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    エペソ人への手紙2章9〜10節(B)


    行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

    95.08.06. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。


    新約聖書における「良い行ない」

    良い行ないについての教えは、キリスト教を他の宗教から区別し、またキリスト教の中でも幾つかのグループに互いを分かつものである。キリスト者の間で最初に現われた極端論者は反律法主義のアグリコラであった。アグリコラはルターの教えから離れ、「モーセの首をつるせ!」という宣言を以て恩師に敵対したのである。律法主義の方面の極端はトレント会議 (1563) である。ローマ・カトリックは、トレント会議で宗教改革に答え、義認を「ただ単に罪の赦しのみならず、・・・内なる人の聖化と生活と新生であ[る]」と定義している(第六会議第七章)。永遠のいのちという賜物については、同会議はこう宣言している。「最後までよく働き、神に希望を置く人々には、永遠の生命が提供されるに違いない。かつそれは、神の子らにキリスト・イエスを通して憐れみによって約束された恩恵として、また、神自らの約束から発して彼らの良き業と功績とに誠実に支払わるべき報酬として、提供さるべきである」(第六回会議第十六章)。我々は、モーセをどう扱うべきだろうか。彼を殺すべきなのか、或いは我々の裁判官とすべきなのか。

     

    信仰による義認

    一見しただけでは新約聖書が提示していることは矛盾のように思われる。我々は一方で救いはいかなる良い行ないにもよらず御恵みのみによるというパウロの熱烈な主張を見る。そして他方で、義なる生活なくしてだれ一人救われることはないというヤコブやパウロの同じ位明確な主張をも読む。しかし、聖書そのものをよく見てみれば、このジレンマは解決不可能なものではない。

    パウロが義認の教えにおいて明快であることはよく知られている。「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ロマ3:20)。モーセの命令が非キリスト者に向けて語られるとき、それはその者に己の罪を教える。モーセは我々を罪に定めるのである。誰一人この律法を完全に守ることはできない。なぜなら、律法の要求は心と思いと力を尽くして神を愛し、また自分自身を愛するように隣人を愛することであるからだ(マタ22:37-40; 参照: ロマ13:10)。「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれもみな、のろわれる』」(ガラ3:10)。

    このために、我々の契約的代表として律法を全うすることのできる救い主が来なければならなかったのである。我々を救われるために、キリストは律法の服従という肯定的要求と、我々の罪に対する罰という律法の否定的要求との両方を満たさなければならない。キリストはご自身の義なる生涯によって――「神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました」(ガラ4:4b-5a)――、また、その身代わりの死によって――「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(2コリ5:21)――、それを実行されたのである。

    こうしてキリストの義が転嫁されることによって我々は救われたのであるから、義認は我々のために死なれたキリストにある信仰によってのみ与えられるのである。「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ロマ3:28)。問題が神の御前における我々の法的立場であるなら、恵みと行ないは相反する二つの原則である。「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます」(ロマ4:4)。「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります」(ロマ11:6)。

    我々が義と認められる (無罪と宣言される) のは、キリストの身代わりの御業を根拠とする信仰によるのか、或いは我々自身を根拠にするのかのいずれかであるはずだ。そこには中立は存在しない。パウロは、これら二つを一つに合わせようとするトレント会議の試みを全く禁じている。「人は律法の行ないによっては義と認められず、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」(ガラ2:16)。もしこれが、新約聖書がこの問題について語っていることのすべてであるなら、アグリコラの縄を買ってもよかろう。

     

    信仰と良い行ない

    しかし、ここまでのところでトレント会議の誤りとはいかなるものか。新約聖書には良い行ないの必要性については何も教えられていないのか。否、当然教えられている。「人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう」(ヤコ2:16)。文脈を無視して読めば、ヤコブは明らかにパウロと矛盾しており、ローマ・カトリックの教理を教えているかのように見える。しかし、ヤコブにそのような意図は全くない。彼は次のような質問からこの議論を始めているのだ。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰が人を救うことができるでしょうか」(ヤコ2:14)。ヤコブが考えているのは、義認のための信仰と良い行ないの関係ではなく、信仰が良い行ないにどのような関わりがあるのか、なのである。言い換えれば、どのような信仰が我々を救うのか、ということだ。彼の答えはこうである。「行ないのない信仰は死んでいる」(ヤコ2:20, 17, 24) 。我々を救う唯一の信仰は、自らを良い行ないのうちに表わす信仰なのである。

    最初からキリストにある信仰の告白をしてもパリサイ人のような偽善者は存在していた。「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています」(テトス1:16a)。この問題のゆえに、どのような種類の信仰が義と認められるのかを聞くことが必須であった。パウロは、信仰だけで義と認められるということだけでなく、義と認められる信仰とは決してそれだけに留まることはないという点も強調する必要があった。真の信仰とは、罪から救われるためにキリストを信じるものであるので、そのような信仰を持つ者は、罪の中に留まることはない。寧ろ、キリストを信じるならキリストを愛するのである。そしてもしキリストを愛するのなら、その命令を守るのである(ヨハ14:15)。そこでパウロはこう記している。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」(ガラ5:6)。

    これが、聖化の教理の中心である。すなわち、御霊が我々のうちに働き、我々を義なる者とし給うのである。神は、転嫁されたキリストの義を根拠に我々を義と認めることによって、罪という法的問題を取り扱われるのである。キリストは我々を聖化という長い過程を通して日々の罪への隷属状態から救い給う。聖化とは、聖霊が我々を導き、キリストへの愛を育て給うゆえに、さらに従順と良い行ないにおいても成長せられていくことである。

     

    良い行ないと最後の裁き

    義認は必ず聖化を導き、また、信仰は必ず愛と行ないを導く。それゆえ最後の裁きは我々の行ないに対する裁きとなる。信仰から離れた行ないではなく、我々の信仰の現われとしての行ないである。キリストは行ないを外面的に裁くと同時に、その動機と目的によっても裁かれる。神に受け入れられる良い行ないとは、神と隣人への愛から発したもので、聖書の教えに従い、聖霊の御力による、神のご栄光とその御国のためになされる行ないである。

    イエスの教えは不明確なことばにはよらなかった。「私に向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられる私の父のみこころを行なう者がはいるのです」(マタ7:21)。もし信仰が行ないにおいて表わされていないのなら、そのような信仰は我々を救いはしない。パウロも強張している。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」(ガラ5:19-21)。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラ6:7-8)。

    我々はモーセから真の義しさの定義を教えてもらう必要がある。それで自分がいかに罪深いかを知り、キリストにあって義と認められることを求めるようになる。我々はまたキリストの義しさについての教えをも教えられる必要がある。それによって、我々は神の御恵みによって悔い改め続け、良い行ないと聖さにおいて成長することを求める人生を生きるよう導かれるのである。モーセを裁判官としてはならない。そうすれば決して救われることはない。同時に、モーセを絞首台に引いて行ってはならない。我々はモーセを教師として必要としている。我々は義と認められる前に、御恵みを求めてキリストに向かうよう我々を導いてくれるのである。そして義と認められた後、モーセは続けて我々を十字架の御恵みへと導き、救い主に似た者となるためにはどうしたらよいのかということも教えてくれるのだ。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙2章9〜10節 (A)

    エペソ人への手紙2章11〜12節

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