95.03.12. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。
御恵みのゆえに捧げる神への感謝
パウロの書簡にしては珍しく、エペソ人への手紙は地域教会に宛てた個人的挨拶がない。コリント人 (1コリ1:4) 、ピリピ人 (ピリ1:3)、コロサイ人(コロ1:3)、テサロニケ人
(1テサ1:2; 2テサ1:3) に対して表した感謝も、パウロはエペソ人に対しては表わしていない。だが、これは、ガラテヤ人の場合のように、パウロがエペソ人に対して憤ってためではない。むしろ、この手紙が公式のものということなのだ。指導のための公式の書簡であって、エペソ人だけに宛てて書かれたものではなく、彼らとほかの教会のため、特に教会員の多くまたは全員が異邦人で占められている諸教会のために書かれたのである。
この書簡があまり個人的なものではないからと言って、ただ淡々とした神学解説に過ぎないというわけでもない。教会に対して通常なされる感謝の代わりに、パウロは神に対する賛美を捧げている。3節に始まり14節まで続くこの文章は、実に200語を越える長さだ。これは、我々を罪から救い出し給う神の御恵みを解説する神への頌栄なのである。パウロはここで非常に深いキリスト教神学の真理を我々に教えるにとどまらず、いかにしてそれを学ぶべきか、つまり、ひざまずき神に賛美をささげつつ学ぶよう、我々に教えているのである。
「ほめたたえる」という表現を三度繰り返すことによって、パウロはとりわけ三位一体なる神に注意を促しているようである。6節「恵みの栄光が、ほめたたえられるため」、12節「神の栄光をほめたたえる」、14節「神の栄光がほめたたえられる」とパウロは語る。3〜6節では、おもに我々の救いに関する御父の御計画を、7〜12節では、救いのための御子の働きを、そして13〜14節では、救いの冠である御霊の賜物を語っている。ほむべきかな、三位一体なる神!
ほむべきかな、神
我々は神の賜った祝福のゆえに神に感謝を捧げ、そうすることによって神をほめたたえる。西洋には、ギリシャ哲学の影響で、神の祝福のゆえに神を賛美するという考え方を蔑む思想家たちがいる。彼らの考えでは、神をほめたたえるのは、神がどのようなお方であるのかということのためだけであるべきで、神が与え給う恩恵からは切り離さなければならない。祝福のゆえに神に感謝するなど打算的だ、と言うのである。祝福にではなく、ただ神の本性の純粋で聖なる偉大さにのみ目を留めるべきだ...この考え方はいかにも霊的に聞こえるが、しかしこれは歪んだ考え方なのである。
そこには、神のこころまで見通そうとするギリシャ哲学の精神が反映されている。神の本性を抽象的に静観することは、中世において多くの者にキリスト教の霊性の頂点と考えられていた。現代の異教にも同様の態度が反映されている。例えば、ヘーゲルは、論理に関するある著作の導入部分で、自らの作品は「神の永遠の本性そのものについての説明、つまり、自然もいかなる有限な霊も創造される以前の神についての説明」である、と書いた。ここに表現された並々ならぬ高慢さは、なにもヘーゲルに限ったことではない。ギリシャ哲学の伝統としては寧ろ典型的なものだ。
ところで、これは、他の異教に倣って神が我々の望みを叶えて下さった時にのみ神に感謝しよう、と言っているわけではない。我々は常にあらゆる状況の下で神に感謝を捧げるべきである
(1テサ5:18; コロ3:17)。同時に、我々は神をその属性や御性質のゆえに賛美することも怠ってはならない。神のみわざは御自身の啓示であるので、我々にとっては神の本性とみわざは切り離すことができない。例えば、ダビデはしばしば神の本性を賛美しているが、それは必ずみわざのうちに現わされた神の本性であった。この二つを切り離すことはできない。ダビデであろうと、他のだれであろうと、ヘーゲルがなしたと述べていること、すなわち、神を世界の創造以前の神として知ることは人間には不可能なのである。
「神の祝福ではなく、その本性のゆえに神をほめたたえる」という考え方には、二つの基本的な問題点がある。まず第一に、これは我々が神に依存していることの暗黙の否定である。罪深い人間は、自分たちが吸っている空気、才能や能力、健康、この世における成功について、神に頼らなければならないことを認めたがらない。人間がその祝福ではなく本性のゆえに神をほめたたえるべきという思想は、神と神の恩恵に対する覆いの掛かった拒絶なのである。罪人が神を認めるのは、その偉大さのゆえに崇められるにふさわしい神を自己と同等なものとし、しかも、神もまた罪人の自律を認める時に限られるのだ。
一方キリスト者は、両親に信頼する幼子のように、絶対者なる創造主、すべての主なる神に信頼する。我々は、自らの存在すら神に依存していることを喜んで告白する。我々がこの人生において楽しむことのできる祝福のすべては、小さく気づきもしない日常の恩恵からパウロがここで語っている救いの祝福に至るまで、ただ神のみから来ている。それゆえ、神が与え給うすべてのことについて常に神に感謝を捧げるべきである。被造物にとって、創造主によって備えられた祝福を喜んで認めることは義しいことだ。ところが、人間は、与えられた祝福のゆえに神に感謝し続けることを蔑む。彼らには、神の御手のうちにある単なる被造物に過ぎないという全き依存の告白が我慢ならないのである。その上、人は試練の中で神に感謝を捧げることを蔑む。そうするためには、父親を知っており父親が常に最善をなしてくれると信頼する幼子の如き、疑問をさしはさむ余地のない信仰が要求されるからである。
第二に、人間は神の選びに対しても反抗する。ここで話しているのは、罪深い反抗者にとって最も不快な救いに関する選びの話ではなく、神が御自身の御旨に従い、祝福を分与されるという事実に関するものである。我々は生まれながら、異なった能力や素質を持っている。我々は親も、遺伝子も、子供の頃の環境も自分で選んだわけではない。神が、今の我々を造り給うたのである。我々の生まれつきの資質に関するあらゆる不平不満は、我々をそのように造られた神が悪いのだという非難となる。神の我々に対する恩恵に対し感謝と賛美を捧げよとの命令は、我々が神の祝福に満足し、それ以上何ものをも神に要求しないと告白することを命じるものだ。他の人と自分を比較して、それが他の人のものであろうと自分のものであろうと、神の慈しみを蔑む権利は我々にはない。
真の信仰は心砕かれた感謝によって見分けがつく。我々は毎日、特に救いという偉大なる祝福に対する感謝に満ちているはずだ。神がキリストにあって与えられた祝福のゆえに絶えず神をほめたたえることは、神は我々の創造主また救い主であると告白することにほかならない。我々の祈りが、もっと祝福を求めるというものばかりで感謝を僅かしか表わしていないなら、それは信仰の弱さの証しである。それはまるで救いの祝福がごく小さいもので、日々感謝を捧げるには価しないと考えているかのような振る舞いだ。
パウロのこの箇所における頌栄は、キリスト者の礼拝の心を現わしている。我々は毎週日曜に共に集うが、その主要な目的は、我々を救い給うた神に感謝を捧げるためである。それが、ユカリスト(聖餐)―――“感謝”という意味である。聖餐は、確かに我々が神に感謝を捧げるだけのものではない。しかし、それ以下でもないのである。我々は、聖餐のパンとぶどう酒のそれぞれを受ける前に神に感謝を捧げる。それは、神が我々を罪から救うために御子を与え給うたことを心から認めるゆえである。日曜礼拝は、契約の更新であり、契約の更新は、契約の御恵みに対する感謝なのだ。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神」
パウロは、神について「私たちの主イエス・キリストの父なる神」と言う。彼は賛美の祈りにこの言葉を使っている。それは、神がキリストの神、キリストの父としてのみ、我々の救い主であられるからだ。神が我々の主イエス・キリストの神であるのは、イエスが全き人間であったゆえにほかならない。イエスは他のすべての人間と同様に、祈りをもって神に呼ばわった。また御父に信頼し、御父の命令に完全に従われた。パウロは、神を我々の主の神としてほめたたえる。それは、主が、抽象的な意味での神としてではなく、我々の主の神として我々を救い給うたゆえである。我々のたたえる神は、我々の罪の贖いとなるために御子をこの世に遣わされた神なのだ。
神は、その神性と人性の両方において我々の主イエス・キリストの御父であられる。御父と御子は、被造物における父と子の関係に似た人格的関係を持っておられる。神が御自身の栄光を映し出すよう、そのように創造されたのだ。神はまた、すべての人間、特に御自分の契約の民の御父であられるのと同様に、我々の主の御父でもあられる。ここで再び、神のキリストとの関係が、我々の救いと関わっている。それは、イエスこそが神を御父と呼ぶ権利を持っておられた人間であるためだ。イエスは、アダムが本来そうあるべきであったが、実はそうではなかったような息子であられた。そのような息子として、イエスは、御父なる神の御前で我々の契約の代表であられるのだ。
そこで、頌栄のはじめにある神への呼びかけは、次のようなことを述べていると言えよう。「三位一体の第二人格を我々のような人とならせ、そうすることによって彼が我々の罪を負い、我々のメシアとなるために地に遣わされた神」。「我々の主イエス・キリスト」とは、救い主の御名の中でも最も豊かなものである。新約聖書では、聖書の最終節も含め、約50回ほど使われている。「イエス」はその人性の名であり、「キリスト」はメシアとしての呼び名、そして「主」はその神性を前提とする。「我々の」は、このお方が我々に与えられているのだということを思い起こさせてくれる。我々はこの方を所有しているのである。我々が勝手なことのできる所有物としてではなく、我々を支配し給う所有物として、この方は「我々のもの」なのである。