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エペソ人への手紙4章17〜19節
そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
95.12.10 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。
異邦人のように歩く勿れ
不信者の歩み方の大元にある心理がいかなるものであるのかを深く分析することによって、パウロは「不信者の歩み方を捨てよ」というその命令の説明に深さを増し加えている。人の歩み方はその心によって導かれている、とパウロは言う。しかし、非キリスト者の心は虚しい。それは、心の最も奥深いところに暗い雲がかかっているために、その理解が閉ざされているからだ。彼らは神について無知であり、そのため神から遠く離れている。しかし、その無知と隔たりとは、反逆というものにさらに深い根を持つ。しかしそれらすべての根本は彼らの心のかたくなさである。
これがパウロの分析である。それは人間の堕落した心のまさに核心部分を露にし、現代の大学で心の科学 と称して教えられている全てに根本的に反する聖書的心理学を我々に提供してくれる。しかし、パウロはこの心理学を学問的好奇心を満足させるために説明しているのではない。我々がキリスト者として生きるよう励ますためなのだ。これは基本的に全く異なった心の在り方であって、パウロはこの後のところでそれを説明していく。
聖書的心理学と非聖書的心理学
現代の心理学は、ジーグムント・フロイト (Sigmund Freud) の流れを汲む二つの原則に根差している。第一の原則は、人間の心は測り知れない深さを持つということだ。つまり、人間の行為は、時おり自分でも気付かない動機に左右されている。これは確かに真実だ。フロイトはこのことを聖書と西洋の思想の中に見いだしたのである。新約聖書における有名な箇所の一つであるが、そこでパウロは、自分が「罪の下に売られて」いるという事実を嘆き、自分のからだの中には戦いがあるために自分が望むように自分を理解することも制御することもできないと訴える(ロマ7:14-25)。アウグスティヌス
(Augustine) の『告白』は、パウロが言わんとしていたことを自伝という形で註解するものとなっている。
第二の原則は聖書に真っ向から矛盾する。フロイトは、人間の精神の問題は医学的に解釈されるべきであると教えた。聖書の中では道徳的悪とされていたものが、この医学的パラダイムを用いることにより、病気と定義し直された。そしてこれは進化論者たちに、彼らの反キリスト教世界観に立つ新しい心理学を提供することとなった。
人間の心の複雑さというキリスト教教理を盗用したおかげで、進化論者たちはキリスト教と競うのに足りる程度の深さを持った人間の心理学を持つようになった。そしてその一方で、人間の問題に関する道徳的説明を、全てを何かしらの環境のせいにすることができる医学理論に仕立て上げたのである。動物であったという人間の過去、未だ進化の課程にある社会という病理学、宗教的迷信、そしてその他の幾分かの環境的要素が、人間の心理的ストレスと自己矛盾の源であった。神と、神が人間のうちに造られた良心とは、人間行動に関する教科書から抹消されてしまったのである。
フロイトの人間の心に関する理論はあまりにばかげた考えに陥ることが多いため、その最も熱心な信奉者以外はそれを保持し得ない。例えば、幼児は排泄の際に欲情を感じると言った考えだ。しかし、人間心理にとって性と攻撃性を根本的なものとして見たことについては全くの間違いとは言えない。パウロはローマ書1章18〜32節においてこのことに関する真の解釈を示している。偶像礼拝をし神を否定する人間は、偽りの礼拝に狂っており、自らの最も深い欲望を空高く舞い上がらせ、偶像礼拝に基づいた暴力的倒錯者となる。
フロイト門下の異端の一人、オットー・ランク (Otto Rank) は、人間行動の究極的説明を死の恐怖というさらに深いところに求めた。人間の考え、行為全体において、人間は死への深い恐れによって動かされている。しかし、それは複雑な自己欺瞞のメカニズムによって覆い隠されている、と言う。このことにおいても真理は確かにあるのだが、ここでも問題の根源までは見通していない。
パウロは人間の心のかたくなさについて語る。人間の無知、また神と他の人間からの疎外についての根本的説明は倫理的なものだ。人間は逆らっている。何に対してか。自分自身の心と、自分を取り巻く世界との中に現されている神の真理に対して、である。人間は不義をもって真理を阻む
(ロマ1:18)。それはなぜか。パウロ曰く、「肉の思いは神に対して反抗するものだから」である (ロマ8:7a)。罪深い人間が何を行うにしても心の最も奥深いところにある動機は、神に対する憎しみである。その死への恐れは、消滅することへの恐れではなく、全人類の裁き主に直面することに対する恐怖である。神を激しく忌み嫌うところから来る恐怖である。自分が深く嫌悪する敵によって、永遠の苦しみを公正に宣告されるという概念ほどぞっとすることがあろうか。
硬貨をひっくり返して、普通目にしている表の面を見れば、そこには人間の神に対する憎しみの肯定的な顔、つまり自己の神格化という欲望が見られる。反逆者の福音であるエデンの園における約束とは、人間が「神のようになり、善悪を知るようになる」というものであった。その時以来、事実上世界のあらゆる異教の宗教には自己神格化というゴールがつきまとっている。もっとも、それは様々な言葉に包まれているのが普通である。サルトル
(Satre) の言葉によれば、「人間は神となることを目的として生きる生き物である」。
人間の罪の二つの顔が共にパウロの語る心のかたくなさというものを形成している。この深く根差した神に対する根源的嫌悪感と、自ら権威を定義したいという欲望とは、人間の思考の全てをあまりに汚染しているため、文字通り彼らを取り囲んでいる最も深遠なる真理に彼らは無知のままなのだ。彼らには、世界や彼ら自身の存在の中に神を見ることができない。神に対する反抗が彼らを盲目にしたのだ。
認識論の暗やみ
このことは、人間の生活全般についての理解が歪んでいるという意味になる。彼らの心理学だけではなく、人間学のすべてがそうなのだ。「異邦人」が人間の心を理解できないのなら、当然その歴史をも理解することはできない。また、政治、経済、文学、芸術、あるいは音楽に関する真理をも理解することはないのである。ヴァン・ティル
(Van Til) の言葉を言い換えるなら、電動ノコギリの歯がいかに鋭くても、その歯を真っすぐに取り付けなければ、切るものすべてを壊してしまうだけだ。真理であられる神に対する人間の罪深い憎しみは、その見せ掛けの知識の探求を破壊するのである。
これはキリスト教認識論における最も重要な真理の一つである。しかし、これはまた多くのキリスト者によって無視され、また否定されているものでもある。契約を守る者と破る者との対立は包括的なものだ。知識のいかなる部分も、日常生活のいかなる面も、関らないで済むものは何一つ存在しない。異邦人の歩み、彼らの人生の全行程は「むなしい心」の一言に尽きてしまうのだ。なぜなら、彼らの行うこと全ては、神から離れているためだ。彼らは無知である。彼らの理解は暗い。
だが、教育業界を取り仕切っているのは彼らである。現代世界の知識産業は彼らの手中にある。そして、キリスト者は通常それに追随してしまっている。19世紀のローマ・カトリックは、プロテスタントが支配的であったアメリカの公立学校から自分たちの子供を守りたいと考え、ローマ・カトリック学校の必要性を見た。しかし、当時の指導的カルヴァン主義神学者A・A・ホッジ
(A. A. Hodge) は、民主主義社会における公立学校は必ずや反キリスト教的なものとなるに違いないと警告した。そして彼は正しかったのである。
異邦人に倣うのを止めよ
異邦人のような歩み方を捨てよという教えには、明確に、彼らの心の硬い無知とそこから出てくる空論との拒絶が含まれている。現代の非キリスト教的知識の土台である進化論は、単に拒むだけでなく、論破されてしかるべきものだ。我々は子供たちにその考え方と生活とが聖書に一致したものとなるよう教えなければならない。これは単純に命令を発するだけのことではない。彼らは聖書的世界観というものをその生活に包括的に適用することを学ばなければならないし、足りないながらも親たちがその通り生きるのを目の当たりにし、毎週の聖餐式において自分自身を捧げることを学ばなければならない。
神は聖書の中に我々を自由にする真理を与え給うた。我々のうちに残っている、つまり我々の心の隠された片隅に深く植えつけられている肉の思いの残りのものを根こそぎ取り去るために、我々は神の御言葉によって清められなければならない。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(ヘブ4:12)。そして我々はこの救いの御言葉を我々の子供たちに熱心になって教えなければならない。
著 ラルフ・A・スミス師
訳 工藤響子
著者へのコメント:kudos@berith.com
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