牧師と働き
ちょうどある聖書箇所が一個人にとって特別な意味を持つように、ある箇所が特定のグループにとって特別な意味を持つことがある。教会にはそれぞれの時代に特有な問題があり、それぞれの文化は独自のチャレンジを受ける。そのため、地域教会が自分たちの直面している問題を特に指して語っている聖書箇所を自分たちに当てはめて考えることは当然であり、また必要なことでもある。エペソ書4章11〜16節は、今の時代のための箇所、またアメリカと日本の教会における福音派文化のための箇所だと言える。この箇所は我々に、忘れられていた地域教会のビジョンを与えてくれる。それは、キリストにある成長のビジョン、勝利のビジョンである。私は、パウロがここで地域教会について書いている、と言おうとしているのではないし、事実、彼はそうしてはいない。しかし、パウロが普遍的教会について語ることは、地域教会のビジョンをも与えることが意図されている。なぜなら、地域教会は、普遍的教会がある特定の地域に目に見えるかたちで具現されたものだからである。
キリストが教会に与えられた賜物
キリストはご自身の教会に対し、ある種の人材を賜物としてお与えになった。この人たちはキリストの代理としてキリストと教会とに仕える。パウロは四種の賜物の概要を述べているが、彼はここですべてを網羅するようなリストを作ろうとしているわけではない。これらは、普遍的教会において、また個々の地域教会において、最も重要な指導者たちなのである。使徒たちは預言者たちと共に教会の「土台」である
(エペ2:20)。使徒たちは法的に権威の与えられた復活のキリストの代理であり、キリストの代わりに語り且つ行動した。新しい契約の預言者たちは、古い契約の下にいる預言者たちと同様、神のみことばを聖徒たちに語った。使徒のおもな仕事も預言者のおもな仕事も、聖典が完成されたAD70年までに完了したのである。書かれた神の御言葉のうちに、世々にわたって保たれてきた権威ある教えが与えられている。神殿の破壊によってイスラエルがはっきり公然と神の祭司の民として退けられたAD70年から、使徒の時代の奇跡的賜物は徐々に消えていった。AD100年までには、信頼できる証言によって記録されている奇跡の賜物はもはやどこにも見られない。
パウロの考えていた伝道者とは、大群衆に向かって簡単な説教を語る人物のことではなかった。伝道者は教会を開拓した人々のことである。ここに列挙されている四つの職は、一つの職を持てば他の職が持てないとは限らない。パウロは使徒であり、預言者であり、伝道者であり、牧師-教師であった。伝道者の働きは、今日、おもに母国であろうと外国であろうと、新しい教会を始める働きをする宣教師の働きの中に受け継がれている。
伝道者と牧師-教師の違いは、伝道者はあちこちへと旅をして新しい教会を始めるが、牧師-教師は一つの教会に少なくともある程度の期間は留まる、というものだ。
(ある人たちは、実際はパウロが牧師であったことは一度もないと言うだろう。パウロは一ケ所に留まったことがなかったためだ)。牧師がこの箇所で教師として明示されているということは非常に大切だ。マルコ福音書6章34節で美しく説明されているように、それは牧師の主要な義務なのである。「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」。
牧師-教師
牧師-教師の主要な仕事は、残念ながら、我々の時代に最もおろそかにされているところだ。このことは、どの時代の教会にとっても悲しいことであるが、今の時代があまりに切実に牧師-教師を必要としているという現実によってその悲しみは倍増される。情報の時代にあって、牧師たちは情報を知らされていない。いわゆる「知識」が急速に広がりつつある時代にあって、牧師たちは様々な知識の領域で起こって来ている新しい諸問題を考えるのによく整えられてはいないのである。牧師の中でキリスト教世界観によって物事を考えるよう教育されているのごく少数である。その結果、明らかに神学的な分野ではないかぎり、彼らは周りの世界と同じように考えてしまう傾向があるのだ。
福音派の教会では、牧師を今の時代の言う伝道者や、あるいは管理者として見ることがしばしばある。毎週の説教は伝道集会のようなものか、あるいは非常に浅い教えに終わっている。なだめ、贖い、和解というような聖書の神学的な言葉さえ知られておらず、使われてもいない。牧師たちはその時の話題について話したり、聖書が現代の文化にどう適用されるかを教えることなどないものと思われている。もしそのようなことをすれば、その会衆は戦わなければならないということになるし、そのような責任を実際に望む会衆はあまりいない。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです」(2テモテ4:3-4)。
今が終わりの日で、それだから人々は神のみことばを聞きたがらないのだ、などと言おうとしているのではない。罪人の心のかたくなさというものは、昔からの問題であって、それはある時にはより激しさを増して現れるものである。そして今はそのような時代なのだ。そういうわけで、あまり教えたがらない牧師たちがいることに加えて、また聞きたがらない会衆もいるのである。
牧師という言葉は、羊飼いという意味であるが、それは長老や監督と呼ばれている者すべてを指すということも指摘しておくべきであろう。その三つの言葉は、この職の働きについて異なった視点を与えてくれる。監督とは、権威を持ち、会衆を見守る者である。長老とは、経験によって知恵を得た年配の者、牧師とは、群れをおもに教えることによって導く羊飼いである。
奉仕の働き
この箇所におけるパウロの一番の関心事は賜物ではなく、その目的であり、それは12〜16節において説明されている。究極的な目的は霊的な成長である。しかし、キリストのからだのための霊的成長は、からだの各部分が全体を建て上げるために自己の役割を果たした結果なのである。聖徒たちに対して奉仕をする働きは、おもに聖徒によってなされるのだ。彼らはその働きのために教えられ、整えられなければならないが、それが牧師の働きなのである。牧師が教えることとは、奉仕の働きのための訓練なのである。
パウロはこのことを前置詞の使い分け方によって明白にしている。パウロは聖徒たちを整えるということに「向かって」、奉仕の働き「へ」、キリストのからだを建て上げること「へと」、と書いている。聖徒たちは教師によって整えられるべきなのだ。そうすることによって彼らは奉仕の働きを行ない、からだを建て上げることができるのである。
この箇所の奉仕というギリシャ語の言葉は、英語のdeacon(執事)という言葉のもととなっているものだ。新約聖書には執事職があるが、その働きは、その職に従事する人に限定されることはない。キリスト者はみな「執事」なのだ。我々は皆、キリストのからだを建て上げるために働く責任を持っている。教会の一部のメンバーだけが神の御国のために一生懸命働いて、ほかの人たちは応援するという現代のスポーツ観戦のような教会概念や、日曜礼拝がまるで見せ物のような娯楽形式の教会を聖書は許容しない。
神が聖徒らに任された働きをなすために、彼らは聖書的な知恵を必要とする。聖書の教えは単に神や世界についての情報を広めるということではない。パウロは若い牧師たちに次のように教えている。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」(2テモ4:2)。これは道徳的に熱心に教え込むこと、きよさへの勧め、そして罪についての厳しい叱責である。道徳の教えは聞き手のライフスタイルを変えることを目指す。それによって聞き手が神の律法と心とにより適ったものとなるためである。それはしばしば、新しい情報や、ある古い知識についての新しい見方を教えることを含むため、教えることでもある。しかし、それは教えること以上のものでもある。なぜなら、それは決して単なるデータの提供に終わることなどあり得ないからだ。聖書的な教えとは、常に我々の召しに適った歩みをするという勧めなのである。そして神はすべてのキリスト者にキリストのからだを建て上げる働きをするよう召しておられるのだ。