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    エペソ人への手紙5章32節


    「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです。

    96.02.18 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    結婚の神学

    学者はしばしば結婚や家庭の意味を、歴史、文化人類学、生物学、社会学、心理学、あるいはこれらを組み合わせたものを通して定義する。一夫一婦制が「社会のエネルギー」には欠かせない条件であることを論証するアンウィン (J. D. Unwin) の幅広い歴史的研究のように、その定義の多くが真であるという結論に達していながら、彼らは真理そのものへの到達には至らない。結婚の正しい理解のための正当な出発点は――それが歴史的観点、社会的観点、心理学的観点から見たものであろうと――人間にはないのである。結婚を理解するために、我々はキリストと教会の結婚という聖書の象徴におけるその究極的意義から出発しなければならない。天地創造の主要な目的の一つが人類をキリストの花嫁とすることであるという聖書の教えを見てはじめて、我々は夫と妻の奥義を理解し始めるのだ。

    神の栄光

    神は御自身の栄光についてねたみを持ち給う神である。「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない」(イザ42:8) 。「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行なう。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を多の者に与えない」(イザ48:11) 。詩篇の賛美やパウロの書簡の頌栄は、神がすべてのことを御自分の栄光のためになし給うこと、その御栄光こそが天地創造の究極的な目的であることを教える。これは単に終末論的な事実ではなく、道徳的命令でもある。我々はすべてのこと、飲食のような最も日常的なことでさえ、神の栄光のためになすよう命じられているのである (1コリ10:31)。

    非キリスト者の中には、この教えのゆえにキリスト教を批判する者もいる。彼らには、キリスト者たちが神を自己中心であると教えているように見えるのだ。彼らはこう言うのである。もし我々がすべてのことを自分の栄光のためにすることが不道徳であるゆえに許されないのなら、なぜそれは神においては道徳的だと言えるのか。

    この問いに答えるために、少なくとも次の三つの点が強調される必要がある。第一に、栄光という言葉をコンコルダンスで調べてみればすぐにわかるのだが、神が栄光をお受けになるという概念は複雑な概念なのだ。神の栄光は、ある時は神をほめたたえることを意味するが、我々のなすわざによって御栄光を現わすという意味もある。キリストは十字架上のみわざによって「栄光を受けられた」と言われているが、それは通常、我々が栄光という言葉で考えることではない。一言で言えば、栄光に関する包括的な研究をするには、この言葉の使い方について重要な区別をする一冊の書物を要するのである。

    第二に、神は単一の神ではなく、三位一体であられる。聖書は、このことが神の栄光についての議論に関わることをはっきりと示している。我々の主キリストは次のように断言された。「わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます」(ヨハ 8:50) 。主は次の言葉をもって暗に御自身をにせ教師らと対比された。 「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません」(ヨハ7:18)。我々はまた、御父が御子に栄光をお与えになることや (ヨハ11:4; 13:32; 17:1)、御霊が御子の栄光を現わすことも読む (ヨハ16:14)。神が御自身の栄光を求め、またそれをねたむほどに守られるのは、三位一体の各御位格が互いを愛しておられるからであることを思い起こすとき、自己中心というような考えは消え去るのだ。

    第三に、神が御自分の愛する者にその栄光を賜ることによって御自身の栄光を現わし給うことも聖書は教えている。「そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下ってくるのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった」(默21:10-11)。我々の救いの頂点は、キリストの栄光に共に与ることなのだ (默8:17-18)。歴史は教会に御自分の栄光を賜る時にその頂点に達すると言うのに、誰が神の自己中心について不平を言うことができようか。

    古い契約、新しい契約

    旧新両方の契約に関する聖書の教えは、教会についての教えのもう一つの大切な部分だ。ここで我々は間違った理解をしないよう気を付けなければならない。新しい契約は贖いと回復であるが、同時に古い契約の成就でもある。言い換えれば、古い契約はもともと永遠のものとして与えられたのではなかった。古い契約は、この世において肉体をもって生きる人間のために与えられたのである。そしてアダムは永遠に肉の世界のうちに生きるよう造られていたのではなかった。アダムの最終的な運命は、御霊のからだであった (1コリ15:35以下)。黙示録の象徴は、新しいエルサレムにおいてエデンのプロジェクトが完成し、人間の創造の目的が達成されると教え、古い契約と新しい契約の関係を我々に示してくれるのである (默21-22)。

    神は、エデンの園でサタンに敗北したのではなかった。キリストの贖いのみわざは、この世にその最初の意味を回復させ、天地創造から始まった働きを完成することができるようにしたのである。新しい契約は贖いの契約である。それは、アダムの罪が贖いを必要としたからである。しかし、新しい契約は、たとえ罪の堕落がなかったとしても、神の御計画には不可欠であったはずだ。創造における神の目的は、新しいエルサレムにあったのであって、永遠のエデンにあったわけではなかったからだ。

    花 嫁

    以上のような真理を念頭に置くなら、我々はキリストの花嫁としての教会の意義を考えることができる。パウロの言うように、これは確かに我々には十分に理解したり説明したりすることのできない偉大な奥義である。しかし、この奥義のほんの一握りでも捉えることができるなら、我々は神の御恵みに少なからず驚嘆するはずであろう。

    黙示録は、歴史のクライマックスを小羊の婚宴として示している。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下ってくるのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『御よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである』」(默21:2-4)。キリストの花嫁として、教会はその御栄光に与るが (默21:11)、それは、その宝石の土台と真珠の門、そして純金の大通りに象徴されている (默21:11-21)。

    歴史の実現の栄光に満ちた頂点はエデンの成就である。土の中にあった純金と宝石は (創2:12) 採掘され、美しい都へと形作られ、園の木や川は (創2:8-17) 変えられ、いのちの木はその数を増す (默22:1-2)。言い換えれば、神のエデンにおける目的はキリストの花嫁の創造であったのだ。はじめから人間は神の栄光にともに与るよう造られていたのである。

    人間の罪のゆえに、花嫁が救われる道はキリストの死による以外になかった。キリストは、花嫁が生きて、新しい契約の復活において御自分のものとなるために死なれたのである。歴史のすべては、キリストのための花嫁を救い整えるという目標に向かって動いている。それによって、花嫁はしみ一つない純粋なものとなり、結婚の祝宴に向けて整えられるのである。教会はキリストと一つであるゆえ (エペ5:28-30)、その時まで主キリストは御自身の教会を守り養われるのだ。これが結婚の意味である。ふたりは一つとなる。キリスト者の結婚における我々の一致は、キリストと教会の一致を映し出すものである。そしてそれは、神の民と救い主なる神の永遠の一致なのである。

    それゆえ、神が教会に御自身の栄光を賜るとき、神は御自身の栄光をも現わしておられる。教会は永遠に神と一つであるからだ。新しい契約における歴史の成就において、新しい人類が存在において神と等しくなるということはない。しかし、契約的に、結婚において一つとされ、そうして神と新しい人類は一つとなるのである。神の栄光は教会の栄光であり、教会の栄光は神の栄光である。あらゆる栄光と素晴らしさのうちに、キリストの贖いの愛は、永遠にこの結婚の焦点となる。「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている」(默22:3-4)。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙5章18〜21節

    エペソ人への手紙5章22〜33節

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