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    エペソ人への手紙4章6〜10節


    すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにあられる、すべてのものの父なる神は一つです。しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低いところに下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――

    95.10.22. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    キリストのからだにおける一致と多様性

     

    キリストは死なれた時、福音書ではパラダイスと呼ばれる黄泉、あるいはハデスへ行かれた。キリストが説明されたように、パラダイスと苦しみの場所とは、互いに互いを見ることもできたし、コミュニケーションも可能であったが、大きな淵によって隔てられていた (ルカ16:23-24)。キリストは死んだ者たちに福音を宣言され (Iペテ3:19-20)、神の御臨在という祝福をまだ楽しむことのできていなかった神の民を自由にされた。彼らは神と共にいることのできる天にある真の故郷に入ることができなかったという意味で「捕虜」であった。彼らの罪が本当の意味で贖われるまでは、神の御前に出ることはできなかったからである。

    キリストは昇天されると、神の右の座に着かれた。そして、天と地のすべてを支配する任命を受けられた。その時、「彼は人々に賜物をわけ与えられた」。これは、キリストがキリスト者に、新しい契約の成就のための神の道具となるようにと与えられる賜物を指している。この神のプログラムのうちに入らないキリスト者はなく、我々は皆、キリストによって賜物が与えられているのである。「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」。

    キリストのからだにおけるこの賜物の多様性は、パウロによる教会の一致に関する教えの続きなのである。教会の一致は均一性でもなければ、無意味な同化でもない。一致とはからだの多様性によって矛盾するものではなく、むしろからだの多様性の中にこそ見い出されるものなのである。からだは多様な部分を持つときにはじめて一つのものとして機能するからだ。「もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう」(1コリ12:17-19)。

    新しい契約の社会

    聖書の理想的な社会は、古代世界の理想社会とは異なるもので、現代のあらゆる社会的な考え方に事実上影響を及ぼしてきた。しかし、現代も古代も、すべての社会はパウロがここで語っていることと同じ問題に直面する。バベルの問題の一社会における解決である一致には、何かの土台がなければならない。また、ある種の多様性と社会的な分業には寛大さもなければならない。分業とは、さまざまな能力を見つけだし、それらを社会に役立つよう導く仕組みを要求するのである。

    ヒンズー教には「多様性を許容する」方法がある。実際、ヒンズー教は多様性を作り、かつそれを強いる。それはまた、社会の中に分業を作り、かつ強制するのである。カースト制度によって、分業は必ず存在し、その社会の中の一人ひとりが地位と働きを与えられるという保証がされている。しかし、カースト制度が生み出すことがないのは一致である。インドの人々は他のカーストに属する人たちを自分たちの個人生活にとって全くの部外者として見做す傾向がある。彼らには「インド人」であるという概念がない。そのため、彼らにあるのは一つの社会というより雑多な社会の寄せ集めなのである。カースト制度によって形作られている分業は、才能や能力、また個人的な興味とも無関係なものだ。それはあらゆる創造力を伝統という名の下に窒息させてしまうのである。

    社会の一致と多様性という問題に対するヒンズー教の解決は失敗である。世界の人口の五分の一を占める貧困、無学、不衛生が、神の御国にいかにして到達するかを我々に教えることについてヒンズー教がいかに無力であるかを大声で証言している。ヒンズー教は、すべて神の御言葉から離れることが人間を破壊する、ということを実証することによって神のご栄光を現しているのである。

    しかし、マルクス主義の社会ビジョンはこれにも増してひどい。国家が消えてなくなるという理想的な時代が来るまでは、だれがどの仕事をどこでいつ行なうのかを国家が決定する。国家が一人ひとりを教育し、その人生設計をし、またあらゆる市場の決定を行なうのだ。こんなことがうまくいくことはあり得ないし、実際にうまくいくことはなかった。マルクス理論の最大の反証事実は、実際にそれを適用しようと試みれば自ずとわかるのである。みながコンサート・ピアニストとなることができ、みなが脳外科、そして農夫になることができる。人間には何ひとつ限界はない。なぜなら、社会主義的経済環境が新しい人類の進化を導くからだ・・・ところが現実には、社会主義の経済環境はヒンズー教よりも息の詰まるものであることが明らかにされてしまった。社会主義社会における唯一の創造性とは、より新しく途方も無い貧困、無学、不衛生の発見であろう。つまり、何百万という農民たちの飢え死に、共産主義思想の甚だしい作り話、そして社会主義国家における膨大な環境破壊がそれである。

    新しい契約の社会は神のみわざにおける一致を、救い、すなわち三位一体なる神の御恵みのうちに見い出す。「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです」。これは、バベルの問題に対する地域的、かつ普遍的解決なのである。キリストに一致があるのだ。

    また多様性もなければならない。一致の領域が限られているので、多様性もまた与えられるのである。神の倫理的命令のほかは、人間にはそれぞれのしたいことをして生きる自由がある。才能を発見し、それを社会に仕えるものとして導く仕組みは自由市場である。人間が自由に集まり、合意の上でなされるすべての取り引きは、関わる者すべてに及ぶ祝福なのである。さもなくば、合意は成り立たないからだ。

    これは、自由市場こそ我々の天職の中で社会に仕えることとして表わされる部分――我々はこれを仕事と呼ぶ――を見つけ出す聖書的方法である、という意味だ。キリストは次のように語って自由市場の根本原則を宣言された。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」(マコ10:43-44)。我々の仕事は天職とは異なるし、人々に仕えるために行なう唯一のこと、というわけでもない。しかし、独身の男女にとっては、仕事が彼らの社会に対する奉仕の中で最も時間をかける部分となる。より多くの時間が彼らの追い求める他のいかなる活動よりも市場における仕事に捧げられるだろう。

    自由市場は「社会」が我々が何をすることを望んでいるのか、我々のするどのような仕事にお金を出す気があるのかを教えてくれる。市場は我々の技能を評価し、我々が社会に為した貢献に経済的価値を配分する。しかし我々がその評価を変え得る唯一の方法とは、能力を磨くか、あるいは社会に提供するものを変えることである。力を以てより公正な評価であると我々がみなすものを得ることは、異邦人に倣うことだ。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます」(マコ10:42)。

    この意味で、キリスト教は自由市場哲学と結び付いている。とは言っても、この世に見い出されるのと同じ自由市場哲学ではない。キリスト者にとって、自由市場の考え方は神の律法を自由の土台として強調するからだ。キリストにある契約的一致は、人間が多様な賜物をもって神の栄光を表わすように生きる土台なのである。

    地域教会の社会

    我々はみな神の御国と栄光のために用いるべきキリストからの賜物を持っている。賜物とは単なる市場における仕事ではなく、我々には仕事のほかに神の御国を建て上げるために用いられる多くの能力がある。御国のための個人の働きの中で一つの重要な領域は家庭である。家庭において我々は家族の他の構成員と調和をもってキリストのためにいかに生きるかを学ぶ。そこで我々は自己犠牲と愛とを学ぶのである。親しい近所付き合いが消え、核家族化した時代においては、地域教会が近所や親類として機能する。神の御国における多様性と一致は、我々が日々経験するところである。神の命令を守るとき、我々は御国の成長を見ることになるのだ。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙4章1〜6節

    エペソ人への手紙4章11〜12節

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