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    エペソ人への手紙6章12〜20節


    私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。・・・すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。・・・鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

    96.04.14. 三鷹福音教会 ラルフ A. スミス牧師 講解説教
    ラルフ・A・スミス師の講解説教を要約し補完する「三鷹福音教会・週報」からの転載です。

    祭司なる兵士

     

    この箇所の「祈りなさい」という教えを、キリスト者の身に着けるべき武具の箇所から切り離して考える注解者がいるが、彼らはパウロのこの箇所の教えを誤解していると言わざるを得ない。兵士という概念から逸れないように、と彼らは祈りの働きを別な題目に入れてしまうのだ。キリスト者兵士という象徴は、ここで述べられているような武具を実際に着けていたローマ兵士からとられたものと考えられている。が、このようなアプローチ全体が基本的に誤りだ。兵士の姿を描くためにローマ人兵士を参考にすること自体には本質的な誤りはないが、パウロは実際にはそうしていない。パウロは、旧約時代の兵士と同様に、キリスト者を戦う祭司として描写しているのである。

    祭司は兵士、兵士は祭司

    我々が旧約聖書の祭司たちについて考えるのは、犠牲をささげ、祈り、聖書を教える人々のことである。確かに彼らはそれらのことをすべて行なった。しかし、これらの勤めは、さらに大きくまた深遠な祭司の働き、即ち、神の民を守り、御国に向かって彼らを先導する働きのうちの一部に過ぎなかった。それで祭司の主要な働きは、神の御国のために戦う兵士、ということになる。犠牲、祈り、御言葉を教えること、これらは祭司が霊的な敵と戦うための主要な手段であったのだ。

    祭司についてのこのような見方は余り一般的でないと思われるかもしれないが、レビ人たちがいかにして最初に祭司として選ばれたかを考えてみよう。モーセがシナイ山で神の律法を受けた時、イスラエルはアロンに導かれ、神から離れ、偶像礼拝の罪を犯した (出32:1-6)。主はイスラエルの民を焼き尽くすところであったが、御恵みをもって哀れみ給い、モーセをシナイ山から下らせ、民の罪を取り扱うよう遣わされた (出32:7-14)。モーセがそこに見いだしたのは、混沌とした祭りの最中であった。モーセは大声で言った。「主につく者はだれか」。するとレビ人たちがそれに応えた (出32:26)。彼らはモーセの側につき、偶像礼拝者と戦って約三千人を殺した。主の戦いを戦うというこの忠実な行ないによって、彼らは祭司職を賜ることとなったのである。

    こうして、イスラエルが荒野の中で宿営していたとき、レビ人は神の護衛となる特権が与えられていた。彼らは四つの族に分けられ、アロンの族は天幕の東に、コハテ族は南に、ゲルション族は西に、メラリ族は北に護衛として配置された。レビ人たちは神の至聖所にいつでも入ることのできる権利は持たなかったが、堕落の時に失われ、ケルビムに取って代わられていた神の聖さを守るという責任は、部分的に回復されたのである。

    祭司たちが霊的な兵士であったというだけでなく、イスラエル軍は一時的な祭司職と考えられた。戦いの前に特別な犠牲をささげることが命ぜられ、主の陣営は戦いの間きよく保たれるよう命ぜられた。イスラエルにおける戦争は聖なる戦いであって、それゆえ祭司の民の従事する働きであった。

    このようにパウロの教えの背景となっている旧約聖書を思い起こし、聖書中の義なる戦いはすべて祭司の戦いであることを思えば、武具と祈りが並列されている訳もわかってくる。実にこれは当然のことなのだ。モーセが示したように、祈りとはイスラエルの子たちが持っていた最も重要な武器であった。「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった」(出17:11; 参照:8-13節)。

    すべての祈りを用いて祈りなさい

    パウロの祈りに関する教えは、簡潔であると同時に豊かなものだ。まず第一に、ここで「すべての祈り」とは、あらゆる種類の祈りという意味である。公然の祈りと密室の祈りという区別は「すべての祈り」に含まれているが、それが公然の祈りであろうと密室の祈りであろうと、様々な祈りの種類の方がより重要な区別である。祈りには、罪の告白、信仰告白、感謝、賛美、礼拝、嘆願、執成しが含まれる。通常正式な公然の祈りに限られている呪いの祈りというものもある。このような様々な祈りの型はそれぞれキリスト者の戦いにとって切っても切り離せないものだ。

    第二に、パウロは我々に常に祈るよう教える。パウロが言わんとしているのは、日常の果たすべき義務を怠っても、持てる時間のすべてを祈りに費やすべきだということではない。寧ろパウロは、日々の果たすべき責任を祈り心をもって行なわなければならない、と語っているのである。我々は神との絶え間ない交わりの意識をもって生活すべきなのだ。主が常に我々と共におられることを覚えるならば、自ずと特別な祈りを捧げる時間がより頻繁になるだけでなく、一日中、短い嘆願や執成し、感謝、賛美、罪の告白をするようになる。兄弟の試練を覚え、その兄弟のために短い執成しの祈りを捧げるのにほんの数秒しかかからない。我々のために備えられている祝福のゆえに、神に「感謝します」と口にすることは日々の生活において常であるはずだ。

    第三に、パウロは「御霊によって」祈りなさいと言う。御霊の助けによってのみ、我々は正しく祈ることができ、我々の願うすべてのことにおいて神の御国を求めることができるのだ。御霊の力によって祈るということを考える際に次の二点を念頭に置かなければならない。一つは、御霊による祈りは神の御言葉に従う祈りであるということ。我々の祈りは内容においても形式においても聖書によって決められる。我々は聖書の知識において成長するにつれ、祈りの生活においても成長するはずだ。第二点、御霊による祈りは、我々の主がゲッセネマネで祈られたように、神の御旨に従う祈りである。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」。

    次にパウロは、祈りのうちに目を覚ましているように教えている。目を覚ましていなさいということは、目を覚ましてキリストと共に祈っているべき時に眠りに陥ってしまった弟子たちのように、祈りの最中に眠らないようにしなさい、という意味だけではない。祈りの中で目を覚ましているということは、油断することなく、回りの世界で何が起きているのかを知り、何を祈るべきか、祈りが特に必要であるのは何時かを知っている、という意味なのである。

    弟子たちがその霊的愚鈍さのゆえに幾度もキリストから叱責を受けたことを思い起こそう。彼らはほとんどの時、半分しか目の覚めていない状態にいたように見える。そしてそのために、問題にぶつかる時、彼らは何が起きているのかを本当の意味で理解できず、或いはまた神の武具を身に着けることをしなかったのである。こういうわけで、目を覚まして祈るということは、我々が日常生活においてどれほど目を覚ましているのかということの結果なのである。

    第五に、パウロは我々に堅忍することを思い起こさせる。祈りとは、ただ虚しく繰り返し唱えるようなものであるべきではないが、一度祈って神がすぐに我々の願いを聞き入れてくださらないからと言って止めてしまうべきでもない。主は不正な裁判官のたとえ話をして、祈りを止めてしまわないよう我々を励ましてくださった。神は常にすぐに答えをくださるわけではない。神は我々を試しておられるのだ。神は時によって「否」と言われ、時によって我々の願いがきよめられる必要があると語っておられる。また別なときにはただ待つように言われる。我々が祈りのうちに堅忍しながら、我々は徐々に神の答えを理解するようになるのだ。

    第六に、パウロは我々にすべての聖徒たちのために祈るよう命じている。自分の家族のために祈る責任は特に大きいことは言うまでもないが、かと言って我々は自分たちや身近な家族ためばかりを祈るべきではない。我々は地域教会のために祈るべきであるが、そこで止まってしまうことはできない。我々は神の御前に、あらゆるところに住むすべてのキリスト者のために祈る責任を持っている。我々は神の教会は自分たちの教会や教派よりもはるかに大きいことを覚えるよう求められている。我々はイエス・キリストの教会全体を心に留め、信仰と忠実さにおける成長のために祈るよう命じられているのだ。

    最後に、パウロは福音を大胆に語れるように自分自身のために祈ってほしいと頼んでいる。エペソの人々にとって特定の環境下で特別な祈りの課題であったことは、我々にとっての原則となっている。我々は特に福音が広まるように、即ち神の御国の勝利のために祈るべきである。モーセのように、我々は常に両手を上げて祈りを捧げなければならない。さもなくば、世界の国々は決して救いに至らないであろう。アジアがキリストに立ち帰るよう特にこの広大な地域の救いのために、そして日本がアジアの救いにおいて一翼を担うことができるよう日本の救いのために祈る必要がある。


    著 ラルフ・A・スミス師 
    訳 工藤響子
    著者へのコメント:kudos@berith.com
     

    エペソ人への手紙6章12〜17節

    エペソ人への手紙6章21〜24節

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