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エペソ人への手紙4章31節〜5章2節
無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
96.01.14 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。
殺してはならない
今度愚かしい暴力だらけのアクション映画を見るときは、子供たちにいっしょに見ようと誘う前に次の引用を瞑想してほしい。「社会科学者たちの間で認識が一致しているところは、メディアを通して暴力に目をさらすことと実際の暴力行為には因果関係があることは非常にはっきりとしている、ということだ」。カリフォルニア大学の心理学教授ダニエル・リンツ
(Daniel Linz) の主張は実に驚くべきものだ。それは、テレビや映画に出てくる暴力が子供たちに影響を与える (研究によると、男子も女子も影響を受けている)
ことを社会科学者らが発見したという主張のことではない。そんなことは、物分かりのよい母親ならずっと以前からみな知っていた。驚くべきなのは、社会科学者たちが何かについて一致した見解に達したということだ。そしてさらに驚くことに、彼らは因果関係を主張している。これは、世界で知的に最も堕落した者とも言える社会科学者たちですら逃避理論を発明できないほど圧倒的な証拠がある、という意味になる。テレビや映画の暴力は確実にあなたにもあなたの子供たちにも損害を与えるものだ。そこには疑いの余地はない。
我々はテレビであまりに多くの殺人を見ているため、殺人の悪についての感覚が麻痺している。ドストエフスキーは殺人の残忍さを見事に暴いたが、それ以上に殺人の醜悪さをよく描いている。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読むと、殺人が汚れて見下げ果てた、卑劣かつ浅ましい行為であるという感覚に満たされる。これは、まさに創世記における殺人の描き方だ。それはカインの汚れた動機、その行為のひきょうなやり方、そして卑劣で悔い改めのない自己憐憫を暴いている。モーセは歴史上もっとも不愉快な行為の一つを、我々の娯楽のためではなく、自分がどういうものであるのかを知って我々がショックを受けるために記した。それによって我々がみなカインの憎むべき心を自らの主観的経験から学ぶためだ。
古い人を捨てる
我々の生まれながらの性質である「古い人」は、アダムであると同様にカインでもある。これは恐ろしい真理だ。自分の兄弟を憎むことは、最も極端な汚れに汚されることだ。無慈悲、憤り、怒りの動機は、通常、カインを殺人へと駆り立てた自分中心の悪にある。我々は実に卑劣で忌まわしい自己を正当化する理由で他者について悪口を言う。暴力は我々の日常生活の一部ではないかもしれないが、我々にとって兄弟よりも親しいはずの人たちを死刑にするため自分の舌を暴力的に用いることは、現代映画に登場する殺人と変わらぬほど巷にあふれている。悪意とは、我々がキリスト者となる以前の過去の思い出、あるいはカイン、アブサロム、ヨアブなどについて読むことによってのみ知っているはずの感情であるが、この感情が生みだす悪口とは、我々が悪態をつく相手だけでなく、その毒杯を飲む愚か者も同時に殺してしまうものなのだ。悪口の罪は、その実態のゆえに殺人の一種として呼ばれるべきであり、またそのようなものとして蔑視すべきものだ。
キリストを着る
古い性質である殺人的な悪意を取り除くには、キリストを着なければならない。親切と優しさのはじめは赦しであり、他者を赦すことのはじめは赦されることである。我々は自分がしてしまったことの嫌らしさを認め、さらに我々の行いが生じた源である自分の心の嫌らしさを認める。悔い改めとは、自分の犯してきた数々の過ちに対する神の怒りを自分が受けるにふさわしいと悟ることだ。自らの罪をまるでちょっとした誤りだけだとか、足りなかっただけであるかのように告白し、死に値する神の律法に対する違反行為であると告白しない者は、本当の意味で悔い改めてはおらず、赦すことを学んでもいない。
しかし、(おそろしい経験であるが) 自分自身が実際にきよい神の永遠の御怒りにふさわしいことを悟り知ることは、神の赦しを受ける必要があり、さらに高い恵みの召し――すなわち、赦された今、赦さなければならない――へと導くものである。パウロが強調しているように、これは、一度我々がキリスト者となれば、我々の召しの本質は神御自身に似た者となる、ということを意味する。皮肉なことであるが、自分自身のことを全く失われた惨めな者だと認めない者は、その心を傲慢さと愚かさとで腐敗させ、自らの罪深さを心から告白する者はきよくなっていくのである。
我々は赦されたゆえに悔い改めに導き給うた「神の優しさ」がわかる。我々は、天の御父が「恩知らずの悪人にもあわれみ深い」というキリストの教えの意味を知っている。何よりも我々は「主がいつくしみ深い方であることを味わっている」
(1ペテ2:3; エペ4:32で「優しい」と訳されている言葉と同じギリシャ語) 。神のいつくしみ深い優しさは、理屈ではなく日常の現実であり、我々が呼吸している空気のようなものだ。パウロが我々に神の優しさについて思い起こさせるとき、我々は感謝と愛とによって心動かされるのである。
それで、パウロはエペソ人たちに宛てて「愛する子どもたちよ」と呼びかけ、彼らに神に倣うよう命じる。ここで我々は福音のすばらしい逆説に直面する。非キリスト者は、福音が、自分自身を否定し、自分が罪に満ちて滅びており、裁きと怒りとを永遠に受けるにふさわしいと告白するよう要求するため、これを拒む。この種の自己否定は「神のようになる」という彼の人生の基本的動機を妨害するのだ。ちょうどアダムが善と悪を自分で定義し、それによって自分を神のような権威にまで高めることを求めたように、彼に続く罪人たちも神から離れて善と悪を定義しようと試みる。ところが、人が神になろうとするとき、その人はその思いにおいても行いにおいても獣と化してしまうのだ。その反対に、人が自分を獣であって自分では何もできないと告白するとき、その人は聖霊によって倫理的に新しくされ、神の似姿に造り変えられ、それから神に似た者となるよう召される。この事実にこそ福音の逆説は見いだされるのである!
実に、自律的な決断をすることで神の究極的権威を模倣するのではなく――それは契約を破る者たちの方法だ――、真の義ときよさにあって倫理的に神のようなものとなることを求めて神にならうべきである。
キリストを着るということは、さらに、愛のうちに歩むという意味である。非キリスト者、特に反抗を自分でより意識している背教者は、憎しみのうちに歩んでいる。人間の自律のふりは必ず真の神に対する憎しみを伴っている。愛のうちに歩むという意味は、神の真の子供となるということだ。しかしながら、罪の世では、愛のうちに歩むことは容易いことではない。愛のうちに歩むとは、キリストの我々に対する愛、十字架の愛に倣うことなのだ。罪から我々を救うために御自身を犠牲にされたキリストこそ、神の人間に対する愛の最大の現われであり、愛の対象のうちにその動機や意味を見いだす愛ではなく、恵み深い神の一方的な自由な賜物の愛なのである。全くふさわしくない対象に対する自己否定の愛の行為として、十字架の愛は、神に捧げる「かんばしい香り」であった。
キリストに従う者として、我々はキリスト御自身が示された自己犠牲的な愛と同じ愛をもって互いに愛し合うよう召されている。これは、神を喜ばせ神の愛を表わすことによって神に栄光を帰するという一番大切な目的のために、他者の祝福や益のために自己を否定することである。殺人の思いを我々の心から捨てるとは、自分勝手な理由のために他者を殺すのではなく、自分自身を他者のために殺すことだ。ここまで自分を否定することは、キリストにある信仰から離れた罪人には不可能だ。そしてそれはキリスト者がキリストに焦点を合わせ、真剣にキリストのような者となることを求めるときにのみ可能なのだ。
キリスト教社会:愛と自由
キリスト者に命じられている自己否定と自己犠牲は、民主主義や自由市場、また労働の分業を可能にする社会的信頼という土台の重要な部分である。フランシス・フクヤマ
(Francis Fukuyama) の新刊 Trust: The Social Virtues and the Creation
of Prosperity は、現代の民主主義が民主主義的資本主義によってできたのでもなく、またできるはずもなかった「徳」というものに寄っていることを明白に述べている。十戒が現代の西洋において我々が享受している政治的・経済的自由を可能たらしめた倫理基盤をもたらしたのである。ところが、この我々の社会の聖書的土台を捨てるなら、民主主義
(democracy) はもうずいぶんと以前から現われてきている流行の悪魔的な罪主主義 (demon cracy) と化し、もしキリスト教信仰の真の改革によって食い止められなければ、自由の喪失へと進んでいってしまうであろう。福音の自由――キリストを愛し、キリストのために生きるゆえに愛をもって歩むことのできる自由とは、他のすべての自由がそれを土台とし、またそれなしに他のいかなる自由も立ち行くことのできない自由なのである。
著 ラルフ・A・スミス師
訳 工藤響子
著者へのコメント:kudos@berith.com
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