95.08.13. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。
旧約時代の異邦人
パウロは、救いとは神の一方的な恵みによるもので、良い行ないをする生活という形で現われる罪からの救いであると宣言した (エペ2:1-10)。パウロの異邦人に対する教え方は、高貴かつ聖なる召命がキリスト者である彼らのものであることをまず説明し、それからそれに相応しい歩みをするよう勧める、というものだ
(エペ4:1参照)。なぜそのような教え方をするかと言えば、キリスト者の生活は愛と感謝によって動機づけられるべきであるからだ。異邦人が救いを自らの実体験という個人レベルで理解しなければならないことは確かだが、歴史において神がユダヤ人と異邦人をどのように取り扱われるかという救済史全体もまた理解しなければならない。救いに関する広い文化的・歴史的視点は、キリストのみわざについての理解と、彼ら一人ひとりに対する神の御恵みを感謝するという心とを深めるものである。
割礼と無割礼
割礼という問題は、新約聖書において繰り返し扱われている。しかし、これはパウロの“十八番”というようなものではない。この問題は、古い契約と新しい契約の相互関係を理解するのに非常に重要なのだ。割礼はアブラハム契約のしるしであり、イスラエルの祭司としてのしるしであった。それは、古い契約の祭司ではあったが、新しい契約のキリストの祭司職の象徴でもあった。イスラエルの祭司職は古い契約の制度であるとは言え、そこには新しい契約の約束が含まれていた。
祭司のしるしとしての割礼は、血を流す犠牲の一種であり、それゆえ古い契約の贖罪制度の一部であった。しかし、この制度は贖いを実際にもたらすのではなく、それを約束するものであった。割礼のしるしは、異邦人の信者から祭司であるイスラエルの民を区別した。それは、救われた者を救われていない者から区別するためではなかった。実に、アブラハムの子孫は世界の救いという特別な目的のために祭司として選ばれたのである(創世12:3;
18:18; 22:18; 26:4; 27:29; 28:14; 使徒3:25;ガラ3:8)。
旧約の歴史において、神の祭司の民は何度も異邦人を祝福へ導いた。族長たちと関わりを持っていた異邦人たちはしばしばアブラハムの神を礼拝しにやって来た
(創世21:22ff.; 26:28ff.; 47:7)。カレブやボアズというような幾人かの有名な人物は、割礼を受け、神の御民に加わったためユダヤ人となった。シバの女王、ネブカデネザル、クロス、ニネベの人々など、他にも神の救いを信じたが、祭司の民には加わらなかった者たちもいる。
キリストが来られた頃には、ユダヤ人指導者らはこの割礼の意味を忘れてしまっていた。自分たちを異邦人に福音を宣べ伝える責任を持つ者というよりは、寧ろ自らを救われるために選ばれた人種であると見做し、異邦人は罪に定められると思っていた。これは、彼らの歴史的な宣教の働きと契約的しるしの歪曲であった。パウロが「肉における人の手による割礼」と言って指しているのは、割礼の真の意味を信じる信仰のないまま割礼を受けた者たちのことであった。彼らは異邦人たちを嘲って「無割礼の者」というレッテルを貼ったのである。
望みもなく、神もなく
多くの異邦人はイスラエルの証しを通して真の神に改心したとは言え、世界中の異邦人の大多数は、彼らの歴史のほとんどを通じて不信者である。12節でパウロが並べた諸表現は、必ずしも全部が不信者を指しているとは限らないが、いくつかは不信者を指しており、そのすべては信仰のない異邦人に相応しいものである。
「キリストから離れ」ているとは、異邦人がメシアの国イスラエルに属さない限り、彼らの状態であった。このことは必ずしも彼らが罪に定められたという意味ではなかった。「イスラエルの国から除外され」と「契約の約束については他国人であり」という表現も、祭司の国に属さない異邦人を指している。これらは異邦人が救われないということを必ずしも意味していない。古い契約の摂理において、人は救われるためにユダヤ人になる必要はなかったのである。
しかし、これらの表現が意味しているのは、異邦人が神から遠く離れていたということである。これらの句の意味は、14節が指している隔ての律法の中に物理的なかたちで示されている。異邦人は町中にある家を除いてイスラエルの中で土地を永続的に所有することは許されていなかった。また、彼らはいくつかの儀式に与ることは許されず、また神殿からは閉め出された。つまり、神を遠くからしか知ることができないと宣告されたのだ。ある意味で、これはイスラエルの民にとっても真であったが、異邦人に比べれば、イスラエルはまだ神に近かった。
最後の二つの表現は、キリスト以前の異邦人のほとんどについて真理であったこと、すなわち「この世にあって望みもなく、神もない」と述べている。異邦人の宗教は、特に望みのない者の宗教であった。今日ある一部の西洋人が誤って望みを置いている輪廻の思想とは、絶望の教えである。輪廻を信じる者にとって、救いとは、死と再生とのサイクルから抜け出すことと考えられた。多神教の宗教には特に望みがない。なぜなら、堕落した気まぐれな神々が何をしでかすか、人は決して知り得ないからだ。ある日には機嫌が良いように見えても、翌日にはだれにもわからない理由で荒れ狂うのである。エジプト人の間で、死後の世界という教えがあることは事実だが、エジプトの歴史をひも解いてみれば、そのほとんどの時代において、これはパロと高貴な身分の者だけの教えであって、一般人のための教えではなかったことは明らかだ。
ここで強調しておかなければならないのは、異邦人が神のない状態であったのは、自ら選んでそうしたということだ。ノアの時以降、福音は彼らに一度ならず宣べ伝えられていたのである。その都度彼らは、人間の手で作られた偶像のゆえに真の神を捨て、離れたのである。異邦人は神の御霊よりも肉の欲を好み、自らのよこしまの当然の報いを受けたのである。彼らには神も望みも無くなったのだ。
異邦人の日本人
ある点で、今の日本はローマ帝国の中で福音を聞いた異邦人たちと非常によく似た状況にある。日本人には明らかに神もなければ望みもない。この国の絶望と空虚の深さは、ばかばかしくまたけしからぬオウム教という実例によって説明されるであろう。この宗教は普通の社会では何千人もの信者を獲得することはできないものである。人々が精神異常の預言者の提供する代替案を必死に求めるのは、その社会の伝統への信仰を全く捨て去ってしまった時だけである。日本には、この国の若者たちに提供し得るものは何もない。彼らの中の知的な者たちまで、否、おそらく特に知的な者たちが代替案を探求しているのである。
同時に、キリスト教の倫理の教えは今日、多くの若い日本人の耳には何の新鮮味もない。結局、彼らは戦争以来、キリスト教に対して免疫ができているのだ。日本の不快な伝統は忘れ去られている。比較的最近まで残っていた最もおぞましい慣習を二つ挙げれば、実の娘たちを売春婦として売ったり、人間をいけにえとして捧げていたことがあるが、これらの事実は驚くほど知られていない。明治維新以来、日本は他のアジア諸国とは違ったやり方で西洋と関わる道を選んだ。日本は、西洋の産業革命や資本主義、そしてキリスト教の外面的道徳の多くに合わせて形を変えてきた。昭和天皇でさえ、一夫一婦制に切り替えたのである。
その結果、日本人はキリスト教の最も革新的で重要な教えの多くを当然のことのように、あたかもそれらが日本人の世界観に属するものであるかのように受け取ってきた。この日本で福音を宣べ伝えるためには、現代の日本の社会の文化的土台全体に挑戦し、我々の非キリスト者の隣人に、キリストだけが個人、社会、そして世界の救いを提供できるお方であることを示さなければならない。
文化的危機は我々が恐れるべきものではない。神がそうなるよう諸権力を揺るがせておられるのだ。そうして人々が福音に耳を傾けるようになるためである。我々は、我々の周りを取り囲んでいる非キリスト教世界の不安定さと愚かさが広がっていくのを目の辺たりにしつつ、今までになく熱心に祈り、また証しをしていかなければならない。