HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

    エペソ人への手紙1章18〜23節


    また、あなたがたの心の目がはっきりと見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神の優れた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世に置いてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

    95.05.28. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    キリスト者の悟り

    パウロは、エペソ人たちがはっきりと見えるよう聖霊の照明のために祈った。非合理的な直感的知識である仏教の悟りとは異なり、キリスト者の悟りとは合理的で聖書に記されている神のことばに基づいている。御霊は我々の心の内で働き、罪や愚かさの影響を少なくし、神の御言葉が何を意味しているのかを、それをどう生活に適用すべきかも含めて理解できるようにし給うのである。御霊の照明なくしては、聖書は我々にとって閉ざされた書のままである。それは、御言葉自体が不明確なのではなく、我々の罪のかたくなさと真理に対する拒絶のゆえなのである。

    パウロは、神の御霊がとりわけ救いの三つの側面に関してキリスト者に教えてくださるよう祈った。第一に、彼らが神の召しによって与えられる望みがどのようなものかを知り(18b節)、第二に、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかを知り(18c節)、第三に、彼らの内に働く神のすぐれた力がどんなに偉大なものであるかを知ること(19節)である。この三つの祈りは互いに密接に関わっている。パウロの強調は最後の祈りにあり、20〜23節でそれについてさらに説明を加えているが、実際にはそれを強調する中で、最初の二つの祈りも含まれてくるのである。

     

    神の召しによって与えられる望み

    パウロは、神の救いの御恵みについて語る際に、神の主権を繰り返し強調している。我々は「世界の基の置かれる前から・・・選[ばれ]」、「ただみこころのままに、・・・あらかじめ定め [られ] 」、「みこころにより御計画のままをみな実現される方の目的に従って、・・・あらかじめ定められていた」。神の永遠の聖定に基づいた召命は、我々の未来の望みの根拠であり、その確証である。

     

    聖徒の受け継ぐ富み

    パウロが、我々が理解するよう祈る救いに関する第二の側面は、「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」ということである。これは再びキリストの御栄光を我々が受け継ぐことを指している。パウロがここで力説しているのは、神が信じる我々に約束しておられる富の、想像を絶する豊かさである。パウロがローマ書で説明しているように、「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ロマ8:17-18)。パウロは、これに似た要点をコリント人に宛てた手紙の中で指摘している。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(2コリ4:17-18)。

    この第二の点は最初の要点を発展させたものである。パウロはここで、神の召しによって与えられる望みというもののより具体的な概念を示してくれる。最初の表現では、御自身が始められたわざを必ず成し遂げられる神の主権が強調されていた。二番目の表現においては、その強調は我々の未来の望みの深遠な素晴らしさにある。神は、我々がキリストと共に御自分の永遠の御栄光を与ることを許し給うたのである。我々はこの世において、これが意味するところの豊かさを理解するようにはなり得ない。実に、神が我々のために備え給い、永遠に我々を満ちたらせる栄光の富がいかに偉大であるか、我々は永遠に知り尽くすこともできないのだ。

     

    我々に働く神の偉大な力

    神がキリストにあって与え給うた救いの偉大さについての知識に加え、その救いを達成するために我々のうちに神の力が働かれることを知ることも、また不可欠である。再びパウロは我々の理解を越える言い方を用いている。「私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」。神の全能は我々の望みを保証することに注ぎ出されているのである。パウロは引き続き、我々のうちに働かれる神の力はキリストを死からよみがえらせた力と同じものであると説明する。復活の力とは、創造の驚異的力のことであり、それはまた十字架の倫理の力でもある――義が罪にうち勝ったゆえに、いのちが死をうち破ったのだ。

    三つの要点はみな、ここで一つにされる。我々の内に働く力は、我々の主イエスを栄光へと引き上げた力と同じである。神は、キリストの内に為されたと同様に我々の内で為し給う。それは我々が神の民であり、キリストと一つであるからだ。神がキリストのうちに働かれたゆえに、キリストは神の召しによって与えられる望みを悟られ、神と共に永遠の栄光をお受けになった。神は今、我々の内にも同じように働き給うのだ。パウロがこの最後の点を20〜23節でさらに詳しく説明しているのは、神がキリストの内において為されたように我々の内にも働いておられるという事実に我々の注意を促すためである。もしキリストが高く挙げられたことと、キリストのうちに働かれる神の御力の偉大さを理解するなら、我々は自分たちのうちに働かれる神の御恵みのすばらしさについて僅かでもわかるようになるであろう。

     

    高く置かれたキリスト

    パウロは、キリストを死からよみがえらせた神の御力のみならず、キリストを高く挙げられることによって復活を完成させられた神の御力について語る。キリストが高く挙げられるということは、新しいアダムである一人の人間が、地のみならず天までも治める者として神の右の座に挙げられるということであるゆえに重要である。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタ28:18)。イエスの王座は、天と地における他のあらゆる権威の座の上に挙げられたのである。万物がキリストの足の下に置かれたのである。栄化された人間――受肉した神――がいま宇宙を支配し、神の国を打ち立てておられるのだ。

    さらに、教会はキリストのからだであって、キリストがすべてのことを成し遂げられる時に用いられる道具である。キリストは教会を導くかしらであるが、教会は器官であって、キリストはそれを通して働かれるのである。キリストが今日世界において為し給うことは何であれ、御自分の教会を通して為しておられる。そして、キリストがまことに神の御力によってあらゆる王座と支配の上に挙げられたのであるなら、キリストの教会は、悪の王座と支配に対する闘いにおいて確実に勝利をおさめるのである。実に彼らは、教会の聖化のためにキリストによって用いられる限りにおいて、生き残ることができるのだ。

     

    倫理と理解

    パウロは、エペソ人たちが以上の事柄を知るようにと祈る。神が我々の生活において何を為しておられるのかを理解するためには、歴史における、また、キリストにある神の働きというより広いみわざを見る必要があるからだ。我々はまた、闘いを続けるための勇気と力を得るためにも、これらのことを理解する必要がある。神は、(現代におけるある一部の宗教や古代の宗教のように) 霊的なアドレナリンをうって我々を強めたり、麻薬による幻覚によって励ましたりはなさらない。神は我々のうちに、御霊の力によって、御言葉を通して働かれるのである。その働きは倫理的かつ合理的なものである。我々は御霊によって神の真理を理解するよう教えられ、真理の御言葉が我々の心のうちに深く刻まれれば刻まれるほど、義しく生きる力を持つのである。こういうわけで、我々が理解するようにというパウロの祈りは、我々の霊的成長のための祈りなのである。理解なくしては倫理的成長は不可能であるからだ。

    一方、これはある難解な神学的要点を単に知的に理解するための祈りではない。パウロがここで我々が知るようにと祈っている事柄は、本当の意味で知ることはできない。これらは我々の能力を越える事柄だ。我々は、キリストとキリストにある神のみわざに目を留め、神が我々のうちにも働いておられることを信じるとき、それらの事柄の理解力を増すという意味で“知る”のである。パウロがここで語っている知識とは、信仰の知識である。それは、学問的な技術や教育の欠落によって妨げられることはないが、罪深い自己中心や心の狭さなどのあらゆる神への不従順によって妨げられるのである。理解すること自体が倫理の問題なのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙1章15〜17節

    エペソ人への手紙2章1節

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.