95.08.20. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。
敵意と平和
バベルの塔以来、人間の様々な集団の間に敵意が存在することは周知の事実である。しかし、それよりもずっと以前から、人と人との間にはもっと根本的な敵意というものが存在していたことも思い起こす必要がある。第一に、罪があるところには必ず人間関係において敵意の問題が存在する。アダムは堕落後エバを憎み、自分の問題の源として彼女を指差した――「この女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」。しかし、アダムの敵意はまず神に対するものであった――「あなたが私のそばに置かれた(この女)」(創世3:12)。神こそ平和と一致の唯一の源である。人間が神を憎めば、彼らは互いをも憎み合うのである。このことから、敵意について二つ目の点が導き出される。すなわち、カインのアベルに対する憎しみに表わされた、非キリスト者のキリスト者に対する憎しみである。これは、へびに対するのろいのことばの中で以前から預言されていたことだ。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世3:15)。
人間の敵意の他の現われはすべて、創世記の始めにあるこの二つの重要な真理の下に来る。一つは人間の神に対する敵意。これは、人間同士の敵意という形で日常生活にあふれている。人間は神の似姿であるからだ。二番目に、契約を破った人間は契約を守る人間に対して特別な敵意を抱く。それは、彼が神のご栄光を誰よりも映し出すからである。このように、我々は人間の罪の本質が神に対する憎しみであることを思い起こさずにはいられない
(ロマ8:6-8) 。
ユダヤ人と異邦人
バベルの塔は人間の敵意の歴史においても重要な位置を占める。バベルの塔以降、人間は互いに意志疎通のできない様々な言語集団へと分割された。ある部族が自らを生来他の人間よりも勝っていると主張したり、世界の諸問題を他集団のせいにするというようなコミュニケーションの問題から来る不信感、そして間違った意味での集団の「きずな」は、バベル以降に起こってきた部族間の緊張や憎悪の持つ多くの局面のうちのほんの一部に過ぎない。
人種的偏見とは今日広く使われている言葉とは言え、正しい言葉でも正しい概念でもない。アメリカにおける黒人と白人の摩擦は人種間の問題であるが、世界のほとんどの国で問題となっているのはこの類のものではない。アフリカの黒人たちの間には、相互に敵意を持つというバベルの時代に遡る長い歴史がある。それは彼らがみな黒人であることとは何の関係もない。アジア人も同種の敵意を互いの間に抱いている。これも彼らが人種的には皆同じであるという事実に反してのことだ。もう一つ痛ましい例を加えれば、今のボスニアの戦争は部族間の憎悪が激発したもので――念のために言えば、宗教的憎悪とも重なっているが、人種的なものでは決してない――、それは長い間のことであると同時に非常に激しいものである。
必ずとは言わないまでも通常は言語によって決まっている部族的集団は、バベルの時からほとんど絶え間なく戦争状態にある。古代世界において、多くの小王国を含む多言語の広大な領域が一つの政治体系の下に統一された帝国の存在するところでは、諸国はすべて実質的には信仰というより力によって建てられ、また保たれていた。仏教書によれば、有名な仏教徒の皇帝アショーカも、王座を奪い、可能性をもつ競争相手はすべて殺すことによってその王国を受け継ぎ、独裁者としての支配を確立した。しかし彼が明らかに仏陀を信じる信仰によって統一を試みた帝国は、彼の死後、ばらばらに崩壊してしまった。
絶えず互いに戦争状態にある異邦人の諸王国というものは、アダムのエバに対する怒りにも似た、神への憎しみを反映した人間関係における憎しみの一面であった。人類の中にあるさらに深い分裂は、ユダヤ人と異邦人の間にある分裂であった。女の子孫とへびの子孫との区別を反映するよう意図されたわけではないものの、歴史的事実の問題として普通はそうなったのである。「アブラハムの子孫」が世界のための祭司として選ばれた時、彼らは「女の子孫」と同一視されたのではなかった。だが、彼らには神に近づくことができるという特権が与えられた。イスラエルは神に近く、異邦人は神から遠く離れていた。このように定められたのは異邦人の救いと祝福のためであったが、同時にそれは彼らがさばきの下にいることが前提であり、彼らのねたみと敵意とを引き起こさせる傾向があった。
それと全く同様のことが、イスラエルの中でも見ることができる。というのも、彼らがみな等しく祭司であったわけではないからだ。レビ人は祭司の権威において他の部族よりも高く上げられ、そのレビ人の中では、アロンの家族が祭司職につき、アロンの家族の中では、長子だけが大祭司になることができた。この序列において地位が高ければ高いほど、神に近づくことが許された。このことは特権を表わしてはいるが、むしろ他の人たちの代表としての責任の方をより表わしている。
コラの反逆は、モーセ時代もっとも有名な話の一つである。レビ族であるコラは、ルーベン族の一部と共にモーセとアロンに逆らった(民数16:3)。異邦人らも同じようにユダヤ人に対して感じたのである。「あなたがたの民だけが祭司の民で、あなたがたの神殿だけが唯一まことの神の宮であると言うが、あなたがたのどこがそれほど特別だと言うのか」。
新しい人
ユダヤ人自身がしばしば忘れていたことは、彼らが神に近づくことを許す律法は、彼らが神からどれほど離れているのかを何よりもよく教えていたということだ。イスラエル人は聖いものには近づいてはならず、ただレビ族のみが近づくことができた。また、レビ人なら誰でも神殿に入れるというわけではなく、ただアロンの家族のみがそうすることができた。アロンの家族の中でも、大祭司のみが至聖所に入ることができた。しかも年に一度、それも非常に短い間だけであった。神殿制度全体がユダヤ人に教えていたのは、彼らが神から遠く離れていること、罪と汚れのゆえにさばきの下にいることであった。
律法は、ユダヤ人と異邦人の間にある祭司か否かの区別のゆえに、彼らの間に壁を設けた(エペ2:14-15)。しかし、ユダヤ人と異邦人の間の壁よりも大いなるものは、神と人との間にある壁であった。キリストは人間と神との間の障壁をすべて崩すために、我々の罪ののろいを担われ、それによって我々はキリストを通して神に近づくことができるようになったのである。それは、キリストがユダヤ人と異邦人の間の障壁をもすべて取り除いたという意味である。彼らが共に十字架を通して神と和解させられたゆえである(エペ2:16)。
キリストはさらに、両者を一つの新しいからだとされる。キリストはご自身の上に律法ののろいをすべて受けることにより、律法によって引き起こされた敵意を死に渡された(エペ2:15)。救いとは、神の御前における契約の代表としてキリストに信頼するという意味である。信じる者はすべて、ユダヤ人でも異邦人でも、キリストにあって受け入れられるのである。彼らは新しい人類を形成し、両者は「新しいひとりの人に」造り上げられるのだ(エペ2:15)。
ユダヤ人と異邦人との間に平和が確立された。キリストがまず神と人との間に平和を確立されたためである。罪の故なる神の人間に対する敵意は、キリストという身代わりの犠牲を通して取り去られた。神殿制度は豊かな贖いの約束ではあったが、神の人間に対する根本的な敵意を表わしていた。キリストの死を通して、ユダヤ人と異邦人を隔てていた壁が、他のすべての神殿の壁と共に壊されたのである。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、今や信じる者はだれでもキリストを通して神に近づくことができるのだ。我々は皆、拒まれる恐れを持たずに天の真の聖所に入ることができる。それは、イエスが我々を罪から贖い出し給うたゆえである。
ユダヤ人と異邦人の隔ての壁が壊されたという事実には、二次的に人間の諸集団の間にある他のあらゆる敵意の撲滅が含まれている。キリストは人間と神の間に平和をもたらされ、それによって憎しみの傷を癒し給う。野蛮人のスキタイ人とギリシャ人は、韓国人や中国人や日本人のキリストにある兄弟たちと共にまことの神を礼拝することができる。キリストだけが世界に平和をもたらすことのできる希望であられるのだ。人間は律法――特に国連によって推進されている今日の世俗的パリサイ主義――によっては、一致
(隣人を憎むことに現われている罪の側面から救われること) を持つことはできない。人はキリストによってのみ救われ得るのである。我々はまず神との平和を持たなければならない。人間の間の平和は、人類がキリストにある信仰によって神と和解されてはじめて人類のものとなるのだ。
決して忘れてはならないのは、我々の宣べ伝える福音が人間のあらゆる問題に対する答えであるということ、即ちキリストは人間の罪すべての救い主であるということだ。神は、ご自身の御恵みの栄光が称えられるため、我々の時代にも、福音が世界の救いに与える影響を成長させて下さるのである。