95.06.18. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。
あわれみ、愛、恵み
エペソ書2章の最初の3節において、パウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪について描写する。4節からは、キリストにある我々の救いの素晴らしさを詳しく述べ始める。しかし、この箇所の特別な教えを考える前に、4節と5節に登場する三つの大切な言葉――あわれみ、愛、恵み――に着目することも重要である。これらの言葉はキリスト者にとって極めて重要なものであるが、それは、キリスト教とこの世における他の宗教や哲学との違いの中心に位置するものであるためだ。
あわれみ、愛、みめぐみ ―― 仏教の場合
厳密に言えば、これらの概念のいずれも、本当の意味で仏教の中には存在しない。現存する唯一の小乗仏教の部派である上座部は、歴史的にも哲学的にも仏陀の元々の教えに最も近いと考えられる。この教えには、人格的な神や救い主という概念は全く含まれていないため、あわれみ、愛、恵みの入る余地はなかった。原始仏教は神の存在を否定しただけでなく、自己の存在をも否定したのである。あわれみを与えたり受けたりする人はどこにもいないのだ。人間の問題は苦しみであると教えられ、その苦しみは無知によって引き起こされていると言われた。救いは正しい知識、即ち悟りによってもたらされた。知恵の探求は、初期の仏教において全くの個人の問題であったようである。
B.C. 100年頃から、大乗仏教として一般に知られる仏教の新しい形態がインドの北西部と南部において発達し始める。この二つの地域は外国からの影響に最もさらされていた地域である。このような新種の仏教の発展へと導いた要因のうち、一般の信者が聖職者との平等を要求したということが大きいと言われている。慈悲が仏教の目立った教えとなるのは、大乗仏教の発達に伴うものである。興味深いことに、大乗仏教では仏陀を神と見做すようになり、この仏教の部派は啓示という教えを取り入れていった。聖書の影響は明らかだ。おそらくキリスト教以前のユダヤ教とキリスト教という両方からきたものであろう。
そうであっても、仏教の慈悲にはキリスト教の罪や贖いの教理との関わりはない。菩薩はすべての生き物のあらゆる苦しみに対して慈悲を持つが、その慈悲は動物よりも人間に対して多く与えられるわけではない。人間は動物に生まれ変わり得るし、動物と人間との間に根本的な違いは一切ないためだ。その生きものに対する慈悲も、本当の意味で愛や恵みを意味してはいない。阿弥陀の名を唱えること
(南無阿弥陀仏) によって救われるという仏教の“他力本願”の教えさえもキリスト教からの借り物であり、真の意味で愛や恵みという概念に到達することはなかった。単働説的な
(人間の霊的更生は神意のみによるという) 救いの概念が存在しないからである。
あわれみ、愛、みめぐみ ―― イスラム教の場合
イスラム教は創造の教理を持つため、あわれみの教理のレベルは仏教よりも高い。罪の教えもあるが、良く言ってもそれは浅いものである。イスラム教によれば、すべての人間は、アダムとエバが創造の時に持っていたと同等の善悪を選びとる能力をもってこの世に生まれてくる。我々は罪を犯す時にのみ罪人となるのだ。そうなった時でも、それは心の問題というより、外面的なふるまいの問題に過ぎない。イスラム教は信者に深い要求はしないのである。
コーランは、各章の始まりに「慈悲あまねく慈愛深いアッラーの御名において」を繰り返す。イスラムにおける神のあわれみは、神が永遠のさばきからある人々を救われるというものであるが、神がこのようにされるのはその者たちを罪に定めないことを決定したため、という単純な理由によるものだ。イスラム教には、贖いや身代わりの贖罪という教えはない。また、神の人間に対する愛についての強調もなく、愛ということばはほとんど使われない。彼らの神による人間の運命の決定は、“運命論”と呼ぶに相応しいほど強調されている。
あわれみ、愛、恵み ―― 聖書の場合
イスラム教、そして仏教までもが、あわれみ、愛、恵みに関して彼らが伝え得るわずかなものを獲るために、聖書の教えを借り、また歪めて用いている。そして、どちらの教えも本質的な真理を見逃している。あわれみや恵みの聖書的教理は愛の教理に基づくものであり、さらに、これら三つの言葉はまず何よりも神御自身に帰するものなのだ。神は愛の神であり、それゆえ神は我々にあわれみを示し、御恵みによって我々を救い給うのである。
仏教は人格的な神を全く否定しており、そのため本当の意味で愛という教えは持っていない。イスラム教の神の教理は、コーランの中のほんの数箇所から引き出されるわずかな愛の教えとも矛盾する。三位一体の教理こそ、キリスト教の愛の概念の究極的な土台である。この三位一体は、他のいかなる宗教も模倣の試みをしないものである。御父、御子、御霊は無限な永遠の愛の完全な社会である。神が三位一体であるがゆえに、愛は神の本質に欠かせないものなのである。
多くのキリスト者は、神の愛を「神の人間に対する無限な優しさ」と取り違えている。言うまでもなく、それは聖書の教えではない。神が愛であるのは、神が全き御位格からなる社会であるゆえだ。人間に注がれる神の愛は、御自身の聖なる完全性の現われであって、神が人間一般に対してその価値を評価されたわけではない。
聖書において、愛はあわれみと恵みとを生み出す。それは、被造物の中で、神の愛の対象として主要な位置を占める人間が、罪人となり、神に逆らうようになったゆえである。それで、パウロは神のあわれみ、愛、恵みについて語る前に、まず異邦人とユダヤ人の罪深さについてはっきりと述べなければならなかったのである。神のあわれみは豊かで、悔い改め、御自分を信じるいかなる罪人をも赦すことを望んでおられる。また、神は罪人に恵み深い。神は、世の基の据えられる以前から我々の上に愛を注がれ、御自身の選ばれた者たちを救い、御自分の子とされることを定めておられた。恵みとは、愛の行ないであり、人間を罪から救うものなのだ。
社会的意義
歴史についての主張というものは、特に異なった前提を持つ人々によって常にその主張を議論の余地のあるものとするという複雑な問題を抱えている。しかしながら、宗教の教義には、(少なくとも現時点では)
我々が望むような明白性を備えていなくても、社会的結果というものが存在するということは十分明らかなようだ。キリスト教は、他の宗教によって生み出された諸文化よりもはるかに勝ったあわれみ、愛、恵みの表現を備えた社会組織や文化を生み出した。
イスラム教における愛と贖いの教理の欠落から来る結果は、その家庭のビジョンのうちに見い出される。イスラム教の一夫多妻の教理は、アラーからの特別な啓示に基づくものであり、大切でないといって脇へ追いやることができるようなものではない。キリスト教は、夫の妻に対する排他的な献身を教えるが、それはキリストの贖いの愛のゆえである。キリストが教会を愛し、教会のために死なれたように、キリスト者の夫は妻を愛し、妻の祝福のためには死ななければならない。
原始仏教では、女性は明らかに男性に劣るものであった。当時救いの道であると考えられていた僧になることは女性には許されていなかった。大乗仏教の発達の後ですら、仏教社会における女性は、妻であれ娘であれ、驚くほどの残酷さをもって扱われていた。かつてすべての仏教文化に一般的で、日本においても1940年代の終わりまで続いた慣習とは、売春婦にするために娘を売るというものであったが、それはキリスト教国においては決して許されない行為であった。実に、キリスト教が広がった所ではどこでも、キリストの花嫁である教会に対する愛という聖書の教えのゆえに、社会における女性の地位は高くなったのである。
キリスト者は単に愛について語るだけではなく、それを実行することも不可欠である。このことは、教会に対して表されたキリストの愛に根ざした神を畏れるクリスチャン・ホームを建て上げ、また、キリストにあって真に愛し合う交わりを持つ地域教会を建て上げるところから始まるのだ。