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エペソ人への手紙5章8〜14節
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。
96.01.28 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。
光の子ども
パウロはエペソの人々に、光の子どもらしく歩むよう勧める (5:8-14) 。この教えは第7戒の議論の結論のように思われるかもしれないし、或いは4章25節からの箇所全体の結論のように見えるかもしれない。光の子どもとして生きるということは、新しい人を着るという概念と平行していると同時に、第7戒への特別な適用という意味もある。いずれの解釈にしろ、光の子どもらしく歩みなさいという勧めは第7戒に深く関わっている。私には、この箇所を5章7節の「ですから、彼らの仲間になってはいけません」という勧めからのつながりとして見るのが最も良いように思われる。不道徳との妥協を拒絶することは、それに対して積極的に反対することを意味する、とパウロは我々に示しているのである。光と暗やみの間に中立の立場など存在しないのだ。
あなたがたは以前は暗やみでした
エペソの人々はかつては暗やみであった。ギリシャローマ世界は我々には想像が困難なほどの暗やみであった。それは、我々がこの時代の歴史を十分に勉強していないからというだけではない。それよりもはるかに大きい理由として、西洋のキリスト教世界に比べギリシャローマ世界を好ましいものとして見せるため過去の悪を隠す、という啓蒙主義の伝統に立つ輩による組織的試みがあったためだ。例えば、我々に古代ローマやギリシャにおける奴隷制について深く教えてくれる教科書が一体どこにあるだろうか。アテネはすばらしい民主主義であったと教えられているが、アテネの住民の大多数は、女性も含め市民ではなく、そのために投票はできなかった。また、古代世界において――ギリシャやローマでも――人間の犠牲が広く行なわれていたことを、教科書は教えてくれるだろうか。
古代ギリシャローマの暗やみは、性道徳の領域においてその暗さが他のどこをも凌いでいた。プラトンのCharmides は、若者をうまくそそのかしてものにするソクラテスから始まる。このような行為は単なる許容範囲という以上の、高いものとして考えられていた。同性愛は古代ギリシャにおいては理想的であったのだ。女性は汚れており面倒なものと見なされていたし、他にも、知的にも精神的にも男性に劣ると考えられていた。女性は、生殖と社会の未来のためには重要であり、そのために耐える必要悪であったのだ。男性は、他の男性との気高い精神的かつ知的関係においてのみ本当のエロスを見いだすことができた
(ギリシャ人はめったにアガペすなわち愛について語ることはなかった) 。皮肉なことに、この考え方は、中年の男性が若者との間に彼らの言う最も純粋かつ精神的関係を見いだした、という意味に発展していった。ヘラクレスが一晩に50人もの処女を強姦したことで神々に感心され、また自分の甥イオラウスや若者ヒラスとの情事について何も咎められることがなかったように、啓蒙主義思想家たちが熱烈な色情をもって切望した性の解放が、ギリシャの哲学者らにも許されていたのだ。しかし、彼らは古代ローマとギリシャの倫理的正体を隠し、ほんの少しずつしかこれらの考え方を世に紹介することはできなかった。我々の時代とは違い、18世紀には自らの知性を自己の好色を正当化するために捧げるような人間の誠意に感心するほどうぶな人間はさほど多くなかったのである。
光の子どもらしく歩む
自分の信仰告白と一貫した生活を送るようにという勧めは、光との類比によって語られている。聖書における光は、栄光、聖さ、知、義と関連している。神御自身は光であられ、他のすべての光の源であられる。それで聖書は太陽を神の象徴として用いるのだ。光の子どもとは神の子どもを呼ぶ別な言い方だが、パウロが述べているように「真理に基づく義と聖をもって」(4:24)
神の似姿に造り変えられたという事実に強調を置いている。創造の時に暗やみを追い払った光を示唆していることもまた明らかだ (参照:創1:1-5)
。
光の子どもとして、我々は召しにふさわしい歩み方をするよう命じられている (参照:4:1) 。パウロはつまり、本当の自分になりなさい、と言っているのである。「あなたがたは・・・主にあって光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」。パウロは、次の三つのことばで、光のうちに歩むという言い方で何を念頭に置いているのかを明確に述べている。それは、善意、正義、真実、である。この三つのことばにはそれぞれ、異教のギリシャやローマで普通にあてがわれていた意味とは根本的に相容れないキリスト教独特の意味を持っている。パウロの教えの中では、善意は愛の一面である。上に述べたように、ギリシャ人が実際、通常「愛」と訳される
agaph (アガペ) という新約聖書のことばを使うことはほとんどない。聖書の語る愛とは、パウロが前の文脈で述べていたように、自己犠牲的なものだ
(4:28-5:2) 。目標は「自己の実現」ではなく「他者の実現」なのだ。自己を他者のために捧げることによって、我々はその人たちのキリストにある祝福と成長とを求める。逆説的に聞こえるかもしれないが、それは我々が本当の意味で自己を実現することができる唯一の道なのである。自分自身を否定すればするほど、聖書的な意味において、我々は自分自身を実現するのである。
善意とは、親切と寛大さである。神の律法は善意を命ずるが、国家は人間にそれが欠けているからといって罰することはできない。我々は隣人を自分自身のように愛することを命じられているが、神のみがこのことについて実際に裁くことがおできになる。我々の業
は我々の信仰と善意、あるいはその欠如を表わす。我々は親切な行ないによって暗やみから光へと救い出されたことを示し、福音の光を広めるのである。
「正しさ」や「義」などと訳されるギリシャ語は、もともと「しきたり」や「習慣的な事柄」を意味する。それで、義しい人とは習慣を守り、自分の義務を果たす人のこととなる。これは全く人間的な概念だ。古代ギリシャ・ローマの「神々」は法を啓示することなど決してなく、また自然も本当にすべての人が知り従うことのできるような基準を啓示することはなかった。古代ギリシャ・ローマにおける法の問題は、啓蒙主義思想の問題とほぼ同じものと言える。ルイス・ブレッドヴォールド
(Lewis Bredvold ) は次のように述べている。「そこで疑問が湧いてくる。もし自然法が取り除かれるなら、いかなる原則がそれに取って替わるのであろうか。法には権威がなければならず、単なる習慣には権威のかけらしか存在しない。そこには一つだけ別な選択肢がある。それは力だ。・・・もし法自体のうちに、我々が認識し、喜んで自らをそれに従わせることができるような命令的な本質を持たないならば、力によって我々の服従を確保しなければならない・・・」。
神の絶対的な律法における義の啓示は、義しさというものを定義する権利を主張するエリートへの隷属状態から人間を自由にする。キリスト者は、是非を問う人間の能力を超えた義の基準によって生きる。人間のための法を定めたのは、国家でも哲学者たちでも、あるいは他のいかなるエリートでもない。神御自身がそれを誰もが十分理解できる明らかなことばで顕され、最悪の圧制である良心の圧制からの自由を与えてくださったのである。
真理は神によって啓示されており、それゆえ、確実で知り得るものである。聖書は子どもでも理解できるが、同時に、学者であってもその理解力には深すぎることをつねに発見するようなことばで書かれている。真理は知られ得るし、また従われ得る。我々の理解し得ることばによる真理の啓示は、我々の道を導き、我々を罪とサタンとの縄目から救い出してくれる光なのである。
神に喜ばれる
しかし、善意、正義、真理は単なる原則でもなければ、非人格的世界に適用される公式でもない。世界は人格的な神によって創造され、その神によって支配されている。神が啓示された律法と真理は、宇宙の謎を明かすというグノーシス的公式ではなく、神の御心を教えることによっていかに生きるべきかを我々に示してくれる。天の父を知り、また何が御父の目に喜ばれるのかを知るとき、我々は善意と正義と真理とを知るのである。なぜなら、これらのことばはどれも、神にあってのみその究極的な定義を見いだすからだ。
そこで、悪に反対し、それを明るみに出すということは、主に人格的な神に対する個人的献身を意味している。それは神を憎む世界においてキリスト御自身に対する我々の献身を明らかなものとするという意味だ。それはまた、我々の行ないによってキリスト者の生活の祝福を示し、我々の働きによって信じない者の偽善を明るみに出すことである。光と暗やみとの間には妥協は存在しない。光は排他的なものであり、暗やみとは何物も分かち合うことはない。むしろ、隠されていることを露にし、暗やみを追い出すのである。それゆえ、光のうちを歩むとは、罪の暗やみに対して戦い、神の光を表わすことなのである。これが我々の召しなのだ。
著 ラルフ・A・スミス師
訳 工藤響子
著者へのコメント:kudos@berith.com
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