95.04.16. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。
血による贖い
聖書には、キリストの十字架上における御業の本質を定義する四つの重要な言葉がある。第一に、聖書においてキリストの御業は「犠牲」として語られている
(1コリント5:7; エペソ5:2; ヘブル7:27; 9:26; 10:1-12)。「犠牲」は、罪の罰という概念をその前提としている。キリストの御業を表わすのに用いられる二つ目の言葉は「償い」である
(ローマ5:10; 2コリント5:18-20; コロサイ1:20-22; ヘブル2:17)。この言葉は、キリストの救いの御業が、神と人との関係を回復し、敵意を取り除くという事実を指している。第三に、聖書はキリストの救いの御業を「なだめ」という言葉によって語る
(ローマ3:25; 1ヨハネ2:2; 4:10)。「なだめ」とは、怒りがあることを前提としている。我々の罪のための十字架上におけるキリストの死は、我々から神の御怒りを取り除くものである。四番目に大切な言葉、「贖い」は、エペソ書1章7節で使われている言葉である。
贖いというパラダイム
「贖い」とは、奴隷状態というものを前提とし、その奴隷を自由にするために支払われねばならない代価を指す。これは、聖書中もっともよく知られている概念の一つで、「償い」や「なだめ」という言葉よりも強調されている。「償い」も「なだめ」も、明らかに古い契約の犠牲制度に関わる概念であるが、どちらも「贖い」のように歴史的出来事とモーセの律法との両方によって説明されてはいない。出エジプト記は全体に渡って「贖い」の歴史的描写をしている。モーセの律法は、奴隷や贖いに関わる数多くの律法を含んでいる。そして、それらの律法の究極的な目的は、社会的指導を与えるためのみならず、救いの本質を教えるためであったことは明らかだ。
「贖う」という言葉は、ヤコブがヨセフの息子たちを祝福する時まで聖書には出てこない (創世記48:16)。が、その概念は初めから存在していた。アダムが神に逆らった時、彼は自らと全人類をサタンの奴隷と為したのであった。そのため、救いの約束は、まず悪魔の裁きという形で与えられた(創世記3:15)。人間が自ら進んで罪とサタンの奴隷となったということは、救いにおける根本的な一側面が奴隷状態からの救出であることを指す。創世記で最初に強調されているのは、救いのこの側面なのである。
エジプトでパロから大変な目に会わせられたアブラハムについての記述を読む時 (創世記12:10以降)、我々は救いの約束の中に確立されているパラダイムによってそのことを考えるべきだ。そのパラダイムとは、へびの子孫と女の子孫との闘い、というものだ。サタン的な王が神の子に対して力を振るおうと試みるのだが、神は御自分の息子を奴隷状態から贖われるのである。創世記12章で初めてはっきりと見られるこの出エジプトの型は、創世記全体に渡って繰り返されている(特に、創世記20,
26,29-31章参照)。出エジプトというテーマの基本的な諸要素はアダムの子孫全体の状態を反映している。ちょうど人間が己の罪によってサタンの奴隷となったのと同様に、神の民は己の罪のゆえ、または、時にはただ罪人であるということのゆえに、サタン的支配者の奴隷とされる。人間が罪からの救いを神に呼ばわると神が悪魔の手から彼を救い出されるのと同様に、神の民がサタン的指導者の奴隷状態から贖われることを神に叫び求めると、神は彼らを奴隷状態から解放して下さるのである。神は我々をサタンから贖われる時、罪から解放し給うので、我々は神に仕えることができるようになる。これが、エジプトからイスラエルを贖われた時に神がイスラエルに為し給うたことである。
パウロはコロサイ1章13節で贖いのテーマに関わる言葉遣いを用いる。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」。そして、次の節でこれをとりわけ贖いに結び付ける(コロサイ1:14)。キリストは我々をサタンの王国と権力から贖い給うた。我々は今、新しい王国、新しい世界に属しているのである。それは、ちょうどイスラエルがエジプトから連れ出された時に新しい王国に属したのと同様である。我々のカナンの地はキリスト御自身である。贖いとは、「キリストにある」という意味だからである。キリストの死によってすべてが洗いきよめられたため、ある意味で全世界がカナンという新しい地であるが、別な意味においてキリスト御自身が御民の「領域」なのである。
代 価
奴隷状態から救い出すには代価を払わねばならない。全く、自分を奴隷として売らなければならないほどその人を貧しくした何かの問題がない限り、人は奴隷になるようなことはない。民としてのイスラエルは通常、奴隷とされるようなことはない。ただ、神が彼らをその敵の手に渡すほど深刻な罪を彼らが御自身に対して犯す場合だけである。それは、神がかつて人類をサタンに引き渡されたことと同様である。一個人を自由にするには、代価が支払われねばならないのと同様に(レビ記25:48-55)、一つの民が自由にされるには、必ずサタン的な王との戦争がある。その王が敗北させられてはじめて、その民は救い出されるのだ
(出エジプト記6:6; 15:1-15参照)。
イエスの十字架上の死は、我々を罪とサタンの奴隷状態から救い出すために支払われねばならなかった代価であった。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:45)。その死は、サタンとの戦争におけるクライマックスでもあった。この闘いは、サタンをただ一度、完全に敗北させた。イエス御自身が次のように教えておられるとおりである。「今がこの世の裁きです。今、この世を支配する者は追い出されるのです」(ヨハネ12:31;
参照: 16:11)。パウロも贖いのこの側面を強調した。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14-15)。イエスが肉と血のからだを持たれたのは、その血を流すことによって我々を贖うためであったのだ。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」(エペソ1:7)。
罪からの贖い
サタンから贖われるとは、罪から贖われることである。これは、パウロがエペソ1章7節で述べているように、何よりもまず法的に受けるべき罪の罰からの贖いである。パウロはこの箇所で、「贖い」イコール「我々の罪の赦し」という言い方をしているように見える(実際は“イコール”でない。罪の赦しは贖いの一側面である)。キリストが我々の罪の罰を負い給わない限り、我々は自分でその代価を支払うほかなかった。救いは、神の公正を妥協するという意味ではない。
贖いには、罪の力から救い出すという意味もある。パウロは特にエペソ1章7節の箇所でこれを扱っているわけではないが、それはエペソ2章や聖書の贖いのメッセージ全般で強調されている。神は我々を荒野で殺すためにエジプトから贖い出されたのではない。我々が罪の力から贖われたのは、神の御国のために義の実を結ぶことができるためであった。
また、贖いには、復活において我々のからだを罪のあらゆる影響から最終的かつ完全に救い出すという意味もある。キリスト者は、古代ギリシャの異教徒のように、肉体を問題の根源として見ることはしない。それどころか、罪は肉体を持たない霊的存在であるサタンから始まったのである。しかし勿論、我々の肉体には罪の影響が存在する。我々は弱く、病気がちで、死につつある。贖いが、罪の影響からの救いと、もはや死に従属することのない新しいからだの提供を意味するのでないかぎり、完全とはなり得ないのである。
パウロがローマ書8章23節で指しているのはまさにこのことである。「そればかりではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」。将来、我々は復活においてキリストとともに栄化されるというのが、キリストにあって我々が養子とされること、そして贖いの最終的側面の意味するところのすべてなのである。
我々は、こうして、罪の罰・力・影響から贖われるのである。サタンからの救いは、我々が天に辿り着く時、完全なものとなる。その時まで、我々はキリストが「私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためで
[あった] 」(テトス2:14) ことを覚えて、神の御国のために熱心に闘わねばならない。