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    エペソ人への手紙2章4〜10節


    しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。・・・神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

    95.06.25. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    御恵みによって働く愛

    エペソ書2章4〜10節におけるパウロの主張に見られるほど尊い神の愛の概念は、世界のいかなる宗教も持っていない。また、いかなる人間主義的哲学も、聖書の救いの驚くべき真理が持つ栄光に少しでも近づき得るような世界の理解は持ち合わせていない。パウロはユダヤ人も異邦人も罪過と罪の中に死んでいたと教えた後、栄光を増していく三段階の表現で我々の救いに関して語っている。神は我々をキリストと共に 1) 生かし、2) よみがえらせ、3) 天のところに座らせ給うたのだ。この救いの祝福は、神の愛のゆえに、また「後に来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした」(エペ2:7)。パウロが強調しているように、この救いは御恵みの賜物であって、行ないによって得られるものではない。しかしだからと言って、良い行ないが無関係だという意味でもない。我々が御恵みによって救われたのは、それによって我々が良い行ないの人生を歩めるようになるためなのだ。

     

    キリストとの契約的一致

    5節と6節において最も大切な概念は、我々が救い主と契約的に一つであることを指す「キリストにおいて」という言葉である。キリストは我々の代わりに事を成す代表であられるので、キリストが我々のためになされたことは我々自身に起きた事であるとも言い得る。我々の法的な立場はキリストにあるのだ。我々の代表者の死が我々の死であるように、そのよみがえりも、昇天も、そして王位への着座もみな、我々のものなのである。

    自らの罪のうちに死んでいた我々は、キリストともに生きる者とされた。我々の代表が死に打ち勝たれたゆえに、我々もまた死から開放されたのである。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。・・・』」(ヨハ11:25-26)。永遠のいのちは、神が信じる者に与えられる御恵みの賜物である。「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている [現在進行形]・・・」(ヨハ3:36a)。我々はそれ以前にも生きていたことは生きていたが、契約的には死んでいた。しかし今、我々は死につつあるように見えても、生命の神とともに一つとされ、真の意味で生きているのである。

    キリストにあって我々のものとされた生命は、復活の生命である。それはアダムとエバが初めに持っていた生命と単純に同じものとはなり得ない。我々は神に反逆したからだ。生命を得られるようになる前に、我々はまず死ななければならない。罪の報酬は死であり、アダムにあって我々は死を相続しているのだ。アダムにあって我々は生まれながら死んでいるため、生命を持つには復活が必要なのである。

    それゆえ、パウロが「我々が生きている」と教えるとき、それは大逆転を示すことになる。死人が生かされる。「キリストにあって生かされる」というこの表現に、我々の救いの祝福がすべて集約されているのだ。生命とは、神と共にある生命の他には存在しないからだ。が、パウロは続けてその生命がよみがえりの生命であることに言及する中で、論理的に契約の諸事実を説明するに留まらず、キリストにあって与えられているこの生命が新しい世界の生命であることも我々に思い起こさせている。この生命は決して死を経験することはない。キリストにあって生きるなら、いかなる敵も、我々を打ち負かすことはできない。それは、最大の敵である罪と死が、もうすでに廃除されたからである。

    エデンの園でアダムに与えられた生命にはドミニオンが含まれていた。人間は神の下で世界を代理統治する者として創造された。キリストは第二のアダムとして、罪のために失われた支配を再び勝ちとられたのである。こうして、キリストは神の御座に高く上げられ、御父の右の座に着かれた。パウロが1章で強調していたように、神はキリストを「天上において、ご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」(エペ 1:20-21) 。キリストには支配が与えられており、このキリストにあって我々はその支配に共に与っているのである。

    これには、我々が悪魔からも自由であるという意味がある。パウロは、異邦人たちは「空中の権威を持つ支配者」(エペ2:2) によって支配されていると述べた。キリストもまた悪魔を指して「この世の君」と呼ばれた (ヨハ12:31)。キリストにあって天上に挙げられるということは、支配が我々の手に回復されているという意味なのである。だからこそヤコブは言う。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコ4:7)。悪魔はもはや我々を思い通りにはできない。我々は、悪魔とその他あらゆる権威の上に、キリストと共に座しているのだ。

     

    偉大な神の愛

    キリストにあって生かされ、キリストと共に神の右の座にさえ座らせられた――この意味を理解することは、神が御子にあって我々に与え給うた大いなる愛について某かを知ることである。が、パウロのこの箇所における要点はそれとは若干異なっている。神はある特別な目的のために復活の生命をもって我々を生かされた、と彼は言う。そして、その目的とは、我々にあわれみ豊かな神の大いなる愛がわかるようになることである(エペ2:4)。

    神はキリストにあって御恵みをもって我々を救い給うた。それによって、神の愛が我々に対する永遠のいつくしみを表わし得たためである。神が我々を救われたのはそのためであった。「それは、後に来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした」(エペ2:7)。永遠の世々に渡って、神は常に新しく素晴らしいご自身の愛の現われをもって我々を驚嘆させ続け給う。宝石の土台があり、金で作られているという天の都の聖書記述は、永遠とは聖く豊かな祝福の中で味わう際限のない喜びであることを我々に教えてくれる。我々にはこの意味するところを想像すらできないが、それでも、みことばの内に示されている象徴的描写は、我々が心動かされ、神の大いなる愛を深く味わい、感謝するよう意図されているのである。「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(ゼパ3:17)。

     

    御恵みのみによる救い

    このような文脈の中で、パウロは救いが神の御恵みのみによるという事実を続けて力説する。神の驚くべき愛が全く神の善意から来るものとして我々に与えられている。神が我々を愛されるのは、愛することが神のご性質であるためだ。救いは神の賜物。それはただ神の御恵みのみから来るものであって、我々のうちにある何物にも起因しない。パウロがこの真理を繰り返さねばならないのは、人間の罪の本質が傲慢であるゆえだ。罪人の神からの独立宣言とも言える自律の主張は、傲慢かつ反抗的な自己の神格化への探求である。神は我々を罪から救われる時、罪の源である傲慢な心からも我々を救わなければならない。それゆえ、我々の働きはすべて救いの根拠としても手段としても排斥される。

    救いはその源を神の愛に、その根拠をキリストのみわざに、そしてその手段を神の賜物を受け取る心の手である信仰に見い出す。このすべてに関して、人間は受け身であり、受け取り手である。救いは賜物なのだ。良い働きは、パリサイ人の罪のように、決して神の御前で自らを高めるための道具となってはならないのである(ルカ18:11-12参照)。

    しかし、良い働きは大切なものである。もし神の民が義なる行ないとあふれる喜びと感謝をもって、互いに対し寛大で、優しく、親切に接していなかったとしたら、天の富と栄光などいったい何になろうか。我々はキリストのうちに新しく造られた神の傑作であるのだから、良い働きを行なうことができるはずだ。良い働きは、傲慢の根拠にはなり得ない。むしろ、それは我々をこれほどまでに偉大な救いをもって祝福し給うあらゆる御恵みの源である神をほめたたえる手段なのである。良い行ないは感謝を表すものである。

    良い行ないがないということは、我々の生活の中に神の生きた御力がないということになる。良い行ないのない人は、キリストにあって再創造されていないのだ。この意味において、良い働きは救いに不可欠なものであると言える。キリストにあって良い行ないをする生活を送っていない人はだれもキリスト者ではない。この良い行ないとは、天の御父に対する愛と従順の中で、御恵みへの感謝を表わすためになされる働きという意味である。良い行ないは、救いの根拠にも手段にも絶対に含まれない。しかし、それは同時に、必ず真の救いの実として要求されるものなのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙2章4〜5節

    エペソ人への手紙2章9〜10節 (A)

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