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    エペソ人への手紙1章10節


    時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、

    95.04.30. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    キリストにある一致

    神がキリストにあって我々に明らかにしてくださった奥義とは、「時がついに満ちて、この時のためにみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって、一つに集められることなのです」(エペソ1:10)。この真理は、人間の根源的問題の一つである一致の問題に対する解答である。非キリスト者は、原則や思想に一致を求めるが、それらが一致をもたらすことはない。あるいは個々の意味を犠牲にして一致をもたらすかのどちらかである。キリストは、宇宙における一致の“原則”そのものであられ、物質と非物質、生物と無生物、人間と動物、人間と人間、人間と神に一致を与えるお方なのである。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」(コロサイ1:16-17)。

     

    社会の一致という問題

    バベルの塔は、神から離れて一致した社会と作ろうとする最初の試みであった。力ある猟師、また権力者であったニムロデは、ニネベやバベルをはじめとするいくつもの町を建てた(創世記10:8-12)。バベルの宗教は、神ではなく都市国家が与える一致の宗教であった。人類は一つの言語を話し、一つの地域に住んでいたので、全世界が一つの国をなすことが可能であった。神に対する反逆者である人間にとって、それは「人間の王国」を築くには格好の機会であった。

    バベルの塔の事件は、人間にはその本性のうちに神の御国に対する深い思いが植えつけられていることを示すものだ。理想郷とは不可避な概念である。なぜなら、それは人間が神の似姿に造られたことの一つの意味であるからだ。神は一であり三であられる。人間は、それゆえ、神の似姿として、神の多様性と一致の両方を表現することを求める。罪人である人間にとって、この目的は両方とも歪められたものとなる。一致は全体主義へ、多様性は無法状態へと堕落する。バベルの塔は、神の御国の御計画と対抗しようというあからさまな目的をもって築かれた最初の全体主義国家であった(創世記11:4)。

    神は、ニムロデの反キリスト教的な「人間の王国」を人間の言語を混乱させるという奇跡によって打ち砕かれた。しかし、ニムロデはそのような神の裁きがなくても成功し得なかったことは確かである。塔が建てられるまでの人間の歴史を考えてみればよい。アダムが罪を犯すや否や、彼のエバとの関係は悪くなった。アダムは神の賜物であるエバを喜ぶどころか、彼女を憎み、責め立てた(創世記3:12)。人類の最初の子どもたちも一致と愛を保つことはできなかった。カインは弟をねたみのゆえに殺したのである。ノアの時代、セツの子孫が非キリスト者たちと結婚することによって福音を妥協した後(創世記6:2)、社会の道徳が次第に崩れていった。人間を暴力から守ることはもはや不可能であった。無法状態と圧制が地に満ちたため、神の御怒りは頂点に達したのである。

    もしも神がニムロデの王国を裁かれなかったなら、どのようなことになっていただろうか。それは、洪水前の時代に世界に満ちていた混乱と同様に、無法状態と全体主義が互いをむしばむという混乱に陥り、神は再び世界を裁かざるを得なかったであろう。それゆえ、神がバベルで言葉を混乱せられ、人間を地上のさまざまな地域に散らされたのはあわれみの裁きであったのだ。人間が互いに通じ合うことさえできなくなる時、真の一致がないことはさらに明白となり、偽りの一致は実際に何かを建て上げることはできなくなる。

     

    断片化の時代

    二十世紀における非キリスト者の思想には、神なしの一致の挫折が写し出されている。フランシス・シェーファーは、現代を「断片化の時代」と呼ぶ。非キリスト者の思想の矛盾は、哲学の分裂状態に現われ出ているだけでなく、社会の崩壊により目覚ましく現われてきた。その信仰と生活の関わりは、カミュの『反抗的人間』によく表現されている。カミュは、人間中心主義は哲学的問題に答えられない限り、現実的問題を解決することは決してできないことをよく理解していた。実際的問題の最たるものとは、殺人という問題である。

    カミュは、彼自身が「形而上的反抗」と呼ぶところのものを次のように定義している。「人間がその条件に対し、また全創造に対して立ち上がる行動である。それは人間と創造の目的に異議をさしはさむがゆえに、形而上的である。・・・形而上的反抗者は、人間としてあたえられる条件に抗議する。・・・形而上的反抗者は、創造によって欺かれたと宣言する。」

    人間が神に反抗し、神からの独立を宣言する時、何か他のものに一致を見い出さねばならない。「もし人間が、各人のなかにあると認められている共通の価値に頼ることができなければ、人間は互いに不可解な者になってしまう。反逆者は、彼にこの価値があることを、はっきり認めてくれと要求する。この原則がなければ、無秩序と犯罪が世界を支配する惧れがあるからである。反抗的行動は、彼の裡で、光明と統一の要求として現われる。どんな初歩的な反逆でも、逆説的に言えば、秩序への希求を現わしている」。カミュは、自分は「完全な統一という概念」によって動機づけられていると宣言する。反抗者にとって、神は一致を壊すものである。なぜなら、神は救われる者と救われない者を区別し、不敵にも人間を死なせるからである。そこで、反抗者は、必ずしも無神論者ではないが、必然的に冒涜者となる。「彼は、まず秩序の名において、神を冒涜し、死の父であり、最高の恥さらしであるとして神を告発する」。だが、反抗者による神から離れた秩序の探求は、分解の進行へと導かれていってしまうだけだ。知的に、政治的に、宗教的に、社会的に、現代人は矛盾と憎悪と混乱の世界に直面している。それは人間が、聖書の神を拒絶したゆえに、自らの手で作り上げてしまった世界なのである。

     

    キリストにあって

    ただキリストのみが人間に一致をもたらすことのできるお方である。断片化の問題は、罪の問題である。ただイエスのみが、我々の罪のために死なれ、サタンと死に対する勝利され、よみがえられたことによって、我々の心を支配し、我々の魂をむしばむ本当の「最高の恥さらし」である罪から我々を自由にすることがおできになる。罪の効力を完全に打ち砕くことが神の目的である。その御恵みにより、我々は心理的には自分自身との関係、社会的には互いの関係が回復され、また我々の回りの世界との関係、そして何にもまさって大切な神御自身との関係が回復されるのである。

    福音とは、キリストにあってすべてのものが和解されるというメッセージである。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのである」(コロサイ1:20)。人間の罪によって破壊されてきた世界は、キリストの十字架によって再び一つとせられる。キリスト御自身こそ、人類の一致を持つために必要な「共通の価値」を人間に与える“原則”そのものであられるのだ。

    この世の罪のために死なれた主イエスは、いま我々を和解のメッセージとともに世界に送り出される。その福音の働きを通して世界が救われるためである。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(2コリント5:17-20)。

    我々の日毎の祈りである「みこころの天になる如く、地にもなさせ給え」とは、神に助けを求める我々の嘆願、また活動の計画である。我々が家庭で、また教会で、みこころを行う時、義の御国は成長し、世界は我々の天の父と和解せられるのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙1章8〜10節

    エペソ人への手紙1章11〜12節

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