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    ローマ人への手紙11章33〜36節


    11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

    11:34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。

    11:35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

    11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

    2001.08.05. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    ああ、何と底しれず深いことか!

    11章33〜36節

       ローマ人への手紙11章33節から終りまでの箇所を考えたい。この箇所は、パウロが9章から語っていることの結論として、また、もっと広く見るならば1章からの結論として、神の御名を賛美し、礼拝の言葉をもって最後を締めくくっているものである。イスラエルの民に与えられた神の導きに関する神学的説明の終わりに、パウロの賛美が始まる。神の御計画そのものを見るところから、その御計画を立てられた神の知恵とその背後にある無限の知識へと話題は移っている。

       神の知恵と知識に加え、神の絶対的主権と超越的威厳もまた目立っている。神御自身とその属性の栄光を思うとき、パウロにできることは、ただ神を礼拝し賛美するのみであった。人間が知識を追い求めるとき、神を思い、その御名に当然帰すべき感謝を神にささげるという結論に至るほかないということをパウロは示している。これはローマ人への手紙1章18〜32節とはまったく対照的なことである。

    33ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。34なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。35また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。36というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

       神の知恵と知識の偉大さを讚え、そして栄光が神にのみ帰されるというところでローマ人への手紙は一つの段落を終えている。パウロは、神のご計画と導きとその救いの御業について、最後に礼拝の言葉をもって彼の説明を終わらせている。ここで、聖書の中での「知識を持つ」ことの意味を見ることができると思う。パウロは9章から、イスラエルと異邦人はどのような状態にあるのかを、異邦人の教会に説明している。異邦人の教会に説明するその終りのところで、パウロは三回も強調して言っている。18節で、「あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです」と言っている。20節では、「高ぶらないで、かえって恐れなさい」と命じており、そして25節で、「ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです」と言っている。そのようにパウロは三回も、罪人の傲慢に対する警告を鳴らしている。

       特別な御恵みが異邦人に与えられた。神はイスラエルを取り扱い、その罪を裁いた。そしてイスラエルの代わりに異邦人に御恵みを与えてくださった。「だから、気を付けなさい。だから、高ぶってはなりません。傲慢になってはなりません」と、強調して言うのである。「高ぶる心」の反対は「恐れる心」である。しかし、神を恐れる心とは、神を礼拝する心なのだ。正しく礼拝をささげる心である。そのことをこの箇所から教えられると思う。これは聖書全体の知識と知恵と理解などについての教えとして実に重大なことである。本当に何かを知ったなら、何かを理解したのであれば、本当の意味で理解しているのであれば、その理解はへりくだった心を与えるはずだ。

       理解したと思って傲慢になっているとすれば、本当の意味で理解はしていないのである。本当の知識は持っていないのである。浅はかな理解であって、神の御前では何一つ本当の意味では理解していないということになる。どの知識においてもそのことは真実である。知識について広い意味で言うなら、聖書の如何なる教えであっても、神の不思議な知恵と知識にぶつかることになるほかないのである。この世の学問は、どんな分野であっても、どの観点からであっても、それを深く学ぶなら、最終的には奥義にぶつからずにはおれない。

       それがコンピュータの事であっても文学のことであっても、或いは生物学であっても天文学であっても、物理学であっても数学であっても、ビジネスでさえそうであるが、十分に深く入るならば奥義にぶつかる。そして、神の御業を見ることになるのである。必ずや神の定めと導きを見ることになる。そういう意味で、本当に理解したと言うなら、神を恐れるところに終わるはずなのだ。礼拝するところに終わるはずである。しかし、罪人はその心において実に愚かなので、何かを理解した時に、直ちに心が高ぶって傲慢になってしまう。これは私たちがよくよく気を付けなくてはならないところである。

       例えば、パウロが異邦人に「イスラエルの不信仰によって彼らは折られ、あなたがたは特別な導きによって救われた」ということを説明するときに、異邦人たちに「そのことを知って傲慢になるな」と言わなければならなかったこと自体、実に不思議なことではないか。「神が、永遠の昔からあなたをお選びになった」とクリスチャンに言うとき、自然な応答として恐れと感謝の心を持つはずではないのか。ところが、そうではないのだ。「あなたは神の恵みによって特別に選ばれた」と言うとき、「傲慢になるな」という警告が続くのである。

       申命記でもそうである。神はイスラエルに対して、「わたしはあなたを愛し、アブラハムの故に、あなたがたを特別に選んでわたしの民とした。だから、気を付けなさい。傲慢になってはならない」と、神はイスラエルに警告しなければならなかった。「あなたは特別な恵みによって愛されたのだから、傲慢な心にならないで、真の恐れをもって感謝しなさい」と、罪人に言わなければだめなのである。何か特別なことを与えられたり、何か知識を得たり、何か特別に祝福されたりすると、自分が優れているかのようにすぐに思ってしまう。それが罪人の愚かさである。それ故、パウロはこのような厳しい警告を三回もこの最後の短い箇所で言わなければならなかったのだ。最後のところで、「誇るな」「自分を賢い者だと思うな」「高ぶるな」と言わなければならないのである。高ぶる心の反対は、へりくだった心をもって跪いて神を礼拝する心である。そのことをここから見ることができると思う。

       「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう」と、パウロは言う。神ご自身の知識と知恵はどんなに深くてどんなに不思議なものなのかを訴えているのである。神の知識と知恵を、私たちは絶対に最後まで知り尽くすことはできないものである。神のことを知れば知るほど、私たちは奥義にぶつかって自分の知恵をはるかに越える御方との交わりを持っているということを悟らされるのである。これは人間の間にあってもある程度感じるものである。相手と話しているとき、「この人は私よりもずっと頭脳と知識において優れている」と思わされることはよくある。どんな領域においてもそのことは言えると思う。カルヴァンやアウグスティヌスと交わりを持てば、そのことを深く感じさせられるであろう。しかし、それは単に人間同士のことに過ぎないのだ。永遠で絶対なる神と人間について言うなら、そこには比較できるような事は何一つないのである。

       それだから、神に言われるとき、素直に「はい」と言って従えば良いのだ。それが本当の知恵なのである。「神が啓示してくださったことを私は信じる。誰に何を言われても、私は私の主なる神を信じる」という応答をするなら、それこそ真の知恵となり、本当の知識となるのだ。神に言われたことを感謝して受け入れるのである。感謝して神の御名を賛美して従うのである。それが人間にとっては真の知識であり、真の知恵である。神は絶対者であって、その知恵と知識は無限に私たちの理解を越えるものなのである。その事実に直面させられていることをパウロは訴え、この結論のところで神を礼拝し、神の御名をほめたたえているのだ。33節の後半は非常に興味深い。

     

    神の道

    そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は何と測り知りがたいことでしょう。

       神は人間の「測り知ること」を超越しておられる。私たちには事の極みを探り尽くすことは決してできない。しかし、パウロが何を引用しているかを知らなければ、ここでのパウロの表現が話題にそぐわないように見えてしまうであろう。多くの人がこの33節のパウロの言葉のニュアンスを掴みそこなっているが、それは旧約聖書の中の「神の道」また「神の裁き」という表現の使用法をよく知らないことが原因なのだ。このパウロの言葉を読んでも気が付かないかも知れないが、ここでの言い方は極めて特別なものである。つまり、「神の道」という言い方は、聖書の中によく出て来る表現だけれども、基本的に一つの意味だけに使われる言い方なのだ。

       「神の道」という言い方は、申命記でたびたび使われている(8章6節、10章12〜13節、11章22節、19章9節、26章17節、28章9節、30章16節、32章4節)。ほとんどすべての前後関係において、この言葉は神の命令の同義語として使われている。つまり、神の道には何ら神秘的なところはないということである。申命記8章6節を見てほしい。「あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい」とある。これは神の道の話である。「その道に歩み」とあるが、文字通りには「彼の道に歩み」である。「神の道を歩む」ということは、神の命令を守ることと同じことなのだ。そして、この言い方は申命記の中だけでなく、旧約聖書の他の箇所にも何回も出て来る言い方である。10章12〜13節にも次のように書いてある。

    イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。

       主に仕えることは礼拝につながるものだ。神の道を守るということは、神の教えと命令を守り行なうことである。11章22節にも同じことが書いてある。

    もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。

       イスラエルが主の道を歩むということは、忠実に神の命令を守り行なうことに他ならない。神の命令は完全に明らかに啓示された倫理的な教えなのだ。それだから「主の道」は、測り知れないようなものではなく、はっきりと啓示されたものである。明確に教えられたものである。「主の道」は、神の民にとっては当然知らなければならない道であり、当然歩まなければならない道なのである。神の命令に従うことによって祝福されるというのがイスラエルに対する神の約束であった。それ故、それは普通に旧約聖書の中で使われる言い方なのである。「神の裁き」もそうである。同じように、申命記8章11節に書いてある。

    気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。

       ここで「主の命令と、主の定めと、主のおきて」を守ることが一緒になっている。この「定め」という言葉は「裁き」という言葉である。日本語でここを「裁き」と翻訳したらおかしくなるので「定め」と訳されているが、原語では「裁き主」は「シャフェート」で、「裁き」は「ミシュパット」である。「裁き主は裁きを行ない給う」ということが旧約聖書に頻繁に出て来る。それを日本語にすると「定め」と訳すしかないかも知れないが、英語では複数形で「judgement」ということになってしまう。パウロが使っているギリシャ語は、このへブル語を指す言葉になっており、「裁き」とは、「神が定めた裁き」を意味している。

       申命記および旧約聖書の全体にわたって使われているこの「裁き」という語の意味を考えるとき、今日の私たちも同じ問題にぶつかる。「裁き」という語は、「神が制定された法」「証し」「命令」と同じ意味を持っており、同じような使い方がなされている(申命記4章1節、5節、8節、14節、45節;5章1節、31節;6章1節、20節;7章1節、12節;8章11節;11章1節、32節;12章1節;26章16〜17節;30章16節;33章10節、21節)。もう一度言うが、イスラエルにとって神の裁きは明白であり、その裁きを知り、それを守り行なうことが前提となっていた。神の裁きを守り行なうということは、神が定めたことを守ることにもなる。申命記26章17節にある「主の道」と「主の定め(裁き)」という表現は、啓示された神の御意志と同義語的な表現になっている。これは同じ申命記の30章16節にあるのと同じ言い方である。

    私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。

       「主の道に歩む」「主の定めを守る」ということが「主の命令とおきてとを守る」ことと一緒になっている。このように色々な観点から「神の命令を守ること」が強調される言い方なのである。それ故「主の裁き」も「主の道」も、皆が十分に知っているはずのものなのだ。それが旧約聖書の基本的な見方なのだ。しかし、パウロは11章33節で「主の道は、測り知りがたい」と言っている。このパウロの言い方は、普通に聖書で使われている言い方ではないということにまず気が付かなければならない。旧約聖書の普通の理解であれば、「」と「裁き」はよく知られているものだからである。道と裁きと定めは同じようなものである。それは私たちが知っているはずのものであり、守らなければいけないものである。

       では、「測り知りがたい」とはどういうことなのか。なぜパウロはこの表現を使うのだろうか。そのような言い方の背景が旧約聖書の中にあるのかというと、まさしくあるのだ。それはヨブ記にある。ヨブは、ヨブ記26章14節でパウロと同じような意味で「神の道」という言い方を使っている。これは旧約聖書のヨブの言葉である。友人たちはヨブを慰めようとして神の正しさと偉大さについて多くのことを語るが、それはヨブにとって慰めとはならなかった。ヨブは自分が神の御威光と不思議をよく知っていると訴えた。この世における神の御業の不思議を5節から13節で語ってから、14節でヨブはこのように言っている。

    見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分け得ようか。

       ヨブは、自分が遭遇していることは「神の道の外側にすぎない」と言う。神の道については、それ以上のことを私たちは知ることができない。神の道は私たちの知るところよりも遥かに深くてすばらしいものだと、ヨブは告白している。そして、37章23節でエリフが預言者のように語ってヨブの思い込みを叱るところで次のように語っている。

    私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。

       ここで神の力と裁きが優れたものであって、私たちの目には不思議であり、私たちには見えないものであり、私たちの理解を越えるものだとエリフは言っている。たとえ神の裁きを知り尽くすことができないとしても、神の裁きは常に正しいと訴えている。パウロが用いた「神の裁き」という表現がここでも使われている。そして40章8節で神ご自身がヨブを叱責したときの箇所をもパウロは念頭に置いてあったと思われる。ヨブに対して神はこう言っておられる。

    あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。

       ここで神が言っておられる「わたしのさばき」とは、ヨブには理解できない神の不思議な裁きのことである。ヨブ記の中での「神の道」とか「神の定め」という言い方は、ちょうどパウロが言っているような意味になっている。イスラエルにとって、神の導き方はそのように不思議なものであった。つまり、ヨブには苦しまなければ悟れなかった面もあったと言える。ヨブは正しい人で、何も罪を犯してはいないが、ヨブのような人にでも神は特別な試練を与えてくださったのだ。そしてヨブには、その特別な試練が与えられなかったなら悟れない面があったのだ。それ故、神は非常に不思議な導きをヨブにおいてなしてくださった。サタンはヨブを苦しめようとした。そして、サタンはヨブを憎んでヨブを苛め抜こうとした。それを神は許したけれども、その許したことによってサタンの悪を明確にし、却ってヨブを強めてヨブの正しさを表わし、ヨブの友人たちの罪と愚かさを取り扱ったのである。それによって、私たちに、神の測り知れない不思議な導きを教え、不思議な裁きと道を教えてくださったのである。

       私たちはヨブ記を読むときに、神の契約の導き方が実に単純なものではないということを教えられる。ヨブの友人たちは、自分たちはよく知っていると思っていた。そして、「私たちは神の道を知っている。神の裁きを知っている。神の道と裁きを知っているので、あなたが大変な罪を犯していなければこのような状態におちることは有り得ない」というようなことをヨブに言うのである。しかし神は、その不思議で優れた導き方をもって、ヨブの友人たちに対しても私たちに対しても、神の導きと裁きはそんなに単純に測り知り得るものではないということを教えてくださった。

       パウロの「神の道」と「神の裁き」という言葉の使い方は旧約聖書ではヨブ記の中で一番はっきりしている。旧約聖書の中で「」という表現は特にヨブ記にしかないと思うが、「裁き」という言い方は他にも使われている。他の箇所は、例えば申命記等では「主の道を歩みなさい」とか「神の道を知れ」とかいう言い方になっている。神が実にヨブにおいて不思議で理解を越える導きをなされた。そして、ヨブにはそれが理解できなかった。しかし、最後に神がその導きと裁きをヨブに伝えたときに、ヨブは理解した。それでもなお、神の知識と知恵と神の裁きは不思議であって、あくまでも人間の理解を越えるところが残っている。

       ヨブの子供たちは皆、ヨブがそのことを悟るために、そして私たちも教えを受けるために、若くして死ななければならなかった。それは神の「定め」であり「導き」あった。人間的に言うなら、それは実に大変な話である。ヨブも想像を絶するほどの苦しみにあわなければならなかった。以上のことから、ヨブの生涯における理解し難い神の道とイスラエルの民に対する不思議な導きとの間にある類似性を見ることができる。細部の違いはあるにしても、大筋においては明瞭である。だから、私たちが出会うすべての試練には、私たちの理解を越える要素があくまでも伴うことを覚えよう。ヨブ記の教えは、神が何をなさろうとしておられるのか、なぜなさろうとしておられるのかがわからないとしても、そのような時は尚更、神に信頼しなければならないことを教えている。

       しかし、ヨブは、ただのひな型に過ぎないという面もある。つまり、最終的に苦しみ抜いて祝福をもたらすのは主イエス・キリストなのである。旧約聖書の中にはキリストがどのようなものなのかの預言は沢山がるが、実際に主イエス・キリストがこの世に生まれて、その預言のすべてを成就するまでは、イスラエルは何も理解できなかった。ある者は「メサイアは二人いる」と解釈したり「三人いる」と解釈したりした。なぜなら、「メサイアは苦しむ」という預言もあるし、「メサイアは栄光の王である」という預言もある。「その両方の預言がどのようにして一人の人物において成就され得るのか」ということは彼らには困難だったからである。

       主イエス・キリストが、その預言のすべてを成就したとき、はじめて神の不思議な導きとその不思議な裁きを見て理解することができたのである。そして、そのこともまた私たちの理解をはるかに越えるところがあくまでも残るのである。だから、パウロがここで「神の道」と「神の裁き」について話すとき、ヨブ記のような、普通とはまるで違う神の導きのことを考えてその言い方をしているのだと言える。そして、神がイスラエルを導く方法は確かにそのような導き方であったこともわかるのである。特にメサイアにある「奥義」とは、そのようなものである。続いて34節でパウロはこう言っている。

    なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。

       ここでパウロはイザヤ書の40章を指していることがわかると思う。12〜17節の箇所を一緒に読みたい。

    12だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。13だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。14主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。15見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。16レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。17すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。

       神の絶対的な主権とその絶対者としての知識と知恵などについてイザヤはここで語っている。とくに13〜14節のところをパウロは指して話している。このような偉大なる神の知識と裁きと知恵についてパウロは特に9章から話しているわけである。実はずっと1章からそのことについて語っていると言って良い。パウロはずっとそのことを私たちに教えている。そして結論として、このような偉大な神の知恵と知識を見て、驚き、心から神の御名を賛美するという結論に至らなければ、結局1章からの教えについて何一つ深い理解は持っていないということになるのだ。11章35節でパウロは更にこう言っている。

    また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

       この35節は、へブル語のヨブ記41章11節の引用である。私たちは、「主のためにこれをしよう。主のためにあれをしよう」という言い方をよく使ったりする。しかし、主のために何かするということは、まず何をすべきかを神が私たちに教えてくださり、それを行なう力をも御霊によって与えてくださり、そのことを行なう意志をも私たちに与え、更にすべてを導いて私たちがそれを行なうことができるように助けてくださるのでなければ、私たちは何も成し得ないのだ。それ故、やっと行なうことができたところで、それは全部、神の導きと助けによってのみできたのだということを覚えなければならない。「私たちがまず何かを神に与えて報いを受けるというものではない」ということをパウロは明確に教えている。このことを話すとき、パウロは特に異邦人のことを考えているのだろうと思う。自分たちに知識や知恵と呼べるものがあるとすれば、それは全部まず最初から神から与えられたものであることを覚えなければならない。私たちが主に何かを与えているというような思いを持ってはならない。全部、神から与えられているのだ。実に、36節にある通りである。

    というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

       「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」とパウロは言う。私たちが何か善を行なう力があるとすれば、また私たちが御国のために働くことができるのは、すべて神御自身から発しており、すべて神の御恵みによって成り、そしてすべては神に至るのである。ここでパウロが話しているのは、神の主権のことである。私たちに自由意志があるのは事実である。私たちは自由意志をもって選択すべきことを選択しなければならないのは事実である。私たちは、責任ある者として裁かれるのも事実である。罪を犯す者は、「これも神から発し、神によって成り、神に至るのだ」と言うことはできない。罪については、「自分から出て、自分によって成り、自分に至る」という言い方をしなければならないと、言わなければならない。

       最終的に神がすべてを支配して導いておられるのであって、「悪者は神の栄光のために生きている」ということも旧約聖書の中に書いてある。神に逆らう者さえ、最終的には神の栄光を表わすことになるのだ。神から離れて、神を憎むカインのような者であっても、神の栄光を表わすために生きている。それは旧約聖書の中で強調されている大切なポイントの一つである。私たちは何をするにせよ、神の栄光のために生きることに至るのである。絶対的な神の主権と神の不思議な導きを見るとき、恐れるしかないのである。「ああ、私はこういうふうに考えているから、知り尽くすことができる」ということはない。「このようなやり方で私は神を騙すことができる。自分のしたいことをして神を騙すことができる」ということも決してない。だから、恐れる心を持つしかない。絶対者である神を見て、その摂理の働きと義なる裁きを見て、恐れおののくしかないのである。

       これはイザヤ書40章にあることだ。「すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる」とイザヤは言う。世のすべての国々は、神の御前では取るに足りないちっぽけな存在でしかない。私たち一人一人もそのとおりである。存在論的に言えば、何でもない塵に過ぎない存在なのだ。しかし、神の御前で、そのようなちっぽけな私たちを神が永遠の愛をもって愛してくださったのだ。それは、私たちがどんなに素晴らしいのかを表わすのではなく、神の愛がどんなに素晴らしいものかを表わすのだ。そして、私たちはその愛を見て、その愛を知るとき、心から感謝して、神の御前にへりくだった心をもって、神の御名をほめたたえるのである。

       「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」というのは、神の絶対的な主権を賛美する言い方である。「どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」とパウロは神を賛美している。これは、パウロが救いについて今まで語ってきた最後のところである。「この神に、栄光がとこしえにありますように」と言って、神への礼拝をもって締めくくっている。すべての人類の生きる目的、何かを行なう目的、何かを得る目的が、ここにある。ウェストミンスター小教理問答の最初の質問と答えは皆がよく知っているところだが、人間の生きる目的とは何なのか。それは、主の栄光を表わし、主を永遠に喜ぶことである。それを子供たちも小さいときから教えられて学んでいるところだと思うが、「神に栄光がとこしえにありますように」ということが結論なのである。

       パウロが跪いて手を広げて神を賛美するところでその知識と知恵の話は終わっている。どの知識であっても、どの話であっても、本当はここに至り、ここに終わるのである。「小さな事においても、大きな事においても、神の栄光のみを求めなさい」と、パウロはコリント人への第一の手紙で話しているが、そういう意味で、私たちはすべての事において礼拝の心をもって行ない、すべてにおいて礼拝の心をもって生きる者として神の祝福を受けたのである。だから、すべての事において神の栄光を求めるということが、どんなに意味深くて素晴らしいことかを思わされずにはおれない。神を礼拝し、神の栄光を求める者として生きる。それが救いの結論なのだ。

       33節から36節までの箇所で、パウロは、「」「」「」という言い方をしている。「御父、御子、御霊」という言い方ではなく「」と言っている。これは、三位一体なる神を唯一の神として強調して讃めたたえているのである。「神は、すべてのことにおいて御自分の栄光を求める」という言い方が聖書の中にあるし、「神は御自分の栄光を他のものに与えはしない」とイザヤ書にも書いてある。「神が御自分の栄光を求める」ということを考えるとき、前にも話したけれども、私たちは三位一体なる神においてその意味を考えなければならない。

       つまり、御父が御子と御霊を愛しておられるので、御子と御霊の栄光を求めておられる。それを求めずにはいられない。御子の名と御霊の名が汚されるのを御父が許すことは絶対に有り得ない。御父は、御自分の力と知恵をもって、御子と御霊の名を栄光を守りたもうのである。それは御父の御子と御霊に対する愛に含まれる一つのことである。同様に御子は、御父と御霊の栄光を求めておられる。そして御子と御霊は一緒になって御父の栄光を求めている。御父と御霊は一緒になって御子の栄光を求めるのである。そのことを三位一体の神において覚えるとき、神が、御自分の栄光を求める御方であるのは決して自己中心的なことではないことは明白である。そこには変なところは何もない。神は三位一体なる御方だからである。私たちが神の似姿に創造された者として神の栄光を求める者だということは、三位一体なる神のその契約の交わりに入る者として創造されたのだという言い方ができるのである。

       御父、御子、御霊は、お互いの栄光を求めあうのは、御父と御子と御霊の愛の交わりの中に含まれることである。神の栄光をはっきりと認識して、それを積極的に求める者として生きるということは、神の似姿として生きることなのだ。御父と御子と御霊なる神の契約の交わりに入っている者として生きることになるのである。神がそこにいて、私たちは何者でもないから、仕方なく神の栄光を求めるという話ではない。私たちは、そこまで高い特別な存在として祝福を受けた者であることを、この箇所は表わしている。

       神の栄光を求めて生きる。それは魚や犬や猿にできることではない。それらの生物も神によって創造されたので、神の栄光を表わしているということは事実である。木であれ虫であれ岩もそうである。しかし、積極的に意志をもって神を愛して神の栄光を求めて、神との契約の愛の交わりに入るような生き方は動物や植物にはできない。それは、人間だけに与えられた祝福である。だから、神の栄光を求めて生きることは、まるで私たちが低いもので神は高いものだから、そうしなくてはならないというものではない。思い違いをして「そんなの私は嫌だ」と言う人もいるが、断じてそうではない。御父と御子と御霊がお互いの交わりにおいてお互いの栄光を求めあうように、私たちも永遠なる絶対なる三位一体なる神の栄光を求めて生きるのである。

       私たちは、そのように神の契約にあって神の栄光を求めるものとして創造され、救われた者なのだ。そのことをパウロはここで話している。それ故、心から神の栄光を求めて、「どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」と言うことができるのだ。そのように言うことができるということは、実に高い、そして素晴らしい特権である。

       パウロはずっと1章からこのことを説明しているのだ。私たちは罪人である。罪人を愛して、主イエス・キリストは十字架の上で死んでくださった。私たちは、ただキリストを信じることによって救われる。救われるとき、私たちはキリストの死と復活にあずかって、キリストと共に死んで、キリストと共によみがえった者となる。御霊が私たちに与えられ、私たちの心の中で働いてくださり、私たちが神の御言葉を守ることができるように導いてくださる。そのことを説明してから、神の契約の愛について語っている。それからイスラエルに対する神の不思議な導きのことを9章から11章までのところで説明している。このすべてのことを心に留めるときに、実に知恵と知識において深くて豊かな、そして恐るべき御方であることを最後に語っている。

       人間の知恵には適合しない神の導きであることをパウロはコリント人への第一の手紙で話している。つまり、人間は、知恵によって神を知ることができないので、神は人間にとっては愚かに見える福音を語ることによって救いを与えたもうのだと、パウロはそこで説明している。そのことにおいても、実に神の導き方と裁き方は不思議である。パウロはイスラエルのために、イスラエルの身代わりになってもよいと思うほどに深く同胞のために嘆き悲しんだが、しかし彼は測り知れない神の知恵に信頼を置いたのである。

       人が推し測ることのできない道を神はお持ちであることをパウロはよく知っていた。だから、神に信頼し、神の御名にふさわしい賛美をささげるべきだということが結論となるのだ。「神の道」は、そういう意味で私たちの理解をあくまでも越えるものである。そのような無限な絶対者である神を愛し、そのような神の御言葉を与えられた者として私たちは神に礼拝をささげるのである。そのことをパウロはここで私たちに教えている。

       聖餐式のときに私たちは、神の不思議な導きと不思議な裁きの一番不思議なところを中心として考えている。それはキリストの十字架である。神が私たちの罪を赦すために、人間となって私たちの身代わりとして十字架上で死んでくださった。御子が、「父よ。わたしを見捨てないでください」と祈らなければならないほどに苦しみを受けられて、神の完全な裁きを私たちの身代わりに受けるということが実際にあったのだ。そのことを見るとき、私たちは一番不思議なところを見ていることに気付くはずである。そのような「神の奥義」を私たちは聖餐式において覚えているのである。

      そして、聖餐式のときに、心からの感謝をささげるものである。ローマ人への手紙1章に戻るが、なぜ人間は偶像礼拝の道を走るのか。なぜ人間は神から離れてしまうのか。それは感謝の心を持たないからだとパウロは説明している(1章21節)。感謝して神を礼拝する者は、そのように神から離れたりはしない。傲慢にならないで、へりくだった心をもって、すべて神から与えられていることを覚え、神によって成り立っていることを覚え、神に至ることを覚えるのである。「神の御名にのみ、栄光がありますように」というのがポイントなのである。キャンプの時にもこの主題で学んだことがあったが、もう一度その告白を私たちのものとしたい。

    私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。(詩篇115篇1節)

       この心は礼拝の心である。そして、これはクリスチャンにとって当然の毎日の生活の心でなければならない。1415年のアジャンクールの戦いのことをシェークスピアのヘンリー五世のビデオでほとんどの人は見たと思うが、実際にヘンリー五世の軍の数は少なかった。それに対するフランス軍は軍馬において遥かに優勢であった。誰もがイギリス軍の惨敗を信じていた。戦いの結果、フランス軍は一万人も死んだのに、イギリス軍は百人も死ななかった。その戦いの終りについて話すところでシェークスピアはこの詩篇115篇を指して、「これは神の栄光であり、神がなさったことだ。私たちにではなく、神のみに栄光を帰する」とヘンリー五世に言わしめている。実際にヘンリー五世がそう言ったかどうかは知らないが、シェークスピアはその理解を持って書いている。「ノンノビス」と、この聖句を歌う場面がシェークスピアの劇にもそのまま出て来たように思う。

       そのように神の偉大な導きと御業とその裁きを見て、その人たちは神を恐れて跪き、「主よ。あなたがこのことを行ないました」と認めて理解することができたのだが、私たちは聖餐式のときに、それよりも遥かに素晴らしい神の御業と裁きを覚えるものなのである。神御自身が人となり、神御自身が私たちの身代わりに私たちの罪の罰を負ってくださったのだ。そのことを覚えて感謝をささげるのである。私たちは聖餐式のときに、ヘンリー五世よりもずっと深く、神の偉大さと神の素晴らしさと神の導きの不思議を感じることができるはずである。そして、深い感謝をささげることができるはずである。

       本当に、この時に、心から神の栄光のみを求め、神のみに栄光を帰して、御霊の力によって真に心から神に感謝をささげることができるなら、私たちは毎日の生活においてもっと力強く主の道を歩むことができるようになるのではないかと思う。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2001年8月5日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙11章25〜32節

    ローマ人への手紙12章1節

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