95.04.23. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。
みこころの奥義
パウロは、キリスト者はあらゆる宗教が約束し、あらゆる哲学者たちが求める至高の祝福をもって祝福されたものである、と述べている。我々には、アダムとエバがエデンの園から追放された時に失った祝福が与えられている。神は永遠のいのち、真の知識、そして無限の富を我々に与えられた。パウロがエペソ1章9節で「奥義」にふれているが、それは聖書の贖いの歴史を通して理解されなければならない。また、パウロが教えていることとキリスト教の教えが、キリスト教以外の考え方とどのように異なるのかを具体的に理解するために、聖書の宗教を古代世界の諸宗教と比較することは助けとなるだろう。
キリスト教以外の宗教
ミルチャ・エリアーデによる研究はキリスト教的理解をもってなされているわけではないが、その示すところによると、多くの古代宗教には、聖書の天地創造と堕落に関する記述の諸要素が見い出されるという。神は人間を創造され、園の楽園に置かれた。エデンの園には、城壁や門があり、また植物が何らかの配置で植えられていた。知識の木といのちの木という二本の木が園の中央にあり、エデンの園の回り、そしておそらく園の中にも、金、しまめのう、ブドラフがあった
(創世記2:10-12参照)。人間は楽園の中で、豊かな食物、知識といのちの賜物、宝石の宝が与えられていた。
人間は、罪を犯し、エデンの園から追放された。いのちと知識の秘密は、園の種々の宝物と同様に、人間の手の届かないものとなる。人間と動物の混ざったような異様な姿の生き物であるケルビムが園を守るために置かれた。人間は園の外で、厳しい労働、苦しみ、そして死という裁きに引き渡された。人類は、第二のアダムであるノアと共に新しいスタートを切るが、罪人である人間は神に背を向けてしまう。洪水の後、人類が再び堕落し神から離れた時、ノアの子孫は真の宗教を歪め、自分たちの宗教を作り上げたのである。
例えば、ギリシャ神話の中で、ヘラクレスの話は聖書のこの箇所からの影響を歪めたかたちで示している。この英雄は神託により、自分自身をエウリュステウス王の奴隷としてささげなければならないと告げられた。王は12の難行をヘラクレスに命じた。もし彼がそのすべてを成し遂げられたなら、彼は自らの罪
(神々によって狂気にされた時、自分の妻子を殺した) を取り除き、永遠のいのち――ギリシャ神話の言い方を使えば、不死――を得ることができる。ネメアの獅子と九つの頭を持つヒドラ(海蛇)を殺し、またその他の力と知恵の偉業を成し遂げたことによってヘラクレスは勝利を得るが、後になって美しいが残酷な女神ヘラによってだまされ、殺される。別なギリシャ神話でテーセウスとミノタウロスの話は、似たような話を描く。テーセウスと恋に落ちた王の娘アリアドネーの助けを借りて、テーセウスはミノタウロスという人身牛頭の怪物と対決するために迷路の中心への道を見い出すことができる。テーセウスはその敵を倒し、怪物の食事になるはずであった若いアテネ人を救った。
もっと聖書の話に近いものも含め、似たような例はまだ挙げられる。しかし、ここではいのちの木や泉、あるいはある隠された秘密の知識、巨万の宝物に至る道を守る龍や他の幾つかの怪物の話は、古代世界の多くの民の間に共通であった、というだけで十分であろう。これらはみな聖書を歪めたものである。これらの話の中で最大の歪曲は、救われる唯一の道が、人間が園を守るケルビムと闘っていのちの木への道を自らの手で切り開くことになっている点だ。いのちと知識の木の効力は魔法によるものと見做されている。人はただその実を食べるだけで不死となり、あるいは賢くなるのである。魔法と行いによる救いは、キリスト教以外のほとんどすべての宗教の中心にあるものだ。
奥義
パウロが神のみこころの奥義が我々に啓示されていると語る時、彼は言わば、我々が再びエデンの園に近づいていることを我々に教えている。キリストはその道を開いて下さった。イエスこそ、龍を倒し、我々を奴隷状態から救い出された我々の救い主、英雄なのである。キリストが成し給うたことのゆえに、我々は今、善と悪を知る知識、永遠のいのちの賜物、無限の富を持っている。旧約時代には隠されていた神のみこころの奥義とは、受肉と十字架という奥義であり、その奥義は今や全世界が知るために完全に現わされたのである。
神は我々にキリスト御自身にあって、すべての知識と理解への鍵を与えてくださった。神は、世界の基の置かれた時から隠されていた真理、人間は求めてもキリストがそれを現わされるために来られる時までは見い出すことのできなかった真理を現わし給い、御自分の恵みの豊かさをあらゆる知恵と思慮深さをもって我々の上に注がれたのである。キリスト者は、我々を取り巻く全世界が今だ捜し求めている真理の秘密の知識を持っているのである。
非キリスト者の知識
非キリスト者の哲学者は、古代の英雄がなしたのと同じ探求に専念している。彼らは世界の謎を知ろうと求めている。一つだけ例を挙げれば、バートランド・ラッセルは、その哲学だけでなく、著作と政治的活動でも知られているが、真理への模索に熱心な人物であった。自分の若い頃の姿勢について彼はこう語っている。「人々が宗教的信仰を欲しがるように、私は確実性が欲しかった」。だが、ラッセルは決してその確実性を見い出すことはなかった。事実、「ラッセルは、実際はヒュームを越えることができなかった」とW.
T. ジョーンズは言っている。言い換えれば、ラッセルの哲学は懐疑論に終わってしまったのだ。ラッセル自身、彼の哲学的展開の終りも間近い頃、知識のための究極的土台として非合理への信仰に訴えた。
「存在論において、私は物理の真理を受け入れることを出発点とする。・・・哲学者たちはこう言うだろう。物理の真理を受け入れる根拠とは何か。私はこう答える。単に常識を拠り所にしたまでである、と。・・・
私は、(十分な根拠はないが)心理学の世界を信じるのと同様に、物理学の世界を信じる。・・・
もし我々が、外界に関する何事でも知っていると主張できるとすれば、科学的知識という規範を受け入れなければならない。一個人がそのような規範を受け入れようと受け入れまいと、・・・その決断は、純粋に個人的な問題であって、議論することはできない。」
彼はキリスト教の真理を拒んだが、その代わりに科学に対する非合理的信仰を打ち出した。ラッセルは、他のすべての人間と同様に、ケルビムに挑むことによって真理を求めたが、絶望に終わったのである。真理は力によって得ることはできない。それは、神によって与えられなければならない。真理の賜物への秘訣は、魔法や人間の力や知恵には見い出されない。それは神の御恵みの豊かさのうちに見い出されるものである。
いっさいのものがキリストにあって
神は今も歴史の中で働いておられ、「天にあるものも地にあるものも、いっさいのもの[を]、キリストにあって一つに集め」ておられる。宇宙の真の方向性についての奥義であるこの知識をもって、我々は如何に生きるべきかを知る。日常生活の中で神の命令を守る時、神は我々を導き、祝福してくださる。我々の生活は、歴史の究極的真理と計画に調和するのである。そして、我々は永遠に残る実を結ぶのである。
パウロは、エペソ人への手紙の中で、神がキリストにあって我々に賜わった大いなる祝福のゆえに感謝をささげている。認識において平安を得られるということは小さい賜物ではない。我々は真理を知っており、サタンやこの世にだまされることはできない。むしろ、我々が知っている真理に従うことによってまわりの世界に光を照らすことは我々の仕事なのである。その真理を我々に啓示してくださった神の善ゆえに神にある感謝と喜びを持つことは、キリスト者の証しの非常に深遠なる一面である。偉大な秘密を見い出したり素晴らしい新発見をした人で、それについて興奮しないでいられる人などいるだろうか。我々を愛し、我々を罪から救って御自分の愛する子とされるために神が御子を我々に与え給うた――この栄光に満ちた真理に圧倒されることに我々は飽いてはならない。すべてのことがらがキリストの御支配のもとに一つに集められるよう労する時、我々は神に対する愛と感謝を表わしているのである。