HOME
  • 福音総合研究所紹介
  • 教会再建の五箇条
  • ラルフ・A・スミス略歴
  • 各種セミナー
  • 2003年度セミナー案内
  • 講解説教集

    ローマ書
      1章   9章
      2章  10章
      3章  11章
      4章  12章
      5章  13章
      6章  14章
      7章  15章
      8章  16章

    エペソ書
      1章   4章
      2章   5章
      3章   6章

    ネットで学ぶ
  • [聖書] 聖書入門
  • [聖書] ヨハネの福音書
  • [聖書] ソロモンの箴言
  • [文学] シェイクスピア
  • 電子書庫
    ホームスクール研究会
    上級英会話クラス
    出版物紹介
    講義カセットテープ
  • info@berith.com
  • TEL: 0422-56-2840
  • FAX: 0422-66-3308
  •  

    エペソ人への手紙4章1〜6節


    さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に求めなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが、召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにあられる、すべてのものの父なる神は一つです。

    95.10.15. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    一致を保つ

     

    召しにふさわしく歩むという命令は、教会が、キリストの御からだとしての本質にしたがってこの世における日々の生活を送らなければならないということを意味する。これには御国の働きを成し遂げるための知恵ときよさにおける一致が含まれている。罪人が共に平和に暮らすには、謙遜、赦し、忍耐は必須である。しかし、一致とは、我々の取るに足りない徳に基づくものではない。教会が保ち、また楽しむよう召されている一致は、神御自身が既に確立してくださったのである。

    神が一致を造られた

    この箇所におけるパウロの命令の本質を理解することは非常に大切だ。今日のキリスト者の間で、自分たちの神学的確信を妥協することによって作る組織に一致というものを見い出すべきとするような考え方があまりに多いようだ。我々は現代のキリスト教の組織的混乱を見て、その問題を上から下へ、外から内へと解決しようとしている。しかし、事はそのようには運ばない。教会はこの世にある組織としては混乱した泥沼状態であるが、それは他の問題と比べれば小さな問題でしかない。

    パウロはここで一致について語りながら、地域教会の日常生活を考えているのである。教会の一致はその場で実現されねばならない。もし一つの地域教会が一致を保てないのであれば、より高いレベルでの外面的な組織上の一致は強制的権威への盲従にほかならない。実際の御国の働きの中で現される一致、神の命令に対する服従に基づく一致、そして互いに赦し合うことが、何にもまして教会が必要としているものなのだ。 >/P>

    地域教会より高いレベルにおける一致が無関係だということではない。事実、パウロはここで、それは既に神の御恵みによって確立されているということを明らかにしている。それは福音という良き知らせに不可欠の部分なのだ。神は教会を聖霊によってキリストにある一致を持つ一つのからだとして創造された。すべてのキリスト菖は同じ召しと同じ望みとを持っており、同じ信仰、つまり、真理の同じ客観的啓示を共有しているのである。また、我々はみな、神の聖霊によってバプテスマを受け、キリストの御からだとされている(1コリ12:13)。キリスト菖たちは水のバプテスマについて様々な理解と誤解とを持っているが、それで 契約的な意味が失われるわけではない。我々すべての上にただ一人の御父が主権を持っておられる。その神が御旨と目的とを成し遂げられるために、我々を導き、我々の心のうちに働かれるのである。一致とは、栄光に満ちた事沼なのだ。キリストにある新しい創造には調和がある。なぜなら、御父、御子、御霊が教会を支配し給い、教会のうちに住み給い、また教会を救い給うからである。我々が神のみわざを告白し、喜ぶなら、我々はさらに大いなる一致を教会生活の中に見るようになるであろう。

    きよさによって保つ一致

    地域教会レベルにおいて、我々は謙遜、柔和、寛容、愛というキリスト者の徳を沼践する必要がある。謙遜という言葉はここで、文字通りの意味は「自分自身を低く考える」ということである。パウロはこの同じギリシャ語をコロサイの教会にいたパリサイ的異端者の偽物の謙遜を指して使っている。彼らの卑仮は謙遜であるかのように見せ掛けはするが、実際は神の真理に対する傲慢な拒絶であったのだ。またパウロは、キリストの真の謙遜について書く。キリストは、ご娼身よりも我々のことを大切に考えられたゆえに、正当にご自分のものであったご栄光を自らはぎ取られ、十字架の死によって我々を救うために人のかたちをとってこの世に来られたのである(ピリ2:1-11)。謙遜に歩むということは、キリストの心を覚え、キリストが我々を乗り扱ってくださったように他のキリスト者を乗り扱うことを求めるということである。

    イエスは、その謙遜を通して高く上げられた。我々もそうである。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、丞があなたがたを高くしてくださいます」(ヤコ4:10)。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の仮にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」(1ペテ5:6)。謙遜は卑屈とは違う。それは、自己を犠牲にする信仰であり、時が来ると支配が与えられるよう導くものなのである。

    我々にとって柔和とは優しさである。キリストがその模範だ。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタ11:29-30)。ヤコブは、知恵とは柔和であると教えている(ヤコ3:13)。柔和は、自己主張をするプライドと思いやりのない不作法を許さない。と同時に、柔和とは上いことではない。モーセは地上で最も柔和な者であったが、パロは彼が意気地のない女々しい人間ではないことを学ばせられた。我々は神を畏れれば畏れるほど、人間を恐れなくなる。そして、それだけではなく、不必要に人を怒らせることもなくなるのである。

    「寛容] と訳されている言葉は、直訳すれば「長い怒り」、すなわち「怒るのに遅い」ということである。ここでも、キリスト者の徳は神との倫理的一致なのである。神はご自身の契約の御名をモーセに告げられたとき、ご自分のことを「寛容」と言われた (出34:6, 7)。ネヘミヤは次のように告白した。「あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした」(ネヘ9:17b)。詩篇記者も神をその寛容のゆえにほめたたえている。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである」(詩103:8)。

    寛容とは、「愛をもって互いに忍び合う」ことである。キリストは一度ならず弟子たちを次のような言葉でお叱りになった。「いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」。神は我々と我々の失敗、愚かさ、不信仰に対し忍ばれる。神は我々を愛し給うからである。それゆえ、我々も愛をもって互いに忍び合うべきである。これはおかしく聞こえるかもしれない。愛する者と共にいることはひたすら楽しいものだというのが我々の考え方だ。しかし、この世の罪人にとっては、決してそのようなものではない。パウロは、我々がキリスト者として、キリストの愛のうちに互いにのぼせ上がるよう命じているのではないのだ。パウロが命じているのは、キリストのゆえに互いについて耐え忍ぶに足る愛を持つようにということなのである。つまり、これは日常生活において互いに赦し合うということだ。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロ3:13)。これもまた、倫理的に神に似た者になるということなのである。

    神が造られ、我々にキリストにある御恵みの賜物として与え給うた一致を保つために、キリスト者は勤勉でなければならない。そのためには、修養と成長とは言うまでもなく、神が与えられたものを守るためだけでも注意と熱心な道徳的な努力を要する。我々は罪の世界に生きており、倫理的戦いに召されているのだ。我々の生活の全領域が神の国のための戦いの一部なのである。そして教会の一致は大切な戦いの一つなのだ。

    我々はここで、キリスト教の倫理的本質を見る。神が与え給うた祝福を楽しむには、道徳的努力を要する。一人ひとりが熱心に信仰において成長することを求めつつ、まず心の中で罪に対して戦わなければならない。成長しようとする熱心な努力が消えてしまえば、教会の一致もまた消えてしまう。福音の形而上学的現実――即ち、一つのからだ、みなの中にある一つの御霊、一人の主、一人の御父――は、倫理的命令を含むのである。そうである、ということは、そうなるべき、という意味を含むのである。我々は確かに事を神と神が成し給うたみわざから始めるが、東方教会の持つ傾向のように、神の本性を瞑想するだけに終わるわけにはいかない。我々は神のようになるよう求めなければならないのだ。

    キリスト者の一致とは、三位一体のご位格のもつ一致と同様の形而上学的なものではない。とは言え、みなに同じ神の御霊が内住されている限り、形而上学的側面もある。しかし、ここで重要なのはおもに倫理なのである。三位一体の一致は、目的や働きの一致と同様に、愛と義という人格的調和を含んでいる。三位一体なる神の一致のこの側面こそ、教会もまた生み出すよう召されているものなのだ。我々は神を愛するゆえに神のようなものになろうと奮闘しているのである。神ご自身が我々のビジョンの中心であり、倫理の基準であり、我々の働きすべてにおける動機と目標なのである。キリスト者の徳における成長について語ったり、キリスト者の倫理について細かく論じることは良いことではあるが、我々は決して三位一体なる神を見失ってはならない。我々イエス・キリストの教会は、この神のきよさを神の無限の栄光の有限な反映として輝くよう召されているのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙3章20節〜4章1節

    エペソ人への手紙4章6〜10節

    福音総合研究所
    All contents copyright (C) 1997-2002
    Covenant Worldview Institute. All rights reserved.