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    ローマ人への手紙12章14節


    12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。

    2001.12.09. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    迫害する者を祝福する

    12章14〜21節

    14あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。15喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。16互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。17だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。18あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。19愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」20もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。21悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

       この12章14〜21節までは一つの段落となっている。ここでパウロは立て続けに幾つかの命令を与えているかのように見えるが、この箇所は一貫した一つの段落になっている。12章1〜2節で、「自分のからだを生きた供え物として神にささげなさい」という命令からパウロの話は始まっている。3〜8節でパウロはまず教会の一と多の問題を取り扱っている。即ち、各々に与えられた賜物を正しく活かすことについて話している。9〜13節では、地域教会の中で本物の愛を保つように命じている。そういう意味で、3節から13節までの箇所では、地域教会内の生活において自分たちを神に捧げることの具体的な意味を教えていると見てよい。

       そして、14節から始まる最後の段落では、教会の外の人たちとの関係について話しているのではないかと思う。「迫害する者」という言い方が14節に出て来ており、17節では悪を行なう者に対してどうすべきかを話しているし、19節では「自分で復讐してはならない」と教えている。復讐の話は19節から21節まで続くが、21節では「悪に負けてはならない」と命じている。それ故、文脈から判断すれば、14節から21節の全部が教会の外から来る迫害や外部の人々との関係をどのように持つべきかの話だと見るのが自然であろう。

       なぜ敢えてそのことを時間かけて説明するのかというと、一見15節も16節もそのようには見えないからである。15節の「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」という命令は、勿論教会内においても適用されるべきものであるのは明白である。しかし、ここでは、特に自分たちを迫害する者たちや悪をなす人々との関係についてまず語っているのではないかと思うのである。そして、16節で教会の一致について話すとき、パウロはヨハネの福音書17章にある主イエス・キリストの祈りと同じように、教会の外に対する証しのことを考えて話しているのだと思う。私たちを取り巻く非キリスト教世界に対する義務があることを忘れてはならない。私たちを憎んでいる人々であっても、この世での隣人である彼らの喜びや痛みに心からの同情と共感を寄せるべきだとパウロは教えている。

       だから、この箇所における教会の一致に関する勧めは、ヨハネ福音書17章21節と23節と同様に、この世に対する証しを念頭に置いた勧めであると理解するのが最善であろう。この段落は、14節の「迫害する者を祝福せよ」という命令で始まる。続く17節では悪に悪を報いてはならないことを教え 、敵に対して復讐してはならないことを最後に命じて終わる。従って、論点が教会内部の人間関係の話 (3〜13節) から教会外部との関わりの話へと移っていることは十分に明らかだと思う。外にいる人々に対する証しとして、教会員はへりくだって互いに一つの心にならなけばいけない。「一致を保つことによって、教会の外の人々に対して強い証しを持つことができる」という枠組みの中で、そのポイントを考えているのである。

       9節から13節までの箇所で愛について考える時に、偽りのない愛の教えはまず第一に兄弟愛の話なのだから、当然これはクリスチャンの兄弟の間の話である。しかし、クリスチャンではない人たちに対しても似たような愛や憐れみや助けを与えるべきだということも話したと思う。つまり、パウロの考えている枠組みは、はっきり簡潔に言えば「地域教会の中の兄弟愛」の話であるが、その適用は教会内のことで止まるものではない。13節の適用を考えるとき、「教会外の人の必要を見ても寛大な心になって助けたりするな」という話にはならないのである。クリスチャンではない人たちを助ける機会が与えられたなら、喜んで助けるべきである。そのことをパウロは他の書簡で教えている。

       だから、第一にまずこれは教会内の人間関係に対する適用であるとは言え、教会の外に対してもその適用は及ぶものだと考えるべきである。同様にこの14節から21節までは迫害や悪との戦いについて教える箇所ではあるが、当然それは教会の中においても適用されるということを覚えておいていただきたい。

     

    勝利の戦略

       詳細を見る前にまず、14〜21節を一つの段落として捉えたときに、強調しておかなければならないポイントがある。すなわち、パウロがこの箇所で提示しているのは「勝利のための戦略」なのである。14節の「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」という命令から始まっている。17節では、「悪に悪をもって報いることをするな」とある。19節では、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」と言っている。それから20節で、「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい」と言って、敵を助ける話をしている。そして、最後に、話しているポイントの結論として「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」と言うのである。ここに何が書いてあるかというと、千年王国後説の勝利の戦略なのである。「打ち勝ちなさい」というのは、ひたすら求めている結論を指す命令なのだ。

       ここを読むとき、勝利の話よりも「耐えなさい。我慢しなさい」というような話になってしまうのが普通である。「頑張りなさい。そうすれば何とかなるさ」と人々は言う。ここにあるのは、そういう話ではない。パウロは、「勝利の秘訣はここにある」と私たちに教えているのだ。これを確信することが信仰なのである。「天国で必ず祝福されるのだから、今の苦しみを我慢しなさい」と教えているのではない。パウロは、ある特定のやり方で悪に立ち向かうように命じている。そして「戦うべきやり方で戦うなら必ず勝つ」と教えているのである。はっきりと勝利を確信し、心に「然り」と思ってそれに従って歩むには、信仰が必要なのだ。

       なぜ信仰が必要かというと、これは全く神の摂理だと思うのだが、今日の私たちの交読聖句は詩篇73篇であったのは偶然ではない。普通の感覚でこの世を見るなら、確かに悪い人たちが支配し、成功している。悪い人たちは自分の思い通りに何でも好き放題にできる。そして、好き放題にしている。私たちは負けているのではないのか。そういう思いに私たちは簡単に陥ってしまう。悪を行なえば、欲しい物をすぐに手に入れることができる。かなり程度低い話だが、お金が無ければ万引きでもして欲しい物を取る。盗んだり、奪ったり、不品行な行ないや恥ずべきことをすれば、簡単にお金や欲しい物が手に入る。悪者は手段を選ばずに、欲しい物があれば、嘘をついてでもそれを手に入れる。場合によっては人を殺してでも手に入れようとする。欲を満たすためには、他人の名声を駄目にしてもいっこうに平気である。欲しい物は手段を選ばずに、とにかく取る。そのような人間に対して、どうやって戦うのか。

       「私は正しい道をとにかく歩みます」と言うなら、人は「甘い甘い。ばか正直にやってるんじゃ、お前は負けるしかない」と言う。しかし、ここでパウロはずいぶん違うことを教えている。「あくまでも正しい道を歩むなら、あなたは勝つのです」と教えているのだ。「神が勝利者である。最終的には神の御国の勝利となる」ということが、実際の生活の中では実に信じにくいところではないかと思う。しかし、この段落の要点は「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」という最後の命令に集約される。この「悪に打ち勝ちなさい」という部分が重要なのだ。

       この決定的に重要な命令は、実際に従おうとするときには非常に難しい命令だと思う。迫害の時代においては特に困難である。例えば、改革時代に遡って考えるなら、カトリック教会のリーダーたちは国家のリーダーたちに「プロテスタントの連中はこんな事を言っている」と偽りの証言をしていた。マルティン・ルターに対しても、ジャン・カルヴァンに対しても、故意に真っ赤な偽りの報告をしていた。あるローマン・カトリックのリーダーは、「カルヴァンはジュネーブでこういう事を企んでいる」という手紙を書いて町のリーダーたちに送った。それに対してカルヴァンは一つ一つの言及について細かく弁明しなければならなかったが、結局カルヴァンはジュネーブから追放された。偽りの訴えが町のリーダーたちの耳に入り、それを信じたり、それを口実にしたりして、カルヴァンを町から追放したのである。

       カルヴァンは筆で弁明はしても、裸の力で戦うことはできなかった。一見カルヴァンが負けたかのように見えたが、カルヴァンの場合は生存中に再びジュネーブに戻って最終的な勝利を得た。けれども、パリでもロンドンでも、ドイツでもイタリアでも、ローマン・カトリック教会のリーダーたちは国のリーダーたちに嘘偽りを語り、「プロテスタントたちは革命を企んでいる」と執拗に訴えた。その結果、何十人も何百人ものプロテスタントが信仰のために殺された。「信仰を捨てなければ子どもを取り上げる」と言われ、多くの子どもたちが自分の目の前で取り去られていった。証言はみな嘘で塗られたものばかりだったので、どうにもならない。信仰において妥協しないために、子どもたちが奪われていった。

       そのような時に、「私は善を行なっているから、勝利は我にあり」と、簡単に言えるだろうか。とても簡単には言えないのではないか。信仰がはっきりしていなければ、何が勝利かを疑ってしまうに違いない。相手は平気で偽りを語り、あらゆる汚い手段を使って政府を丸め込んで自分たちを陥れている。敵の力はますます強くなるのに、自分たちは負けて無力になるばかりにしか見えない。子どもたちは奪われ、教会のリーダーたちは殺されている。いったい何が勝利なのか。宗教改革時代の歴史を見れば、そんな訴えが聞こえて来そうではないか。しかし、教会は勝利を得た。はっきり信仰に立って妥協しなかった者たちは勝ったのである。しかし、妥協したところは全部だめになった。

       もっと歴史を遡れば、ローマ帝国時代に迫害された初代教会の人々のことがある。この手紙を受けたローマのクリスチャンたちは、わずか数年後に、世界で最も強大な帝国による激しい迫害を受けることになるのである。ローマ帝国とキリスト教の“戦い”は数百年間も続いた。数えられないほど多くのクリスチャンたちが殺された。邪悪な権威が全てを支配しているかに見えた。彼らは意のままに欺き、略奪し、子どもたちを奪い、そして殺した。クリスチャンたちは目の前で自分の愛する子どもたちが拷問されるのを見なければならなかった。妻や夫が拷問によって殺される。その場に立って「これは勝利だ」と、誰が言うだろうか。しかし、それが勝利の道であったことを歴史は証ししている。

       それを見る者は、「むごい。あまりに酷いではないか」と言うかも知れない。確かに酷い。地獄図のようであった。いったいこれはどうしたことなのかと、誰もが思うだろう。どんなに酷い仕打ちを受けようと、クリスチャンは神の律法に従うがゆえに、「目的のためには手段は選ばない」という悪者の真似はできない。即ち、クリスチャンは悪者に陥れられ、殺されるがままになるしかないのである。裁判は不正に行われ、偽証がはびこった。クリスチャンは単に殺されるだけでなく、公然と辱められ、拷問を受けた。しかし、これこそ主イエス・キリストが歩まれた十字架の道だったのである。

       主イエス・キリストが勝利を得られたのは十字架の上であった。主イエス・キリストが私たちに言われたことを忘れてはならない。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」と、主は言われたのである(ルカの福音書14章27節)。キリストに十字架を負っていただいておいて、「でも私は、十字架はごめんです」と言うことは許されない。主イエス・キリストに従って行くつもりならば、十字架を負って行く以外に、他の道はないのである。だからパウロはここで、「善をもって悪に打ち勝ちなさい」と命じるのである。善をもって悪と戦う。これがクリスチャンの戦略である。これこそ勝利の方法である。勝利の道は、十字架の道である。

       「善をもって悪と戦う」ということは、「十字架を負って歩む」ということにほかならない。その中にあっていろいろな苦しみに遭うだろう。いろいろな問題にぶつかるだろう。いろいろと想像だにしなかった大変な困難に出会うであろう。その度に涙を流して、「どうして私は負けなければならないのか。どうしてここで苦しまなければならないのか」と言うなら、あなたはあの荒野で神に言い逆らったイスラエルと全く変わりはない。神はそのような者を喜びたまわない。誤解しないでいただきたい。私は「苦しい時に涙を流してはいけない」と言っているのではない。どうか信仰をもってあなたの涙を流してください。主イエス・キリストの十字架を覚えて涙を流してください。「私は十字架の道を、主イエス・キリストが歩まれたように歩まなければならない」ということを覚えつつ、涙を流して歩めばよい。それが勝利の戦略であることをパウロは私たちに教えている。

       負ける方法を教えてはいないのである。「しばしの間、負け犬のように生きてください」とは教えていない。ただ単に「耐えなさい。いつの日にか、歴史が終わるとき、やっと勝利は来るのだから」という話ではない。教会は、そのような囁きを直ちにやめなければならない。悪に対する戦い方は、全く神に信頼し、神にすべてをお委ねし、正しく生き、そして主イエス・キリストが十字架上で御自分の敵のために祈られたように、私たちも自分の敵の救いのために祈らなければならないというものなのだ。私たちもその同じ十字架の模範に倣う者である。そうすることによって勝利を得るのである。

       「明日までに勝利が見えなければ、私は勝利を信じない」と言ってはならない。そのような心は神に逆らっているだけであって、それは信仰ではない。「勝利が何百年後のことならば、私と何の関わりもないではないか。私が自分を犠牲にしてまで頑張る必要はないのではないか」と言うなら、それも不信仰にほかならない。それは神に逆らう心である。神を信じて、自分を神にささげて、十字架を負って、最後までキリストに従っていくことを、キリスト御自身が私たちに要求しておられるのである。

       パウロは、間もなく激しい迫害に遭おうとしているローマの教会に話しているのだ。この手紙を読んだ人たちの中には、人々の前で猛獣に引き裂かれて食べられてしまう人もいたであろう。ローマ帝国はクリスチャンたちを殺すのを楽しみとしていた。今言ったように、この手紙を読んだクリスチャンたちは、神を信じて三百年間も続けて血を流し、妻や子どもたちが殺されるのを見たり、夫が殺されるのを見なければならなかった。三百年間も血を流し続けなければローマ帝国ほどの大きな敵を倒すことはできなかったのである。しかし、この手紙はその迫害が始まる直前に書かれており、三百年間も続けて悪に善をもって報いてその迫害する者たちを祝福したのである。これは昔のクリスチャンたちがその血によって私たちに残してくれた偉大な模範である。

       ところで、日本の教会はどうしてこんなに小さく、成長しないのだろうか。どうしてこんなに弱いのだろうか。それは、二十世紀に入った頃から偶像礼拝や異教の伝統と妥協したりしていたからだと言わねばならないと思う。妥協することによって迫害の手から逃れることは或いはできるかも知れない。しかし、それは「悪に対して善をもって勝利を得る」のではなくて、「悪に対して少しだけ妥協すれば、戦いから逃れることができる」というこの世の知恵である。自分を神に生きた供え物としてささげるというよりも、この世に調子を合わせることによって目の前の迫害から逃れたのである。

       迫害から逃げることはできたけれども、証しからも逃げ、勝利からも逃げ、祝福からも逃げたというような話なのである。つまり、祝福と証しを失ってしまったのである。第二次世界大戦の時の日本の教会は特にその妥協において顕著であった。そのために証しを失い、弱いものとなってしまったのではないかと思う。悪に対して戦う道は、妥協することなく、善を行なう道である。しかし、善を行なう戦いを実践し、自分を呪う者を祝福するなら、主イエス・キリストの十字架と同じような結論に至ることは珍しくないのである。それは極く当たり前の結果だと思ってよい。

       ダビデが良い例だと思う。ダビデは、サウル王を殺す機会が与えられた時に、殺してしまえば簡単に迫害を終わらせることができた。殺したその場で迫害の問題は解決されたであろう。殺さなかったがために、ずっと迫害は続いたのだ。しかし、パウロはダビデのような戦い方を私たちに勧めている。悪に対するクリスチャンの戦い方を教えているのである。ここに勝利の道がある。「クリスチャンではない社会に対する倫理はこれである」とパウロが教えるとき、それは勝利への道である。「その道を歩むことによって教会は成長する」ということを、ローマ帝国の時代を通してはっきりと見ることができる。最終的にキリストの教会は成長していき、勝利したのである。教会を迫害したヨーロッパの野蛮人たちが、妥協しないで善を行なう教会に負けたのである。

       死を通して教会が勝利を収め、善を行うことによって悪に打ち勝った。彼らの証しが完全だと言っているのではない。いろいろ足りないところもあったと思うが、単純に言えばそういうことだったのだ。殺す者に対して暴力を用いて立ち向かうのではなく、血と祈りによって教会は迫害者を打ち負かしたのだ。私たちが善を行なって正しく神の御国を求めるならば、たとい血を流すことがあっても、勝利は私たちのものである。その信仰を持って迫害に耐え、聖書が命じるやり方で迫害に対して戦いなさい。そのようにパウロは私たちに教えている。

       これは主イエスがサタンを打ち負かした方法である。イエスの十字架の死を敗北と考えることは大変な冒涜である。また、教会が迫害に苦しむことを敗北と思うことも、同様に実に悪しき考えである。教会はキリストと共に苦しみ、キリストのために苦しむ。苦しみに遭ったからといって教会が死ぬわけではない。苦しみは教会の勝利には必要なことなのだ。復活のいのちも力も、十字架のみを通してもたらされる。十字架の道は必ず復活に至る。十字架は決して終わりではない。「悪に打ち勝て」という命令は、「キリストにあって勝利せよ」という命令なのだ。教会は、キリストの方法で勝利するのである。

       それ故、パウロの話の全体的なポイントの意味を覚えなければならない。結局12章1節と2節で言われていることだ。これは「キリストがそうされたように、私たちも、自分を生きた供え物としてささげなさい」という話なのだ。また、3節から8節では、主イエス・キリストのように、自分に与えられた使命を果たし、喜んでそれを行なうことがポイントなのだ。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネの福音書4章34節)と、主イエスは弟子たちに教えたが、神の御心を行なうことが私たちにとって最高の満足でなければならない。

       そして9節から13節では、「兄弟愛をもって歩む」という話をしている。主イエス・キリストが十字架にかかる直前に私たちに与えた命令は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」というものであった(ヨハネの福音書15章12節)。そういうわけで、非常に簡単に言えば、ローマ人への手紙12章の箇所のすべては「主イエス・キリストがそうであったように、あなたがたもそうしなさい」という話にほかならないのである。「キリストに似た者になりなさい」という命令なのである。真剣にそれを求めることができるために、パウロは細かく私たちに教えているのだ。それによって私たちは、自分がどれほど主イエス・キリストに似ていないのかということに気付かされて、もっと真剣に成長を求めるように励まされるのである。その全体的なポイントの理解をしっかりもって14節から21節の箇所を一緒に見たいと思う。

     

    パウロによる呪い

       では、14節を見よう。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」という命令は、主イエスの山上の説教に基づいた言い方だと思うが、これは旧約聖書の中にも出て来る原則である。ダビデは信仰を持ってサウルとの問題に対処した。サウルは自分がクリスチャンだと告白している人間である。彼は執拗にダビデを迫害し続けたが、ダビデは決してサウルを呪うことをせずに、信仰をもってすべてを神に委ねていた。サウルの命を取ろうと思えばできた。しかし自分を殺しに来たサウルに対して、ダビデは地にひれ伏し、サウルに礼をして話しかけ、次のように言っている(第一サムエル記24章)。

    王よ。あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている』と言う人のうわさを信じられるのですか。実はきょう、いましがた、主があのほら穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は主に油そそがれた方だから』と申しました。わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧ください。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。私はあなたに罪を犯さなかったのに、あなたは私のいのちを取ろうとつけねらっておられます。どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。・・・どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。

       ダビデは敵であるサウルを呪うことをせずに、祝福しているのである。これは旧約聖書の教えであり、新約聖書になって初めて与えられた教えというわけではない。しかし、山上の説教の中で主イエスはもっと強調してそのことを教えておられる。マタイの福音書5章38〜48節を見てほしい。

    『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

       ここで主イエスは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と私たちに命じている。パウロはこのキリストの教えを覚えて、同じ言い方をしている。私たちを苛める者に対して苛め返すというのではなく、祝福をもって応えなければならない。これは主イエス・キリストの命令である。そして、先に言ったように、これは実に難しいことだと思うのである。主イエス・キリストもパウロも、ここで個人のことについて話している。

       例えば、職場或いは学校で、誰かがあなたを憎んでいるとする。クリスチャンだからということもあるかも知れないが、性格的にどうしても合わないということもあるかも知れない。どんなグループの中にも、入って「こんにちわ」と言っただけで直感的に「こいつは嫌いだ」ということで、会った瞬間からもうあなたを苛めようとする人がいるものだ。ある人は7歳の時に実際にそれを私にしていた。二十何歳の時に十数年ぶりにその人に会ったが、その人はクリスチャンになっていて、私もクリスチャンになっていた。彼はその罪を告白して私に謝ってきたが、私は何のことか知らなかったので、驚いた。彼は、「あなたに会った瞬間から、とにかくあなたが嫌いだったので、他の子たちもあなたを嫌うように影でいろいろなことをしてあなたを苛めていたのです。本当に申し訳なかった」と言うのである。世の中にはそういう事もある。理由も無しに苛めたりすることがあるのだ。

       クリスチャンだから苛めるというならもっとやりやすいと思う。その場合は、信仰のためだということが明らかだからである。それでも、そのような相手を祝福するのは難しいだろう。「そのような者のために祈って祝福しなさい」と、主イエス・キリストとパウロが教えている。近所の人の中にも、どうしてもぶつかってしまう人がいるかも知れない。挨拶しただけでもう駄目な人がいる。「いい天気ですね」と言っても、「違う」と言って怒るのだ。何でもかんでも、とにかくぶつかってしまう。そのような相手がいるなら、その人を祝福して、その人のために祈るのである。心の中からその人の祝福を求めるのである。主イエス・キリストもパウロもそのように私たちに教えている。

       そのような相手を考えるとき、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」という命令を想い起こさなければならない。自分の友だちが喜んでいるときなら、喜ぶのはそれほど難しくはない。愛する人が悲しいときに一緒に悲しむのも難しいことではない。しかし、自分の敵が不幸にあったときに、まずあなたの心にわき出てくる思いはどんなものだろうか。「よかったあ。ざまあ見ろ」という気持ちになりがちではないか。反対に自分の敵が祝福されたのを見ると、まずくやしい気持ちになるのではないか。それが罪人の傾向である。「そうであってはならない」と、パウロは言う。敵が祝福されたときに喜びなさい。敵が悲しむとき、一緒に泣きなさい。それが、「敵をのろわないで祝福する心」である。それこそ本当の意味で敵を祝福することなのだ。

       職場で同じ地位を競っている相手がいるときに、相手があなたについて嘘を騙り、汚い手を使って地位を獲ろうとしているとする。あなたは神に祈り、正しいことだけをしている。勿論、尋ねられたら正直に答えるし、自分の名声を守るべきところでは、それを守るけれども、相手をつぶそうという思いは皆目ないとする。しかし、結局相手がその地位を騙し取ってしまったなら、その相手が喜んでいるときに、あなたはどうするだろうか。これはとても些細な事についての低い次元での話であり、単なるずる賢さの話であって、大きな罪とか詐欺とかいうような話ではない。相手はずるかっただけの話である。その人が来て「今から私は副社長だ。あなたもせいぜい頑張りなさい」と言ったなら、笑顔で心から相手を昇進を祝福することができるだろうか。そのような場合でも、「その人を祝福しなさい」とパウロは命じているのだ。それが「喜ぶ者といっしょに喜ぶ」ことなのだ。

       クリスチャンではない相手の場合には、喜ぶ理由にはいろいろな問題があるのは事実である。それでも、喜びなさい。そして、相手を祝福しなさい。これは、他でもないキリストが私たちに求めていることである。また、その人が駄目になって悲しんでいる時には、その人と一緒に真剣に悲しむべきである。その人が駄目になるのが当然の報いであるとしても、それでも一緒に悲しむことはできる。

       しかし、「あなたは犯罪を犯したけれど、このようにさばかれる必要はなかったのに・・・」と言ってあげるわけではない。パウロは犯罪について話してはいない。「犯罪を犯した者に対しても祝福して一緒に喜んであげなさい」という話ではない。心において祝福することにおいて違いはないが、犯罪した者をどのように祝福するかというと、警察を呼んで彼を捕らえさせ、正しい裁判を行ない、犯罪を犯した者がその犯罪に対して正しい解決が与えられるように助けることが祝福なのだ。しかし、私たちの毎日の生活の中では、犯罪の問題はほとんどない。

       心の戦いの99%以上は犯罪と全く関係ない事柄に対するものなのだ。クリスチャンではない人との人間関係において、職場でも近所の人々との関係においても、家族の中でも、そのずるくて悪賢い行いや偽りと真理との区別をはっきりさせないところが問題なのだ。キリストもパウロも、「自分の敵」という言い方をしている。つまり、自分にとっては敵として認めるような相手についての話なのだ。その人を祝福し、その人に恵みが与えられるように求めるのである。「これは天の父のようになることである」と主イエス・キリストはマタイの福音書5章のところで教えている。

       さて、この箇所の教えは、「主イエス・キリストに似た者となる」という話であることを覚えなければならないが、主イエス・キリストは、自分の敵を愛し、その敵の祝福を求めておられた。どのようにパリサイ人への祝福を求めたかというと、彼らの必要に合わせて真理をまっすぐに彼らに教えたのである。衝突がなければ、パリサイ人は真理を聞くことさえできなかったのだ。普通に話したのでは、パリサイ人には通じない。彼らの考え方に合わせて話しても通じない。ぶつからなければわかってはくれない。そこに彼らの必要があった。それ故、主イエス・キリストは愛をもって彼らにぶつかってくださったのである。本当にパリサイ人を呪うことだけを思っているなら、何も彼らに語る必要もないのだ。キリストの場合は、彼らに話しているかぎり、彼らの祝福を求めておられたと言える。

       つまり、相手が悔い改めることを求めて話しかけておられたのだ。彼らが悔い改めて祝福されるように求めておられた。敵を愛し、十字架上で「どうか、彼らの罪をお赦しください」と祈ってくださった。それと同じように、私たちも自分の敵に対してそうすべきである。敵を祝福する意味の中には、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」という命令も含まれている。これは実に深い、そして実に重い、実に美しい倫理の教えであることを感じないではおれない。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」という命令をパウロはここで教えているが、同時に、パウロの書簡の中にはパウロ自身が敵を呪っているような箇所もある。そのような箇所をどう解釈したら良いのだろうか。コリント人への第一の手紙16章21〜22節を見てほしい。

    パウロが、自分の手であいさつを書きます。主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。

       ここでパウロは、明らかに呪っているではないか。またガラテヤ人への手紙1章6〜9節のところを見ていただきたい。

    私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

       ここでパウロは二回も繰り返して強く「その者はのろわれるべきです」と明言している。更に、テモテへの第一の手紙1章20節を見ていただきたい。

    その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。

       サタンに引き渡してしまうと言うのである。リベラルの立場を取る人たちの中のある人たちは、このような聖書箇所を読むとき、「やはり、パウロにも失敗はあったのだ。呪ってはいけないと教えているけれども、いざという時には、パウロほどのすばらしいクリスチャンであっても滑ってころぶこともある。だから、聖書の中にはこのような箇所があるのだ」と解釈するが、それはとんでもない思い違いである。黙示録6章9〜11節までを見てほしい。

    小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。

       ここでは、信仰のために殺されて今既に天にいる聖徒たちが、神の呪いと裁きを求める祈りを神にささげているのである。パウロの失敗というものではない。既に天に昇った人たちさえも、神の裁きを求めるのである。天国に行った人たちが神の裁きを求めるとき、神は「ああ。あなたがたは、天に昇ってもまだ未熟な罪人なのか」というふうに答えてはいない。「ひとりひとりに白い衣が与えられた」と書いてある。そして、「もうしばらく待ちなさい」と言い渡されたのである。十字架の原則に従って私たちは勝利を得るのだから、もっと死ななければならない人たちがいるということなのだ。「その数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と主は言っておられる。「血を流して勝利を得、迫害を受けて勝利を得ることになる」という意味のことを、神はこの聖徒たちに答えている。この人たちたちは正しい心を持っており、罪から解放されており、愚かさから全く解放されている。その彼らが祈りにおいて神の裁きを求めているのである。「罪人だからこんなことを求めてしまう」ということではないのである。

       呪いを求めるパウロの祈りも全く正しいものであり、その祈りに何一つ問題はない。天に昇った者でさえ、そのように祈るのだ。では、「呪ってはいけません」という命令と、「呪われるべきである」とか「呪います」というような箇所とを、私たちはどうやって一緒に考えるべきなのか。どうしたら調和できるのだろうか。簡単に言うなら、先の原則に戻るけれども、これは自分の個人的な敵について話なのだ。ガラテヤ人への手紙の中でパウロは「福音を駄目にする者たちは呪われるべきだ」と言っているが、それはパウロとパウロを迫害する者との個人的な問題の話ではない。その人たちは神の御国を駄目にしようとしている。福音を駄目にしようとしている。パウロは、福音を守るために、「その者は呪われるべきだ」と言っているのである。

       コリント人への第一の手紙16章の箇所でも、パウロはクリスチャンについて話しているのだ。口では「私はクリスチャンです」と言いながら、その実は主イエスを愛してはいない者たちに対する裁きを宣言しているのである。それはクリスチャンではない人たちに対する話ではない。黙示録6章も、天に昇った聖徒たちは、キリストの教会を迫害する者たちを裁いてくださるように祈り求めているのだ。当時、神の教会を迫害して片端から殺しているのはローマ帝国である。これは個人のレベルでの話ではないのだ。それ故、新約聖書を読むときに、個人レベルの問題については、あくまでも相手を祝福して神に委ねるように教えているのは明らかだと思う。政府が教会を迫害して教会を破壊しようとするとき、殺されたり迫害されたりすることに耐えていくしかない。しかし、その中で「どうか神さま。あなたの教会を迫害している政府を裁いてください」と祈るのは全く正しいことである。

       同様に、ガラテヤ人への手紙1章にある祈りは、自分たちをクリスチャンと自称しながら福音を駄目にしようとしている人たちに関する祈りなのである。それは教会を迫害しているノンクリスチャンの人たちについての祈りではない。使徒行伝の中でパウロは繰り返し町から追出されたり迫害を受けたりしていたことが記されている。その中で名指しで呪っている者たちは、クリスチャンでありながら福音を駄目にしているヒメナオとアレキサンデルなのだ。教会戒規の立場に立って呪いの祈りをささげているのである。それは正式に使徒として裁きをしているのであって、教会を駄目にしているクリスチャンを裁いているのである。それは教会の責任として行なわなければならないことなのだ。

       マタイの福音書18章に戻ってこのことについて詳しく見る時間はないが、皆さんがよく知っている箇所である。まず直接その人に言うが、悔い改めなければ他に一人か二人を一緒に連れて悔い改めを勧めるが、それでも悔い改めなければ教会の長老に告げ、それでも悔い改めなければ彼を教会から追放しなければならない。そして、そのことを公に宣言し、また神に祈るのである。教会に対して、「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです」と主イエスは約束しておられるが、これは教会戒規の話なのだ。「主なる神は、教会がささげる正式な教会戒規の祈りを聞いてくださる」と、主イエスは約束しているのである。教会が正しく教会戒規を行なうべきであるのは事実であり、教会戒規をおろそかにしてはならない。

       しかし、それは個人がノンクリスチャンに苛められるという話ではないし、個人と個人の間のあつれきの話でもない。誰かが裏で誰かの悪口を言ったり、ちょっと真実を曲げたりして誰かをいじめるような話ではない。呪うべき者に対しては、裁きを行なう責任を与えられた教会のリーダーたちが正しくそれを行なわなければならないのだ。パウロは使徒なので、パウロが呪うとき、それは使徒として教会戒規を行なっていたのである。

       ローマ人への手紙13章に入ると、国家が復讐を求めて裁きを行なわなければならないと教えている。「神に裁きを委ねなさい」という意味の中には、「政府に任せなさい」という意味もある。誰かが私の子どもを殺したなら、私は銃を取ってその人を捕まえて殺すのではなくて、警察を呼んでその人を逮捕させ、裁判によって裁かれるようにしなければならない。裁判を通して裁きを求めるのである。場合によっては裁判でもその罪が裁かれないことも確かにあるが、その時に私たちはどうすべきなのか。明らかにその人は殺人を犯したのに、裁判で狡猾にも裁きを逃れてしまった。その場合でも、自分で復讐してよいということにはならないのである。神に委ねて、政府の決断に従わなければならない。そういう意味で神は、復讐を求めて裁きを執行する権能を国家に与えられた。

       同じように地域教会のリーダーたちには教会の中の罪を裁く責任があり、その権威が与えられている。そしてそれは、個人のレベルで復讐するかしないかの問題ではないのである。しかし、私たちがぶつかるほとんどの問題はそのようなレベルの話でないのは明らかである。ほとんどが個人的なことなのだ。個人的な敵と迫害に対する個人的な応答との間に違いがある。一方では、教会全体の敵と福音の敵との間にも違いがあるのである。神の公けな代表である使徒は、罪を犯したクリスチャンに裁きを与える責任を負っている。このような使徒としての責任と、私たちが日常生活でクリスチャンではない人々に接する際に行なうべき責任とは全く異なるものなのである。福音を歪める者たちに対して、パウロは神の御怒りを宣言しているが、同時に教会の外部の人々から受けるあらゆる種類の苦難には耐えたのである(コリント人への第一の手紙4章10〜13節)。

       だから、ここでパウロは、私たちの日々の生活の現実について話しているのである。その生活で直面する現実の中で、私たちを憎むものを祝福しなければならない。あくまでもその人が祝福されることを求めるべきである。そこが私たちには1番難しいところである。明らかに犯罪を犯した犯罪者を取り扱う方がむしろ難しくないと言える。政府の裁きを求め、正しい手段に委ねて従えばよいのだ。日本やアメリカなどの先進国では犯罪の罪は政府が公正を前提にして取り扱われている。第三世界では、金持ちが裁判で勝つことも珍しいことではないが、それでも従う以外に道はない。

       ここでパウロは私たちに実に深い教えを与えている。「主イエス・キリストに似た者になる」ということが、人間にとってどれほど崇高で美しい真理なのかを痛感させられると思う。このはっきりした細かい教えを聞くときに、「このすべてを成し遂げてくださったのは主イエス・キリストである」ということを深く覚えさせられる。そしてクリスチャンがキリストを通してこの意味を考えるときに、その深さと素晴らしさを本当に感じて喜ぶ筈だと思う。「このような者になりなさい」と私たちは教えられている。それを真剣に求めるように命じられている。カルヴァンはその注解書の中で、この基準に達するのはどんなに難しいかを説明しているが、「それを心から求めなさい」とパウロは私たちに命じているのである。

       心においてそれを求めることを止めるなら、この世と調子を合わせることになる。この世の人たちは復讐を求めるものである。カインやレメクを見ればよくわかる。カインは自分の弟を殺し、レメクは自分に打ち傷を与える者には七十七倍の復讐を与えると言っているが、それがこの世の原則なのだ。必ず復讐をする。絶対に覚えて、やり返さずにはおかないのである。それが罪人の世界である。これは「カインやレメクのようになるのか、それともキリストのようになるのか」という話なのだ。

       あなたが、「私は主イエス・キリストに似た者となることを求めます」と言うなら、それは復讐の心を捨てることなのだ。復讐の心を抱くことは、厳密に言うなら信仰を捨てることである。「復讐の心を、捨てなければならない」とパウロは命じている。兄弟愛をもって、主イエス・キリストがこの世を愛してくださったように、私たちも愛して祝福を求めるようにしなければならない。そのことを覚えて、一緒に聖餐式を受けたいと思う。

     

    ――2001年12月9日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

    ローマ人への手紙12章11〜13節

    ローマ人への手紙12章15〜21節

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