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    エペソ人への手紙4章28〜30節


    盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役にたつことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

    96.01.07 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    盗みをやめよ!

    パウロの第8戒の適用について非常に驚かされるのは、この箇所が「盗みをやめなさい」という言い方で始まるという事実だ。文字通りには、パウロは「盗んでいる者に盗みをやめさせなさい」、あるいは「もう盗んではいけません」と言っている (エペ4:28a)。教会の中で誰かが盗みを働いており、エペソ人たち全員がこの教えを必要としている、と彼は想定しているわけだ。盗みはなぜそんなに一般的であったのか。この問いに対する答えはいろいろあるが、その一つは、盗みはエペソ人や我々が考えるよりもよく行なわれていた、ということである。というのは、我々には盗みとは何かについて余りに狭く考えてしまう傾向があるからだ。もう一つの大切な答えは、奴隷やしもべのいる社会では必ず、盗みはよくある問題であった、ということである。教会はこの問題をはっきりと取り扱わねばならない。

    盗みの定義

    キリスト教以外の宗教はみな、盗みについて定義することができない。彼らは「地上における神の契約的代表」という人間についての正しい教えを持たないため、財産に関する適切な教えを発展させることができない。これは、ある程度、家庭について適切な見方をすることができないということの結果でもあるが、それよりも重要で究極的なのは、彼らの誤りが、彼らの神についての考え方の欠陥から生じている点だ。キリスト教の財産についての教えは、その究極的土台を三位一体なる神に置く。三位一体なる神において、神格のそれぞれの御位格は全く異なった御性質を所有し、それらを取り去ることはできないのである。

    人間は、個人において、また家庭、教会、国家という契約的な組織において、神の御姿を象徴する。聖書は個人や各契約的組織の権限を制限する。盗みを禁ずる命令はその制限の一部であり、そういうものとして、個人と同様、社会組織にも適用されねばならない。もしも教会や国家がその権威の下にいる者たちに無制限に課税する権利を持つとすれば、財産を管理するものとして神に任命された家庭という概念全体が崩れてしまう。だが、異教社会は、神、人、財産についての聖書的な考え方を持たないため、その特徴として政治における全体主義への傾向が強く、そこには重税の罪が含まれてくる。「徴税の権力は破壊力なり」。異教社会が自己破壊的となることは不可避な現実だ。

    ローマの共和国設立は、賢明な税金政策に負うところもあった。彼らは戦争で必ずしも敵をつぶすとは限らなかった。例えば、ロードス島は古代世界において非常に栄えていた中心地の一つであったが、貿易に課す税がたったの2%であったため、港として人気が高かった。しかしローマには、デーロス島にある港を全くの無課税とするというさらに良い考えがあった。そしてその港は徐々に貿易を支配し、ロードスを追い越してしまったのである。しかし、その後の歴史では、ローマの腐敗と重税とにより、多くの良き市民たちがローマを捨て、野蛮人の為すがままになっていった。今でもイタリアは依然としてこの教訓を学んではいない。1960年代にこのようなことが書かれている。「イタリアの一流の経済学者であり、共和党の元党首であった故Luigi Einaudiの計算によると、もしも法令にある税金のすべてが完全に徴収されれば、国家は国民所得の110%を吸い上げることになる」。

    現代の諸国家がこのように高い税金を取る理由の一つに、その国民が貪欲とねたみに満ちた心を持っているということがある。ポスト・キリスト教社会の人間は、一生懸命働いて、貯金をし、払えないものは買わずに済ますよりも、むしろ遊び、消費し、一生負債をかかえる方を好む。これが高じてインフレを好み――価値ある金を借り、安い金で返すという考え――、また政府の配給やプログラムを好むようにもなっていくのである。我々の税金に関する見方はロビン・フッド的なのだ。つまり、「金持ちから取り、貧しい者に与えよ」である。

    しかし、それでも盗みは盗みである。それが一般投票によって貧しい者が金持ちから盗んだものであろうと、あるいは不正な取引によって金持ちが貧しい者から盗んだものであろうと、禁じられていることには変わりはない。教会は、現代社会における盗みに対し、はっきりと反対の主張を唱えるべきである。そして、その盗みの多くは政治的なものなのだ。神は、我々に与えられた富の増加分の10%の捧げ物を要求される。国家が10%以上を要求するとき、それは合法化された盗みとなる。神は我々の資産や相続に税を課されない。国家もそうすべきではない。教会や国家の税を課す権力を制限することにより、神は人間に家庭と個人の財産所有権を守る政治制度を与え給うた。そしてその一方で、福祉の領域で、個人にも家庭にも大きな責任を要求しておられるのである。

    盗みの反対は慈善である

    そういうわけで、慈善がパウロの次の要点となる。一人の泥棒が、自らの手で働き、他の者に施すようになるまでは真に悔い改めたとは言えない。生産的働きと慈善は、心身共に普通の能力を持つすべての男女に課されている。聖書がここで語っている慈善とは、私的な福祉、すなわち、個人、家庭、ボランティア団体、地域教会によってなされる慈善であって、福祉の聖書的制度においては官僚の管理するプログラムの入る余地はない。福祉は国家の果たすべき責任ではないのだ。事の性質上、国家は合法的暴力という特別な特権を持ち、国家がやることは何事であっても、剣をもってなされる (ロマ13章参照)。しかし、福祉は別な道具の方が好ましい。

    神の律法の中には、昔のイスラエルにおける家庭が自分の家族のために福祉を行う規定や、祭司が身寄りのない者たちに対して施す慈善の規定がある。パウロはテモテへの手紙第一でやもめの世話について語る中で、それと同じシステムに従っている。まず最初に、パウロはやもめたちの面倒を家族に見させるように言う (1テモ5:4, 16)。もしその婦人に家族がおらず、彼女が教会の助けを受けるための身体的条件 (60歳以上) と倫理的条件を満たすなら、教会が彼女の世話をするのである (1テモ5:5-15)。これらの制限が明らかに意味しているのは、現代の西洋社会で実施されているでたらめな慈善 (慈悪) を聖書は認めない、ということだ。パウロは次のようなことまで言っている。「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました」(2テサ3:10)。これは助言ではなく、使徒としての命令であり、適用されれば、がんこなまでに怠惰な者には施しではなく死を意味している。

    悪いことば

    我々の言葉は、盗みが与えるような損害を与え、慈善が与えるような祝福を与え得る。これは、我々が余り考えないコミュニケーションの一面だ。悪いことばは我々のたましいの富を破壊してしまうものだ。ヤコブはエペソ書4章29節の形容詞に関係している動詞を使い、こう書いている。「あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われて[いる]」(ヤコ5:2) 。

    ちょうど盗むことの反対が慈善であるように、「悪いことば」の反対語は「徳を高めることば」、「恵みを与えることば」である。会話が互いに祝福を与えようとするものであるときはじめて、我々はキリスト者として会話をしているのである。現代の異教社会の自己中心な「コミュニケーション」は、「自己表現」という目標を持っている。これは相手には何も伝えず、むしろ相手から奪っているのである。

    我々が忘れてはならないのは、我々のからだは聖霊の宮とされている、ということだ。聖霊は贖いの日のために、我々に証印を押しておられる。御霊は我々の会話を聞いておられ、それが悪いものであるとき悲しまれる。神は我々を御恵みによって救い給い、それゆえ、我々は互いに、また、まだ救われていない者に、恵みを与える恵みの民となることができたのである。御恵みの神としての聖霊は、我々の会話が義なるものであるとき、それを喜び、我々を祝福し給うのである。我々が自分のことばをもって他の人々を富ませることを求めるとき、我々は「受けるよりも与える方がさいわいである」と言われたキリストの教えに従っていることになるのだ。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙4章25〜27節

    エペソ人への手紙4章31節〜5章2節

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