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    エペソ人への手紙4章20〜21節


    しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストから教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。

    95.12.17 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    キリスト教のすべて

    キリスト者となるということはキリストから学ぶということである。それは、キリストの御声を聞き、キリストによって真理を教えられるということである。キリストの教え給う真理を一言で言うなら、これもまたキリストである。世界中でキリスト教と比べ得る宗教や哲学は一つも存在しない。一貫性のある世界観を求める者は究極的な人格を犠牲にしてそうする。彼らは現実のすべてを言葉には言い表すことのできない「一」か、あるいは無限にまた等しく定義不可能な「多」に抽象化する。また、人格的なものとならんとする諸宗教も、通常一貫性のある世界観を犠牲にしてそう試みるのである。しかし、キリスト教だけが、すべての存在は人格なる神に創造され、支配され、依存している、と教える。なぜなら、キリスト教のみが、人格を持つ世界の創造主が受肉し、我々を罪から救うために死なれ、我々にいのちを賜うためによみがえられたことを教えるからである。すべての預言は、メシアにおいて成就された。歴史におけるメシアの出現は旧約聖書の本当の意味を解き明かしてくれる。キリストなくして、旧約聖書は閉ざされた書であり、キリストがあってはじめてそれはいのちの光となるのである。

    キリストと仏陀

    この世に存在する宗教はみな大体似ているものだ、と考えてしまうキリスト者はあまりに多く、また、そう主張する非キリスト者もあまりに多い。結局、すべての宗教に聖典があり、救世主がおり、天国と地獄があるのではないか。否!そんなことは決してない。乱暴な対比によってはじめは大きく見えていた相似点も、よく見れば全く消え去ってしまうものなのだ。宗教を考えるうえでキリストと他の世界の宗教指導者とを比較してみるときほど、このことが明らかに現われされることはない。

    特に日本では、仏陀はほとんどキリストのような人物である。しかしこれはキリスト教から直接借りてきたからに過ぎない。例えば、ジョン・M・L・ヤング (John M. L. Young) はこう語る。「弘法大師がネストリウス派 (景教) の修道院との関りを持っていた中国の首都から806年に戻って来た後、京都の西本願寺に据えた真言宗の本尊の一つは、『慈善に関する宇宙の主の説教』という昔の宣教師による、山上の説教と他のマタイの箇所に関する註解の写本である。親鸞は毎日このキリスト教文書を学ぶために何時間も費やしたと言われる」。

    親鸞の阿弥陀信仰は中国仏教のさらに古い伝統に基づいているが、おそらくそれは使徒トマスのインドにおける宣教の働きにさかのぼるものだ。要は、親鸞や他の者はそこから拝借したのだということである。法然の浄土教、親鸞の眞宗、一遍の時宗のもつ独特な要素は、仏教の他の宗派に相反するもので、それらはみな仏陀の恵みによる救いを説くのだ。

    しかし、仏教徒がキリスト教の救いの教理を盗用したときですら、仏教の宇宙論を創造の概念に合わせることはできなかった。救いの教理と創造の教理が精神分裂状態で無関係のまま残る。仏教にとって創造の教理ほど受け入れ難いものはない。しかし、これは仏教の人格主義が本当の意味で究極的になることはあり得ないことを意味する。すべての真理が「仏陀において」存在することなどあり得ない。なぜなら、仏陀は創造主でもなければ、万物の絶対主でもないからだ。阿弥陀信仰が現実的レベルで提供しているのは、慈愛に満ちた救い主への献身と、見せ掛けの人格的関係、そして本物が持つ究極的価値のない偽物のキリスト教である。

    もともとの仏教は、少なくとも高名な仏教学者Walpola Rahulaによれば、そのようなものではない。彼はこう書いている。「宗教の創始者たちの中で、仏陀だけは (もしも彼をいわゆる宗教創始者と呼ぶことが許されるのであれば) 、自分を単なる人間以上の何ものとも主張しなかった教師であった。他の教師たちは神であるか、あるいは別な形態への受肉であるか、またはそのようなものによって霊感を受けた者であるか、であった。仏陀は人間に過ぎなかった。彼はいかなる神や、外からの力による霊感をも主張することはなかった。仏陀は自らの悟り、達成、功績をすべて人間の努力と知性に帰した。・・・仏教によれば、人間が最高の存在である。人間は自分自身の主人であって、自らの運命を裁くものとして立ちはだかる自分よりも高いいかなる存在も力も持たない。仏陀曰く、『人は自分の隠れ場である。他に誰が守ってくれるだろうか』」。仏陀は人の祈りを聞いたり、人の善行に報いたりすることはない。彼は人々が模倣できる模範を示したのであって、それ以上の教えもそれ以下の教えも与えなかった。

    Rahulaは仏教の独自性を超自然的権威の欠如に見いだす。面白い論議かも知れないが、むしろ長所であるかのように見せ掛けられた欠点である。仏陀が神からの霊感もなく、自分自身の特別な超自然的属性を全く持たないただの人間であったことには疑問の余地が無い。我々もみな同様の主張ができるが、それがために宇宙を定義することができる資格を持つと感じる人は少ないはずだ。Rahula の言葉から受ける印象とは反対に、キリストこそ、世界の創造主の受肉であると主張された唯一の偉大な宗教指導者である。我々はその主張を信じる。それは我々がまず知恵を得たためではなく、創造主なるキリストが我々に語られたがゆえなのである。

    キリストとモーセ

    キリストに焦点を置く新しい契約はキリスト教を他の宗教とは異なるものとしているだけでなく、古い契約からも異なるものとしている。古い契約が神に焦点を合わせていなかったと言おうとしているわけではないし、本質的に劣った宗教であったとほのめかしているわけではない。古い契約は、神の真理の啓示が成長を遂げていない段階にあったのだ。その未熟さの一つに、キリストに関する真理の発展が明確でないということがあった。

    私が言おうとしているのは、ヨハネがその福音書において語っていることだ。「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである」(ヨハ1:17-18)。それはまたパウロが書いていることでもある。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました」(ヘブ1:1-2)。

    旧約時代の聖徒たちには三位一体や受肉がわからなかった。彼らの世界観は確かに神を中心とし、メシアを中心としたものであった。その意味で二つの契約の間に根本的な違いは全くない。しかしキリストの啓示は、御自身が来られ、律法と預言者とを成就されるときまで本当の意味で知られ得ることはなかったのである。その時初めて人間は神を見た。初めて人は恵みと真理を受けた。神は律法をはるかに越える最終性と完全さをもって御子のうちに語られたのである。律法の下で単なる影に過ぎなかったものは、今や具体的な現実となったのだ。

    そういうわけで、キリスト御自身は、パウロが述べている異邦人の心と生活の虚しさ、愚かさのすべての反対であられる。「道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています」(エペ4:19)。快楽主義的な今日の異教信仰にぴったりの表現である。キリスト者となることはキリストに学ぶことである。キリストについて、ではなく、キリストに学ぶのである。この二つの表現の違いは、おいしいステーキについて読むことと、それを研究して食べることとの違いである。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は」(詩34:8)。

    仏陀とは違い、キリストは御自身が創造主であられるゆえに至高の存在であり、唯一の宇宙の主であると宣言し給う。キリスト教はキリストの一言に尽きる。それはキリスト御自身がキリスト教すべての中心、救いの源、全被造宇宙の意味と目的であられるからだ。こういうわけで、真理のすべてがキリストのうちにある。我々はその御声を聞き、キリストを受け入れるとき、今までの生活を捨てる。キリスト御自身が我々が何者であり、御自分がどなたであられるのかを教え給うのである。

    我々は日曜日に教会に来て、特に聖餐式において、キリストに会い、御言葉の教えを通してキリストを受ける。パンとぶどう酒には魔法的な臨在など何もないが、本物のキリストの御臨在が、自らの罪を悔い改め、キリストの救いの御恵みを喜ぶ者と共にある。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙4章17〜19節

    エペソ人への手紙4章22〜24節

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