福音の栄光
パウロは、エペソ人たちに手紙を書いた頃には、キリスト者となってからもうかなりの年数が経っていた。そういう意味で、彼が使徒として他のキリスト者たちに理解の深さにおいて勝っていたという事実に驚くことはない。十字架の真理に関するパウロの説明の深さによって我々はしばしば驚かされるが、それにもまして驚くべきことは、長年福音の働きに携わり、人に騙され、迫害され、憎まれ、そして裁判所にまで連れて行かれ、獄に入れられ、同じ福音の話を何千回と語り続けた後に、パウロは今なお新鮮な感謝と新生したキリスト者の喜びを保ち続けている、ということである。パウロは神の御恵みに対する驚嘆に満ちているのだ。ところで、パウロのこういう面は彼独自のものではない。何世紀にもわたって、多くのキリスト者たちはこの福音の基本的な部分の話だけでも聞けば聞くほど、そのために苦しめば苦しむほど、それを他の人々に語れば語るほど、それは自分にとってさらに貴いものとなると証言してきたのである。
パウロの働き
我々は、パウロや彼の手紙の読者たちなら忘れることなどなかったであろうある事実を思い起こさねばならない。それは、「キリスト」という言葉がヘブル語の「メシア」という言葉のギリシャ語訳であるということだ。つまり、4節は「メシアの奥義」について、6節は「メシア・イエス」について、8節は再び「メシア」について語っており、そして11節は「我々の主、メシア・イエス」とイエスの肩書き全体を用いているのだ。我々は余りにキリストという言葉に耳慣れしているので、その意味を自らに思い起こさせないかぎり、それをイエスの個人名として考えてしまいがちである。
このことはパウロが福音の奥義について説明している、我々が今学んでいる箇所において特に重要である。パウロの説明によれば、神はご自身の福音の御恵みをメシアの到来以前の時代には全て啓示されていたわけではなかったが、今や第二のアダムとして来られた神の御子の啓示によって、ご自身の知恵の栄光を福音として人と御使いとに知らしめ給うたのである。1世紀のパウロとユダヤ人キリスト者にとって最も驚くべき福音の素晴らしさの一つは、異邦人が高められてユダヤ人と同等なものにされたということである。それによってユダヤ人と異邦人とは一つのからだとなり、ユダヤ人が自分たちだけが特別に持っていると考えていたメシアの約束に共に与る者となったのである。律法の下では、ユダヤ人のみが約束の地を相続したが、メシアにおけるモーセの契約の成就は彼らの期待にまさる――おそらく「期待を裏切る」と言った方が適切だろう――ものであった。
パウロは自らを福音のに仕える者と呼ぶことを喜びとする。しかし同時に、彼は「すべての聖徒たちのうちで一番小さい」(3:8)と告白している。パウロの謙遜は、神からの直接啓示を受けたという彼の主張にほとんど勝るとも劣らず非凡であり、それはその主張を確証するようなものだ。自分は歴史上のすぐれた人物すべての生まれ変わりだと主張しながら、ヤクザの組長でもうらやましがるほどのこれみよがしな傲慢さと好き勝手な生き方をする麻原のような最近の詐欺師に我々は馴れてしまっている。パウロ自身が大胆に主張するキリストと福音の知識における彼の貴い特権は、見せ掛けではない心からの誠意をもって自己を表現させるほど、パウロに自分の罪深さを見せ、また感じさせたのである。それでパウロは自分が実に他のどのキリスト者よりも小さなものであると告白したのである。
パウロは、愛し難い異邦人に対する神の愛という奇妙な知らせを喜んで宣べ伝えた。パウロは神の御恵みによって自分自身に賜わった務め――測りがたいメシアの富を異邦人の間で宣言し、それによって彼らも救いに与るという務め――を大いに喜んでいる。メシアの奥義には、異邦人がユダヤ人と同じ立場で神に近づくことができるようにされるという真実が含まれていた。この真理は旧約時代には隠されていたが、すべての者の創造主なる神はすべての者を包括するご計画を持っておられたのだ。神の救いの御恵みは――人類一人ひとりにではないが――人類全体に及ぶのである。
福音の目的
パウロは10節で福音の目的の一つを教えてくれる。パウロがここで宣言している福音の目的は、唯一でも主要なものでもない。しかし、彼がここで述べているのは、福音の目的としては最も驚くべきものの一つである。創造主なる神は、異邦人をユダヤ人と共に祭司という同じ立場に含むものとして救いをご計画された。それは、一つには、ご自身の豊かな知恵を様々な階級に分かれた御使いたちに示すためであったのだ。「支配と権威」とは、天における様々な階級に分かれた御使いたちの権威のことである。聖書は御使いについて我々にあまり多くを語らないが、語られていることは非常に興味深い。御使いは一つのグループとしてではなく、様々な種類にしたがって個別に創造されたのである。大いなる力と栄光の被造物である彼らは、反逆した一派を除いて、創造の初めから神を礼拝し神に仕えるものである。我々がサタンとして知っている天使は、天使の中で最も力あるルシファー(明けの明星)として創造されたようだ
(参照:イザ14:12以降; エゼ28:13以降)。ルシファーは天使たちの間で反乱を先導し、多くの天使を説得して自分の側につけた。その反逆した天使たちがサタンと悪霊たち――即ち、異教の宗教が「神々」とか「霊」、「力」などと呼ぶもの――となったのである。
しかしながら、神がご自身の御恵みの栄光を現わされるのは、その悪い天使たちではなく、サタンの反逆に加わることを拒んだ天使たちであった。天使には御恵みや救いは提供されていない。彼らは神の完全なる公義と罪に対する御怒りとを知ってはいるが、神の御恵みについて個人的経験は持っていない。それでも神の御恵みの真理には心惹かれるようだ。ペテロがこう語っている。昔の預言者たちは、自分たちのための奉仕ではなかったが、メシアの栄光と福音――「御使いたちもはっきり見たいと願っていること」(1ペテ1:12)――について語ったのである。パウロがここで言っているのは、神が御使いたちにそれを喜んでお見せになるということである。(ところで、このことは、我々が常に好奇心あふれる天使たちに見られているということでもある。おそらく彼らは写真に収めたりメモを取るなどして我々の行ないを記録しているのである。神の御前における最後の裁きの根拠となる我々の行ないの書を書いているのは彼らなのだ:「死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた」(黙示20:12))。
神が我々を通して天使たちに現わされたものはご自身の「豊かな知恵」(エペ3:10)である。いくつかのギリシャ語辞書はpolupoivkilo"の訳を「豊かな」とかそれに似た言葉にすることに同意しているが、ギリシャ語学者であり新約聖書の注解書著者であるウィリアム・ヘンドリクセンは、この言葉は「神の知恵の不朽の多様性と光輝く美しさ」に注目を集める言葉であると説明して「虹色に輝く」という訳を選んでいる。これがギリシャ語の最も正当な翻訳であるかどうかは別として、聖書的な神学においては確かに正当である。
聖書は我々の良いはたらきを「金、銀、宝石」であると言い (1コリ3:12)、地域教会は「星」であると言う(黙示1:20)。また、天の都の門と土台は「高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のよう[な]」(黙示21:11)
輝きを持っている。見事な真珠でできた十二の門にはイスラエルの部族の名がそれぞれに刻まれ、ちょうどそれはそれぞれに使徒の名が刻まれた十二の高価な土台石のようであった。ヨハネが見ている都の栄光は、言い換えれば、神がご自分の救いの御恵みを通してご栄光を人間に現わされたということである:「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。・・・都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。・・・都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(21:18,
19, 21b, 23)。教会の救いのうちに現わされた神の栄光は、天使たちと神の民の両方が永遠に喜び、楽しむために、まばゆいほどの美しさの中で永遠に照り輝く。福音の中に現わされた神の永遠のご計画
(エペ3:11) は、メシアに近づくことができるのみならず (エペ3:12) 、そのすばらしい似姿に変えられた者として神に近づくことができるその時にのみ、最終的に実現されるのである。
キリスト者であるということは、神の栄光を世々にわたって現わすよう召されている者のことである。そのような超越した特権を持つ光栄は、将来に予定されているのではなく、我々に今もうすでに与えられている恐るべき使命なのである。我々は、神の御恵みの比類なき麗しさを――キリスト者にも非キリスト者にも、そして天使たちにも――現わして生きるのである。