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    ローマ人への手紙9章30〜33節


    9:30 では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。

    9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。

    9:32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

    9:33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

    2001.05.13. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    私の民

    9章30〜33節

       「なぜイスラエルは神から離れたのか」という疑問が自然に起こり、教会の中に躓きが起こる可能性があったので、「アブラハムの時にも、選ばれている者と選ばれていない者との区別はあったのだ。真の民と、そうでない民はアブラハムの時代にもいたのだ」とパウロは説明している。神の約束は、アブラハムの肉によるすべての子孫が救われて、すべての子孫が神の民となるというものではなかったのだ。アブラハムに二人の子どもがいて、一人は約束の子で、もう一人は約束の子ではなかった。イサクにも二人の子がいて、一人は約束の子で、もう一人はそうではない。エジプト時代のイスラエルのことやホセアの時代のイスラエルの歴史を指したり、イザヤ書を引用するときもパウロは「残りの者たちが救われる」と説明している。すべては神の契約の真実を語っているのだ。

       神に選ばれた者においてそれは明らかに見られることである。「神は契約を守ったのか。神は約束を守ったのか」というと、答えは「然り」である。それは、明らかに見ることができる史実である。しかし、契約が何であったのかを誤解してはいけないと、パウロは教える。そのことを旧約聖書から説明しなければならない。以前も話したように、当時のイスラエルはどのように神の契約について考えるようになっていたかというと、「アブラハムの子孫であり、またイスラエルであれば、自動的に恵みを受ける」というような考え方になってしまっていた。アブラハムの子孫であるなら、絶対に地獄に行くことはないと考えた。割礼を受けたなら救われると思っていた。「そのイスラエルが神から離れている」ということを説明するとき、パウロは、「これはこの世代に始まったことではない」と言うのである。これは旧約聖書の中で何回も繰り返し出て来ていることなのだ。

       それだから、9章30〜33節のところは、9章1〜29節の結びとなっていると言える。また、10章の話は9章30〜33節の箇所を説明するものである。9章30〜33節は、9章の議論の結論として見るべきか、あるいは10章からの議論の序文として捉えるべきかは意見が分かれるところである。9章30節から10章の話は始まっていると考える方が適切かもしれない。30節の「それでは、どういうことになりますか」という最初の質問は、9章の今までの箇所と非常に固く結び付いていることがわかる。「今まで話したことを、どうまとめるべきだろうか」というわけである。そして、10章では、9章30〜33節のポイントをさらに深く説明するものとなっている。即ち、福音に対するイスラエルの反抗的な態度という新しい主題がここから始まり、それは10章の終りまで続くのである。

       そのようにこの文脈の前後の関係をよくとらえながら読んでほしい。しかし、私たちの聖書の区分けがどうしてこうなっているのかというと、10章の最初に語っていることが9章の最初のところで語った祈りをもう一度話すものになっているのだ。9章の最初では、「もし許されるならば、ユダヤ人が救われるためなら、自分のいのちを捨ててもよい」とパウロはユダヤ人に対する祈りの心を証ししている。10章の最初も同じポイントである。そして、10章全体は9章30〜33節を更に広く説明している、という観点からすれば、10章は9章30節からはじめてもおかしくない。10章からの説明の導入として「では、どういうことになりますか」という質問を投げかけていると考えてよい。今まで、神の契約の歴史を通して神がどのようにイスラエルを導いてくださったかを見てきたが、「それでは、今私たちがいる状態はどういうことになるのか」と言うわけである。

     

    異邦人

       パウロの時代のイスラエルは、バビロン捕囚の頃のように頑なになっていた。それで神は、イスラエルの中の「残された者たち」だけでなく、いまや異邦人をも召してくださった。神から遠く離れ、神の民ではなかった人々が、御恵みによって信仰に導かれ、神の新しい契約の民に迎え入れられるのである。

    では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。

       「義を追い求めなかった」という言い方は非情に面白い。異教世界の道徳レベルは明らかに低いとはいえ、「異邦人は義を追い求めなかった」というパウロの言葉は、異邦人が極度に不道徳だという意味ではない。パウロが義について語るとき、律法が要求する義を想定しているのだ。神にささげる愛の結果として神と人とを愛するようになったとき、その義は始まる。ここで使われている「追い求める」という言葉はとても強い言い方である。何かを追い求めるという意味は普通に使われるが、原語の意味には「迫害する」という意味もある。つまり、そこまで激しく何かを求めるという意味の言葉が使われている。異邦人はそのようには義を求めなかったのである。

       パウロは何を言おうとしているのだろうか。「異邦人は、義しさについて考えもしなかった」と言っているのか。そうではない。異邦人の中にも有る意味では義を求める人はいたであろう。クリスチャンでない人たちの中にも、「世を正さなければならない」と訴え、不道徳な世を嘆く者たちはいる。歴史の中には、真剣に正しさが行なわれることを求める人たちがいた。孔子もその一人に数えられよう。正しさは、彼の教えの中の重大な要素であった。崇高な心を持った異教徒もいた。昔の多くの宗教の指導者たちも何かの意味で“正しさ”を求めていたと言える。法律家や政治家の中にもそういう思いを抱いた人間はいつの時代にもいたであろう。世直しを生涯の目標にした人たちは日本の歴史にもいた。自分の栄誉のためということでなく、真剣に世直ししなければならないと思った人たちがいるはずだ。

       それなら、「異邦人は義を求めなかった」とはどういう意味なのか。それは、「どの国にも正しさを求める人間がいない」という意味ではなく、ここでパウロが言う「」とは、パウロはここまでずっと説明してきたところの「」について言っているのである。創造主なる神の律法が要求する義である。その義を求める者はいない。ローマ人への手紙の冒頭で、人間の罪について話すとき、パウロは二つのことを指していた。即ち、神を無視することと、不義を行なうことである。異邦人の罪の問題は、みんなが銀行強盗とか殺人犯や偽りを語る者だとか、姦淫をする者だということではない。異邦人の罪の最も深いところの問題は、神に対する不敬虔であり、神を無視して生きることなのである。現代日本の多くの人がそうであるように、彼らにとって、偶像を拝むことは重大な罪だという聖書の教えを理解するのは至難のことであった。なぜなら真の神とどのような関係を持つかは彼らの「義」にとって本質ではないからだ。そのことをパウロは最初から説明している。

       異邦人の罪について話すとき、パウロは、「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず」というところから始めている(1章21節)。神に正しい礼拝をせず、自分を創造したまことの神に対して感謝する心もなく、別に偶像を作ってそれを礼拝し、別の道を歩んでいる。2章にあったように、たとえ何かの意味で正しさを考えているにしても、自分が作ったその正しさの基準を自分で違反し、それを守ることもできない。クリスチャンでない人たちだけでなく、私たちも例外ではない。本当の義とは何なのかというと、真の神を愛するというところから始まらなければ、それはパウロが話している真の義ではない。人間的な正しさをどんなに求めても、それは真の正しさからは遠く隔たったものでしかない。

       前にも話した例だが、自分の父と母を憎む者の憎悪が最も際立つのは、父と母を無視することである。父と母が存在していないかのようにして生きるのが最大の憎しみの表現である。子を愛してすべてを子に与え、あらゆる面ですばらしい良い父母を例に考えた場合、その子は社会に対しては何も悪いことはしないし親切で誠実で普通に生活していても、両親について聞かれると「私には両親なんかいません」と言い、両親と顔を合わせても挨拶もしないで全く無視するなら、その子は正しい人と言えるだろうか。良い人と言えるだろうか。そんなことはない。自分の父と母を愛することができないなら、たとい社会全体に対して親切であっても、それはだめなのである。

       モーセの十戒の第五の命令は「父と母を敬いなさい」である。それは、クリスチャンではない両親に対しても例外なく適用される命令である。はっきり言えば、ひどい父と母であっても、この命令は守られなければならない。そして、クリスチャンでない人たちに福音を伝えようとするときにそのことを話しても、「それは、よくわかります」と彼らは言うのである。「では、あなたをお造りになった天の父に対して、あなたはどうなんですか」という話になる。「すべてが天の父から与えられているのに、あなたは感謝もせず、認めもせず、宇宙を見てそれが偶然に出来たという馬鹿げた話を信じ込んでいる」と言うと、「私にはよくわかりません」と答えるかもしれない。わからないのではなく、わかりたくないからわからないのだ。求めないから、わからないのである。

       天の父を無視して生きる人間が義を求めているのかというと、決して求めてはいないのである。真剣に義を求めるというのは、創造主であり父である神を愛し、神を礼拝し、その真の神に感謝をささげるところから出発するのである。そこで終わるのではない。そこで始まるのだ。律法と預言者のすべてが二つの命令にかかっているとキリストはマタイの福音書22章37〜40節で言っておられる。

    そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

       第一の命令を無視し、それを気にもせずに生活を送るなら、第二の命令も本当の意味では守っていないことになる。そして、正しさをも求めていないということになるのである。なぜなら、「律法のすべてがこの二つの命令にかかっている」からである。クリスチャンではない立派な異邦人たちは、第二の命令を第一の命令のように考えたり解釈したりして、第一の命令を取り消してしまうのである。それは第二の命令の意味をも変えてしまうことになるので、本当の意味で両方の命令とも守っていないことになる。それ故、この「異邦人は義を求めていない」ということを、そのキリストの二つの命令から考えてみれば意味はよくわかることである。

       このように「」という言葉の意味全てについてのアプローチが非常に異なるものなのだということを考えれば、「異邦人は義を追い求めなかった」というパウロの言葉の意味がわかると思う。本当の意味で義を求めるということがどういうことなのかを考えるなら、パウロが何を言っているかは簡単にわかるはずである。「義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です」とパウロは言っている。ということは、もう既にパウロの時代の教会では異邦人の信者の方がユダヤ人よりも多くなっていたのだ。異邦人は義を求めなかったのに、義を得た。すべての異邦人ということではないが、異邦人の信者が急増したのである。

       パウロはどこかの町に入って福音を伝えるときに、まずユダヤ人で信じる人も出て来るが、福音に反対するユダヤ人の方が多かった。それでパウロはユダヤ人の集まりから離れて、異邦人に福音を伝え、異邦人の信者の数はユダヤ人よりもずっと増えていった。義を求めなかった異邦人が、義を得た。それはただただ「信仰による義」であった。彼らは主イエス・キリストとその十字架の話を聞いてキリストを信じたのである。義を考えないで生活していたのに、キリストの救いの福音を聞いたときにキリストを求め、キリストを信じて義と認められた異邦人が大勢いる。これは、神の選びと導きの話のまとめのところでパウロが語っていることである。

     

    律法に到達しない

       31節は、「しかし、イスラエルは、義を追い求めたけれども、義を得なかった」というふうに続くはずだと自然に思ってしまうところだが、パウロの言い方はそうではない。そして、この言い方の違いは非常に大切なことを教えている。だから、注意深く31節と32節をみてほしい。

    しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。

       イスラエルの問題は、義の律法を追い求めたか追い求めなかったかにあるのではない。彼らが義の律法を追い求めていたことじたいが問題なのではなく、「到達しない」ということが問題なのだ。では、なぜ到達しないのか。それは、「行ないによるかのように」律法を追い求めたからである。律法は、信仰によるものなのだ。義の律法を正しく求めるならば、必ず信仰に導かれるはずなのだ。だから、律法そのものが問題なのではない。何が問題なのか。「イスラエルは律法を求めたが、それは信仰によってではなかった」とパウロは言う。彼らは行いによって義を得ることができると思っていた。神の義の律法の教えは、「行ないによって義と認められる」という教えだろうか。決してそうではない。それは信仰の教えにほかならないのである。「本当に正しく律法を求めるならば、信仰の教えを知るようになり、信仰によって義と認められるはずだ」とパウロは言っている。

       素直に考えてみればパウロの言いたいことはよくわかると思う。もし彼らが正しく律法を追い求めていたとしたら、律法が教える義に到達していたはずなのだ。律法がイスラエルを律法主義に導いたのではない。イスラエルの律法の教えについて言えば、モーセの十戒の最初の部分を簡潔にまとめるならば、「真の神を信じて、他の神々を信じるな」ということになる。神の律法は、「神はあなたがたを愛しているので、あなたがたも神を愛しなさい」という教えで満ちている。それは決して「行ないによって義と認められる」という教えではない。「神はアブラハムを愛し、アブラハムのゆえに、あなたがたに契約の祝福を与えた」ということを、モーセは出エジプト記の中でも申命記の中でも話している。だから、その律法を読むイスラエル人は、「神の方が一方的に私たちを求めて愛して祝福を与えてくださった。だから私たちは、その祝福に答えて神を愛すべきである」という信仰の道をモーセが教えているということを知るはずであった。そこに本当の義(正しさ)がある。

       そして、モーセの命令は沢山あって614の命令があると言われている。モーセの律法の命令の一つ一つを見ても、「あなたが良い行ないをすれば救われる」という教えはどこにもない。特に犠牲制度を見れば、律法が教えていることは明らかである。毎朝、そして毎夕、イスラエルの代表者である祭司たちはいけにえをささげなければならなかった。そして、毎年三回、二十歳以上のすべての男性はエルサレムに集まって家族の代表としていけにえをささげなければならなかった。大祭司は年に一度、特別な贖いをささげなければならない。イスラエルの一年間でどれほど多くのいけにえがささげられなければならなかったかを民数記から見ることができる。いけにえとしてささげられる牛や羊等の動物の数は膨大なものであった。

       ただその動物を殺すのではなく、自分の手をその動物の頭の上に置いておいて、自分の罪を告白したうえで屠るのである。いけにえは贖いの意味を教える象徴的な行為であった。罪を悔い改め、罪の赦しのためにいけにえを神にささげる。それは律法の中心なのだ。イスラエルの一年間のカレンダーは全部いけにえをささげる祭りが中心となっていた。犠牲制度を守ることによってイスラエルは罪の責めを受けており、罪から贖われるためには犠牲の血が流されなくてはならないということであった。割礼も、肉(包皮)を切り取って捨てるという大変な儀式であった。エレミアやエゼキエルは「心の割礼」について話しているが、そこでも神は割礼の霊的な意味を十分にイスラエルに教えているのである。

       人間の死体に触れる者は七日間汚れるので、洗いきよめをしなければならないと定められている(民数記19章)。動物の死体に触ったときも汚れるので、汚れをきよめる水で身を洗ってきよめなければならない。何にどのように触れたかによって、その触れた日の夕方まで汚れる場合があり、七日間汚れる場合もある。そのような多くの律法がイスラエルに与えられて、「あなたは罪人であって、真剣に自分の罪を悔い改めて神の赦しを求めなければ救われない。汚れたままで神との交わりを持つことは許されない」ということを教えている。神殿は大多数の人には閉ざされており、祭司だけが聖所に入ることが許されており、大祭司だけが年に一度至聖所に入ることが許されていた。他の者が入ろうとすれば神に殺される。それによって、招かれていないということを悟るはずである。「あなたの家に入ってもいいですか」と尋ねると、「入ってはならない。入ったら殺す」と言われれば、入ってはいけないことがわかるわけである。

       そのように神は、イスラエルの真ん中に住んでおられた。神はイスラエルをいじめているのではなく、愛しており、祝福を与えようとしている。しかし、神に近づくことは許されない。近づけば、殺されるのである。なぜなら、イスラエルは罪に汚れているからである。「あなたは罪に汚れているので、わたしに近づくことはできない。罪あるままでわたしに近づくなら、わたしはあなたを殺さなければならない」と、それらの定めによってはっきりと教えられている。イスラエルは、殺さなければならないほどに罪に汚れていているので、聖い神に近づいてはならないのである。そのことを一年を通して、毎日、朝も夕も、汚れを洗いきよめるために、自分の罪が取り除かれるために、イスラエルは続けて、繰り返し、いけにえをささげなければならなかった。

       そのポイントがわかってもらえただろうか。「行ないによって義と認められる」というような教えが、聖書のどこにあると言うのか。どうしてそんな教えに成り得るのか。繰り返されるいけにえの儀式を行なうとき、むしろ、跪いて、涙を流して、胸を打ちたたいて、「神さま。この汚れた罪人をお赦しください。私を救ってください」と祈り求めるようになるはずではないのか。義の律法を追い求める人間が、どうして信仰の結論に至らないのか。それは、「まるで行ないによるかのように追い求めたから」なのだ。つまり、彼らは、まるで義の律法の命令は人間の行ないの功績を積み上げるためにあるかのように考えていたのである。

       パリサイ人たちはその典型であった。安息日を守っているか否かについて繰り返しキリストと闘った。「行ないによる」ということは、人に親切にするとか、勤勉に働くとかいうような話ではない。「イスラエルは、行ないによって義を求めていた」と言うとき、ちょうどパリサイ人と主イエス・キリストとの闘いと同じようなことについて考えているのである。キリストが安息日に人を癒すと、「それは罪だ」と彼らは言う。その理由によってパリサイ人たちはキリストを殺すことを企てるようになっていく。

       キリストの真に良い義の行ないが、パリサイ人たちにとっては嫌悪すべき罪であり、悪であり、してはならないことであった。なぜかというと、自分たちの言い伝えの中に「安息日を守ることとはこういうことだ」というようものがあって、「それを行ないさえすれば律法を守ることができる」と考えていたからである。律法についての教えも神の愛についての教えも全部忘れて、律法の中の文字に厳しくこだわり、神を愛することを求めず、隣人を愛することをも求めず、やもめや孤児や苦しんでいる人たちを顧みることをしない。彼らは行いによる救いを教えて律法を曲げ、神から離れた。

       彼らは行ないによる救いを語るにもかかわらず、律法が教えている道徳的な良い行ないや隣人を愛することは念頭になかった。彼らは安息日、十分の一献金、洗いきよめの儀式、割礼などに関する律法には熱心だったが、その一方で貧しい者をさげすみ、自らの行ないの聖さを誇っていた。そのような生き方を主イエス・キリストは厳しく叱っておられる。そのような意味で、「彼らは行ないによるかのように求めている」と言っているのである。パリサイ人たちの律法の守り方は、律法の意味を完全に駄目にしているのである。そういうわけで、パリサイ人たちの問題は律法を守りすぎるということではなく、律法に到達しないということなのだ。「義に到達しない」とは、律法の本当の教えを悟らないということなのだ。

       つまり、「彼らは、つまずきの石につまずいた」のである(32節後半)。この「つまずきの石」とはメサイアのことである。これは、非常に深い皮肉である。モーセの律法の中のレビ記19章14節を見ると、「あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない」と書いてある。「盲目な人の前につまずきの石を置くな」という命令である。それは比喩的な言い方である。いろいろな意味で人の前につまずきを置くことができる。このモーセの律法の命令は、旧約聖書にも新約聖書にも沢山適用されている。そこには深い意味があるのだが、「つまずきの石を置く」の適用の一つには、「人が罪を犯すように導く」ということがある。

       少し横道に反れるが、人を怒らせるとかがっかりさせるとかの意味に解釈されたりするが、アメリカの福音派の中には驚くほど厳しく「アルコールを飲んではならない」ということを強く主張する人たちがいる。私たちは葡萄酒を聖餐式の中で使っているが、「それは罪だ」と彼らは非常に強く激しく教えている。それで、聖餐式に葡萄酒を使うなら、それはつまずきの石を置くことになると、彼らは考えている。「私たちのつまずきになるのだから、それをすべきではない」と彼らは主張する。しかし、問題は全く逆なのだ。私が聖餐式で葡萄酒を飲むとしても、また食事の時にビールを飲むとしても、それはその人たちを罪に導くことにはならないのである。むしろその人たちは良心を神の律法の地位に置いて私を縛ろうとしている。話はぜんぜん違うのである。

       私は人々の良心を縛って「私はこの事につまずく。私は黒い靴につまずく。私はビールにつまずく。私はあなたの顔につまずく」とか言うのはまったく馬鹿げた話である。周りの人が何につまずくかによって私は生活のすべてを変えなければならないのではない。「つまずき」とは、例えば私が食事のときにビールを飲んだとする。隣に「ビールを飲んではいけない」と思っている人が同席している。もし、その人に無理矢理ビールを一緒に飲むことを強いるなら、それは確かにその人がつまずくように影響を与えることになるだろう。その人が罪だと思うなら、飲まなくてもよいのだ。しかし、聖餐式の時には葡萄酒を飲まないという選択肢はない。聖餐式だけは主御自身が葡萄酒を飲むように命じておられるので、それを正しく守らなければならない。それは神の命令であるから、飲んでも問題にはならない。

       しかし、食事等の時には、飲みたくなければ飲まなくてもよいのである。無理に飲むようにプレッシャーをかけてはならないのも事実である。相手が罪だと思うことを相手に強いてはならない。例え、拒絶するその人の考え方が馬鹿げているとしても、疑いの心をもってそれをするように強いるなら、それは罪を犯させることになる。ユダヤ人は、「安息日はとにかく守らなければいけない」と思っているが、パウロはそのことはもう変わったと教えた。しかし、どうしても今までのようにそれを守らないと罪になると思うなら、自分でそれを守ればよいというわけである。しかし、他の人にもそれを強いてはならないと、パウロはユダヤ人たちに教えた。ユダヤ人の良心をもって異邦人を支配してはならないのである。

       「つまずきを置く」ということは、それによって相手がつまずいて罪を犯して神から離れていくという話なのだ。人が罪を犯すような影響を与えてはならない。盲目の人の前につまずきの石を置くとはそういう意味のことである。理解の足りない人間に悪い影響を与えて、その人が罪を犯すように誘うようなことをしてはならないのである。疑いをもって行なうなら罪に定められるのだ。実際に預言者の書のいろいろな箇所にも出て来ることだが、イスラエルの指導者たちは、イスラエルが偶像を礼拝するように導いてしまったのだ。御言葉を教えるはずの祭司たちが御言葉を教えず、イスラエルに正しい教えを与えなかったので、イスラエルは盲目になってつまずき倒れてしまったのである。そのことを神はエゼキエル書やエレミヤ書、ホセア書などで語っている。その意味で、悪い教師たちは悪い影響を与えて、神の民が平然と偶像礼拝をするようにさせ、神に対して罪を犯させるようにした。つまり、彼らはイスラエルの民の前につまずきの石を置くことになってしまったのである。

       旧約聖書の中ではそのことが至る所に出てくるが、新約聖書になると異邦人とユダヤ人の問題が出て来る。服装について、食べ物について、日について、律法の考え方等においてユダヤ人と異邦人に違いがあるのは当然である。そのようないろいろな違いが出て来るときに、「つまずきの石」を置くということは、相手が罪を犯すようにさせることである。ユダヤ人が心において安息日を守らないのは悪いことだと思っているのにそれをさせないのはいけないことであるし、ユダヤ人が異邦人にそれを強いるのもいけない。そのことをパウロは教えている。しかし、「皮肉な言い方」と私が言うのは、ホセア書14章9節を見ればわかると思う。

    知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。

       ここでは「つまずきの石」と同じ言葉が使われている。悪者は神の道につまずくのだ。神の命令につまずく。神の命令に耐えられないのだ。知恵ある者と悟りある者は、神からその道を教えられるときにその道を踏み歩むことができる。愚かで背く者は神の命令につまずくのである。そして、これはローマ人への手紙7章のところでパウロが別な意味でもっと深く説明しているところである。律法の命令が与えられたことによって、神に逆らう心がもっと激しくなったと、パウロは話している。「むさぼってはならない」と言われなかったら、私はむさぼりを知らなかったであろうと、パウロは言う。「むさぼるな」と言われたことによって、激しくむさぼるようになった。何が悪いのか。命令が悪いのか。断じてそうではない。「私の心の罪が、私に死をもたらしたのだ」とパウロは説明している。

       ある意味で、神の命令はつまずきを与えるということをパウロはローマ人への手紙7章で説明したと言ってよいが、何という皮肉か。神の命令は道の光であり、その道は平らであり、神の命令を守って歩むならつまずくことはないのである(詩篇119篇165節)。その中で彼らはつまずくのである。しかし、もっと深い皮肉がある。それは、イスラエルにとってのつまずきが神御自身だということなのだ。イスラエルのつまずきは主イエス・キリスト御自身である。「つまずき」という言い方を救い主キリストについて語るのは信じられないことであるが、イスラエルは彼らの贖い主、神につまずいたのである。パウロはこう説明している。

    それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

       これはイザヤ書の二つの箇所を一つにまとめて引用しているものである。その一つはイザヤ書8章14節である。8章1節で神はイザヤに、大きな板に「マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため」と書くように命じた。これはイザヤの息子の名である。なぜその名を付けたのかというと、「この子がまだ『お父さん。お母さん。』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである」と記されている。つまり、「あなたの物は、あなたを攻撃する異邦人に略奪物として全部奪われるであろう」という意味であり、これはイスラエルに対する裁きの宣言なのだ。イザヤは、アッシリアが来てイスラエルを裁くことを宣言したのである。そのことを宣言するとき、イスラエルの中には神を恐れる残りの者たちがいた。彼らは神の御言葉を慕い求め、神は彼らと共におられた。12節では、「イスラエルの民の恐れるものを恐れるな」と言っており、13節と14節で神はこう言っておられる。

    万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。

       神は、私たちにとって聖所となられたが、イスラエル全体にとっては「つまづきの岩」となられる。神を信じる者にとっては「聖所」となるその聖なる御方が、イスラエルの住民にとっては「妨げの石とつまずきの岩」になると言うのである。これはイザヤ書に書いてあることであり、イスラエルの歴史のことであると、パウロは話している。キリストの時代に同じようなことが起こったのだ。神を憎む者には、神御自身がつまずきの岩となるのである。

       もう一つの箇所は、イザヤ書28章である。1節で神はイスラエルに対する裁きを宣言しているが、3節のところで、酔いどれて誇っているエフライムがどのように裁かれるかが宣言されている。7節もその酔っぱらって混乱してふらついているエフライムのリーダーたちのことが語られているが、それは旧約聖書の中では重大なことである。これは創世記で既に記されていたことなのだ。葡萄酒はいつも王に与えられており、王は葡萄酒を飲んで国を治めるとある。しかし、悪い王は酔いどれてとんでもない裁きをし、良い王は正しく葡萄酒を飲んで平和のうちに国を治めるという区別が書いてある。それ故、ソロモンの箴言にも酒に酔うことは悪であることが書いてある。預言者たちの書にも、イスラエルのリーダーたちが酒に酔って悪い裁きを行なうことが出て来るが、反対にヨセフは偉くなったときに葡萄酒の杯を手にすると書いてある。祝福された正しい王は祝福として葡萄酒を飲むということも記されている。

       良い王は葡萄酒を正しく祝福として用いるが、悪い王は酔って悪い裁きを行なう。イザヤ書28章でも7節で、イスラエルの悪い指導者たちは酒に酔ったりして「さばきを下すときによろける」と言っている。この「よろける」という言葉は、へブル語では「つまずく」と同じ言葉である。だから、この「よろける」ということも、「つまずく」という主題の中で理解されなければならないことである。そして、イスラエルのリーダーたちは、「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから」と言っていた(28章15節)。それ故、神は次のように彼らに告げたのである(16節)。

    だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。

       この16節がパウロの二つ目の引用箇所である。このイザヤ書28章16節と8章14節をパウロは引用している。この二箇所は全体の流れとしてイスラエルに対する神の裁きについて話している。パウロはその流れ全体を把握して簡潔に引用している。神はシオンに一つの石を礎として据えたが、イスラエルのリーダーたちは神が据えたその礎の石を信じないので、それにつまずくのである。イスラエルは結局自分の神につまずくのである。礎の石(土台)となるはずの石が、つまずきの石になった。同じ石なのに何がどう違うのかというと、信じるかどうかが問題なのだ。信仰が問題なのだ。イスラエルは御自分の礎である神を信じるか信じないかによって、その石につまずくのか、あるいはその石を礎石として堅く築き上げるかが決まるのだ(ペテロの第一の手紙2章5節参照)。すべては神御自身に対する応答に戻るのだ。

       問題はこの律法とかあの律法とかではない。安息日の解釈がどうなのかによるのではない。天の御父を信じ愛しているかどうかが問題なのだ。すべてはそこに戻る。「神に信頼する者は、失望させられることがない」とある。主イエス・キリストがイスラエルに来られたとき、彼らが律法の真の心から離れていることが完全に暴露された。イスラエルは天の父に対する心が悪かったので、天の父に対するその不信仰な汚れた心をキリストに対して表わしたということになる。キリストこそ律法をお与えになった神であられるのに、彼らはそのキリストを受け入れず、心から憎んだ。

       彼らはつまずきの石につまずいた。この皮肉は強烈だ。イスラエルの神がご自身を救いの岩として彼らにお与えになったのに、彼らはキリストの御言葉、キリストのご臨在、キリストの行われたことに一々つまずき、キリストのすべてがつまずきとなった。御父を愛してはいないので、御父が遣わした御子をも愛さない。それで、イスラエルは神が与えたその尊い礎の石につまずいたのである。よく引用される箇所として詩篇118篇の22節があるが、21節から24節のところを一緒に見たい。

    私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

       家を建てる者たちが捨てた石、それが家の礎石となった。これはイスラエルがバビロンから帰還した時の話であるが、新約聖書では、これはすべて主イエス・キリストに適用されている。神御自身がイスラエルの礎石である。イスラエルがつまずくのか、それともそれを礎とするのか、それがイザヤ書に出て来る話なのだ。イスラエルはキリスト御自身につまずいた。それがイスラエルの問題なのだ。つまずきの直接の原因がイスラエルの神御自身であった。これは大変な皮肉であり、深くて恐ろしい人間の罪の本質がそこに表われている。それだからパウロは9章の最後のところで、「イスラエルの問題は律法とか他の諸々のことよりも、何よりも最も深い根本的なつまずいてはならないところにつまずいたのだ」と説明するのである。

       ユダヤ人は義を追い求めたのに、義に到達しなかった。安息日とかいろいろな細かい定めとか律法の解釈がどうのこうのと騒ぐけれども、神御自身を忘れてしまい、神御自身を求めない。それで、神御自身が彼らのつまずきの石となった。しかしながら、これはすべての罪人の最も根本的な傾向なのだ。多種多様な道徳上の誤りの数々は二次的なものであって、神への愛が欠落していることが罪の本質なのだ。罪とは、神を憎むことである。罪は、ただ単に心の中にあれこれの傾向があるというような問題ではないのだ。罪の問題は、結局のところ、神を憎み、神を忘れ、自分を神にしようとするところにある。それが私たちの問題なのだ。そこから他のすべての問題が生ずる。私たちが罪を犯すのは、神を神として思わないところから出て来る。

       神を神として愛することをせず、神の命令を神に目を留めて守ることをせずに、命令の文字に目を留めている。或いは神でなく、自分のために命令を守ったりしている。ゼカリヤ書の中で、イスラエルが神に「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか」と尋ねたとき、神は、「この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したことがあったのか」とイスラエルに聞く(ゼカリヤ書7章5節)。すべて自分たちのためにやっていただけなのだ。自分勝手に自分のためにしていたのだから、止めようがどうしようが勝手にすればよい。

       マラキ書1章10節で神は言っておられるが、彼らがささげる礼拝について、「戸を閉じる人は、誰もいないのか」と神は言う。「あなたがたのいけにえはいらない」と神は言う。「あなたがたの祭りは受け入れられない」と言う。自分たちが取った後の残り物を神にささげ、捨ててもよいものを神にささげているイスラエルに対して、神は、「わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない」と言う。「わたしはあなたがたがささげる羊を実際に食べてるわけではない。それは象徴に過ぎない。それが何なのか、その意味を考えようともしないのか」と神に言われているようなものである。

       盲目の羊を神にささげたり、足萎えや病気の動物をささげたりして、それで神に礼拝をささげているつもりでいる。いろいろな事をして、安息日を守っているつもりでいる。しかし、神御自身に対する心はどうなのかを考えなければならないのだ。それ故、神はよくイスラエルを叱っておられた。そのことは旧約聖書の中に沢山出て来るし、最終的にメサイアが来られると、メサイアを拒絶して捨てるのである。これはアダムにある人間の罪の心そのものなのだ。キリストを十字架にかけ、キリストを殺す。何よりも、救い主イエス・キリスト御自身につまずくのである。キリストを憎んで殺したのはイスラエルだけの罪にとどまらない。それはすべての罪人の罪の心なのである。そのことをここから教えられると思う。

       私たちにも同じような心がある。人におもねってきれい事を言ったり、表面的にきれいな事ばかりしようとする。表面的なことを必要以上に気にして、そのために心と力を費やす。神御自身を本当に真剣に求めているかどうかについてはほとんど考えもしないのではないか。自分の心を本当の意味で改めようとはしない。それは私たちもすぐにしてしまうことなのではないか。イスラエルは神御自身につまずいて、表面的なことばかりに神経を注ぎ、神御自身に対する心を失ってしまった。神御自身を愛さない。その熱心は歪んだものとなった。それを見るとき、私たちはイスラエルの愚かさを笑うことはできない。そこで説教が終わるなら、それは実にどうしようもないことなのだ。そのことを私たちは自分に適用しなければならない。それは私たちも含めた罪人の罪の根本的な傾向なのだ。私たちも同じく罪人なのだ。神が私たちに聖餐式を与えてくださったのは、私たちがそのような罪人の心を捨てるためである。

       聖餐式の時に私たちは、神御自身を求めて、自分の罪を悔い改めて捨て、そして神が与えてくださった主イエス・キリストを覚えて、感謝して神の御名を賛美するのでなければならない。神の御恵みに対して感謝の心を持っていなければ、私たちは神に目を留めてなんかいないのである。感謝がなく、感謝できないのなら、私たちの目は正しいところに向けられてはいない。正しい所を見てはいないのだ。まことに神御自身に目を留めるならば、感謝の心に満ちて歩むはずである。その心があるかないかを見れば、それは明らかとなる。これはローマ人への手紙1章のことである。「感謝もせず」とある。それですべてがだめになるのだ。本当の神を神として見るならば、その主権を覚えるのであれば、感謝と礼拝の心は常にあるはずだ。

       しかし、誤解してはならない。ただ手を合わせて「感謝します」と可愛く唱えるようにと言っているのではない。神御自身に心から「神さま。あなたに感謝します。あなたの御恵みは私に十分です。心からあなたの聖い御名を賛美します」という心を持つことは毎日の当然あるべき姿なのだ。無理矢理そうするのでもない。神が誰なのか。どれほど大きな恵みと祝福を私たちに与えてくださったか。そのことを覚えるなら、その心は自然と溢れ出るはずだ。しかし、私たちはどうだろうか。いつもそれを忘れて、何でもかんでもちっぽけな事にたちまちつまずいてしまう。それは神の御恵みの大きさを忘れるからである。

       常に私たちの本当の問題は、律法の主な二つの重要な命令のうち、最初の命令によって明らかにされる。即ち、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することである。パウロの時代のユダヤ人の罪を見るとき、同じ罪が私たちの心にもあり、神につまずく可能性が私たちにもあることを覚えて、真に神を恐れてへり下ることを教えられると思う。聖餐式は、そのことを思い出させてくださるために与えられている。すぐに忘れてしまいがちな私たちに、神は御自分の契約の愛としるしを見せてくださる。それが聖餐式である。キリストのからだとその血を表わすパンと葡萄酒は、私たちに対する神の愛の証しである。神に信頼し感謝して受けるようにと教えてくださっている。それは、私たちの人生の岩となり尊い礎の石となる教えである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2001年5月13日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙9章22〜29節_

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