95.08.27. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。
神の御住まい
この前の部分でパウロは神殿制度を暗示していたが、それは漠然としたものだった。しかしここでは、より明確に神殿制度と救いの象徴について語っている。古い契約に属するアブラハム契約の下では、ユダヤ人たちは神に近く、異邦人は神から遠い存在であった。これは契約的な祭司制度であって、人種的な救済制度ではない。そこで、近いとか遠いとかいう表現は、祭司が神に近づくことについての話なのである。イスラエルは異邦人が救いと祝福を得るために取り成すよう選ばれたのだ。ところが、遠く離れていた者はキリストの血によって近くされ(2:13)、遠く離れていた者も、近くされていた者も、一つのからだとして神との和解がなされたのである。これは、神に近づくことが今やキリストを信じるすべての者に――単なる約束された象徴的な影ではなく、完全に――可能にされたということだ。神殿制度が象徴する真理の一面、即ち神への接近が許されるということのみならず、我々はさらにすばらしい神の御住まいとなるのである。我々こそ新しいエデンなのだ!
聖徒と同じ国民
この表現も、パウロが救いを説明するのに用いている神殿の象徴の一部である。「聖徒」とは、聖所へ入ることのできる者のことだ。古い契約においてイスラエルは文字通りの聖徒の民とは言えなかった。彼らにとって神に近づくことは部分的なものでしかなかったからだ。しかし、それでもなお彼らは聖徒と呼ばれた。彼らは祭司であって、その祭司職には未来の救いという約束が含まれていたからである。異邦人らは遠く離れたものであったが、キリストにあっては、もはや外国人ではない。今や神の民、御国の国民のメンバーなのである。
彼らは聖徒として神殿に入る特権を持っている。天幕時代のようにただ外の庭に入ることができるだけではなく、また、古い契約の祭司のように聖所に入ることができるだけでもない。聖徒たちは、血を流すことなく入ることができないということのほかには、旧約の大祭司に負わされた様々な制約を全く受けずに至聖所に入ることが許されている。キリストを信じる異邦人は、今や彼らのために道を開いたキリストの血により、いつでも自由に天にある真の至聖所に入ることができるのだ。
御恵みによって神に近づくことについて、18節で三位一体の各位格によって説明されている。「このキリストによって」とは、キリストの血によって我々は至聖所に近づくことができるという意味である。「一つの御霊において」は、我々が神に近づくことができるのは聖霊の御恵みと御力によるという事実を指す。旧約の祭司たちが油を注がれ、水で洗われたのと同様に、我々も神の聖霊によって油注がれ、またその御力によって神の御座に近づくことができるのだ。こうして、我々は御父に近づく。我々は、聖霊を通し、キリストにあって、祈りと礼拝とを捧げることにより、御父の御許に導かれるのである。パウロがここで示しているのは、キリスト教の祈りの伝統的やり方となったものである。即ち、我々は御父に向かい、キリストの御名によって、御霊の御力を通して祈るのである。
神の御住まい
20〜22節において、パウロは幾分視点こそ変えているが、続けて神殿の類推を用いる。使徒と預言者とは、神の御言葉を我々に与えてくれたという意味で土台である。我々の主が隅のかしら石、礎石なのだ。建物の礎石は、最も重要な石で、それによって建物の位置、向き、大きさは決まる。つまり、キリストによって教会が決まるのだ。使徒と預言者とは聖書の記者である。彼らが土台であると言っても、それがキリストの据えられた土台以外のものだという意味ではない。ここでパウロが指していることは、黙示録21章14節でも述べられている。「また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の十二の名が書いてあった」。
キリストはご自分の教会をペテロの告白という岩の上に建てられた (マタ16:18)。しかし、教会を建てられるのは正にキリストご自身である。我々の信仰の土台であるお方は、ほかでもないキリストのみなのだ。「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです」(1コリ3:11)。キリストの御言葉を宣言する正式な代表者として、使徒たちは土台となるのである。
我々は建物である。つまり、一人ひとりが神の御住まいの石なのである。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」(1ペテ2:4-5)。しかし、パウロが主として心に描いていたのは、別なことであった。パウロは建物全体のことを考えていたのである。
建物全体が「成長し、主にある聖なる宮となる」。勿論、神殿が「成長する」というのはおかしな表現である。しかし、それを言うなら、ペテロが「生ける石」について語っていることもそうだ。神はご自身の神殿を聖霊の御業を通して建てておられる。神殿は建物である一方、神の御霊による御業を通して徐々に成長する有機体でもあるのだ。我々は、異邦人エペソ人と同様、神殿の一部である。聖霊は我々のうちに働いて、我々を建て上げ、我々を通して神の御国を広げ給うのである。
神の神殿は、神の住まわれる場所である。それは、教会全体がエデンの園という象徴の成就であるという意味となる。神がアダムのためにエデンの園を造られたのは、ご自身と共に住まわせるためであった。それは世界の中心にある聖所であった。アダムが神に従っていたなら、彼は祝福され、神の交わりを永遠に楽しんだであろう。アダムは徐々に栄化されていったはずだ。それは、今の我々にとっての天と同じような祝福となっていただろう。神がアダムと住まわれたなら、それは遥かに親しく、遥かに栄光に満ちたものであったろう。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、・・・もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である」(黙示21:3;
22:5)。
アダムの罪は、罪の代価を負い給う新しいアダムを通してのみ祝福は来なければならないことを意味した。だが、アダムの罪は神が人間を祝福されるというご計画をくじくことはなかった。我々は神の御住まいとなる――実に、我々はすでになっているのである!
これは救いの頂点、人間創造の最高の意義なのだ。パウロが教えているように、これは一人ひとりにとって真理であると同様、教会全体としても真理である。ヨハネは次のように教えている。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられらなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」(ヨハ7:37-38)。
神の宮として、我々はそのご栄光を表わすべきである。それは、義しさから始まる。神のご栄光は、義しさよりも広い意味を持つが、義しさなくしては決してあり得ない。罪人にとって、神の律法に倫理的に従うことこそ、神のご栄光を求めるときにまず手掛けなければならないところなのである。しかし、それがすべてでもない。教会史は、キリスト者たちが数と社会的影響において成長するとき、彼らが文化全体を変え、キリスト教文明を創り上げることを示している。野蛮なヨーロッパ人がキリスト者となった後、不完全さは当然のことながら、芸術、音楽、建築、法律を以て、神の御名に栄光を帰したのである。そして、それまでの世界が知っていたすべてを越える文化を建て上げたのである。彼らは、その働きを通して神に栄光を帰したいという願いをもって、神の御言葉の影響によってそれを為したのだ。我々もまた同様の文化的働きに召されている。しかしそれは、我々の個人的な生活や家庭から始まるのである。家庭において神の栄光を表わせないのなら、我々がキリスト教文化を建てることはないであろう。