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    エペソ人への手紙1章15〜17節


    こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、全ての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

    95.05.21. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    エペソ人のためのパウロの祈り

    パウロが諸教会に宛てた手紙の出だしには決まった型がある。まず差出人である自分が何者であるか、また宛先である読者はだれかを明記し、その読者に挨拶をする。次に、彼らについて神に感謝を捧げ、また彼らのために祈るのである。この形式は絶対的なものではない。これらの要素のうち一つだけが長くなることもある。例えば、ローマ人への手紙では自己紹介に6節を費やし(ロマ1:1-6)、テサロニケ人への手紙第二では、感謝のことばは神学的教えを与えるために本題から離れたため、8節も続く(2テサ1:3-10)。また、ある場合は基本要素が抜けることもある。ガラテヤ人への手紙には感謝や祈りが含まれておらず、厳しい非難のことばがそれに取って代わっているので有名だ。コリント人への手紙第一には最初の祈りがないようだ。同じコリント第二の手紙は、エペソ書と同様、感謝のことばが称賛のことばによって微妙に形を変えている。これらの小さな違いこそあれ、パウロが諸教会に宛てた書簡はすべて、ガラテヤ書を除いて、この標準形式に従うものである。

    しかし標準となる形式があるからと言って、それが単なる形式に過ぎないという意味ではない。パウロの手紙には、決まった型と思われることの中にすら深い教えがあるのだ。特に、彼の諸教会のための祈りの数々には、成長したキリスト者という模範を示す信仰と理解の深さが示されている。

     

    パウロの感謝

    救いの御恵みのゆえに神への賛美を捧げた後、パウロはエペソ人たちについての感謝のことばを加える。「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝を捧げ・・・ています」(エペ1:15-16a)。パウロは、彼らの信仰と愛とを“聞いて”と言うが、それは、彼がこの書簡を書いた頃には、エペソを訪れてからすでに大分経っていたためであろう。彼がエペソ人たちについて聞いた報告は、彼らがひたすら真のキリスト者として生活し続けているというものであった。キリストにある信仰と聖徒たちへの愛とは、真のキリスト教の著しい特徴である。このどちらが欠けても、信仰からの逸脱あったと言わねばならない。

    エペソの人々にはその両方を失う危険性があった。その信仰は、古代社会にあふれていた偽教師らによって脅かされていた。その数は多く、使徒たちは、彼らについて諸教会に絶えず警告し続けなければならなかったほどである。さらに、パウロはエペソの人々への最後の説教において、次のように語っている。「私が出発したあと、凶暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう」(使徒20:29-30)。エペソ人はこの警告を真剣に聞き、偽教師らに対する彼らの警戒は有名になった。キリストのエペソの教会に対する手紙は、彼らをほめている。「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている」(黙2:2)。

    ところが、彼らは反対の過ちに陥ってしまったのである。彼らの神と互いに対する愛は次第に冷めていったのである。主は、エペソ人たちが教会を注意深く守っていることをほめた同じ手紙の中で、彼らに叱責をも与えておられる。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう」(黙2:4-5)。

    しかし、パウロが手紙を書いた頃には、教会はまだ信仰告白においても聖徒らへの愛においても忠実であった。パウロはその単純な事実に動かされたのである。これは注目に価する。宣教の働きにおいて最悪の状態――教会や個人の背教、教会員の中でのひどい不道徳、味方であったはずの者たちが信じた偽りの教師らによる中傷――をあまりに多く経験してきたパウロほどの人物が、まだ、エペソ人たちの信仰と愛についての報告を聞いて感動し、感謝と祈りに導かれ得るとは。

    パウロが捧げたのは、機械的、実務的感謝ではなかった。「絶えず感謝を捧げる」という言い方は、パウロのエペソ人たちについての神への感謝が真摯で熱心なものであることを示している。パウロには、神の善を純粋に喜ぶことのできる子どものような信仰があった。と同時に、彼には識別力があった。教会の問題について無知ではなかったのである。

     

    知恵と啓示のための祈り

    パウロの祈りの本質は17節から23節に記されている。パウロは栄光の父なる神に祈る。これは聖書の中で他のどこにも使われていない珍しい呼び名である。だが、その考え方は決して珍しいものではない。神は栄光の王 (詩24:7, 8, 9, 10)、栄光の神 (詩29:3; Act. 7:2) と呼ばれ、主イエス・キリストは栄光の主と呼ばれている (1コリ2:8; ヤコ2:1) 。神は栄光の父であられる。なぜなら、すべての栄光は神から来るからである。神はその本性において栄光に満ちておられ、そのみわざにおいてあらゆる栄光と賛美にふさわしいお方であられる。神に栄光を帰する長い文章のあとで、パウロが「栄光の父」という御名を用いて神に祈ることはふさわしい。

    パウロは、エペソの人々に「神を知るための知恵と啓示の御霊」が与えられるように祈る。エペソ人には、彼らの永遠の相続の保証として、神の御霊が与えられている。神が彼らに御霊を「与えてくださるように」というパウロの祈りは、彼らの心に御霊の働きがあるように求める祈りなのである。これこそまさしく、我々の主が次のように述べられた時、その念頭に置いておられた祈りなのである。「してみると、あなたがたも、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう」(ルカ11:13)。

    パウロは聖霊がエペソの人々に知恵と啓示を与えるために、彼らの間で働かれるようにと具体的に祈る。パウロはここで、コリントの教会と同様に、特別な御霊の賜物を考えていたのかもしれない。「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ [ています] 」(1コリ12:8)。しかしながら、パウロがここで賜物が与えられるようにと祈っているのは、ある特定の人々のためではなく、教会全体のためである。また、このあとの節からも、パウロが特別な知識の賜物について語っているというよりも、むしろ神を知る知識と、キリスト者ならだれにとってもその成長のために重要な信仰理解について語っていると考えられる。

    パウロがここで「神を知る」ことについて語る時、彼は、エペソ人の組織神学の理解が成長することを指しているわけではない。彼が話しているのは、むしろ契約に対する忠実さについてである。「彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。――主の御告げ。――」(エレ22:16; 参照:エレ9:1-6)。神が主であることを知るとは、旧約聖書においてしばしば使われている言い方である (出6:7; 7:5, 17; 8:10, 22; 14:4, 18; 16:6, 12; 18:11; 29:46; 31:13; イザ37:20; 45:3; 49:23, 26; 60:16; エゼキエル書においてはこの表現が73回出てくるがここには書き出さない)。この表現は、神の主権を知らしめることを指すときもあるが、通常は神に信頼し、その契約に従うことを意味するものである。

    神を知るための知恵と啓示を持つということは、我々が日常生活の中で神との正しい関係を持つことができるようにしてくれる聖書からの知恵を指している。「神を知る」という表現は、人格的関係を示唆している。それゆえ、“契約的従順”よりも適切で広い意味である。しかし、“契約的従順”は、単なる事実の知識よりはパウロの述べていることを正確に表現している。知恵と啓示は必要である。なぜなら、我々を取り巻く状況は、常に変化しているからである。我々は必ずしも自らの状況を正しく理解しているとは言えないし、聖書の教えをどう適用するべきかを正しく理解しているとも言えない。どちらを誤解しても、我々の天の御父なる神のみこころを誤解することになる。神の御霊は我々の神との日々の歩みを助けるために我々に与えられている。しかし、我々は神のみことばを熱心に学び、神御自身について瞑想しつつ、御霊の知恵を祈り求めなければならない。その時、我々は主を知り、主の御国の成長のための道具となるのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙1章13〜14節

    エペソ人への手紙1章18〜23節

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