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    エペソ人への手紙5章3〜7節


    あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。

    96.01.21 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    姦淫してはならない

    モーセの律法第6戒から第9戒までをパウロは説明しているが、その順番は通常とは異なっている。まず第9戒から始め、そこから遡ってくるが、さらに第6戒と第7戒が逆になっている(9, 8, 6, 7)。その理由は、パウロが第7戒に特別な強調を置きたいためではなかろうか。エペソにおける状況が第7戒の強調を必要としていたことには疑いの余地はない。エペソはアルテミス崇拝の中心地であり(使19)、その神殿は古代世界の七不思議の一つに数えられていた。偶像礼拝で有名であったこの町で、偶像礼拝の一番の特徴が顕著であったことは疑い得ない。「彼らは自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」(ロマ1:22-24)。真の信仰が貞節を生みだすのと同様に、偶像礼拝は必ず、そして特に性的不品行へと導くのである。

    あなたがたの中から不道徳を消し去りなさい

    聖書の日本語訳といくつかの英訳は、パウロが不品行について全く語ってはいけないと言っているかのような印象を与える。「あなたがたの間では、口にすることさえいけません」(新改訳)。しかし、パウロ自身この節でそれについてふれているのであるから、それがパウロの要点なのではない。聖書には、ユダの罪深い不品行 (創38章)、サムソンの罪 (士16章)、ダビデの姦淫 (2サム11) 、その他にもそのような話が記されている。「あなたがたの間では、口にすることさえいけません」という箇所の意味は、あなたがたの中でだれもこのような罪に汚れていると言われないようにしなさい、ということなのだ。言い換えれば、そのような罪をあなたがたの中から取り除きなさい、という意味である。このことは二つの方法でなされる。悔い改め、そして悔い改めない者への教会戒規である。

    性的不品行は異教の持つ特徴の中で主要なものであるため、異教社会の中に住むクリスチャン・ホームの倫理を守る戦いは非常に激しいものとなる。例えばコリント人への第一の手紙や、また今日の異教の国々における我々自身の経験からもわかるように、異教から救われてきた教会のメンバーたちはこの種の罪との戦いに繰り返し直面するだろう。啓蒙運動以来、西洋は徐々にキリスト教に対して背を向けるようになったが、それはとりもなおさず、さまざまな種類の偶像礼拝とあらゆる種類の性的不道徳を受け入れるようになったということである。

    我々の中で40歳以上の者はテレビや映画に出てくる不道徳の急速な増加を目の当たりにしてきた。1950年代頃は、不道徳のレベルは今の標準と比べれば信じられないほど低かった。ハリウッドは意図的に映画の中の不道徳のレベルを上げていったが、それは、キリスト教に対する熱狂的な憎悪からも来ている。ユダヤ人の映画評論家マイケル・メドヴェッド(Michael Medved) がその著 Hollywood Vs. America で例証しているように、ハリウッドはキリスト教を、他の宗教や哲学には決して適用しないような深い侮蔑をもって扱うのである。メドヴェッドが指摘しているとおり、『ベン・ハー』のような宗教的な映画は非常に人気があり、商業的にも成功した。ところが、彼によると、「宗教に対する自己破壊的敵意」が「ハリウッドに根を張り」、映画の中で反キリスト教的感情をしばしば露にしたり、それよりも広く不道徳の先導もしているのである。キリスト者は、現代の多くの「娯楽」が根本的に帯びているボルノ的性質に対し、それが神に対する偶像礼拝的反逆の現われであることを認識し、意識的に反対しなければならない。

    パウロが第7戒をいかに第2戒や10戒と関わらせているかに注目することは大切だ。十戒が五つずつに分けられ、契約の構造の要点を二度繰り返している、という十戒の契約的概略にしたがって考えれば、第7戒と第2戒は契約の構造の第二のポイント、すなわち上下関係に対応している。それゆえ偶像礼拝の禁止と姦淫の禁止は近い関係にあるが、実際に聖書の中でもこの二つはしばしば関連づけられている。これらの罪はどちらも、神の立てられた関係を破ることと関わっている。第2戒を破るとは、神が禁じられた方法で神に近づくことであり、神の任命された教会における上下関係の権威に対して罪を犯すことである。第7戒を破ることは神が任命された家庭における権威に対する罪である。第10戒は、人の心の態度の領域を扱うもので、すべての戒めについて内面を深く取り扱う観点を与えてくれる。いかなる形にせよ姦淫を行うことは、神の与えられなかったものを貪ることである。これはアダムとエバの罪に倣うことであり、その罪はまず何よりも不信仰という罪であった。

    愚かな話や下品な冗談を避けよ

    パウロは、他の戒めを取り扱うときにもそうしたように、ここでも我々のことばについて扱っている。異教社会において、ユーモアの多くは性的なことがらが中心である。キリスト者はそのようなものに少しでも関わることが禁じられている。これはユーモアが悪いという意味ではない。あるいは、ユーモアに対しヴィクトリア時代のようであるべきという意味でもない。聖書には、現代人にとって失礼だと思われるユーモアが多く入っている。現代人の文化的基準は聖書とは異なるからだ。我々の個人的、文化的基準が聖書と異なるなら、そのところにおいて我々はそれを変えるべきである。我々が神よりもきよくなることはあり得ない。不道徳な映画を見るべきでないのと同様に、不道徳な冗談に満ちたテレビ番組も我々は見るべきではない。

    感謝すること

    姦淫を犯すことの反対は、結婚をすることとか、忠実となること、とは言われていない (しかしパウロはこの問題を後の5章で扱っている) 。パウロは、不品行を捨て、その代わりに感謝を捧げるようにと言う。感謝は、不道徳の核心を攻めるものだ。5節において偶像礼拝と同じものとされている貪りは、性的不品行の源である。貪りを取り除けば、性的不品行は防ぐことができるのである。

    ここで我々は神がいかにして我々を福音によってきよめられるかを知る。不信仰が確実に貪りや偶像礼拝へと導くのと同様に、信仰は確実に感謝を生み出す。神がその御恵みによって我々の罪を赦し給うとき、我々は感謝に満たされる。神が我々の目を開かれ、我々に御自身のいつくしみの豊かさを示されるとき、我々は感謝に満たされる。神が我々に御恵みを約束され、その憐れみによって我々を導かれるとき、我々は感謝に満たされる。また、我々が感謝することを学ぶとき、きよさにおいて徐々に我々は成長していく。これは、毎週の聖餐式がなぜ重要であるかということのもう一つの理由である。我々は、自らの罪を告白し、御恵みと赦しとを求めるために定期的に神の御前に来る必要があるからだ。そうすれば、真のキリスト者としての感謝のうちに我々は建て上げられるだろう。

    神の御怒り

    パウロはこの問題の重要性について我々が騙されないよう願っている。「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです」 (5:5-6) 。もしも我々が生活のこの領域において妥協するなら、救われることはないのである。

    しかしながら、パウロは性的不品行だけが特別に赦されざるものだと言っているのではない。パウロが性的不品行について述べていることは、他の罪についても言うことができる。もしも我々が嘘をつき続けたり、殺人、偶像礼拝、盗みなど、他のいかなる罪でも捨てずにいれば、我々は天の御国に入ることはない。それならなぜ、パウロはこの恐ろしい警告を第7戒の箇所まで取っておいたのか。それは、我々の生活の中でこの領域ほど、我々が言い訳をしたり、他の者からだまされやすい領域は他にないからだ。社会全体が不道徳であるとき、我々は不道徳を軽い罪と見なしてしまう。それはそんなに深刻な問題ではないと考えることを自分自身に許してしまうのである。これは自己欺瞞であり、おそらくそれは自己破壊的でさえある。

    我々は心の中の罪に対する戦いにおいていつも勝利を得ているとは限らない。その罪がいかなるものであろうと、我々はつねに戦う状態でなければならないのだ。休戦を呼びかけたり、平和条約にサインすることは永遠の敗北を意味する。神の御怒りは不従順の者たちに永遠に注がれるのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙4章31節〜5章2節

    エペソ人への手紙5章8〜14節

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