聖徒たちの奉仕
聖徒たちを奉仕の働きのために訓練するよう、使徒、預言者、伝道者、牧師-教師が教会に与えられた。奉仕という言葉 (diakonew,
diakonia, diakonoァ) は、deacon(執事) という英語に音訳される言葉である。それは「奉仕」という意味で、様々な動詞や名詞の形で新約聖書中100回ほど使われている。その中にはマタイ福音書20章26〜28節のような重要な箇所も含まれる。「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者
(diakonoァ) になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられる
(diakonhqhnai) ためではなく、かえって仕える (diakonhsai) ためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」。結局、パウロが言っているのは、みなが執事の職をもっていなくとも、すべてのキリスト者は執事の働きをするよう召されている、ということである。そういうわけで、我々が召されている奉仕の働きについてよく考えてみることは大切なのである。キリストのしもべとしての我々の責任とは、厳密にはどのようなものなのだろうか。
いろいろな奉仕
パウロが言うように、「奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です」(Iコリ12:5)。エペソ書における文脈において、パウロは、キリストがすべての聖徒たちに賜物を分け与えられた、と書いている。我々の神に対する奉仕は、我々の賜物によって大部分決まってくるが、それによって限定されてしまうわけではない。神への奉仕の中には、だれかがやらなければならない、取るに足りない仕事も含まれている。そして、それをするのに必要な唯一の賜物は謙遜である。マルタとマリアの有名な話はこの要点をよく描写している。マルタは「いろいろともてなしのために気が落ち着かず」、キリストにつぶやいて言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか」。マルタはキリストと弟子たちの働きを助けた多くの女たちのうちの一人に過ぎなかったが、我々はマルタの足りない奉仕を最もよく覚えている。「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大勢の女たちもいっしょであった」(ルカ8:2b-3;
次も参照:マコ15:41他)。
こまごまとした仕事がいかに大きいものかということが、パウロのそれらについての強調の仕方によって見ることができる。パウロはテモテに、すべてのやもめが教会の福祉対象者の名簿に載るわけではないと教えている。家族のある者は、その家族によって世話をしてもらうべきであり、まだ若い者は再婚すべきである
(1テモ5:3以降)。ふさわしいやもめとは、まず第一によく祈る女性で (1テモ5:5)、旅人、特に迫害を逃れているキリスト者や巡回教師をもてなすなどの種々の良い行ないで認められていなければならない(1テモ5:10)。病人の世話や、困っている者の相談相手となるなどの福祉の働きもやもめの良き行ないのうちに含まれている。パウロはまた、おそらくすべての中で最も取るに足りない行為であるが、真のキリスト者の敬虔の一つの特徴であった行ない、すなわち「聖徒たちの足を洗う」ことにも言及する。
この特定の行為は、メシア御自身が弟子たちの足を洗われたがゆえに重要な意味を持つようになった。ジョン・ギル (John Gill・・・有名な聖書注解者)
はこの習慣について書いている。「この足を洗うというユダヤ人の習慣は、過ぎ越しの祭りの儀式ではないし、来客時や通常の食事の際に用いられたものではない。旅の途中に立ち寄っただけの見知らぬ者や旅人たちを迎える時など、土埃でよごれているような場合になされたものである。彼らの足を洗うのはしもべの仕事で、決して上の者から下の者に対して行なわれることはなく、妻から夫へ、息子から父親へ、しもべから主人へというふうに、下の者が上の者に対して行なうものであった。その他の例はすべて、ダビデに「このはしためは、ご主人さまのしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう」と言ったアビゲイルに見られるように(1サム25:41)、大変な謙遜さの例であった」。それはだれかがやらなければならない仕事であったが、弟子たちのうち一人もそれをやる謙遜さを持ち合わせていなかった。御自身が弟子たちの足を洗われることによって、キリストは聖化の教理における貴い教えを与えられただけでなく――「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」――、最も低い務めをも尊いものとされたのである。
福音を宣べ伝える働きは、賜物が与えられていようといまいと、当然すべてのキリスト者が召されている奉仕の働きの一つとして考えられる。ピリポはエルサレムの教会でやもめたちの世話を手伝うよう選ばれたが
(使徒6:1-5)、だからと言って彼が伝道師ではないということではなかった (使徒8:4以下)。テモテはしもべが主人に仕えるようにパウロに対して仕えたが、彼はまた福音の務めにおいても働いたのである
(2テモ4:5)。我々はみな、それぞれに家族や、友人、知人に、キリストについて語る機会が与えられている。そしてそうすることは我々の召しなのである。
新約聖書において最もよく言及されている奉仕の一つは、貧しい者たちへの福祉である。エルサレムの教会におけるやもめの世話は使徒たちが教会を招集し、7名の執事を任命したほど重要な問題と考えられた。パウロは、迫害やききんの影響で助けを非常に必要としていたエルサレムの教会を助けるための献金を集めるのに少なからず時間をかけた。パウロは手紙の中でエルサレムの教会のための献金を集めることについてふれるが、それはパウロが自分で管理していた働きであったからだ
(参照:ロマ15:25-26, 31; 1コリ 16:3; 2 コリ 8-9; ほか)。
貧しい人々の世話は、真の宗教においてあまりに大切な面であるため、ヤコブはこう言っている。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」(ヤコ1:27)。
この箇所や他の聖書箇所は、初期の頃から最近に至るまで、教会に福祉の働きにおける熱意を駆り立ててきた。しかし20世紀において、キリストがなし給うた福祉の働きがなくても世界は十分に救われ得ると教える「社会福音」が、福音を曲げ、真のキリスト者が福祉の奉仕について警戒するようにさせたのである。これに加え、これらの奉仕の多くに関して、ほとんどの資金が福祉そのものよりも奉仕者に費やされるなどの醜聞や、彼らの官僚的態度というものもあった。しかし、福祉にとって最も大きなつまずきは別なところから来ている。自らを「救い主」であると公言し、それゆえ貧困、病に苦しむ人々や助けを必要をしている人々を助ける源であると宣言する近代国家がそれである。高い税金、官僚的規則、そして嫌がらせまでが、今日キリスト教福祉事業を悩ましているのである。
しかしながら、キリスト者は福音の歪曲や国家の介入によって気落ちしてはならない。我々は、福音をはっきり語ると同時に貧しい人々を助ける奉仕を励まし、建て上げなければならない。福祉はキリストの御恵みを行動において表わすことだ。それはまた、飢餓に苦しみ、病に苦しみながら罪に死んでいる世界において非常に必要なことである。キリストは、我々が救いに価せず罪深い状態の中にいる時に、我々を救い給うた。我々のうちにはキリストの御恵みを惹くようなものは何一つなかったのである。我々はその同じ御恵みを他の人々に示すよう召されているのだ。
我々の奉仕
上に挙げた二、三の例以外にも、さらに多くの例を加えることは可能である。この世における「奉仕」の可能性は、必要のあるところの数だけあるのだ。我々の問題は、自分たちができる助けを見つけだし、その働きを実行に移すことである。我々には、我々を助け給う御霊の力と知恵を与えてくれる神の御言葉が与えられている。また神の御名と御国とのために実を結ぶようにという神からの召しをも与えられている。我々に必要なのは、キリストと福音のために我々のできることは何かを見つけだす信仰と勇気なのである。ぐずぐずしたり、怠けたりしている暇はない。自らの行ないが裁かれるためにキリストの御前に立つ日には、何の言い訳も我々の役に立たないからだ。我々の奉仕が重要であるように見えるにせよ見えないにせよ、それが人によって気づいてもらえるにせよもらえないにせよ、弟子たちの足を洗われたキリストこそ我々を裁かれる方、また我々に報い給う方なのである。キリストが命じておられるのは、この世における聡明さや偉大さではなく、謙遜で、忠実な奉仕なのである。「管理者には、忠実であることが要求されます」(1コリ4:2)。