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    ローマ人への手紙13章8〜10節


    13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

    13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。

    13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

    2002.05.12. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    三鷹福音教会の聖日礼拝メッセージおよび週報をもとに編集したものを掲載してあります。


    愛の負債

    13章8〜10節

    8だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

       13章8〜10節で、パウロは愛と神の律法について教えている。文脈を大きくとらえて見れば、12章3〜13節で、パウロは地域教会の一員としてのクリスチャンの義務について教えるときに既に「」について話していた。13章の1〜7節では国家の権威に対する従順に焦点を当てて教えている。実は、12章14節から13章7節までは、全社会の一員としてのクリスチャンの義務について語っており、その中にあってクリスチャンには、国家の権威者に従うことと税金を支払うなどの義務があることを説明しているが、その後でパウロは、再び愛について話すのである。

       それ故、13章8〜10節でもう一度愛について話すのは、教会内だけではなくて、もっと広い意味の愛について話そうとしているのである。この文脈をまずとらえることが理解の助けになる。もう一度言うが、12章では教会内の人間関係における愛について話している。13章に入ったところで国家の権威者への服従について話し、その直後に、再び愛について話をしている。その前後関係から見れば、8〜10節における愛の勧めは、主イエス・キリストにある兄弟姉妹に対して負っている愛に限定されない、もっと広い愛について話しているのは明白だと思う。

     

    負債

       8節の最初のところでパウロは、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」という命令から話し始めている。愛と神の律法についての話をするのに、まず「金銭を借りるな」という命令から始めているのは、注目に価することだ。愛の勧めとお金に関わる命令、この二つは決して無関係ではないし、偶然に並べて話しているのでもない。負債を軽々しく考えることは、聖書の教える隣人愛の枠組みを超えることなのだ。金銭をどのように扱うべきか、不必要な負債を負ってよいのかどうか、そのことは私たちと他者との関係の中にあって極めて重要且つ多くの意味を持つものなのである。

       パウロが「借りがあってはいけません」と言うとき、「どんな状態にあっても、どんな理由があっても、とにかく金銭を借りてはならない」という意味でないのは明らかである。いかなる負債の正当性をも否定しているのだと理解されるべきではない。なぜなら、モーセの律法には、貧しくなって暮らしが成り立たなくなったときには、お金を借りてもよいと書かれてあるからだ。律法は貧しい者たちが借りることができるように備えさせるものだったのだ。

       モーセの律法によれば、例えば、自分の家が火事にあってすべての財産を失って大変な状況に陥ったなら、男性は自分の身を売って、六年間、誰かの下で働いて自分の問題の解決を求めなければならないのである。また、貧しくなって困っている兄弟がお金を借りに来たら、断ってはならないということも、繰り返し律法にはっきり書いてある。兄弟が返済できないとしても助けなさい、と律法は命じている。そのように、困っている兄弟を助ける福祉の教えはモーセの律法の中にたくさんある。人間が悪事を行なわなくても、経済的に大変な状態に陥ってしまって、助けを求めなければならないときがあるのは事実だからである。箴言3章27〜28節にもある。

    あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、それを拒むな。あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、「去って、また来なさい。あす、あげよう。」と言うな。

       そしてパウロは、9節で直ちにモーセの律法を引用しているのだから、パウロはここでモーセの律法の命令を変えたり否定したりしているのではないのは明白である。とは言え、モーセの律法は無謀な借金を黙認したり勧めているわけではない。借りる者は自分を奴隷とすることになると律法は示唆している(箴言22章7節)。負債を絶対に軽く考えてはならないのである。神は私たちを自由に生きるものとして創造してくださった。だから、進んで奴隷状態に入ることを求めるのは実に曲ったことなのである。

       「だれに対しても、何の借りもあってはならない」と言うとき、この言葉をどのように考えるべきだろうか。箴言にも同じようなことが書いてあるが、「金銭を借りるな」と言うとき、それは「本当に貧しくなって生活が成り立たなくなってしまったとき以外には借りるな」という意味だと思う。軽い気持ちで金銭を借りて、それを返さないなら、それは盗むことにほかならないのだ。今日の私たちの社会では、お金を借りることについての考えが非常に軽いものになっており、「返さなくてもいい」という考え方をする人も結構多い。

       アメリカでは、大学に行くために多額のお金をあちこちから借りるが、返せなければ返さなくても済まされるようなやり方もある。実際に返さない人も少なくない。簡単に破産宣言をして、一切返さないで済ます人がどんどん増えている。とんでもない巨額な負債を作った人間が、それを返さないで済ませるのである。自分には返せる筈はないことがわかっていながら、どんどん負債を増やしていくというようなやり方も珍しくない。アメリカでは、毎月の諸々の支払いもできていない状態なのに、休暇で旅行したければ銀行から旅行ローンを借りることができるようになっている。返すことも考えずに、実に軽い気持ちで借りるのである。シェークスピアの劇の中のいろいろな場面にも、そのようにお金を借りては返さない人物が出てくる。それは害を与える行為である。

       それ故、お金を借りても返さないこと、必要以上に借り過ぎること、そして借りる行為を軽く考えることを、パウロは禁じているのである。実際に竜巻や台風で家財のすべてを失ってしまって苦しんでいるのに、そのような状態の人に対して「何の借りもあってはならない」と言っているのではない。パチンコやギャンブルで金を使い果たしてしまい、ふざけて自分のお金を全部失ってしまったので、「お金を貸してください」と言うのとは話は別なのだ。だから、金銭についての倫理というものが聖書の中では強調されている。

     

    隣人を愛する

       ここで「お金を借りるな」または「負債を持つな」と命じているが、但し書きとして、「愛し合うことだけは例外だ」と言っていることに注目すべきだ。この命令が愛についての導入だということに目を留めるとき、これは実に深い意味のある命令だということを気が付かされる。金銭の取り扱いについて気を付けることは、愛の中に含まれる行為だと言うのである。負債を作ってそれを返さないなら、それは愛の原則を破ることになる。そして、借金とは対照的に、愛の負債は決して完済し得ないものなのである。

       パウロは「負債」という概念について教えている。それは、人に返さなければならないものである。クリスチャンである私たちは、自分が愛の負債を負っているということを覚えるべきである。パウロは1章14節で、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識ある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と言っているのを思い起こしていただきたい。「異邦人に福音を伝える負債を負っている」とパウロは言うのである。異邦人たちに福音を返さなければならない責任を深く感じているのである。「負債を負っている」ということは、彼らの奴隷であるということなのだ。そのような思いを持ってパウロはこのローマ人への手紙を書いている。

       「負債」は「重荷」である。重い負債を持っている者は、債権者に会うとすぐに避けたり逃げたりしがちである。自分の負債の重さを感じているので、お金を貸した人の顔を見るたびに重荷で押しつぶされそうになるからである。それで避けてしまう。それは罪を犯した者が自然に持ってしまう思いに似ている。本当なら、負債を持っているならば、債権者に会ったら「はやく返済できるように努力します」と言って挨拶するのが正しい反応なのだ。避けたりすべきではない。しかし、いずれにせよ、重荷として持つことなのだ。

       それと同じような感じで、パウロは異邦人を見るときに、「私はこの人に福音の借りを返さなければいけない。支払わなければいけない」と思うのである。福音を伝えることを、負債を返すようなものとして、パウロは大きな重荷として感じている。それだから、異邦人を避けることをせず、積極的に異邦人を求めて、それを払おうとしているのだ。福音を伝えなければならない相手を求めて、その人たちを見るときに、返さなければならない“重荷”を強く感じるのである。いつも「負債を負っている」ということを深く感じて、異邦人に対して福音を伝えていた。

       私たちも自分が負っている愛の負債を周りの世界に返さなければならない。ノン・クリスチャンもクリスチャンもみな神の似姿に創造されているからである。その人たちに福音を述べ伝えるという義務から私たちは逃げることはできない。その義務は「愛する」という義務の一部なのである。しかし、パウロはここで更に広いことについて語っている。律法の一つ一つの命令はすべて神の愛の教えの一部だということを私たちは覚えなければならない。

       少し横道になるが、本当なら、私たちは周りの社会に対してそのような心を持っていなければだめなのである。日本の中で救われている人は僅かに一握りでしかない。周りを見ると、殆どの人たちは福音を聞いたこともないし、聞いてもピンと来ない人ばかりである。神はこの日本にある教会を祝福してはおられない。他の国々の教会を日本よりも祝福しておられると言ってよいと思う。宣教師たちの会合では、「なぜ日本の教会は成長しないのか」と皆が議論しているが、その理由として「文脈化(脈絡化)がなされていないからだ」ということになっている。つまり、日本人が理解できるように聖書をもっと日本的に説明しなければだめなのだと言うのである。日本人の文化や考え方にもっと合わせて聖書を説明しなければだめだと、彼らは考えている。

       今、中国の教会が急速に成長しているのは、聖書を中国的にその文化になじませて福音を伝えたからだろうか。韓国に福音を伝えた宣教師は、巧く韓国の文化に合わせて聖書を説明したから韓国の教会は成長したのだろうか。同じアメリカやイギリスやカナダの宣教師たちが日本にも韓国にも行っているのに、何が違うのだろうか。その決定的な原因は文化や習慣になじむかどうかではなく、神の契約に対する忠実の問題にこそあるのだ。問題は偶像礼拝にある。今でも日本では偶像礼拝を極めて軽く考えて広く許してしまう傾向が続いている。

       つまり、契約の中に、その契約の教えの中に、成長しない理由が潜んでいるのだ。巧く文化に適合して話しているかどうかで違いが出て来るはずはない。偶像礼拝の妥協があり、契約に対しての忠実が曲げられているので、神が祝福してくださらないのである。私たちは、日本の中の僅か1%以下でしかない「救われた者たち」なのだ。その私たちが、周りの日本人に対して重荷を持って、「負債を払わなければならない」というような心をもって、いつも周りの人間に目を注いで、彼らにキリストの福音を伝える機会を心から求める生活をすべきだということを、深く感じさせられる。

       パウロは、負債について話すとき、お金のことを話しているが、お金のことを話した後で、「愛は別です」と言うのである。つまり、愛においてはいつも負債を持っているということである。互いに愛し合うことにおいては、いつも負債がある。いつも借りがあり、重荷がある。愛においては、いつもその負債を支払わなくてはならないのである。それ故、負債の話から、すぐに愛の話になっている。1章のところでは、負債とは、福音を伝える責任の話になっている。それを重荷として深く覚えつつ毎日の生活を歩むようにと、パウロは私たちに教えている。

    互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」とパウロは言う。「互いに愛し合う」そして「他の人を愛する」と言っている。パウロは教会のことだけしか考えていないのかというと、そうではないと思う。先に前後関係の話もしたが、愛についてパウロは9節で、「すべての戒めは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という言葉の中に要約されている」と説明している。律法全体がその愛の話の中に含まれるのである。

       当時のパリサイ人たちは、「ユダヤ人はユダヤ人の隣人を愛さなければならない」と教えるが、「異邦人は憎んでもよい」とも教えていたようである。ユダヤ人に対して以外には愛の責任は問われないような考え方になっていたようである。パリサイ人たちは、イスラエルの中で取税人や罪人たちを異邦人のように見ていた。そして、その人たちを憎み、一緒に食事を取ることもせず、近づこうともしなかった。彼らを憎むべき相手と考えていた。それで、主イエス・キリストがパリサイ人たちの前で取税人や罪人と一緒にテーブルについて一緒に食事をしたとき、パリサイ人たちは怒って「なぜあなたは罪人と一緒に食べるのか」と言った。彼らにとってそれは憎むべき相手だからである。ルカの福音書10章25〜28節を見てほしい。

    すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

       これはマタイの福音書22章とは別な時だということは読めばわかる。律法の要約が愛だということはパリサイ人たちにもわからない筈はない。神を愛することが律法の中の第一の義務として与えられていることも十分承知していた。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という命令がレビ記19章18節にある。レビ記19章はレビ記の中で最も強調されている中心的な箇所である。その中で、聖なる生活を送るように命じている。「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」と冒頭で命じている。このレビ記の箇所を、パリサイ人たちはよく知っていた筈である。だから律法学者は、その箇所をもって主イエスに答えている。それに対して主イエスは、「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と言っておられる。

       なぜここで主イエスは、「神を信じなさい。信仰によって救われます」と答えないで、「律法を実行しなさい」という言い方をされたのか。それは、「神を信じなさい」と言えば、彼らは神を信じているつもりでいるからである。主イエス・キリストはここで、神を信じていると告白している人間と告白しない人間との区別があるような所で話しているのではない。そこは、偽物の信仰を持った者と本物の信仰を持った者が一緒にいる所である。偽物の信仰と本物の信仰との区別は、愛をもって生きるところにある。真の愛を実行するかどうかにあるのだ。それ故主イエスは、その人に、「神に対する愛と隣人に対する愛を実行しなさい」と言うのである。

       「愛をもって生活するなら、救われる」と言うとき、「本当の信仰には、神に対する愛があり、隣人に対する愛があるのです」と答えているのだ。それを聞いたそのパリサイ人はどうしたかというと、29節で彼は、自分の正しさを示そうとして、「では、私の隣人とは、だれのことですか」とキリストに聞き返している。律法の中で「隣人を愛せよ」という命令は誰に対して適用すべきなのか、と言うわけである。それに対して主イエス・キリストは有名な譬え話をしている。同30〜37節までを見よう。

    イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

       ここで主イエスは「隣人とは誰か」という質問に答えておられるが、「隣人とは誰か」ということよりも、「誰が隣人になったのか」という話になっている。レビ人と祭司は、その強盗に襲われて怪我した人を避けて道の反対側を通り過ぎて去って行った。なぜ避けたのか。それは、「助けようとしたときにその人が死んだら、自分たちは汚されてしまう」と思ったからである。しかしそう思うのは、汚れについての律法の細かい定めについて過剰に心配したりして、その律法の真の意味を忘れているからである。血だらけになって倒れているその怪我人を見るとき、「その人によって自分は汚れるかも知れない。その人の血に触れたら神殿に入れなくなるし、助けている途中で死ねば、もっとやっかいな事になる。レビ人或いは祭司として、その務める場所である神殿に入れないとしたら、それは大変なことだ」という心配がまず脳裏をかすめるのである。だから避けて、近づこうともしない。

       敢えて言うならば、その事が心配だと言うなら、レビ人でも祭司でも、自分のしもべを呼んでしもべに助けさせることだって出来るのだ。レビ人も祭司も、神の律法の本当の意味がぜんぜんわかっていないのである。律法の定めの真の意味を受け入れていないことが問題なのだ。隣人を愛することこそ真の聖さであるというのがレビ記19章18節なのだ。その聖さについての教えの中でモーセは「隣人をあなた自身のように愛しなさい」と命じているのである。

       驚いたことに、この怪我した人を助けたのはサマリヤ人であった。当時のユダヤ人にとってサマリヤ人は憎むべき敵であった。パリサイ人、レビ族、祭司たちは、北イスラエルに行くときは迂回してサマリヤを通るのを避けていた。サマリヤの地は汚れていると思っていたので、イスラエル人はサマリヤ人との接触を嫌っていた。その憎むべき敵である人が怪我したユダヤ人を助けたという話を主イエスはする。サマリヤ人は神殿について違った考えを持っていて、神殿の儀式を正しく守っていなかったのは事実である。そのようなサマリヤ人であっても、その行ないにおいては神の律法を本当の意味で守っていると、主イエスは譬えをもって話したのである。

       このような譬え話は、パリサイ人や祭司たちに対して実に屈辱的なほどに失礼な話であった。彼らの怒りを招くような話を主イエスは敢えてしているのである。「隣人とは誰のことか」ということが問題なのである。「隣人」とは、助けを必要としている人であって、自分と同じ信仰を持っているかどうかは問題ではない。同じ宗教かどうかとか、同じ国民かどうかは問題ではない。律法が言う「隣人」とは、当時のパリサイ人たちが考えていたような隣人ではない。クリスチャンかどうかとか、国民性が同じかどうかは問題ではない。「隣人を愛しなさい」という命令は、クリスチャンに限定された命令ではないのである。

       そのことを主イエス・キリストはパリサイ人に説教して教えている。パウロも、国家の権威に従うことを教えた後で「隣人を愛しなさい」と言っているので、これは教会内に限ったことではなく、「社会全体を自分の隣人として愛さなければならない」と教えているのである。それは負債のようなものであって、どうしても支払わなければならないものなのだと教えている。その文脈から、私たちが愛すべき隣人とは私たちの周りにいる人々のことであることが定義される。ここで命じられている愛はとても広いものなのである。

       これは、地域教会や神の教会全体に対する愛が特別なものであることを否定しているわけではない。クリスチャンの兄弟姉妹の間の特別な愛を否定するものではない。愛にはいろいろなレベルがあって、いろいろな事において義務があるものだ。まず神御自身に対して100%の愛を持たねばならない。人間全体に対する愛がなければならない。しかし、その隣人愛は、自分の妻や子どもたちや自分の父と母に対する愛と同じだということではない。確かに教会の中では互いに愛し合うことが命じられている。確かにアフリカの地域教会をも愛さなくてはならないが、彼らに会ったこともないし、細かい事情も知らないし、アフリカの教会員を愛するために毎年アフリカに行ってもいない。情報を見て、そのために祈りをささげるけれども、神の教会を愛さなければならない私の愛の責任は、まずこの三鷹福音教会にある。同じ地域教会に対する愛がまず問われなければならない。

       一つ一つの地域教会はキリストの身体として成り立っているということをコリント人への第一の手紙の12章から何度か話したことがあるが、地域教会の中だけで互いを愛し合えばそれで足りるのかというと、そうではない。それで愛の責任が果たせたわけではない。日本のすべての主にある教会を愛さなければならないし、中国の教会をも愛さなければならない。中国の教会に対する迫害のことを聞けば、祈りにおいて覚えなければならないと思う。クリスチャンは、神の教会の全体を愛さなければならない。では、神の教会を愛するけれども、クリスチャンではない人たちを憎んでもよいのかというと、そうではないのである。

     

    愛と律法

       ローマ人への手紙13章に戻るが、「隣人を愛しなさい」と言うときに、主イエスは明確に「隣人」とは誰のことなのかを教えてくださった。「愛は律法を全うするものです」とパウロは言う。原語では、この10節の言い方は、「愛を持つ者は律法を完全に守っている」という意味である。まず初めに、私たちは聖書において律法と愛が一つだということを理解する必要がある。神の律法は“愛の道”を詳細に述べている。罪深さのゆえに、私たちは愛の道を曲げ、忘れ、誤解するのである。だから、私たちには細かく明記された愛の教えが必要なのである。

       律法は、決して単なる規則として理解されてはならないものである。エデンの園に戻って人間社会について考えてみればよくわかると思うが、もしアダムが罪を犯していなければ、「殺すな」ということを律法として石の板に書いて与える必要はなかったのだ。しかし、「殺すな」ということを、神はわざわざ石の板に書いて私たちに与える必要があった。そこまで人間が罪深いものだからである。神は、エデンの園の中でアダムとエバが罪を犯す前の段階で、「殺すなかれ」「姦淫するなかれ」「盗むなかれ」という命令を与えてはいない。盗んだり殺したりすることなど、全く考えもしないことであった。

       与えられた命令もいわゆる倫理の命令ではなかった。それは、「この木の実を取って食べてもよいが、この木の実はだめです」という命令であった。食べ物を取って食べることは、倫理的な観点から見れば、「これはだめだ」と明白に言えるようなことではない。「エバを殺すな」と、声を大にしてアダムに言ったりはしないのである。もしアダムとエバが神の教えを理解して、神の命令を守ったなら、善と悪の意味を正しく悟るはずであった。しかし、皮肉なことに、禁じられた木の実を食べたことによって、アダムは自分の妻を殺してしまったのである。その違反によって罪が人類に入り、死をもたらした。もしアダムとエバが善と悪の意味を正しく悟って、祝福されて、そこから人類が始まったとすれば、「殺すな、姦淫するな、盗むな」というような命令はなかったのである。

       そういう意味で、もし罪人でなければ「愛だけで十分です」と言ってもよかったわけである。私たちが全く罪の本質を持たずに生まれてきたとしても、私たちが成熟した者に成長していくためには「」を教えられる必要があったであろう。天国に行った時に、「互いを愛し合いなさい」という命令を私たちは決して忘れないと思うが、厳しく「・・・をするな」と命じられる必要はなくなる筈である。天国で喧嘩したり、苛めたり、互いに傷つけ合ったり、怒ったりすることはないからである。それでも、真にお互いに愛し合うような社会の中にあっても、物事を正しく行なうためのルールは絶対に必要である。車社会では右を走るか左を走るかのルールを決めなければならない。それと同じように、「愛があるからルールは必要ない」ということはないのである。

       しかし、罪がなければ、「殺すな」「盗むな」「姦淫するな」というような律法は必要ではなくなる。正しい愛があれば、律法を自然に守っているからである。そういう意味では、「律法は罪人に愛の道を教えるものだ」と言うこともできる。勿論、律法はそれに限ったものではない。それゆえ、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」というような否定的な命令は、罪人であるがゆえに必要な命令なのである。私たちが罪人である今、私たちにはあらゆる種類の罪に走る深い傾向があるので、神が愛の道を私たちに教えることは非常に重要である。神への礼拝に関する定めのすべてがそこにつながるわけではないのも事実であるが、律法のすべての命令は、愛の意味を教え、愛の道を私たちに教えるものなのだ。どのように愛をもって生活すべきかが詳細な判例をもって教えられている。

       律法の細かい教えは、愛を広く、深く、そして豊かに私たちに教えてくれるものなのである。律法は、愛する知恵を私たちに得させるための教えである。これらの命令から離れて愛することを試みるなら、その愛は良くても偽善的なものにしかならない。反対に、愛なくしてこれらの命令を守ったとしても、個人的な代償を求めたり、最終的に自分が利益を得るための投資としてそれを行なうパリサイ人たちのようになってしまうのである。それにしても、よく学んだ者で、律法を口にしたり他人を批判することには長けていても、隣人を愛する心のない者が如何に多いことか。

    さて、「律法」という言葉は、「トーラー」というギリシャ語の訳としても「ナマス」というギリシャ語の訳としても足りないところがある。「モーセの律法」と言うときに「トーラー」という言葉が使われている。日本語訳では、その同じ言葉が「教え」と訳されたりもする。「法律」と訳すことのできる箇所もある。そこまで狭い意味を持つことも考えられるが、普通はもっと広い「教え」というような意味の言葉である。神の律法は、正しい生活を送り、正しく生きるための教えとして与えられている。「正しく生きる」とは、「愛をもって生きる」ことなのである。そうであれば、まさに愛は律法を全うするものである。

       しかし、どうしてパウロはここで「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」というリストを掲げたのか。七十人訳の中では「姦淫するな」と「殺すな」の命令が逆になっているので、パウロはここで七十人訳の順番に従って話しているのだという説明を読んだことがある。いずれにしても十戒のほとんどの命令は「べからず」であって「するな」と禁じる命令である。第一の命令は、「他の神々を持つな」である。「偶像礼拝するな」が二番目の命令で、三番目は「神の御名をみだりにとなえるな」である。そして、「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽りを言うな」「むさぼるな」とある。これらはみな否定的な命令である。

       それで、ある人たちは、「神の律法は極めて否定的なものだ。ベからず主義のものである。どうしてこれが愛の教えと言えるのか」と考えてしまう。しかし、それは実に浅はかな捉え方である。否定的な命令は、自由に生きるための枠組みを与え、自由を守るための境界線を決めるものなのだ。盗まなければ、殺さなければ、姦淫しなければ、むさぼらなければ、偽りを言わなければ、その枠組みの中にあって人々は真に自由に生活することができるのである。そのように命じられているのは、本当の意味で「自由に生きなさい」と言っているのである。毎日の生活のための大きな枠組みを決め、その中で愛をもって自由に生きなさいという意味なのである。そういう意味で、その否定的な命令は、本当は自由を保つための命令になっているのである。

       細かく肯定的に言い尽くそうとすれば、それこそとてつもない無限に長いリストを書かなければならないだろう。すべての関係において、肯定的に隣人を愛する愛のあり方は千差万別だからである。勿論、私は菅野さんを愛さなければならない。しかし、それは私の息子を愛さなければならない愛とは次元が違うものである。息子が病気になったら私はすぐに彼を病院に連れて行かなければならないが、菅野さんが病気になっても、申し訳ないが病院に連れて行くとは限らないのだ。もし菅野さんが吉祥寺で倒れたとしたら、それをレビ人も祭司も無視するなら、その時は連れて行ってあげるだろう。つまり、肯定的に言うならば、責任と義務は、すべて人間関係の如何によって違うものなのだ。そのすべてを肯定的に書き出そうと言うなら、それは至難、というよりもむしろ滑稽なことである。

       しかし、否定的な部分を簡潔に書けば、しっかりと枠組みを固めることができる。そして、モーセの十戒では、肯定的な命令は二つだけというのも注目すべきことだと思う。即ち、「安息日を守りなさい」と「父と母を敬いなさい」の二つである。つまり、礼拝の日を聖なるものとして守りなさいと命じ、そして、父と母を心から敬うことを命じている。他はすべて、「この枠組みの中において毎日の生活を送りなさい」ということなので否定的に命じられている。それによって、自由の領域をはっきり決めているのである。それを守ることによって真の自由が与えられるためである。

       これは、愛が、生きた環境の中にあって働くことができるための「枠組み」なのである。それを極めて簡潔で明確な否定形をもって私たちに与えてくださった。この枠組みが曖昧であれば、愛は地に落ち、自由は奪われてしまうことになる。それ故、神の律法を学ぶとき、このパウロの言葉を念頭に置くことはとても重要である。神の律法全体は、それを愛の教えとして学ぶ限り、それは私たちにとって実に大切な教えだからである。「隣人を愛する」とはどういう意味なのか、また「神の愛について更に学んで成長する」とはどういう意味なのか、私たちはもっと具体的に瞑想する必要があると思う。

     

    あなた自身のように

       「隣人を自分自身と同じように愛しなさい」という命令に対するマルティン・ルターの説明は、「自分を愛するのを止めて、隣人を愛しなさい。自分を愛する以上に隣人を愛すべきである」というものであった。「人間は罪人なので、誰もが自分を愛し過ぎている。だから、自分を愛するその偶像崇拝的な愛を捨てて、隣人を心から愛しなさい」と、ルターは教えている。それも確かに言えることだけれども、ポイントが若干違っているのではないかと思う。強調しすぎて、「自己愛はすべて歪んだものだ」とほのめかす点でルターの解説はやや極端かも知れない。

       では、どのように考えるべきだろうか。それほど難しく考える必要はないと思う。私たちは自分を自然に愛してしまうものである。だから、それと同じように隣人をも愛さなければならない。誰でも自然に自分を愛してしまう。だからパウロがエペソ人への手紙5章29節で言っているのは正しい。「だれも自分の身を憎んだ者はいません」とパウロは言っている。同じ28節でパウロは、「自分の妻を愛する者は、自分を愛しているのです」と言っている。「自分を愛する愛」とはどのような愛なのかというと、簡単に言えば「当たり前に自分の世話をする」というものである。誰も自分から盗みはしないし、自分を殺すことも普通ならしないことである。

       誰から強いられなくても、自分に食べさせるし、自分の好きなことを自然に求めたり行なったりしてしまう。場合によってそれが害になることもあるが、それとはまた話は別である。とにかく、自分のためなら、考えずとも、すべきことを自然にするものである。いつも正しくそれをするとは限らないが、自然にそれをするはずである。だから、「隣人を自分と同じように愛しなさい」というときに、難しく考える必要はない。正しく自分を愛する者ならば、すぐにわかる筈である。

       ルターが言っていることは、一面においては確かに言えることである。なぜなら、誰もが偶像崇拝的な自己愛に走る傾向があるのは事実だからである。しかし、アダムとエバが罪を犯していなければ、おそらくアダムは正しい意味で自分を守ったに違いない。私たちには、正しい意味で自分を守る責任があるのだ。長旅していて「ああ、お腹が空いた」と思えば、我慢して食べないのはよくないことである。空腹の時には食べ物を求める責任がある。それを誰かに命じられる必要は普通はないのである。誰かに、「お腹が空いたら、あなたは食べなければいけません。それは倫理の話ですよ」と言われる必要はない。アダムとエバが罪を犯してなければ、自然にすべきことをして自分を守るし、すべきでないことを自分に対してはしないのである。

       罪人の愛は偶像崇拝的な自己愛なので、それは自分を破壊してしまうような自己愛になったりする。それでも、人は自然に自分を愛するものなのである。それ故、「自分を愛しなさい」とは言わずに、「隣人に対しても自分と同じように、その隣人を守る愛を持ちなさい」と言うのである。それがどういうことなのかを簡単に言うならば、それが「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽りを言うな、むさぼるな」という話なのである。これらの命令が隣人に対する愛の枠組みなのだ。朝起きたらすぐに鏡を見て、三十分くらい自己賛美する人がいるだろうか。また、隣人に会うときにへつらう義務があるわけではない。ただ、自分に対して行なうべきことを自然に行ない、隣人に対しても同様に、行なうべきことを行なうのである。

       そういう意味で、「自分と同じように隣人を愛しなさい」と命じているのである。罪人である私たちには、何かにつけ隣人をつぶして自分を守る傾向がある。例えば、そのレビ人や祭司の話のように、隣人が死んでもかまわないから、自分だけがきれいな手で神殿に入ることを考えている。それが私たちにとっても問題となるところだと思う。自分が大怪我したとき、少しでも動いて自分を助けることができるなら、懸命になって自分を助けようとするであろう。僅かばかりの力しかないとしても、這ってでも、自分で病院に行く筈である。隣人がもう死にかけているのを見ても、「触れたら汚れるから」と思って道の反対側を走り去るなら、自分と同じように隣人を愛してはいないのである。

       ルターの解説がやや極端だと言ったが、この節に対する現代の典型的な解説はルターよりもはるかに聖書の意味からかけ離れている。私には非常に皮肉に思えることがある。それは、特にアメリカでそうなのだが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という命令が引用されるとき、どのように引用されているかというと、クリスチャンの心理学者や教師たちは「もっと自分を愛しなさい」と教えるのである。「もっと自分を愛する必要がある。それこそ大切なことなのだ」と彼らはこぞって言う。互いを愛し合う愛が足りないのはなぜなのかというと、アメリカでは、「一人一人の自分自身を愛する愛が足りないから、隣人をも自分と同じように愛することができないのだ」という話になってしまう。

       この解釈は、おもにキリスト教の考え方に世俗的な心理学が影響を及ぼした結果、出て来たものと思われる。「ここでパウロが述べているのは、もっと自分自身を愛する必要があるということだ」と、彼らはほのめかす。「自分を愛すれば愛するほど、私たちは隣人を愛することができるようになる」と、この箇所から教えるのである。この「自分をもっと愛しなさい」という考え方は今の日本でも広く流行っている。「自分をもっと高く評価しなさい。あなたの自己評価は低すぎる」という話が頻繁に心理学で取りあげられており、教会の説教でもよく語られているし、神学校の教えにも取り入れられている。「現代社会における愛の欠如という問題は、実はセルフ・イメージが低いことから出ている問題である。私たちは自分自身についてもっと高い評価を持つ必要がある。そうすれば、もっと愛情をもって生活できるようになる」と教えている。

       しかし、「自己評価を高くしないとだめだ」というのは実におかしな考え方である。遺憾ながら、今では多くのクリスチャンのリーダーたちが教壇で、また教会で、「私たちの自己評価は低すぎる。教会は互いのセルフ・イメージを高め合い、もっとお互いに“へつらう”社会となるべきだ。お互いの自己評価を高め合い、皆が自分自身を高く感じることができるように励まし合いましょう。それによって、周りの世界に愛を注ぎ出すことのできる自己愛に満たされるべきである」という類のことを人々に勧めている。騙されてはならない。それは「自分を愛しなさい」というアメリカ発の非聖書的な心理学に基づいたものなのだ。

       その考えは海を渡って今や日本全国でもてはやされ、日本の教会で流行っている。それは聖書の「自分を愛するのと同じように隣人を愛しなさい」という教えとはまるで違う考えだということを、しっかりと理解してほしい。それはクリスチャンの考えではない。神の律法を正しく守って相手の祝福を求めることこそ聖書が教える愛である。私たちが本当に必要なのは十字架の真理であり、十字架の愛である。この心理学的アプローチがこれほど影響力を持っていなかったなら、一笑に付することもできたであろう。しかし、「隣人を愛せよ」という命令が、「自分を愛せよ」という命令に変えられてしまい、他者志向が自分志向に変えられてしまっているのだ。

       パウロが教え、そして、それ以前にモーセが教えたのは、誰もが自分自身を愛するものだということを前提として考える、ということであった。そのことを更に努力する必要はない。そのようなものなのだから、自分と同じように隣人を愛しなさいと命じているのである。へつらいの心を教会に持ち込むのは実に忌むべきことである。詩篇も箴言も、へつらいの舌とへつらいの言葉が悪であり、人をへつらう人間に気を付けるように命じ、その“なめらかな舌”から守られるように教えている。へつらいは罪であり、曲がったことなのだ(ヨブ記32章21〜22節、箴言2章16節、6章24節、20章19節、26章28節、28章23節、29章5節など)。

       へつらいを受け入れる者は愚か者である。「愛し合う」ということは「へつらい合う」ということではない。彼らは自己評価を高く引き上げるために互いをへつらい合うことが愛し合うことなのだと勘違いしている。誤解してはならない。へつらいは愛ではない。「自分を愛しなさい。自分を高く評価しなさい」という勧めは、レビ記19章18節の教えとは全く異質なものであり、あまりにも歪曲された考え方であって、それが教会の中にも蔓延しているのは実に悲しむべきことである。それ故、このことを特にここで指摘しておかなければならないと思うのである。

       「隣人を自分と同じように愛する」というのは、周りの社会と私たちとの関係のことである。具体的に言えばこれはモーセの律法の話である。昔の代表的な教父の一人クリュソストモスの時代(四世紀)、クリスチャンが借金しても返さない問題が頻繁にあった。クリスチャンではない人たちの方がクリスチャンよりも金銭的なことに気を付けているということを彼は説教の中で話していた。クリスチャンは神の命令を守ることに心を配るなら、誠実な人間として歩むことができる。良い意味で「誠実」は「愛」につながる。いつもセンチメンタルに愛について話し、会う度に「会えてうれしい」と言って涙流すのは愛ではない。パウロはここで、神の律法の正しさと真の愛を一緒にして話している。成すべきことを責任もって果たし、すべきことを喜んで行ない、神に対して常に感謝の心をもって歩むことが愛なのだ。

       モーセの律法の教えについて私たちはこの数年間ずっと午後の学びで勉強している。浅くしか学べていないけれども、時間をかけてモーセの律法を学ぶ目的の一つは、実践的な愛の知恵について広く深く考えるためである。モーセの律法の教えをほとんどの教会では深く学ぶこともせず、考えることもしない。そうすると、愛についての考え方も非常に浅くて軽いものになる。真に愛を求める者は、モーセの律法の教えを深く求めないではおれない筈だ。そこに真の愛が教えられているからである。

       ここでパウロは、「神を愛し隣人を愛する者は、モーセの律法のすべてを守る者だ」と教えている。愛は律法を全うするものだと教えている。これは律法についての主イエス・キリストの教えを指していると思われる。私たちの教会では、礼拝において毎週モーセの十戒を告白しており、それが皆の心に刻まれて、子どもたちも父親たちも母親たちも誰もが、「これがモーセの十戒です」と言って十の戒めをはっきり言えるようにしたいと願っている。いつか、主イエス・キリストが強調されたその二つのこと、すなわち「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という言葉を私たちの告白に付け加えたいと思っている。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、絶対なる愛なる神に対する忠実と愛を持つことを熱心に求める者でありたい。それが隣人を愛する愛の土台なのだ。

       隣人を見て、隣人が格好良いから愛するのではない。隣人があれこれしてくれたから愛するのでもない。その隣人は絶対なる永遠なる神の似姿なので、神を愛する者としてその隣人をも愛さなければならないのである。自分の健康に対する責任の話であっても、「なぜ健康を大切にするの」と聞かれたら、「この身体は神から与えられたものであり、神の神殿であり、私は神の似姿なのだから、自分の健康を正しく管理して保たなければいけないのです」と答えるわけである。絶対なる神御自身をまず第一に愛しているので、神の似姿である隣人をも愛さなければならない。そして、神が特別に愛して下さった神の教会をも、私たちは特別に愛さなければならない。そこにいつも戻る必要がある。

       それというのも、神がまず私たちを愛してくださったからである。神が愛してくださったことがすべてのはじまりなのだ。私たちが神を愛することがはじまりなのではない。神が私たちを愛してくださって、私たちを救うために御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった。そして、主イエス・キリストは「なだめの供え物」として十字架上で私たちの罪の罰を完全に受けてくださった。私たちの罪を完全に贖ってくださった。そこに神の愛が表わされている。私たちはその神の愛に応えて歩むものなのである。

       神が私たちに求めているのは主イエス・キリストが身をもって教えてくださった十字架の愛である。神に愛されていることを覚え、神の愛に応えて神を愛するとき、私たちは隣人を愛することをも学ぶのである。自分自身に焦点を合わせる者は、一般的ではあるが、想像し得るかぎり最も哀れな偶像礼拝の形式の一つを犯している。私たちの心と考えを、私たちを愛して下さる神の愛のうちに留まらせようではないか。そうするならば、私たちは互いを愛する愛において成長する筈である。

       聖餐式は、神の愛を、繰り返し繰り返し私たちに宣言するものである。長老たちは神の代表として主イエス・キリストのみからだと血を表わすパンとぶどう酒を私たちに与えるが、それを長老の手から受けるとき、それは神ご自身が私たちに主イエス・キリストを表わすしるしを与えておられるのである。御父なる神が主イエス・キリストご自身を私たちに与えてくださることを表わしている。神が一方的に私たちを愛して主イエスを私たちに与えてくださった。そのことを聖餐式において覚えるのである。だから、聖餐式においては、自分の罪を悔い改めることが第一なのではない。感謝をもって受けることが第一なのだ。

       罪を悔い改めなければならないのは事実であるが、ここではっきり言っておきたい。罪を悔い改めても、罪の悔い改めの悔い改め方にも罪があるのだ。あまりにも私たちの悔い改めは浅くて、軽いものだからである。あまりにも鈍感で、愚かで、自分の最も深いところの問題に気付きもしない。関係ない表面的なことばかりを漠然として悔い改めるような愚かな悔い改め方もある。とにかく、私たちの悔い改めも、そんなにすばらしいものではないのだ。神の愛こそ中心なのだ。「主よ。あなたがこれほどに私を愛してくださったので、あなたの御恵みを感謝します。あなたの御名をほめたたえます」という心をもって、毎週聖餐式を受けるのである。

       毎週毎週、神が私たちに、ご自身の愛を十字架の愛として示してくださり、与えてくださっている。本当ならば、それを心に刻めば刻むほどに、私たちは恵みの愛を深く学ぶはずである。恵みの愛を本当に覚えるならば、互いに対しても、その恵みの愛を示し合うことができるようになるはずである。そのことを覚えて一緒に聖餐式を受けたい。

     

    ――2002年5月12日――

     


    著 ラルフ・A・スミス師
    編集 塩光明長老
    著者へのコメント:shiomitsu@berith.com
     

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