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    エペソ人への手紙5章22節


    妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。

    96.03.10 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    妻たちよ、従いなさい!

    「御父なる神」や「御子キリスト」という表現以外で、新約聖書にある言葉の中で「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」というパウロの命令ほどフェミニストたちにとって嫌なものはない。フェミニストにとっては、パウロは女性を虐待するもう一人の人物であるに過ぎない。パウロの教えは、男性のエゴと女性に対するにせの優越性をささえているキリスト教の神話の一部としてしか見られない。従いなさいという命令は、彼らの視点からは虐待以外の何物でもない。性別の違いは、まさに偶然であるからだ。いわゆる自然には本当の意味で秩序などなく、ただ偶然による変化があるのみだ。神によって創造されたものなどなく、予定された秩序もなく、ただ全員が全員に対して戦う戦いがあるのみだ。そして、それは一部の者が他の者たちを支配するという結果に終わるのである。世界の女性たちよ、一致団結せよ。汝には縄目以外に失うものは何もないのだ!

    神、男、女

    このようなフェミニストたちの男女に対する見方は、進化論がもしも正しかったなら、完全に意味をなすものだ (とは言っても、男性の優越性の理論もまた進化論を根拠に正当化される、とも言えるのであるが) 。しかしながら、キリスト者の観点から見ると、服従には虐待や女性の劣等性という意味が入っているという概念は、根本的に真理をゆがめたものである。それは、聖書の神についての教えを勝手にゆがめているためだ。神は三位であられる。存在論的には全く平等な三位である。しかも、この三位には上下関係がある。御父は常に第一人格であり、御子は第二、そして御霊は第三である。御子の御父に対する服従と、御霊の御父と御子に対する服従は、虐待も劣等も暗示しておらず、神の人格的な関係、愛し合う関係を示している。

    神が人間を御自身の本性と人格を現わされるために男と女に創造されたとき、神は男を家庭のリーダーとして創造され、女を――存在論的には男性と平等であるが――男の権威の下に創造された。愛をもって導き、まごころからの敬意をもって従うことによって、男と女は、彼らを造られた神を表わすのである。言うまでもなく、罪は個人と変わらぬ不幸を家庭にもたらした。 男性が虐待することは珍しくはなく、女性が反抗的であることも珍しいことではない。聖書は園における結婚の本当の意味、あるいはおそらくそれ以上に、贖いにおいてさらに高められた意味へと立ち帰るようキリスト者に呼ばわっている。

    服従とは何か

    ペテロは不信者の夫に対する妻の服従について書くことによって、この問いに部分的に答えている。「妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです」(1ペテ3:1)。妻は夫に説教するようには言われていない。自分の思い通りに事を運ぶために、朝から晩までがみがみ言ったり要求したりすべきではないのである。義しい行ないによって、妻は時間をかけて夫を変え得るのだ。ポティファルの家にいた時のヨセフのことを考えてみればよい。有能で熱心な働きぶりが彼を事実上指導者にしたのである。それでも彼は常に自分の主人に従う姿勢と態度を持っていた。

    ペテロは引き続き、神の御前に価値ある、柔和で穏やかな霊という朽ちることのない美しさについて語る (1ペテ3:4)。妻が霊において柔和で穏やかであるとき、彼女は単に人間の目から見て美しいというだけでなく、神の目にも美しいのである。外見的な美しさを研くことは、それ自体罪ではない。しかし、それが神を恐れかしこむ心を養うという根本的な美しさ以上に高められるとき、罪となる。「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴11:22)。

    最後に、ペテロは聖書から従順な女性、サラについての描写をする。しかし、この描写は若干の複雑さを招くことになる。サラは確かに従順な模範的な妻であった。彼女はただアブラハムに考えずに従う受け身的な伴侶というものではなかった。彼女の従順さの中には、アブラハムがイシマエルに対してなまぬるいやり方で対処して家庭を今にも滅ぼそうとしているのを見たときの、彼に対する強い訴えも含まれていた。そして彼女が率直に伝えた時、神は彼女の味方をされたのである (創21:10-12)。

    義なる訴え

    サラは夫と家庭を服従の姿勢をもって求めた女性の唯一の例ではない。その服従の姿は、表面的には「穏やかで柔和」とは言えないかもしれない。二つの極端な例、アビガイルとリベカについて考えてみよう。アビガイルの夫ナバルは、カレブの高貴な家の出であるが、その神を恐れない粗暴さにより、その受け継ぐべき敬虔さと矛盾する行為をした (1サム25:3)。ナバルの羊飼いたちを守ってくれたダビデが食物を乞うた時、ナバルは傲慢な挑戦的態度をもってそれに応えた (1サム25:10-11)。一人のしもべがアビガイルに彼女の夫が語ったことを告げたとき、彼女はすぐさま行動に移った。彼女はダビデとその若者たちに豊かに与え、ダビデがナバルとその家を攻撃することのないようにダビデに会いに出て行った。アビガイルは、夫が全く理解しなかったこと、つまり自分たちが恩を負っている兵の小隊に対してもてなしを拒むということが何を意味するかをよく理解していた。彼女はナバルの命令を真っ向から破ったが、そうすることによって彼の命を守ったのである。

    話のついでに指摘しておくが、アビガイルの物語は、妻が夫に従うという聖書の命令の中で、重要ではあるがしばしば見過ごしにされている一面を説明している。聖書が妻に自分の夫に従いなさいと命ずるとき、すべての女性がすべての男性に従わなければならないという意味ではない。アビガイルが自分の家の男性のしもべに命令をしているのは明らかだ。社会全体の中の上下関係は性別によって決定されるものではないのである。

    リベカの話はさらにややこしくなる。イサクはナバルのような愚か者ではなかった。しかしイサクは重大な過ちを今にも犯そうとしていた。それは、相続を神が任命された相続者ヤコブではなく、エサウに渡すことである (創27章)。リベカはイサクが正しいことをするようにだます方策を考え出した。ヤコブにエサウになりすますように言い、イサクのための食事を用意するのを助けた。イサクは最後に息子が愛する妻の知恵と忠告によって自分をだましたことを悟る。その妻は、敬虔な偽り によって彼を神に対する罪から救い出したのだ。

    他にも例は挙げられるが、神を畏れる妻とは受け身的でも消極的でもない、という原則を示すにはこれ位で十分であろう。そのような妻は考えずに何でも「はい、あなた」と言うことをきくロボットではない。聖書的な真の服従の姿とは、それとは全く異なるものだ。それは、箴言の次の言葉に集約されると言える。「彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない」(31:12)。サラ、アビガイル、そしてリベカはみな、夫に逆らっているかのように見えるが、実際は、夫の味方以外の何物でもなく、また常にそうであった。彼女たちは夫と家庭の祝福のために戦ったのであり、決して、フェミニストらのように自分自身の権利のためにではかったのである。

    教会も同様に、従順な心で祈りをささげ、また神の御国を求める敬虔な訴えをもささげるよう詩篇の中で教えられている。これは荒野のイスラエルとは全く異なる。彼らは、現代人と同様に、自分の都合や自分を喜ばせること――「にら、たまねぎ、にんにく」――ばかりを考えた。イスラエルは公然と神に対してがなり立て、泣き言を言い、うるさく不平を鳴らして、夫としてパロの方を好んだ。イスラエルはパロのハーレムの単なる奴隷にしかなれないにも関わらず、である。これはまさに、神を自らの主として持たないがために自らの欲望の奴隷となっている現代人の姿である。

    教会は、敬虔な妻がその夫に対してするように、神に対して訴え、神の御国と栄光を求める。サラと同様、福音が広められ、神の子孫に祝福が与えられるよう祈るのである。

    まとめ

    真の服従は、単に夫の意志を甘んじて受け身的に受け入れることではない。服従は知恵を要する。なぜなら服従の本質は夫にとって良いことを求めるところにあるからだ。夫が愚かで未熟であればあるほど、妻が夫に対して善を行なうことは困難であり、実際にはその家庭に神の祝福以外の何物も求めていなくても、従っていないように見える状況に追いやられることが多くなる。その反対に、愚かな妻は、自分の家庭のことを考えているように見えるときですら、気にかけていることの大半は自分自身である。そのような妻は、夫や家庭には癌のような存在であっても、表面的には非常に従順かも知れない。要するに、真の服従とは、他のすべての真の聖さと同様、その実によって見分けられるのである。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙5章22〜33節

    エペソ人への手紙6章1〜4節

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