(135篇5節)

       聖書の神を信じたなら、この神を愛するほかないのである。どれほど愛されているかを知るとき、その御方を愛する以外に道はないのである。そして、神を愛するとは、神の命令を守り行なうことである。神の命令は、自分を祝福するために与えられたのは明らかである。子どもたちでさえわかることなのだ。父母が命令を与えるとき、それは自分のためなのだということは、幼い子どもにさえわかる。何歳からわかるかは定かでないが、わかるようになるわけである。大人になれば、「神の命令は私のためなのだ」ということがよくわかる筈である。その命令と戒めを守るということは、自己中心で自分のためだけしか考えていないとしても、それは守るべきものだということが、わかる筈である。わかるだけではない。神の愛に応えて命令を守るのである。主イエス・キリストはそのことを私たちに教えている。これは、15章にもヨハネの第一の手紙にも繰り返し出てくるポイントである。神を愛する者は、神の御言葉を行なう者である。その命令を守る者である。この認識を確かなものにしたい。

       それと似たポイントだが、神を愛する者は、神の子どもたちをも愛する筈である。これは、神への愛の第二の証拠である。このポイントは、ヨハネの第一の手紙で強調されている。これも使徒ヨハネのテ−マである。これは、クリスチャンの毎日の生活において非常に具体的な事である。ヨハネの第一の手紙3章1〜12節をまず見てみよう。

     

    私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。

       ここで「神の命令を守る」というのは正しさのことである。そして、神の命令を守ることは兄弟愛につながるものだと、ヨハネは教えている。この二つのことは一緒でなければならない。キリストの命令に対して愛をもって応え、それを守るというのは、正しさのことである。イエス・キリストを信じて新しく生まれ変わった者は罪のうちを歩むことはできない。キリストを愛しているので、罪の中に留まることはできない。神の種がその人の中にあるからである。即ち、御霊の祝福がその人の中にある。心の中で神を憎んでいた者が神を愛する者に変えられ、神の種がその者の中にある。それ故、神を愛し、その命令を守る。その結果、正しさにおいて守られ、保たれるのである。そのような者は、決して神の愛とその道から離れていくことはしない。そのことをヨハネは話している。

       そして、「神を愛する者は、神の民をも愛する者だ」と言うのである。なぜ神の民を愛するかというと、神を愛しているからである。それ故、「カインのようにはならない」と言うのである。カインは、なぜアベルを殺したのかというと、アベルが正しかったので、罪深いカインはアベルの正しさに耐えられなかったのだ。カインが憎んだのは、アベル自身というよりも自分が神に受け入れられなかったのにアベルが受け入れられたという事実であった。アベルの信仰と働きは、カインの信仰と働きの邪悪さを露にしたからである。信仰と不信仰の典型的な関係がここに見られる。ユダヤ人がキリストを殺したのも、キリストの正しさに耐えられなかったからである。

       クリスチャンの生き方は、クリスチャンではない者たちの生き方を罪に定めることになるので、正しく生きるだけで憎まれる。愛を持って生きるだけで、憎まれる。自分の罪のために憎まれるのではない。ヨハネは、カインの罪を通して、正しさのために憎まれることについて教えている。それ故、13節で「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません」と、ヨハネは言う。カインはアベルを憎んだように、世はキリストに従う者を憎むのである。

       もし私たちがアベルのように神の命令を守るならば、神の命令を憎み、神御自身を憎む者に憎まれても、驚いてはならない。当然のことなのだ。長い目で見るなら、敵意は暴力にまで発展していく。それだから、キリストは殺されなければならなかったのだ。使徒たちも、初代教会のクリスチャンたちも、殺されなければならなかった。その敬虔さと神への従順は、彼らを取り巻く世界の悪を露呈するゆえに、許されないものなのである。しかし、クリスチャンはそうではない。続いて14節を見よう。

     

    私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。

       この世は神の民を憎む。しかし、その逆に、新しく生まれた者は、神の民を愛するのである。他のクリスチャンを愛しているかいないかによって、自分が神を愛しているかどうかの区別が明確にされると、使徒ヨハネは教えている。神を愛し、その命令を守っているかどうか。そして、神が愛している者を愛しているかどうか。この二つの量りによって、私たちが本当に神を愛しているかどうかを見ることができるのである。神の命令を守り、神の民を愛するなら、主イエス・キリストを本当に愛する者である。

       神に対する愛、そして主にある兄弟姉妹に対する愛、それが同時に要求されているのである。折り合うことが如何に大変であろうとも、性格がどれほど異なっていようとも、どんなに多くの習慣や癖などが衝突しようとも、クリスチャンはキリストにある兄弟なのである。神がその人たちを救いに選び、神が彼らを愛しておられるのだ。神が私たちを愛してくださるゆえに、私たちは彼らを愛する負債を神に対して負っているのである。彼らが神によって尊い存在であるなら、私たちにとっても尊い存在でなければならない。

       ルカの福音書14章26節で、キリストは、御自分についてくる大勢の群集に向かって、「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」と言っておられる。神を愛するということは、自分のいのちを捨てて神に従うことだということをキリストは教えている。「十字架を負って従う」ということは、死刑の道具を負ってキリストに従うことにほかならない。そういう意味で、神を愛するということは、自分のいのちを神に預けて神に従うことなのだ。いのちを神にささげるのである。それ以下は愛にはならない。

       たとい金銀をささげても、いのちをささげないなら、それは本当に神を愛することにはならない。自分の持ち物と資産のすべてを神にささげても、愛とは限らないのである。パウロがコリント人への第一の手紙13章のところで言っているとおりである。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」と、パウロは言っている。愛する心を持って、自分のいのちをも含めて、すべてを神にささげるのが本当の愛なのである。

       だから、キリストが言っているように、この世の中の人間関係は、神に対する愛と比べるなら、どんな愛も憎しみでしかない。勿論、「皆を憎んでいるからすばらしいクリスチャンだ」と言っているのではない。また、「あなたは、まだ十分に父親と母親を憎んでいないから、もっと頑張りなさい」というような変な話ではない。「神に対する愛と比べるなら、この世のすべての愛も忠義もまことに取るに足りないものだ」と言っているのである。そして、神への愛が本物でないなら、本当の意味での人間愛もないのは確かなである。クリスチャンは、神を愛し、自分のいのちまでも主にささげるのである。そのことを主イエス・キリストは要求している。そのようにキリストを愛するなら、キリストが愛する者をも愛する筈なのである。もう一度、ヨハネの第三の手紙3章に戻って、15〜16節をみてほしい。

     

    兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

       このように聖書は神の民に要求している。「兄弟を憎む者はみな、人殺しだ」と言っているのは、「人殺しの心を持っている」ということである。憎む心は、人殺しの心にほかならない。実際の行動には表われていないとしても、その憎しみの心は人殺しの心であり、人の心の奥にある思いを見る神は、それを見て、それを裁くのである。「主イエス・キリストに従っていく」というのは、いのちを神にささげることであり、いのちを奪われるとしても神の命令に従うことである。兄弟愛を持って生きることにも、いのちが要求されている。自分のいのちを捨てて、主にある兄弟を愛さなければならない。それが、「神を愛する人々」の意味であり、神への愛を具体的に考えるときに要求されることである。いのちを神にささげ、いのちを兄弟のためにささげなければならない。それが、神を愛する愛である。

       いのちを要求することはいくらでもある。ベトナム戦争の時に、私は徴兵されて軍に入った。最初にバスに乗って軍の訓練地に行く途中で、上官に、「お前たちの身体は政府の財産である。それに害を与える者は、政府の財産に害を加えることになるので、刑務所に送られることになる。お前たちは、今から我々の所有物だということを忘れるな」と、荒立った厳しい強調の言い方で宣告された。聞いた途端に、もう刑務所に入れられてしまったかのような気持ちになってしまったのを覚えている。何時に起きるか、何時に寝るか、スケジュ−ルは何なのか、何一つ自分で決める自由はない。100%、言われたとおりにしなければ刑務所が待っている。本当に奴隷にされたような気持ちになったものである。

       相手はいのちを要求はするが、いのちを与えてくれるだろうか。とんでもない話である。政府は、ベトナム戦争が正しいのかどうかも確信していなかったのだ。裏での話は全く違うものであった。格好よく止められるタイミングを見計らって戦争を止めようとする考えもあったが、「これは駄目な戦争だ」と言う意見もあれば、「徹底的にやるべきだ」と言う意見もあったし、「ほどほどにやればいい」と言う者もいた。その中で若い軍人たちはどんどん訳もわからないままいのちを失っていった。勝つための戦略を政府はとらなかったのである。どの観点から見ても、実におかしな戦争であった。それでも、いのちは要求する。それは変わらない。

       もしも、「南ベトナムを、神を憎む共産主義から救うためにいのちを捨てて戦おう」というようなはっきりした目的を持って勝利を得るために戦うというなら、いのちを捨てて行くかどうかは別として、いのちが要求されても論理的に納得できるだろう。戦う意味がそこにあるということが、わかるわけである。勝つためでもないし、ただこれ以上負けることがないようにほどほどに戦い、最終的にどうなるのかもわからない。若い軍人たちはどんどん死んでいく。それでは、「死んでくれ」と言われても、喜んで行く気持ちにはとてもなれないのである。

       何のために戦いに行くのかの説明はただの一度もなかった。13週間の特訓の中で、ベトナムで何が行なわれているのか、「目的はこれだ。このために我々は戦うのだ」というような話は一言もなかったのだ。ただ、「あなたがたはこれから戦いに行く。死ぬかもしれない。幸運を祈る」と言われただけであった。その時私は既にクリスチャンになっていたので、もし目的について言われたら忘れる筈はないが、一言もなかったのだ。何の為に戦うのかは軍においても政府においても大きな議論になっていたが、それはついに説明されることはなかった。ただ、「国の為に死ね」と言うだけであった。

       それ故、この世がいのちを要求するのと、神が私たちにいのちを要求するのとではまるで違う話なのだ。神は、まず御自分のいのちを私たちに与えてくださったのである。神の方が先に死んでくださり、完全に御自分を犠牲にして、私たちの罪を負って十字架上で死んでくださった。それほど大きな愛を与えてくださった神であるから、私たちはいのちをもってその愛に応えるのである。神が私たちに、「自分のいのちを捨てて従って来なさい」と要求するとき、それは私たちを利用するとか、私たちから何かを得ようということでもないのである。私たちがいのちを神にささげる時こそ、私たちは最高に祝福されるのである。神は、いのちを要求する時でさえも、私たちに祝福を与えるために要求するのである。すべてを愛をもって神にささげるときに、それはまことに自分の祝福となるのである。豊かに実を結ぶことになるのである。

       ヨハネの福音書12章25節にあるように、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至る」のである。それと同じポイントである。変に、下手に、愚かに自分のいのちを愛する者は、すべてをだめにしてしまう。自分のいのちを神にささげて、それを捨てている者には、最終的にすべてが与えられる。神を愛する人々は、神の命令を心から守る。守りたくて仕方がないのである。守らないときに、苦しいのである。それが神を愛する人々である。

       兄弟を愛さなかったときに、苦しいのである。勿論、十分に愛しているとはとても言えないけれども、自分の観点から見ればどうしようもないあの兄弟は、神が愛し、神が選んだ者なのである。だから、私も愛さなければいけないのだ。神が愛する者を私も愛するのである。愛せないところがあれば、私の心は苦しみ痛むのである。神の命令を守れないときに、苦しいのである。神の命令を守りたい。神が愛している者を私も祝福したい。そして自分のいのちを神にささげて、「主よ。私は、あなたのものです」と告白するのである。

       そういう意味で、換言すれば、「献身者でなければクリスチャンではない」ということをキリストは教えているのである。「ああ。あの牧師は献身者だからね」とか「あの伝道師は献身者だから・・・。でも、私は献身者じゃありませんので・・・」というような思いを持ってはならないのである。献身者でないなら、何なのか。いのちを神にささげていないなら、何者だというのか。クリスチャンではないと言うのか。「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と主イエス・キリストは言っておられるではないか。「十字架を負ってキリストに従っていく」ということは、死ぬ話なのである。死刑の話なのだ。極度に恥ずかしい死刑の話なのである。すべてのクリスチャンは、例外なしに、一人ひとりが自分を神に捧げる「献身者」なのである。

       自分のいのちを神にささげたと言うなら、歩む道はぜんぜん違ってくる筈だ。ビジネスをする人は、献身者としてビジネスをする。五歳の子どもは、五歳の子どもらしく、献身者として生きるのである。母親としての責任を果たそうとする者は、献身者として母親の責任を全うするのである。皆が、主にいのちをささげて生きる心を持つなら、それが「神を愛する人々」なのだ。

       そういうわけで、神への愛に関する二つの側面は明らかに関っている。神を愛し、その命令の知恵に信頼しているなら、私たちはただこの御方に対して従順だというだけでなく、ごく自然に神を愛する者たちを心から愛して、神の御言葉を敬意をもって取扱い、それを行なうであろう。私たちはみな罪人であるので、守るべき命令を守ることに失敗したり、互いを愛すべきなのに愛さなかったりしがちである。しかし、神への愛と兄弟愛の道は唯一の道なのである。私たちがその道から逸脱するとき、直ちに戻る以外に私たちにできることはないのである。

     

    神の目的

       このローマ人への手紙8章のところについて、もしかすると「あの変な外人は強調しすぎているかも知れない」と思う人がいるかも知れないが、ローマ人への手紙8章を見てほしい。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と言ってから、29節で「なぜなら」と言っているのである。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」と、パウロは説明している。神と他のクリスチャンへの愛において成長することを求めるとき、私たちは神の目的を共に果たす同労者となる。パウロは、私たちがキリストに似た者となることが神の御計画であったと教える。

       「主イエス・キリストを信じる者は救われる」と言うが、「救われる」とはどういうことなのか。それは、「キリストに似た者になる」ということではないか。神の御計画は、神の民が一人ひとり皆、キリストに似た者となるように導くものである。キリストはどういうものなのか。12歳の子どもであった時に、(正しい聖書的な意味において言うが)自分の父と母を憎んで、天の父の働きを覚えて神殿に残って話をしていたのである。12歳の子どもであっても、何よりも御父を第一に愛するのである。若きイエス・キリストは、大工として働きながら、家族のためにビジネスをしながら、神を愛し、神に対する愛を第一にしていた。自分の父親が死んだ後、父に代わって家庭を養っていかなければならなかった。

       そういう意味で、父親の役割を、神を第一に愛する心をもって、人間として完全に果たしたのである。そして、三年間の公けな働きにおいては、預言者、祭司、王の職務を完全に果たしてメサイアとして働いた。33年の生涯の中で、公けな働きは三年間だけであった。それでは、残りの30年間は、献身者として生きてはいなかったのだろうか。そうではない。主イエス・キリストは御自分の全生涯を、父なる神を愛して献身者として生きたのである。自分のすべてを神にささげていた。だから、自分をクリスチャンと告白するなら、私たちはキリストに似た者とならなければならない。

       29節にあるように、これは神の永遠の御計画である。キリストは新しい人類の長子となるように定められており、その新しい人類は皆、主イエス・キリストに似た者となる。29節で「かたち」とあるが、それは倫理の話である。「御子のかたちと同じ姿になる」ということは、背格好とか体重など外見の話でないのは明らかである。また、このことは、まるで個性は天国においては消え去ってしまうかのように、私たちが皆同じ性格になるというようなことではない。自分のすべてを神にささげて、神に対してまことの愛を持って生きるようになるということなのだ。それは神が永遠の初めに定めた御計画である。

       そして、私たちは、神を愛し、主イエス・キリストのようにすべてにおいて神に対する愛を第一にして生きる者となるように、神は、すべてのことを支配して働かせてくださるのである。ここでパウロが教えているのは、倫理的な一致のことである。私たちは皆、義しく聖くなるという意味でキリストのようになるのである。では、倫理的にキリストに似た者となるとはどういう意味か。その答えを二つの明確な点で要約できると思う。マタイの福音書22章37〜40節で、「律法全体の中で最も大切な戒めは何か」と質問した律法の専門家に、キリストは次のように教えている。 

     

    「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

       神が私たちを御自分の御子のような者としてくださるなら、私たちは他の如何なるものにも勝って父なる神を愛し、隣人(特にキリストにある兄弟姉妹)を愛さないではいられない筈である。実際に、キリストは死なれる前に、「互いに愛し合いなさい」という戒めを特に強調しておられたことを覚えよう。隣人を自分自身のように愛することについて、主イエスは御自分の弟子たちに新しい戒めを与えられた。即ち、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネの福音書15章12節)という戒めである。これは、モーセ律法よりも私たちから多くを要求するものである。私たちにとっては、単なる自己愛ではなく、キリストの教会に対する愛が基準なのである。 

       神は、私たちが御自分の御子のような者となるように働いておられる。即ち、それは神が私たちの心をきよめ、私たちに御自身を愛する愛を与え、互いに愛し合うことの意味を私たちに教えておられる。その為に、私たちの道にあらゆる種類の試練をも与えてくださるのである。神に対する愛を私たちは持っているけれども、その愛には塵芥が付着している。まだ純金になってはいない。その塵芥(罪深さ)を取り除くためには火で燃やされる必要があるのだ。ペテロは、ペテロの第一の手紙でその比喩を使って教えている。ペテロの第一の手紙1章を見てほしい。ペテロは、神の大いなる救いの素晴らしさについて語ったあとで、こう言っている。 

     

    そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

       「あなたがたは大いに喜ぶこともある」とは書かれていない。クリスチャンは、「大いに喜んでいる」のである。その喜んでいる姿がクリスチャンの普通の姿なのである。「今は、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならない」と言っているが、喜んでいると同時に、悲しむこともある。ペテロはここで、私たちが罪を犯す時、神は私たちを懲らしめると言っているのではない。それも否定できない真理ではあるが、この箇所のポイントは別にある。ペテロが言わんとしていることは、私たちの罪の性質のことなのだ。神が私たちの生活の中にある罪の実を取り扱うというよりも、むしろ罪の根を火によって滅ぼすように働いてくださるということを言っているのである。

       私たちの信仰は金のように尊いものであるけれども、金は火を通して精練されなければ純金にはならない。私たちの信仰を浄化して純粋なものにするために、神は火の試練をもって私たちを訓練し、成長させてくださるのである。神に対する愛を、真に深い愛に成長させるために、神は試練を私たちに与えなければならない。罪人の愚かさのゆえに、私たちは何らかの試練を通してでなければ学ぶことができない。試練が与えられなければ、決して学ばないからである。ヘブル人への手紙2章のところで説明されているように、主イエス・キリストは完全な救いを与える忠実な大祭司となるために、苦しみと試みに遭わなければならなかった。救い主として十分かつ完全な働きをするために、私たちと同じようになってくださり、私たちが遭うであろうすべての苦しみを受けてくださらなければならなかったのだと、パウロは説明している。

       30年間、主イエス・キリストはいろいろな試練に遭われたが、最後の3年間の中では特に大きな苦しみに遭わなければならなかった。そういう意味で、主イエス・キリストは真のヨブだと言えよう。ヨブに試練が与えられたのは、自分が何か罪を犯したからではなかった。罪に対する懲らしめとして与えられた試練ではなかった。しかし、その試練が与えられなければ成長できないところがヨブにあったのは事実である。ヨブは特別に罪を犯したわけではないが、それでも罪人であることに変わりはない。アダムが罪を犯さなければ、誰も苦しみにあう必要はなかったが、アダムの罪の故に、私たちの心の信仰や愛は、塵芥が付着している状態にある。神はヨブに試練を与え、それによって、神について更に深く知るように導かれ、ヨブの心にある愛と信仰が浄められ、ヨブは大きく成長した。

       私たちのことを中から人間として理解するために、主イエスは御自分も試練に遭わなければならなかった。その試練と受難によってキリストは完全な救い主となられたのである。もしキリストが試練を避けたなら、私たちの救いは全く望めなかったのである。主イエス・キリストでさえも、私たちの救い主となられるために、試練に遭わなければならなかったのであれば、私たちが試練に遭わなければならないのは当然なことなのだ。しかし、そのすべての試練の目的を一言で言うならば、「私たちが、キリストに似た者となって、神に対する愛を持つことができるように導くため」なのである。試練によって精練され磨かれることによって私たちは「主イエス・キリストに似た者」に変えられていくのである。神に対する愛、そして神の民を愛する愛を持つように、神は私たちを導いてくださる。それが与えられるすべての試練の目的である。それによって、私たちはキリストに似た者となるのである。

       神は、主イエス・キリストの十字架の働きを祝福してくださり、私たちを御自分の御子のために救ってくださって、私たちをキリストに与えるのである。そのことはヨハネの福音書17章にもあるが、そのように私たちは、キリストの観点から見るなら、御父から御子に与えられた贈り物なのである。そして、主イエス・キリスト、御父、御霊は、私たちを祝福して導いてくださる。そうしてくださる目的は明確なものである。私たちが、愛において完全な者となるためである。それ故、クリスチャンは何なのかというと、「神を愛する人々」という言い方になるわけである。「神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」というのは、この人々がキリストに似た者になるようにすべてのことを祝福するということである。

       つまり、その人たちの神に対する愛が、本当に純粋に成長した愛になるように、神がすべてのことを働かせてくださるのである。神は、すべてのことにおいて、あなたも私も、キリストを愛し、御父を愛し、愛において本物になるように、本当に神を愛する者になるようにと、神はすべてにおいて導いてくださる。神がそのように働いてくださるときに、素直に従っていけばよいではないか。「神の目的はこうだから、私も同じ目的のために働こう」という心をもって働くものでありたい。神が、その目的を持ってすべてを導いてくださるのに、逆らいながら導かれても実は結べない。私たちも、神を愛する者として、キリストに似た者となるように喜んで従っていけばよいではないか。

       主イエス・キリストと同じ目的を持って、キリストに似た者となることを祈りにおいて求め、毎日の生活の中でその意味と目的をしっかりと覚えて具体的に求めて生きるなら、もっと祝福されるであろう。ブツブツ言いながらも、イスラエルは荒野で40年間も導かれたけれども、ブツブツ言う者は、神を愛する者かどうかがわからなくなることもある。しかし、ブツブツ言いながらもイスラエルは言わば強制的に導かれたのである。それは神の御恵みであった。しかし、喜んで神を愛して歩むならば、神の目的はもっと早く果たされるし、もっと楽しく、もっと深い喜びを伴ってその目的は果たされるであろう。

       それにしても、神の目的は絶対に果たされるのである。神の民が愚かなために、神の働きに誰も協力しないとしても、神は御自分の計画を確実に果たされるのである。神は絶対に私たちに必要なものを与えてくださって、私たちを成長させてくださる。私たちの心にある塵芥を、神は必ず取り除いてくださる。そういう意味で、私たちは、いのちを神にささげて、「私はあなたのものです。あなたのために生きます。キリストに似た者となることをひたすら求めて、あなたに従います」と告白して、神の愛に応えるのである。そのように素直に従うとき、神の導きはもっともっと楽しくて喜ばしいものであることを知るであろう。そうして、私たちは、永遠の目的のための同労者となるのである。その方向に向って真に努力するならば、必ずやそれは実るはずである。

       そんなことクリスチャンなら誰でもよくわかっているのに、なぜ繰り返し言うのかというと、皆さんは私と同じように愚か者であると私は思っているからである。当然でよくわかっていることなのに、はっきり言われなければならないこともある。聖餐式のとき、私たちは繰り返し繰り返し言われていること、そして繰り返し繰り返し行なっていることを、再び行なうのである。再認識して、神に感謝し、そして聖餐式において神御自身に契約のしるしを見せているのである。

       神に見せる契約のしるしは、キリストのからだを表わすパンとその血を表わす葡萄酒である。これはキリストの死のしるしである。それを神に見せるときに、「どうか主イエス・キリストの死を覚えて私たちを祝福してください」と祈るのである。「私は、あなたのものです」と神に告白しているのである。そのパンと葡萄酒を受けるとき、私たちは自分を神にささげており、信仰を告白しており、献身しているのである。そのことを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2001年1月28日――


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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