エペソ書まとめ
聖書を読み返すことの良さは、それによって全体的な流れを学ぶというところにある。その文脈の中で、各書、各章、各節がそれぞれ意味を持っている。聖書の全体的なメッセージが、聖書中の一つ一つの言葉の解釈に関連しているのだ。
しかし、聖書のメッセージに慣れ親しむところに危険性もないわけではない。 言うまでもなく、その危険性は聖書そのものやその教えに関する知識にあるのではない。それは我々の慣れによる無感覚にあるのだ。何かに慣れてくると、我々はそれに対して鈍感にもなる。本当の意味で聞かずに聞いたり、無意識に物事を見たりする。御言葉は新鮮で素晴らしく、聖書の教えは比類なく純粋で深い。我々は目を見開き、心を開いて読み、神の御言葉がその真理で我々の心を打つようにさせなければならない。エペソ書を結ぶにあたり、もう一度そのメッセージを概観し、恵みに満ちた神の威厳を喜ぶことは相応しいことであろう。
三位一体なる神に愛される
哲学者たちは宇宙の究極的な本質について議論する。正直に言えば、彼らのうち一人として特別興味深いものを打ち出してはいない。彼らの神々は非人格的で、究極的には定義し得ない、哲学者たちの思想体系を団結させるための単なる諸概念に過ぎない。宇宙は、混沌の煮えたぎる大がまか、巨大な機械か、或いは、その二つよりはましだが、激しく燃え盛る混乱の地核にカチコチの機械のような表面を無理矢理押し付けたものか、のどれかである。ノーベル賞受賞物理学者スティーヴン・ワインバーグ
(Steven Weinberg) はその著 Dreams of a Final Theory の中で次のように語っている。「科学の最高の望みは、すべての自然現象の説明を最終的な諸法則と歴史的偶然にまで突き詰めることができるということだ」。機械入らないものはすべて火の中に投げ入れられる。科学的法則という純粋な合理主義と歴史的偶然という純粋な非合理主義を混ぜ合わせることによって、すべてを説明する最終的な一つの理論に達することができる、
というわけだ。
勿論ここで唯一の問題は、何かが偶然であると言えば、それは説明を断念するという意味になってしまう、ということだ。偶然とは説明を越えるものである。科学者は網を作って魚を捕ろうとそれを放つ。科学理論という網に入らぬものは魚ではない。ほらこの通り、すべてが説明されたではありませんか!
人類の歴史の中のすべての哲学者や思想家たちは、否定し得ない明瞭さを以て (明瞭であってもつまらぬことが多いが) パウロの言葉の意味を例証している。「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか」(1コリ1:20)。聖書のメッセージは、この世の知恵と比べてあまりにも深遠で、あまりにも美しく、全く純粋である。それゆえ、愛と御恵みの三位一体なる神を信じるよりは世俗的哲学によって打ち出されたくずを食べて生きる方がましだ、というのは罪人の心のかたくなさの驚くべき証しなのである。
パウロはエペソ書を三位一体なる神への長い頌栄を以て始める。この頌栄が3〜14節までの一文で取り扱っている内容は、深くて大きい課題を少しだけ挙げても、神の予定、人間に対する愛、キリストにある救いの計画、キリスト者の受ける相続の永遠の栄光、そして聖霊の賜物にまで及ぶ。これを哲学的に言えば、パウロはここで我々に完全に合理的な人格的決定論という見方を提示していると言えるだろう。この見方において、人間は永遠の祝福、愛、栄光を受けるよう定められた自由な被造物として見なされている。しかし、当然ながらパウロはここで哲学的表現はしていない。パウロはキリストのうちにあるようにと我々を世界の基の置かれる以前から選び給うたその永遠の愛のゆえに御父なる神をほめたたえる。またイエス・キリストをその御恵みの測り知れない御栄光のゆえにほめたたえる。その御恵みが我々を汚れた罪から贖うために御自身の尊き血潮を流させたのである。そしてパウロは、自ら我々の内に住まわれることにより我々一人一人を永遠の神殿となし給うところに表された、御自分を低くし給う御恵みのゆえに聖霊をほめたたえる。
御父、御子、御霊――永遠に必然的な愛をもって互いに愛し合う永遠の三位が、純粋な御恵みと憐れみとによって、与える愛の対象となるべく我々を選び給うのだ。御父、御子、御霊は、聖霊が造り得るあらゆる種類の祝福を我々の上に注ぐことを喜び給う。それによって我々は三位一体なる神の御恵みを賛美するために永遠に存在することができる。3章においてパウロは次のような言葉でこのことを表している。「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです」(3:10-11)。
新しい契約の恵み
2章のエペソの教えは、イエス・キリストが人間を神と、そして人と、和解せしめたことを宣言する。その十字架上の死はサタンと罪をうち破り、我々のために神の御臨在に近づく道を開いてくださった。パウロの書簡中、特にエペソ書に目立つ「キリストにあって」という表現は契約を指している。アダムにあって我々はみな罪に死んだ。キリストにあって我々は十字架につけられ、新しいいのちへとよみがえった。
我々はキリストとともに十字架上で死んだが、同時にキリストとともによみがえり、キリストとともに高く上げられている。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天のところにすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした」(2:4-7)。
世界のあらゆる宗教、あらゆる人間の哲学の中で、崇高さにおいて――永遠の神が人間の姿をとり、人間を罪から贖うために人間のために苦しみ死に給う――、熱心において――神が我々を愛する愛は、我々を御自身の愛する子とし給う以外に満足され得ない――、測り知れないほど豊かに惜しげなく与える気前の良さにおいて――「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」――、これと比べ得るものは何一つあり得ない。その上、この偉大な救いは御恵みの無代価の賜物なのである。我々が為したり提供できることは何一つない。ただ信ぜよ!
祈りと愛
エペソ書のパウロの教えにもう二点目立っていることがある。第一に、パウロは1章で我々の理解の目が明るくされるようにと祈る。そうすれば神の召しの望みと聖徒の受け継ぐものの豊かな栄光がどのようなものであるのかを知ることができるのだ
(1:18)。3章でパウロは、我々の内なる人が御霊の力によって強められるように祈る。そうすればキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解することができる。そしてそれは人知をはるかに越えている。そうすれば神の満ち満ちた様にまで満たされることができるのだ
(3:16-19)。信じて捧げる祈りへ応えとして我々の心の中に聖霊が働かなければ、我々は神がキリストにあって与え給うた素晴らしい救いの真価を味わうことはできない。
第二に、パウロは福音に相応しい生活をするよう我々に命じる。そしてキリスト者としての生活について、モーセの十戒の第9戒から5戒までを説明することによって具体的な教えを与え
(4:25-6:9)、神を恐れる生活とは、6章に出てくるような戦いなしにはあり得ないことを示唆している (6:10-20)。この書の一番最後に、パウロは次のような言葉で簡潔にキリスト者の生活をまとめている。「私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように」(6:24)。我々は愛――御自身のおどろくべき御恵みによって贖い給うた神への愛、そして互いに対する愛――の生活を送るよう召されている。なぜなら、神が我々を互いに関係のない個々人としてではなく、一つの体として、キリストの花嫁となる一つの教会として贖われたからである。
この短い書簡において、パウロは堕落した人間の想像による発明とするにはあまりに驚くべき、聖い、すばらしい幾つかの真理を表現した。パウロは、神がその御言葉において現された御栄光に調和した生活をするようにと我々を召し、御自身が我々のうちに働かれる聖霊の力によって御恵みの内に成長できるようにし給うことを確証する。もし我々がパウロの書簡を本当に理解するなら、我々は必ず神の御前に倒れ伏し、我々を救い、御自身のものとされた御恵みの栄光のゆえに御父、御子、御霊をほめたたえるであろう。